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炭倉の中で

作者: 工場長

 元禄げんろく十四年(一七〇一年)三月十四日、吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなかは皺だらけの痩せた身で江戸城内を忙しく歩き回っていた。

 この日は京都より下向した勅使が江戸城内の白書院しろしょいんにて将軍からの答礼を受ける日である。

 京の都より来た高貴なる使いに失礼のないようにと、彼は先月よりその準備に追われていた。その中でもっとも重大な仕事は勅使接待役ちょくしせったいやくに任ぜられた諸大名に礼式や作法を教授することであった。

 勅使下向は毎年行われる儀式であり、吉良上野介にとってはその準備は慣れたもののはずであったが、今年はいつもよりも忙しかった。というより疲れがたまるものであった。還暦を過ぎたのもあるが、理由はそれだけではない。教えを受ける勅使接待役の男の出来が悪かったのである。

 その勅使接待役の名は浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりと言う。播州赤穂ばんしゅうあこう藩、五万四千七百石の大名である。

 吉良上野介が見るにこの男はやる気というものがまるで感じられない男であった。教授指南役への挨拶の日には、うろんな目を吉良上野介に向け、投げやりでそして実に聞き取りにくい声で

「ご教授……お願い仕る……」

 そう呟きながらゆっくりとそして、面倒だがしょうがない、と言う気持ちを前面に出して頭を下げた。

 最初からこのようなものであったから、その後の浅野内匠頭の態度は吉良上野介の悩みの種となった。

 勅使接待役の料理を指南する日のことである。浅野内匠頭は吉良上野介が前日に何度も「勅使のお食事は精進料理を」と言っていたのにも関わらず、当日は鶏肉や魚など精進料理とは全く正反対の物を用意してきたのだ。

「浅野殿、この料理はなんでござるか。それがしは精進料理と言ったのでござるぞ」

 語気を強めて注意をすると、浅野内匠頭は自分の過ちに気づいたのか最初は狼狽の色を見せたが、やがて背を小さく丸めると吉良上野介に時々視線を向けながら

「それがしは……性のつく料理を……と昨日確かに言われたのでござる」

 と、小さく呟いたのだ。その態度に吉良上野介は

「とにかく……料理を改めてくだされ」

 平静をなんとか保ちながら応えるのに精一杯であった。

 浅野内匠頭の態度の悪さは他の高家からも聞こえてきた。品川豊前守しながわぶぜんのかみは、

「吉良殿から柳沢やなぎさわ様を通じて上様に勅使接待役の変更を命じてもらいたい」

 と、吉良上野介に泣きついて頼み、同じく高家の畠山下総守はたけやましもうさのかみは、

「浅野内匠頭という男……ちと心が病んでおるのではないか」

 と、浅野内匠頭の生気のない容姿を語る。年も石高も彼らより高い吉良上野介は同僚の不満の捌け口になっていたのだ。そんな同僚達を吉良上野介は時には励まし、時にはなぐさめた。

 吉良上野介ら高家の者としては、浅野内匠頭の態度がいかに悪かろうが、心に病を持っておろうが、勅使接待役の役目を無事に務めてもらわなくては困るのである。なぜなら勅使接待役の落ち度は礼式を指南する高家の落ち度につながるからである。

 吉良上野介は生気のない浅野内匠頭の顔を見つめながら、そして自分を励ましながら浅野内匠頭に礼式や作法を教え続けた。


 そんなこんなで迎えた勅使下向の日である。今日は勅使が江戸に来てから四日目、幸い浅野内匠頭はこれまで目立った失敗を犯していなかった。

 ところが難問は別のところから上がってきた。勅使が白書院に入る時刻が突然変更になったのである。当然今までしてきた準備も大きく変更しなければならない。

 吉良上野介ら高家はその対応のために朝から大童であった。時間の変更は勅使接待役にも伝えなければならない、しかしそれを誰がやるのか、ということを話し合う暇も考える暇も無かった。

 その騒ぎがひとまず落ち着き、吉良上野介は普段から多い顔の皺をさらに増し、疲れた体を引きずるようにして歩いていた。場所は松の廊下である。障子に書かれた松並木と砂浜が彼を迎えた。

 後ろから何者かに声をかけられ吉良上野介は疲れを押し隠して振り向いた。声をかけたのは留守居役るすいやく梶川与惣兵衛かじかわよそべえである。

「これは梶川殿、お役目ご苦労にござる」

 吉良上野介が丁寧に挨拶すると梶川与惣兵衛も丁寧に返した。そしてこう続いた。

「吉良様、お役目ご苦労にございます。それがし高家の方々にかわりまして、接待役の浅野内匠頭様と伊達左京亮だてさきょうのすけ様に勅使が白書院に入る時刻の変更を伝えましてござる」

