17話 噂(ティナ)
わたしは廊下を歩きながら、今日はどうやってカチュア様を宥めようかと考えていた。
前回はエルウィン様に急ぎの用事ができたので、たまたま居合わせたわたしに、カチュア様が寂しくならないように相手をしてほしいと頼まれたと言って、事なきを得た。
せっかくカチュア様が勇気を出して、会話がしたいと言ったのに、また放っておかれたら、今度はどれだけ落ち込むかわからない。エルウィン様がとてもカチュア様のことを気遣っていたと、しつこいくらいに言っておいた。
そのおかげで、前回帰る前は落ち着いていた。
でもそれから一日でも経てば、どうなっているのかわからないのがカチュア様だ。不安がぶり返しているかもしれないし、新たな不安が芽生えているかもしれない。
わたしは悩み事にはそれほど縁がないので、カチュア様の悩みがどんなものなのか想像しづらい。対策が立てられないのだ。
それでも一応、どんな言葉をかけるかは考えている。それに心構えをしておかなければ、返り討ちに合う場合もあった。
それにしても、最近のカチュア様は情緒不安定だ。
もともと落ち込みやすく、なにかしらの不安は常に持っている人だったけど、でも段々とその傾向が強くなっている気がする。
この国に馴染めていないのかと思えば、そうでもない。
ウィルダムから共に来た侍女によると、不安はあっても、祖国にいたときより、クロードルにいる今の方が、確実に笑う回数は増えたらしい。
なら何かがあったのだろうか。
きっかけになるような出来事が。
その場合、わたしに身に覚えがない以上、カチュア様に一番影響を与えるのはエルウィン様だけど、それも考えにくい。無意識に人を傷付けてしまうことがあったとしても、優しいエルウィン様が、カチュア様が情緒不安定になるまでのことを、してしまうとは思えない。
他の人のせいなのだとしたら、もう原因はわからない。お手上げだ。
これはちょっと探りを入れた方がいいかな。
わたしは新たな任務を頭に叩き込んだ。
しかし数分後には、それどころではない事態に陥る。
「ティナ、どうしましょう!」
顔を見るなり、カチュア様はわたしに助けを求めてくる。
あれ、いつもと少し様子が違う。
落ち込むわけでもない。ただ本当にどうすればいいのかわからないといった風だ。
「どうなさったんですか?」
「わたくし、おかしな噂を聞いてしまったの。それでどうすればいいのかわからなくて」
無意味に両手をパタパタと振りながら、カチュア様は混乱している。
とりあえず椅子に座りませんか。部屋に入ってすぐに詰め寄られたので、立ち話になっている。
わたしは落ち着かせるようにカチュア様の肩を抱いて、ソファーに導くと、隣に一緒に座った。
・・・なんかこの仕草、旦那みたいだわ。
「それでどんな噂なんですか?」
わたしが聞くと、カチュア様は動揺して、視線をあさっての方向にやった。えーと、と言いながら話したくなさそうにしている。
それでどうしましょうと言われても、どうしようもないですよ。
「あまり人に聞かれたくない話ですか?」
人払いをした方がいいかと思ったけど、カチュア様は首を振った。
「いえ、ここにいる皆は知っているのよ。聞かれたくないのではなくて、話しにくいのよ」
カチュア様は言いたいのに、口にするには勇気がいるらしい。
わたしは周囲のメイドたちを見回したけど、全員から視線を逸らされた。
どれだけ言いにくいんですか。
「カチュア様、話してくださいな。その噂を聞いて困っているのですよね」
仕方なく、わたしはカチュア様を促した。
「そう、そうなのよ。こんなことティナにしか相談できないわ」
「では、どうぞ話してください。悪い噂なら、広まる前になんとかしないと」
カチュア様ははっと息を飲んだ。やっぱり悪い噂ですか。
彼女は意を決して、口を開いてくれた。かなり小声だけど、ここにいる全員が知っているのなら、意味ないと思うんですけど。
「あの、ね・・・その・・・陛下のことなのだけど・・・」
陛下の悪い噂とは、また厄介な。
「その・・・陛下に・・・・・か、隠し子がいらっしゃるって」
「・・・・・はい?」
わたしは思わず耳を疑った。
隠し子? 隠し子っておっしゃいましたか。
