五の巻
目が覚めた長政は、褥から這い出た。
部屋にはいつの間にか明かりが灯されている。
負傷した足を引きずり、回廊と部屋の境目の柱に背を預けた。
時折吹き込む風が長政の頬を優しく撫でてゆく。
空はすっかり濃紺に染まり、砂のように細かい星が瞬いている。
その下には山が連なり、川が流れ、田畑と領民たちの集落が広がっている。
護らねばならないものがそこにはある。
そしていまひとつ、たなごころにその存在は落ちてきた。
親同士が決めた縁談ではあるが、今は誰のためでもなく己のために守りたいと強く願っている。
だがそれを、双葉がよしとするかどうかは疑問だった。
忠則から聞いた双葉の生い立ちを思うと、気が重くなる。
どうしたものかと溜息をつき目を閉じた。
波のさざめきが聞こえてくる。
泳げもしない己が海を思い出すなど、今までならありえないことだ。
まるで魚のように生き生きと水の中を泳ぐ双葉を、長政はもう一度見てみたいと思った。
不意に物音を聞き取り、長政は部屋の隅を見据えた。
|襖≪ふすま≫の向こう側に人の気配が近づく。
「長政様、千代姫様がお見えにございまする、お通ししても宜しいでしょうか?」
佐脇義之の声に、長政は目を瞠る。
「よい、お通しせよ」
襖が義之の手で開かれ、双葉が摺り足で静々と褥の前までやってきた。
腰を下ろすと控えめに指を立てて頭を垂れる。
長政は穏やかに言う。
「堅苦しいのはよせ」
義之が気を利かせて襖の奥へと消えていく。
彼女は、単の着物に打掛を羽織り、長い黒髪をゆったりと背中で一つに束ねていた。
うっすらと化粧が施された顔は、長政が峰山城で会った千代姫とは別人のものだった。
目の前にいるその人こそが、長政が初めて会う本当の千代姫だ。
日に焼けた健康そうな肌色は、打掛姿よりも、小袖姿のほうが彼女らしいように思えた。
城は窮屈か?
思わず口をついて出そうになった問いを、長政は喉の奥へと押し込んだ。
顔を伏せた姫君は、いたたまれない様子で再び指をついて、上体を折りたたむように伏せる。
長政は何も言わず、顔も逸らした。
「あなた様を欺き続け、それ故にこのような事になりましたこと、誠に申し訳ございませぬ。お手打ちも覚悟の上にございます」
「それは困る。傷が癒えたら海へ行こうかと思うていたのだ。だが、指南役がおらねば泳ぎを覚えられぬではないか」
無愛想にそう言って目の端で千代姫を窺う。
姫君が不思議そうに面をゆっくり上げていた。
彼女と視線が合うと、長政はすぐに視線をはずして口早に捲くし立てる。
「俺が金槌だと知っているのはおまえだけだ。義之でさえ、俺が全く泳げぬとは思うてはおるまい。この歳で今更家臣に泳ぎ方を教わるようなまねはできぬ。全てを水に流してやる。代わりに、内密に泳ぎを教えよ」
フッと笑いが零れる。見れば千代姫が口元に袖を当てて笑いを堪えていた。
「何がおかしい、教えてやると言ったのはおまえだろうが」
いたって真剣な長政が笑われて不機嫌になるのを、堪えられないとばかりに千代姫が声を上げて笑った。
だがすぐに、姫君は我に返ったように笑いを止めてばつが悪そうに上目遣いに長政を窺った。
「申し訳ありません。そうでした」
笑ったかと思えば、急にしおらしくなる彼女は、長政の知る双葉だった。
頬を緩めると、長政は改めて口にする。
「双葉、俺の傷が癒えたら、一緒に海へ行ってはくれぬか?」
「わたくしで宜しければ、喜んでお供させていただきます」
美しい姿勢で頭を垂れた。
再び上げた顔には、笑みがあった。
森を駆け抜け浜へ出ると、長政は馬から下りた。
わらじに足袋、袴を脱いで押し寄せる波に足を浸す。
目が覚めるほどの冷たさだ。
浜の背後には森があり、緩やかに葉が色づき始めている。
長政の療養中に盆が過ぎて彼岸も近くなってきていた。
天候の悪い日が続き、雨が降るたびに秋が深まっている。
「俺一人なら入れぬこともないか」
独り言のように海に向かってそう言った。
それを後から浜へと辿り着いた馬上の人が応える。
「まだこの時期でしたら、わたくしも平気でございます」
小袖姿の双葉が、勇ましく言い切って砂浜に降り立つ。
長政は浜へ引き返すと、腰を下ろして海を眺めた。
「だとしても、やめておけ。次は来年だな」
「そうですね。せっかく傷が癒えたばかりだというのに、お風邪を召されてはなりませんから」
言いながら、双葉は帯を解いて小袖を脱ごうとした。
それを慌てて立ち上がった長政が止める。
「ばか、やめておけと言うておるだろうが」
きょとんとして見上げる双葉の瞳は、長政が思う以上に近い。
広げかけた襟を押さえ、もう片手で落ちかけた帯を掴んでいる。