 梶川与惣兵衛のその言葉を聞いて吉良上野介は接待役の二人に時刻の変更を伝えていないことに初めて気づいた。

「これはこれは、梶川殿もお忙しい役目の最中……かたじけのうござる」

「いやいや、いつもお忙しい吉良様に比べたらそれがしの役目など……。これからもそれがしで役に立つことがあれば、何でも申し付けてくだされ」

 そう言って梶川与惣兵衛は快活な笑い声を上げた。その声に先ほどまでの慌しい準備に疲れ果てていた吉良上野介の心と体が癒されたような気がした。

「いや梶川殿、ありがたい言葉にござる……」

 吉良上野介もつられて笑い出していた。


 吉良上野介が背後より奇声を聞いたのはこの直後である。

「おのれ、吉良上野介ーっ!」

 吉良上野介が振り向いたその刹那、目の前を鋭い光が走った。眉間を激痛が襲い、彼の視界は赤く染まった。その視界の中央に怪しく光る目をむき出しにした男が何事か喚いている。

 逃げろ――、吉良上野介は本能の命ずるままに男に背を向けて走り出した。右肩に激しい痛みを感じたがそんなものに構っている暇はない、足を前へ――。よろめきながら逃げる吉良上野介を向こうから歩いてきた品川豊前守が支える。

「浅野殿、殿中にござるぞ、殿中にござる」

「はなせぇ、はなせぇー!!」

 梶川与惣兵衛の必死の叫び声と男の狂った叫び声を聞きながら、吉良上野介の意識は少しずつ薄れていった――。


 幸い、吉良上野介の傷は浅かった。医者の手厚い治療で生気を取り戻した吉良上野介はひのきの間にて目付けの取調べを受けた。

「浅野内匠頭は吉良殿に恨みがあると申しておるが、吉良殿には何か浅野内匠頭を不快にさせた覚えでもおありか?」

(あの男は浅野内匠頭であったか……)

 吉良上野介は自分を襲った浅野内匠頭のやる気の無い顔を思い浮かべた。顔は思い出せるが、彼を不快にさせたことは思い出せない。もっとも彼を怒らせた覚えなど無い。あの男は自分と会うときはいつも不機嫌そうな顔をしていた。いつ怒らせたなどと分かるわけが無い。

「浅野殿はそれがしに恨みを持っているとのことでござるが、それがし恨みを買うような覚えはござらぬ。全く持って迷惑至極なことでござる」

 吉良上野介の目付への回答は正しかった。浅野内匠頭は吉良上野介個人に何の恨みも持っていなかった。彼は勅使下向の儀式と高家の者達全体に恨みを持っていたのだ。つまり襲う相手は高家の者ならば誰でも良かったわけであり、たまたま吉良上野介が襲われただけの話であった。

 この事件に対する幕府の対応は素早かった。儀式を滞りなく進める一方で関係者に対する処罰をその日のうちに決めたのだ。

 殿中で刃傷に及んだ浅野内匠頭は即日切腹、襲われた吉良上野介に対しては「抵抗をしなかった」ことで将軍や幕閣ばっかくの好感を得、「お構いなし」となった。

 「喧嘩両成敗けんかりょうせいばい」が常識の世で「当事者の一方が無罪」という判決は異例のことである。幕府の吉良上野介に対する厚遇のほどが伺える。

 吉良上野介に言わせればこの判決は当然のことであっただろう。幕府が用意した駕籠に乗って彼は自分の屋敷へと帰った。

 この駕籠が幕府の吉良上野介に対する最後の厚遇となった。

 判決に不服を持った諸大名や武士、町民の声を抑えきれなくなった幕府は吉良上野介を隠居させる。そして呉服橋門内ごふくばしもんないにあった彼の屋敷を取り上げ、新たに本所一ツほんじょひとつめ移転を命じた。

 主君である浅野内匠頭の無念を晴らそうとする家臣たちが江戸城に近い吉良上野介の屋敷を襲うと言う噂が江戸の町中でまことしやかに囁かれている。もしそれが実現のものとなった場合、幕府の面子が潰れてしまう――。そのことを恐れた幕閣たちが屋敷を変えさせたのだ、との声が江戸の町中で聞かれた。幕府が吉良上野介を見放したと言っても過言ではない。

