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四の巻

 米田城へ着くと、長政は多くの家臣らに出迎えられ、母の志乃は涙を流していた。

 直ちに整えられた褥に運ばれ、真新しい着物に袖を通すと、煎じた薬を呑まされた。

 その間に父の政隆がやってきたのだが、息子の顔を見ると無言で去っていった。

 ようやく落ち着いたところへ、藤川忠則がやってくる。

 三十畳ほどの畳が敷き詰められた部屋は、|襖≪ふすま≫が取り払われ回廊から差し込む陽の光で満ちていた。


 緩やかな風が通り抜けていく。

 回廊側に敷かれた褥に身を横たえている長政を一瞥すると、忠則は広々とした部屋を見渡した。

 つい先刻までは侍女や侍医がいたのだが、今は部屋の隅に佐脇義之が控えているだけで、他には誰もいない。

 雲雀の美しい鳴き声が、空に響いていた。


「どうかなさいましたか?」

 

 周囲を探るような忠則の視線に、長政が尋ねた。

 忠則は泰然とした様子で長政の枕元に陣取る。


「千代はまだ来ておらんようじゃな」


「そのようでございます」


「わしを恨んでおるか?」


 長政は真顔で答える。


「峰山城で千代殿とそれがしを引き合わせておきながら、姫をお見捨てになったことにございますか?」


「そうじゃ。わしが初めから千代ではなく鈴を引き合わせておれば、そちをこのようなめに合わせずにすんだやも知れぬ。危うくそちを失うてしまうとこじゃった」


「過ぎしことを申されるなど、忠則様らしからぬお言葉でございます。……お恨み申し上げるなど、滅相もございませぬ。千代殿はそれがしの伴侶として、ありがたく桐生に迎えさせて頂きとうございます」


「そういうてくれるか。うむ、あれはちと暴れ馬じゃが、長政ならば乗りこなせよう」


 猛将が豪快に笑い声を上げたが、長政は憂いを拭えなかった。


「一つ、お伺いしても宜しいでしょうか?」


「うむ、申してみよ」


「双葉という|女子≪おなご≫についてお話し頂けませぬか?」



 過去に後ろめたさなど持ちえたことなどないような実直な眼差しが、忠則を射抜くように注がれる。 真っ直ぐな瞳を見るには、初老は非道な行いをしすぎたかもしれない。

 雲一つない晴天を眺めながら、忠則は昔話を語り始めた。



 始まりは十七年も前のこと。

 当時より血の気の多かった忠則は、諸国でも既に有名な好色だった。

 ある日、城の土間で飯炊き女の凛を見初め、側室に召し上げた。

 忠則は、少年のように一途に凛を愛した。

 だが、凛は以前から|夫婦≪めおと≫になる約束を交わしていた六平太を思い続けていた。

 忠則の子を宿した直後、一度は引き裂かれた二人が駆け落ちをしたのだ。

 家臣を放って逃走する二人を追わせ、見つけた六平太を切らせた。

 凛は逃げ延び、所在に辿り着くのに五年の歳月を要した。

 彼女は漁村で細々と生計を立てており、忠則は自ら赴いて凛を連れ戻そうとした。

 しかし、決して従おうとしない凛に、この時忠則は怒りを通り越して憎しみさえ覚えた。

 気がついたときには、凛を切り捨てていたのだ。


 血しぶきを上げて倒れる愛しき者を、忠則は虚ろに眺めた。

 家臣の調べで、村に忠則の血を引く凛の娘がいることは承知していた。

 しかし、無造作に刀を納めると、娘には会わず来た道へと引き返した。

 その後の忠則の気がかりは、凛の娘のことだった。

 引き取ることが躊躇われたまま、十年の月日が流れた。

 家臣の報せで、漁村で暮らすその娘が、養父母を流行り病で相次いで亡くしたと耳にした。

 忠則は家臣に輿を持たせ、凛の娘を迎えに行かせたのだ。





 いつの間にかうつらうつらと眠っていた長政の耳に、夕暮れ時を知らせるような虫の鳴き声が耳に届いた。

 薄く目を開くと、見慣れた天井が目に映る。

 部屋に控えている義之が、柱に凭れて眠りこけていた。

 長政は誰もいない枕もとの畳を眺めた。


「千代姫なら来てないぞ」


 義之がいつの間にか起きていた。

 どっこらしょ、と言いながら立ち上がると、乳兄弟は長政の枕元に陣取った。


「俺はまだ何も聞いてない」


「だが、顔にはそう書いてある」

 

 見えているのか、と疑いたくなるほど、義之が目を細めて笑う。


「忠則様と城へ戻ってきただろ? 一緒だった双葉殿をおまえは目でずっと追っていた」


 義之の言うとおりだった。

 死のうとしていた双葉のことが、気になって仕方がなかった。


「様子を見てきてやろうか?」


「頼む」


 武芸一筋の堅物だった男の変化を、あえて冷やかすことなく引き受けた義之に、長政は感謝した。





 米田城の本丸より東側にある棟の一室に双葉はいた。

 |衣桁≪いこう≫に掛けられた婚礼用の打掛を睨み続けている。

 膝の上に置いた小刀を握ったまま、身動き一つせずにその姿勢のまま座り続けていた。

 

 あれはいつのことだっただろう?

