一の巻
大粒の雨が盛大な音を立てならが降りしきる。
武具も着物も既にずぶ濡れである。
地面がぬかるみ足踏む蹄が泥を蹴り上げる。
跳ねる泥などもはや気にならない。
長政の全身は、激しい雨でもそそげぬほどに、既にもう何人もの血を浴びて紅く染まっている。
降りしきる雨の中、長政はただ向かってくる敵だけに集中し、刀を振るい続けた。
一瞬の気の緩みが死を招く。
戦場で死が脳裏を過ぎるほど危機を感じたことは一度や二度ではない。
人としての良心を捨て、刀を抜いた瞬間に鬼となる。
そうしなければ、生き残ることなどできはしないのだから。
戦国の騒乱の中、藤川と桐生は同盟を結び、領地を脅かす近隣諸国と度重なる戦を繰り返していた。
攻め入る佐々木、島、小野寺の連合軍を相手に、藤川、桐生の同盟軍は、合戦で勝利を収めた。祝いの宴席は盛大に催される。
総大将藤川忠則の祝杯で始まると、美しい女達が料理を乗せた膳や酒を次々と運んでくる。
注がれるままに桐生長政が酒を煽ると、女は艶笑を湛えて酒を注ぎ足す。
女が身をくねられて身を寄せてくるのを長政は煩わしげに手払う。
「もうよい、下がれ。後は自分でやる」
「そちは相変わらずよのう。いかほどの美女ならよいのやら」
藤川忠則が、推し量るような目で長政を眺める。
四十路を迎えた忠則の両側には、早々に女が侍っている。
「それがしの意中の女子は、ここにおりまする」
「なに?」
長政が背後に手を回す。
忠則と周囲で二人のやり取りを見守っていた家臣たちが、興味深げに身を乗り出した。
長政が『意中の女子』を自慢げに見せつけると、それを認めた一同は呆気に取られ、ややあってから興ざめた。
「やはりそれか。幾つになっても小百合とは……。同じ|漢≪おとこ≫としてなんとも嘆かわしいことよ」
幼少より長政を見てきた忠則は、女が酌んだ酒をまずそうに飲み干した。
隣に座している長政の父政隆が、頭痛を覚えたのか指先を額に押し付けている。
長政は憮然と、手にしている刀を畳に置いた。
「|武士≪もののふ≫たるもの日々精進。藤川様より賜ったお言葉にございます。未熟者のそれがしには、女子にかまけている暇などございません」
とたんに忠則が大口を開けて豪快に笑った。
「憎い男になりおって。あの小野寺の猛将南条泰衡を討ち取ったのじゃ。よもや、そちがあれほどの功名を立てようとは思わなんだ。これで桐生も安泰じゃな、政隆殿」
「いやいや、まだまだにございまする」
父の溜息まじりの言葉を聞き流し、十八歳の長政は杯の酒を呑み干す。
木々の連なる山道を馬でひたすら走ると、やがて草木のにおいに混ざって潮風が吹いてくる。
森を抜ければ、唐突に圧迫感から開放される。
広がる視界に入るものは、白い砂浜と青い空と海。
降り注ぐ眩しい夏の日差しを浴びれば、じっとりと額から汗が滲み出る。
長政は横目で従者の佐脇義之を見やる。
乳兄弟でもある義之は、にっこりと笑う。
細い目をいっそう細めて提案してきた。
「しばし休みましょう」
「仕方がない」
「そうと決まれば入るぞ、入るぞ」
供なった家臣らが童のようにはしゃいで浜へと駆け出していく。
長政は呆れながら、残っている親友に釘を刺す。
「先に言っておくが少しだぞ。殿の使いの途中なんだ。遊んでいるときではないのだからな」
今朝になって長政は、父である米田藩主の政隆から藤川忠則に書状を届けるように命じられた。
そのため、五人ばかりの護衛を伴い、忠則が居を構える峰山城を目指していた。
義之は笑みを崩さず頷いて、親しげな声を出す。
「承知している。けどな、長政。ずっと戦続きだった上に、また次の戦に備えて何かと忙しない。少しぐらい生き抜きさせてやれよ。お前だって、こんなときぐらい休め。見てるこっちまで疲れる」
気を張り詰めたままであったことに、言われてみて初めて気づく。
「そうだな」
義之が頷く。
浜辺では家臣らが|褌≪ふんどし≫一枚になって水に入っていくところだった。
義之に一緒に泳ごうと誘われた長政だったが、それをやんわり断った。
一人、浜辺で腰を下ろした長政は、磯の香りのする涼しい風を堪能する。
どこを見るともなしに穏やかな波を眺めていると、一人の少女が馬に乗ってやってきた。
馬から下りた少女は、周囲の目を気にすることもなく着物を脱ぎ始めた。
長政が驚いて見入っていると、白い襦袢姿になった少女と目が合う。
少女は長政を一瞥しただけで、足早に海へと入っていく。
長政は家臣たちを振り返った。
海にいる男たちは、少女に気がついていないのか楽しげに泳ぎ続けている。
どうしたものかと長政が頭をかいている間にも、少女は沖へと向かっていく。
長政は大きく溜息をついてうなだれたが、決心を固めると駆け出した。
着物が濡れるのもかまわずに、少女を追いかけて水に入る。
