trap or sweet
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もう十月も終わりだというのに、貸し切りのホールは、人の熱で蒸されていた。
フロアに並べられたテーブルは、チープなオードブルやシャンパンで豪勢に飾り立てられている。
群がるのは、恋に似たなにかをたくらむ、一夜限りのモンスターたち。
主張の強い香水や、安っぽいワインの匂いがないまぜとなり、ハロウィン会場は意味深な熱気を帯びていた。
飛鳥は魔女の三角帽子が落ちないように、つばを手で押さえながら隣に立つ相手を見上げる。
道隆はホールの壁に背を預け、飲みかけのグラスを片手に、いつもの涼しい眼をしていた。
ヴァンパイアの衣装は、結構さまになっている。
手に持つグラスには深紅のアルコールが、彼の喉を潤す血のように揺れていた。
「ごめん道隆、周りの音でよく聞こえなくて。もう一回言ってくれる?」
「大丈夫、聞き間違ってないよ」
心まで仮装気分かと、飛鳥は白けた気持ちになる。
「そういう冗談、珍しいね。人を殺すなんて、ハロウィンのモンスターでも気取ってるつもり?」
道隆はただ微笑んだ。
飛鳥は不穏な気持ちになる。
それをごまかすように、飲みたくもないグラスを口元に運ぶと、道隆が大きめの茶封筒を差し出してきた。
「なに、これ」
「ジャックが言ってただろ? 『trap or sweet』だよ」
飛鳥はパンプキンタイツを身に着けた司会者の、妙に甲高い声を思い出す。
彼は「今夜は僕を、お化けカボチャのジャックと呼ぶように」と前置きしてから、ハロウィンパーティという趣旨を反映させ、『trap or sweet』という、この会場で企画されたイベントの説明をした。
それによると、会場にいる男たちは、気に入った女を『甘く口説く』か『罠にかける』か、趣向の違う二種類のプレゼントを用意しているらしい。
意味はまったく異なるが、ハロウィンで仮装した子どもたちが口にする『Trick or Treat』からもじった陳腐な造語だった。
飛鳥は顔をしかめる。
受け取った茶封筒は、甘く口説かれているとも、罠にかけられているとも判断のつかない、事務的なものに見えた。
「なんのつもり?」
「もちろん、甘いつもり」
「この封筒のどこに甘さがあるの? だいたい、私に甘い方を渡したら、亜季がむくれるよ」
道隆には亜季という恋人がいる。
ふたりがうまくいっていることは、同居させてもらっている飛鳥もよく知っていた。
だから飛鳥は、家で道隆とふたりきりになったとき、道隆がじゃれついてくることも、そのまま亜季に知られたくないことになってしまうのも、全部なりゆきなのだと、深く考えないようにしている。
拒まない弱さを、飛鳥は自覚していた。
しかし、今の環境を壊すつもりもない。
「これ、もしも亜季が喜びそうだったら返すから、渡し直して」
「でもこれ、飛鳥に渡さないと意味がないから」
「私はいいから、もう少し亜季に気を使ってあげなよ。最近、疲れてるっていうか、元気ないのは明らかなんだから」
飛鳥は独り言のように呟きながら、封筒に入った紙を取り出す。
ほとんど記入された書類を広げると、さすがに唖然とした。
「なに、これ……」
「婚姻届だけど」
茶封筒の中には、ご丁寧に百円ショップで買ったらしいハンコと朱肉まで入っている。
どんな顔をすればいいのかわからず、飛鳥は顔を歪めた。
「……正直に答えて。なにを考えてるの?」
「結婚だけど」
「は? そんなこと、いつ決めたの」
「会った時から」
「だから、そうじゃなくて……」
それ以上の言葉を、飛鳥は見つけられない。
途方に暮れたように、ヴァンパイア男を見上げた。
道隆は頷くと、飛鳥の書く空欄を指し示す。
「婚姻届の提出には、保証人が必要なんだ。もうひとりはジャックに頼んであるけど、飛鳥は書くの、嫌?」
飛鳥の顔が一気に上気した。
道隆から顔をそらし、背中を預けていた壁に婚姻届を押し付ける。
黙々と、保証人の欄にペンを走らせた。
くだらない勘違いしているのだという思いが、虚しさにすりかわっていく。
飛鳥は力をこめて印を押した。
道隆に向きなおったときには、いつも通りの作り笑いを浮かべている。
「はい、書けたよ。でも、道隆が結婚したがるなんて意外だね」
道隆は飛鳥の筆跡にさっと眼を通し、婚姻届を茶封筒にしまった。
「俺はずっと、亜季のそばにいたいから」
「……そう、がんばって。相手が道隆なら、亜季はきっと喜ぶよ。最近ずっと塞ぎ込んでたし」
亜季はもともと、目的なくふらりと駅前をうろついたり、外の空気に触れるのを好むような性格だ。