 赤穂浪士あこうろうしと呼び名のついた浅野内匠頭の家来達への期待と吉良上野介への悪評は、月日が経つにつれ江戸の武士や町民の間で高まっていく――。


 元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日――、吉良上野介はその老いさらばえた体を震わせながら炭倉の中で身を潜めていた。その隣で清水一学しみずいちがくが鯉口を切って身構えている。赤穂浪士がついに屋敷に襲撃をかけたのだ。吉良上野介は家来に守られ白い寝巻き一枚で何とかここまで逃れることができた。

(なぜ……、なぜこのような目に遭わねばならぬのだ……)

 蔵の外から刀が噛み合う音や叫び声が聞こえる、自らの身を隠す炭俵を見つめながら吉良上野介は何度も心の中で問い続けた。しかし問う相手は誰もいない、答えは返ってこない――。

 気づいたときには清水一学は隣にいなかった。戸の入り口のほうでなにやら叫び声がする。清水一学の声もその中に混じっている。それは、大きなうめき声とともに途切れた。

「まだ中に誰かいるのか!?」

 浪士の足音がこちらへ近付いてくる。一人、二人とその足音の数は増えていく。浪士と吉良上野介を隔てているのは、目線の辺りまで詰まれた炭俵ただ一列。

 吉良上野介は身を縮めながら浪士たちが炭倉から出て行くことを必死に祈り続けた。しかしその祈りは左肩の激痛によりはかなく消える。

「槍の先に何か刺さったぞ!」

 炭俵の山が乱暴に崩される。吉良上野介の姿が浪士たちの前に晒されるのにそう時間はかからなかった。

「老人がいるぞ!」

 吉良上野介は頭をつかまれ浪士たちの前へと引っ張り出された。彼の視界を蝋燭から放たれるまぶしい光が襲う。

「この額の傷……、間違いない!吉良だ、吉良上野介だ!」

 浪士の一人が懐から呼子笛を取り出して吹いた。高い音が炭倉の中から吉良上野介の屋敷中に響き渡る。笛の音はまた別の笛の音を呼び出し、さらには浪士たちの歓喜の声と足音を炭倉の前へと導く。

 吉良上野介頭は頭を浪士の一人に捕まれ、炭倉の中で笛の音と浪士たちの声を聞きながら何かを待たされ続けた。数分ほどしてその何かがやってきた。

 それは火事装束に身を包んだ背の小さい中肉中背の男だった。丸顔で眉毛は濃く、鼻はすらっと通っている。この足の短い男がかつては赤穂藩の城代家老じょうだいがろうであり、今はこの吉良邸襲撃の首領を務める大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしたかなのだが、吉良上野介には知る由も無い。

「吉良上野介殿にござるか」

 大石内蔵助は震える吉良上野介を一瞥して尋ねた。

「い……いかにも……」

「お命頂戴仕る」

 大石内蔵助は脇差を抜いて吉良上野介の鼻先に突きつけた。吉良上野介はやせ細った右腕を精一杯伸ばし、大石内蔵助の右腕を掴んで叫んだ。

「なぜだ、なぜわしがこんな目に遭わねばならぬ! わしがお主らに何をしたと言うのだ!? 答えよ! なぜだ、なぜわしは死なねばならぬ!!」

 吉良上野介は大石内蔵助の腕を大きく振って何度も叫んだ。大石内蔵助は冷静にその様子を見つめていたが、やがて吉良上野介の腕を軽々と振り払うと押し殺した声で呟いた。

「主君、浅野内匠頭の無念を晴らさんがため」

 その言葉を聴いて吉良上野介は力なく尻と右手を床についた。主君が愚かならその家臣も愚かだ、と思った。


 吉良上野介の胸を大石内蔵助の脇差が貫いたのはこの直後である。

 時に元禄十五年十二月十四日。吉良上野介、六十二歳――。

 この日より彼は稀代の悪役として創作の世界で生き続けることになる。

 前に投稿した作品「春のなごりを」での出来事を吉良上野介の視点で書きました。

 興味のある方はそちらもご覧下さい。

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― 新着の感想 ―
[一言] 工場長さん、お久しぶり! 念願だった『炭倉の中で』をついに読むことができました。よかった☆ いろいろとよく調べてあって、興味深く読ませていただきました。私は元禄時代には詳しくないので、どんな…
[一言] ああ、おもしろかったです。 実際いじわるしたのか、してないのかわからんけど、まあ馬鹿殿だよね〜
[一言] まず執筆ご苦労様でした、と記したいと思います。また、自作が頓挫してしまった上、忠臣蔵の本筋をうろ覚えなこともあり、感想で失礼させて頂きます。 悪役の視点で書く。普通の作品でも難しいと思いま…
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