「馬鹿な真似はよせ! 何があったかしらんが、命を粗末にするな」
突然腕を掴まれた少女は大きく見開いたが、すぐに笑い出した。
「何がおか……」
そこまで言ったとき、長政は足場を失った。
頭までずぶ濡れになった長政は、乾いた砂の上に身を投げるように腰を下ろした。
曝した失態を深く恥じる。
見られた相手が年頃の娘であっただけに屈辱はいっそう増す。
海辺を眺めていると、沖でひょっこりと先ほどの少女が水面に顔を出した。
浜にいる長政の下へ戻ってきた少女の手には網がある。
中にはサザエやあわびがごろごろと入っていた。
少女はおもむろに彼に頭を下げた。
「さっきは本当にごめんなさい。これ、お詫びにどうぞ」
網ごと差し出された手を、長政は不機嫌に押し返した。
「あれは、俺が勝手にしたことだ。おまえに詫びられるいわれはない」
「でも、泳げないのにあんなに心配してくれたから」
そう、長政は泳げなかった。
そして目の前で謝る少女は入水しようとしたのではなかった。
彼女は海へ貝を取りにやってきたらしい。
着ている着物や乗ってきた馬を見れば、卑しいものではないことは問うまでもない。
それなりの家柄の娘に違いないだろうが、海女の真似事をするなど破天荒な娘だ。
親の顔が見てみたいものだと、苛立ったが責められる立場ではない。
何も知らずに彼女を止めようとして、見事に溺れたのである。
それを助けたのは、大層泳ぎが得意な目の前の娘だ。
黒目がちの大きな瞳は楽しげで、侮蔑のようなものは見受けられない。
少女の濡れた髪が陽光に反射してきらきらと輝いていた。
醜態をさらした長政は、ひたすら彼女から目を逸らす。
ばつの悪さに体裁も整えられず、幼子が拗ねるように吐き捨ててしまう。
「それを言うな。飯は食ったところだし、食い物に窮してもおらん。余計な気遣いは無用だ」
長政の身なりを見て納得するように頷くと、少女は去り際にこう告げた。
「私、双葉。この近くに住んでいるの。泳ぎたくなったらいつでも言ってね。教えてあげるから」
「大きな世話だ。おまえとなど二度と会うこともなかろうよ」
早々に去れといわんばかりの長政を、双葉はくすくすと笑って去っていった。
峰山城は白砂の浜から内陸に入った小高い山の上に築かれた城だ。
広間で峰山藩主藤川忠則に拝謁し、父より預かった書状を差し出す。
忠則は、長政が運んできた書状にその場で目を通すと、控えている家臣に声をかけた。
家臣は、主人より何かを耳打ちされると、広間を出て行った。
「長政殿、そなたの父に返事をしたためるゆえ、持ち帰ってはくれぬか?」
「承知致しました」
しばらくの後、先ほどの家臣が女人を連れて戻ってきた。
広間に入ってきたのは、単衣に小袖を羽織った姫君だった。
慎ましやかな小顔は美しく、長い睫が縁取る黒曜石の瞳は世を儚むような憂いに満ちていた。
陽を知らぬかのような肌は透き通るように白く、細い喉元には小さな黒子が三つ。下弦の月を思わせるように連なっている。
「娘の千代じゃ」
忠則の三女だ。会うのは初めてだった。
畳み一畳ほど隔てた後方に静々と座すると、姫君は頭を垂れた。
「千代にございます」
か細く小さな声だ。
千代は姿勢を戻したが、艶やかな漆黒の髪に縁取られた顔はあらわれたときより伏せられたままだった。
長政と目を合わそうとはしない。
「それがしは、米田藩主桐生政隆の嫡男長政にございまする」
忠則が千代に、長政を庭へ案内するように命じた。
庭へやってきた二人は殆ど会話らしいものを交わさなかった。
千代は物静かで、必要以上に口を開こうとしない。
長政は気を利かせて話をするわけでもなく、無言のまま整えられた庭園や池を眺めた。
橋が掛けられたひょうたん型の池には、鯉が気持ちよさそうにゆったりと泳いでいる。
前触れもなく水を弾いて水面へ出てきた鯉に長政は驚いた。
黄金色をしていたのだ。
「これは見事なっ!」
「気に入ったか?」
長政の驚嘆に答えたのは忠則だった。家臣を伴いやってくる。
「はっ、このように眩き鯉は初めてにございまする」
「貴殿に差し上げようぞ」
「誠でございますか?」
鯉を夢中で見ていた長政が振り返ると、忠則に真顔で凝視される。
「千代をもろうてはくれぬか?」
その申し入れは、忠則から千代を引き合わされたときより予感していた。
長政は一歩下がると頭を垂れた。
「ありがたく、千代殿を貰い受けさせていただきまする」
私情を挟む余地はどこにもない。
それが、ゆくゆく藩主となる者の定めであると長政は覚悟していた。
和風異世界の純愛物語です。
既に掲載している2作品がどちらも癖のある内容なのですが、今回はややこしくなるような要素は一切なしのストレートです。
藩名と城名も当初は別々につけてましたが、それも分かりやすく同じ名前にしました。
誰が読んでもハッピーエンド間違いなし。