抱きかかえるような立ち位置は、互いの着物が触れ合うほどの距離だ。
その近さに、長政は慌てて顔をそむけた。
「おまえに風邪でもひかれて寝込まれては困る。これ以上婚礼を伸ばせそうにはないからな」
長政が負傷したことで、千代姫との婚礼が伸びていた。
しかし、長政が床を離れるや両家の当主が日取りを決めてしまったのだ。
双葉が長政の手からそっと離れて背を向けた。
解いた帯を巻きやすいように畳みなおすと、腰紐を解いて崩れた小袖を着付けなおす。
二ヶ月前、私室で海に誘って以来、双葉は頻繁に長政の部屋を訪れていた。
婚礼の話は一切せずに、他愛無い話をするだけだった。
避け続けた話を、長政は双葉に投げて現実へと引き戻さなければならなかった。
長政自身にも双葉にも選択権などありはしないのだ。
だからこそ、覚悟を決めさせなければならない。
不安を抱えながら、沈黙を保つ双葉の背を見つめる。
帯を拾い上げて砂を落とすと、双葉は動きを止めた。
「わたくしは、長政様を心よりお慕い申し上げております。……なれど、母を手にかけた父の手駒として命に従うことが許せませぬ。利用するだけ利用して、都合が悪くなれば切り捨てる。そんな血も涙もない無情な男になど従えませぬ」
「俺たちの婚礼は、両家の結束を今いっそう固めるための重要なもの……」
そこまで言いかけて、長政は二ヶ月前千代の代わりに鈴が輿入れしようとしたことを思い出した。
逃げようとする彼女を今捕まえておかなければすぐにどこかへ行ってしまう。
そんな焦燥感に駆られて、長政は双葉の腕を掴んで己の胸に強く引寄せた。
ぎゅっと抱きしめて告げる。
「俺はお前を切り捨てたりはしない。お父上のためではなく、俺の為に嫁いではくれぬか」
自分がこんなことを口にする日がこようとは夢にも思わなかった。
|漢≪おとこ≫というのは己の心の内を軽々しく曝すものではない。
だが言わずして、鈴を押し付けられてはたまったものではない。
多くを語るのは苦手だ、これでも承知しなければ何を言えばいい。
双葉は長政の腕の中ですぐには反応を示さない。
長政が内心で焦りだす頃、二つの手が長政の背に回されて抱きしめ返される。
「わたくしで、宜しいのですか?」
「俺はお前しか知らぬ。他の女子のことなど考えも及ばぬ」
もうこれ以上聞いてくれるな、と半ば逃げ出したいような気持ちでそう言うのが長政には精一杯だった。
顔を上げる双葉に恥ずかしさから目を合わせることもできず、長政は顔を逸らした。
じっと見つめられる視線に居心地の悪さを感じながらも、そろそろと視線を戻す。
微笑んだ双葉の瞳から涙が盛り上がり、やがて溢れて頬へと流れていく。
その切ないまでの表情に、長政の胸は熱くなり、鼓動が高鳴る。
紅を引かぬ自然な赤みのさす唇が動く。
「お傍にいさせてください、長政様」
もうどこへも行かせたくはない。
じわじわと湧き上がる欲求に煽られて、長政は双葉を胸に閉じ込めるように抱きしめ直す。
「共に生きよう」
「はい」
長政は忠則の投げかけを思い出す。
『このわしを、うつけと思うか?』
双葉の生い立ちを長政に話し終えた後で、忠則が肩を落として呻くように言った台詞だ。何か行動を起こすと予測していながら、それでも長政に双葉を委ねたかったのだと、忠則は語ったのだ。
垣間見た忠則の意外な一面は、子の幸せを願う親心だった。
いつかそのことを双葉に教えてやりたい。
時が経ち、彼女が父親を許せる日が来ることを、長政は願わずにはいられなかった。
浜で抱き合う二人を、丘の上の居城から藤川忠則は望遠鏡を使って眺めていた。
「殿、何か見えますかな?」
背の低い家老に声をかけられ、忠則はレンズから目を離す。
「仲睦まじきつがいの雲雀が見えた」
「さようにございますか。……千代姫様が桐生長政様に気に入っていただけると宜しゅうございますな」
「心配には及ばぬ。あの長政殿だ。わしよりもよほど可愛がってくれるじゃろう」
「おさびしくなりますな」
「そうじゃな、あの跳ねっ返りぶりを見れぬのは寂しいのう」
忠則は天守閣から再び眼下へと視線を向けた。望遠鏡がなくては、二人の姿はさがせなかった。
秋の空は、数日続いた雨が上がり、すっきりと晴れて澄み渡っていた。
鷹が鳴き声を響かせて、遠くへと飛んでいく。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
諸事情で更新がすっかり遅くなり、申し訳ありません。
少しでも楽しんでいただけたのなら、幸いです。
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