あの美人で気さくでお優しい王妃様がいらっしゃる陛下に隠し子と。
「あの、噂なのよ。そういう噂が王宮のメイドたちの間で広まっているの」
カチュア様がなぜか弁解するように言う。
わたしは眉間が痛くなるくらい皺を寄せた。
「まず、どこから広まった噂なのかわかるかしら?」
メイドたちに聞くと、皆一様に首を振る。
「今のところ一部のメイドの間でだけ、広まっているようですが」
一人が答えてくれる。
そうなるとエミリア様は既に知っている可能性が高い。
頭の良いあの方は、女性が流す噂話を、敏感に耳に入れている。情報収集は王妃の大事な仕事だと言っていた。
「ではこの中で一番早く、その噂を聞いたのは誰かしら?」
メイドたちはざわざわと話し出す。それぞれ誰から聞いたのか確認しているようだ。
「それならわたしたちがあなたから聞いたのが最初じゃないかしら」
黒髪の若いメイドが話しかけられていた。彼女は慌てて首を振る。
「わたしは廊下で他のメイドが話しているのを聞いてしまったんです」
それでもこの中では彼女が最初だろう。
「それはいつ頃? 誰が話していたかわかるかしら」
「知らない人たちです。昨日の午前中でした」
まだ噂は出回り始めたばかりなのかもしれない。
「それで具体的にどんな話だったのかしら」
彼女はますます慌てだした。
「いえ、隠し子がいるらしい、と言っているのを聞いただけで」
それだけなんですと言うが、それは逆に由々しき問題だ。
「じゃあ、あなたは根拠のない噂話を無責任に広めたのかしら。こんな些細とは言い難い内容の噂話を」
わたしの声に怒りが込められているのを感じたのだろう。黒髪のメイドはビクッと肩を揺らした。
怯えられても、この怒りは収められない。彼女は上司に相談するでもなく、噂として広めたのだから。王宮の、しかも王太子妃に仕える者としては、厳罰ものだ。
わたしはこの中で一番立場が上の侍女を、ちらりと見た。彼女はしっかりと頷いてくれる。このメイドへの対応は彼女に任せよう。
「この話は金輪際しては駄目よ。陛下に隠し子などいるわけがないわ」
確信があったわけではないけれど、わたしはきっぱりと言い切った。とにかくこれ以上、噂話を広めてはいけない。
皆はわかりましたと言いつつ、何か迷うような素振りをしている人たちがいる。
「何かあるの?」
「はい・・・あの、初めのうちはただ隠し子がいるらしい、という話でしたので、ほとんどの人間は信じていなかったのです。わたしも冗談かと思いましたし。でも今日になって、根拠のような話が聞こえてきたのです」
黒髪のメイドが廊下で話していたという人たちが、流したものだろうか。
「見たという人がいるらしいんです」
彼女はちょっと勿体ぶって言った。密会をとかは言わないでほしい。
「あまり身分の高くなさそうな、幼い子供を抱いた若い女性が、騎士に守られながら、王宮を歩いているのをです」
え、なにそれ。
それだけでその子供が、陛下の隠し子だと言うのだろうか。
いや話はそれだけではなかった。
「しかもその女性は王妃様のサロンに連れて行かれたそうなんです」
王妃様のサロン。つまり。
「その若い女性が陛下の愛人で、抱いていた子供が陛下の隠し子だから、エミリア様が直々に話をつけた、ということ?」
「そういうことなのではないかと話をする人たちがいたんです」
これは何とも判断しづらい。
確かに王妃様のサロンという、ごく限られた人間しか出入りできない場所に、一見して身分が高くないとわかる恰好をした女性が、子連れで騎士に守られながら入っていくというのは、よほどの事情があるのだと推察される。
その事情が、隠し子問題というのは、一応筋が通っている。陛下にだって身分の高くない女性と知り合う機会くらいあるだろう。
でも陛下は浮気性ではないし、エミリア様とは仲もいいはずだ。
なんだってそんな噂が流れたのだろう。
「ありがとう。とにかく噂はこれ以上広めないで。もう一度言うけれど、陛下に隠し子なんていないのよ」
わたしはソファーから立ち上がった。
「カチュア様」
「何かしら」
「わたしは今からレオン様のところへ行ってきます」
ここでエミリア様のところと言えないわたしは、ちょっと小心者だ。