しかし最近はカーテンを閉め切り、休日すら家を出ない。
「食べて来たから」と夕食を残し、みるみるやつれていく、亜季の神経質に尖った表情が、飛鳥には痛々しかった。
「亜季の落ち込み、道隆はどうしてなのか知らない?」
「知ってるよ」
「えっ、なんで教えてくれないの」
「飛鳥が聞いてくれないから」
「そんなところで受け身になられても……」
問いただすように見上げると、道隆は小さく頷いた。
「亜季は怯えてるんだ」
「そんなの、私にだってわかるよ」
亜季は今日のパーティも、飛鳥と道隆のいない家にひとりでいるのが嫌で、しぶしぶ来たようなものだった。
それでも、もともと友人が多く、イベント好きの亜季は、会場に着いた途端に知人と顔を合わせて、今はどこかで楽しんでいるのだろう。
「今夜のパーティが、亜季の気晴らしになっていればいいけど」
「どうかな。誰が自分を付け回しているのかって、疑心暗鬼になってるかもね」
前向きな意見に水を差され、飛鳥はわざと眉をひそめた。
「今日の道隆、物騒なことばっかり言ってるよ。大切な恋人がそんな風に怯えてるなら、『そんなことない。大丈夫だよ』って安心させてあげればいいのに」
「安心なんて、無理だよ。亜季は中学の時のクラスメイトを殺して、その復讐に怯えているんだから」
打ち寄せた波が引くように、周りのさざめきが遠のいていく。
道隆を見上げると、飛鳥の頭上に不安定にのっていた三角帽子が落ちた。
「……え?」
「亜季は中学の頃から、美人で快活で賢い人気者だったんだ。そんな優秀な人が支配するクラスでうまくやっていくには、それなりに条件が必要なんだよ。例えば『友達にしてほしかったら、ビルの屋上から飛ぶ』とかね」
飛鳥は軽く笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「まさか、亜季がそんなこと……」
「飛び降りたのが、通っている塾のビルだったら、受験勉強を苦に自殺したってことになるみたいだよ。亜季は『友達が自殺したショック』から立ち直ったみたいだけど、最近、感じているみたいだよ。死んだ子の恋人だった男が自分をつけまわしているって」
「まさか、亜季が怯えているのって……」
「そう。だから俺は近いうちに人を殺す。俺は亜季に手伝ってもらって、そいつを埋めるんだ」
道隆の横顔は、なにかを確信したかのように不気味に澄んでいる。
飛鳥は指先が冷えていくのを感じた。
「な、なに言ってるのよ。これから結婚しようってときに、どうしてそんな破滅の方向に突き進もうとするの? 復讐者から亜季を守る方法だって、もっとたくさんあるでしょう?」
「俺は亜季のそばにいたいだけだよ」
「それならなおさら、人を殺す必要なんかないじゃない」
「あるよ。俺は一番近くで、亜季が苦しむ姿をみたいだけなんだから」
道隆はポケットから、小さな黒い箱を取り出した。
ぱかりと開いたその中には、恒星をのせたような指輪が一粒、光っている。
「これはね、俺が高校生の時、貯めたバイト代を全部使って買ったんだ。どうしても俺の気持ちを信じて欲しくて、なんて言ったら冴えない話だけど、あの時は本当に必死だった。結局、渡せなかったけどね。彼女、受験ノイローゼで自殺したから」
「道隆……まさか、あんた」
「やっと、これを亜季に渡せる」
道隆は前を見据え、会場の中心へと歩み始めた。
飛鳥は抜け殻のように立ち尽くす。
ふと、離れていこうとした背が立ち止まり、静かに振り返った。
「道隆……」
飛鳥が探すほど、積み重ねようとする言葉は、砂のように崩れていく。
しばらくの間、道隆は飛鳥をじっと見つめていた。
その顔が、なにかを諦めたかのようにそむけられる。
「待って、道隆!」
飛鳥はようやく声を張り上げる。
しかし、歩きはじめた後ろ姿は、振り返らなかった。
「待って……」
ヴァンパイアに扮した道隆は、壇上で司会をしているパンプキンタイツのジャックの所へと向かい、言葉を交わす。
ほどなくして、ヴァンパイアの恋人がマイクで壇上へと呼び出された。
黒い悪魔の衣装に身を包んだ亜季は、周囲の注目の中、道隆からあの指輪を差し出される。
会場内は緊張の沈黙に包まれた。
答えとして、亜季は左手を道隆に差し出す。
真っ黒なネイルを施した亜季の手を取り、道隆が指輪をはめる。
亜季は涙ぐみ、口元を両手で覆った。
マイクを片手に、ジャックが叫ぶ。
「おめでとう!」
ヴァンパイアの罠を薬指にはめ、これから破滅に向かう悪魔を、色めくモンスターたちが諸手を上げて祝福した。
会場は新たな熱気に包まれる。