 双葉は大人たちの手伝いで船に乗り、漁を手伝った帰りだった。

 褒美にもらった魚介類を網いっぱいに入れていた。

 早く母に見せたくて、笑って誉めてもらいたくて、家に入ったのだ。

 だがそこで待っていたのは、むせ返る血の臭いと、変わり果てた母の姿だった。

 覚えている母の姿はそのときの記憶だけ。

 それ以外にあるはずの思い出や、母の面影は全く思い出せない。

 天涯孤独の身となった双葉は、村の子のない夫婦に引き取られて育てられた。

 その養父母も流行り病で亡くなり、二人を弔った後は、一人で生きていた。


 毎日海に出て一日の大半を浜辺で過ごす日々だった。

 そこへ、藤川忠則の命を受けた家臣たちが現れたのだ。

 突然やってきた彼らから、実父の名を知らなかった双葉は忠則の娘であることを教えられた。

 亡きものと思い込んでいた父が生きていたことは、双葉にとっては何よりも朗報だった。

 胸を躍らせてやってきた峰山城で待っていたのは、父ばかりではなかった。

 父の正室と二人の側室、嫡子に庶子を合わせると六人の子がいた。

 そのうちの四人が鈴姫を含む娘たちだ。

 上機嫌の忠則に双葉は、『千代』と命名を受けて快く迎えられた。

 双葉は胸を熱くして涙した。

 しかし、その喜びは束の間に終わる。

 正室と側室たちは常にいがみ合い、権力争いが渦巻いていた。そんな中に放り込まれたことに、双葉は早々に気づかされた。

 忠則以外の人間は、家臣を含めて双葉のことを快く思っている者などいなかったのだ。

 口さがない者たちによって、母・凛の死の真相が彼女の耳に入るのは時間の問題だった

 真実を知った双葉の衝撃は大きかった。


 その日を境に忠則を拒絶するようになり、ことあるごとに逆らい続けた。

 やがて、双葉は峰山城を度々抜け出すようになり、その度に家臣に連れ戻された。

 納戸へ監禁されたことも一度や二度ではない。

 そんなことを繰り返していたある日の朝、双葉は桐生長政に嫁ぐように父に命じられたのだ。

 小部屋の外には見張りの家臣がつけられ、外へ出ることを禁じられた。

 我慢ならず、双葉は家臣に厠へ行くと偽り監視の目を盗んだ。

 打掛を脱ぎ捨て、馬に騎乗すると城を飛び出した。

 向かった先は白砂の浜。

 よもや避けようとした相手と出会ってしまうなど、考えも及ばぬことだった。

 あの海での滑稽な出会いこそが、全ての始まりといっても過言ではない。



 不意に、双葉は長政の逞しく力強い腕に抱きしめられたことを思い出した。

 素性を明かそうとしない双葉に対して、長政は常に誠実で真摯な眼差しを向けてくれていた。

 それだけで充分だった。

 首の後ろで一つに束ねた長い髪を胸へと流す。艶のある豊かな黒髪がするりと膝の上に落ちる。


 西の空が赤く染まり、縁側の先に広がる庭園が闇に包まれていく。

 肌に纏わりつくような昼間の風とは一変して、ひんやりとした心地の良い風が吹き込んでくる。

 侍女たちが室内に明かりを灯すと、縁側を下りて庭先の灯籠に火を灯しに行く。

 侍女が傍を離れた隙に、双葉は小刀を鞘から抜いた。

 薄明かりに白い光を反射させて、磨かれた刀身に虚ろな顔を映す。

 その手を肩の位置より上げたとき、突如として疾風のごとき速さで何者かが駆け込んできた。


「為りませぬっ!」 


 鋭い制止に双葉は震え上がった。

 見上げるとそこには、長政の家臣である佐脇義之がいた。

 驚いて瞠目している双葉から、小刀を奪うと厳しく諌める。


「お命を絶つなど断じて為りませぬ」


 何度か瞬きをした後、双葉は自嘲気味に笑った。


「さすがはあのお方のご家臣。よく似てらっしゃいますね。……ご安心ください。誤解です」


「では何ゆえ、このような物騒な物を持っておられる?」


「髪を切ろうとしていたのです」


 義之は安堵を浮かべたがすぐに顔色を変えた。

 双葉の言葉が意味することを瞬時に察したようだった。


「尼にでもなるおつもりか?」

 

 それには答えず、双葉は真顔で請う。


「お見逃しください」


 義之が双葉との距離を思い出したように、膝をついたまま縁側まで退いた。


「ここで姫を見逃せば、それがしは間違いなく主君に切られましょう。……こちらは、しばし預からせて頂きますぞ」


 そう告げて、双葉から取り上げた小刀を己の懐へしまった。

 やりきれない思いに耐えるように、双葉は眉根を寄せた。


「長政様が危うくお命を落とされかけたのは、わたくしのせいなのです。わたくしさえいなければ、長政様があのような負傷を負われることもなかったのです」


 思いつめて吐露すると、聞いていた義之は疲れたように溜息をついた。


「若に限って、そのようなことは微塵にも思ってらっしゃらないでしょうな。ご存知ではないやもしれませぬが、双葉殿にお会いするまでのあのお方ときたら、それはもう堅物で女人を一切寄せつけぬ御仁でございました。それが今やどうなされたことか、哀愁を漂わせてずっとお待ちになっておられる」


 何を? と問いかけて、双葉は口を閉ざす。

 こちらをじっと見つめる義之が、細い目を更に細めて意味ありげに笑ったのだ。

 まさか自分が、と思い至った瞬間、頬がポッと熱くなる。


「尼になるか、否かは、長政様とお会いしてから決断されても遅くはないかと存じます」


 義之の気遣いに、双葉の心は大きく揺れる。

 伏せた瞼を上げたとき、双葉は佐脇義之を真っ直ぐに見据えた。


「長政様にお会いしとうございます。案内をお頼み申し上げます」

 


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