聖夜に熊がやってくる
メリークリスマス!
「ねえお母さん、神宮兵衛って誰」
母親は答えなかった。
余り若くもないその母親は疲れていた。30を目前に焦って結婚、その過程で娘を授かったのはよかったが、生憎と夫になった男は短い結婚生活のあと失踪してしまった。
「ねえ、お母さんってば」
ああ、うるさいうるさい。どうしてこの子は、誰でも知ってる、幼稚園でも習うはずのクリスマスソングに、そんな無気味なキャラクターをねじ込もうとするのだろう。ゆるくもなんともない。粗暴な人格ですぐ「がなる」大男のイメージ。
親子ともども、着古したフリース地の薄い防寒着。買い物袋の中身はこの先3日の間食い延ばす予定のカレーの材料。情けなくなる。もうすぐ5歳になる娘は、見切り品の温州みかん10個を詰め込んだ網袋を持って、後ろからついて来ているはずだ。出来ることなら落としたり汚したりしないで欲しいのだが。
じめじめと意地悪く吹き付ける、みぞれ混じりの冷たい風。地面に落ちる端から融けて水溜りを広げるばかりの、ホワイトと言うよりはスラッシーなイブの夕暮れは、頭の上と足の下から二重に光り輝くイルミネーションのせいでいたずらに眩しかった。
「お母さん、見て見て! 綺麗!」
「買わないからね!」
言ってしまってから唇をかんで後悔する。娘はきっと無邪気に、どこかの店頭のツリーでも見て無邪気に感嘆しているだけだろうに。
貧すれば鈍す。だが自分のその弱さを認めて娘に微笑むだけの余裕が、今の彼女には足りていなかった。
「お母さん! おかあさああん!」
足音が途絶え、娘は泣き出した。
「早く来なさい! 置いていくわよ!」
母親が構ってくれないことの恐怖が、子供にとってどんなものか知っていたら、決してそんなことは言わなかっただろうに。火のついたように泣き出した娘の存在を背中のむこうに感じながら、彼女はそれでも意地を張って振り向こうとはしなかった。
ああもう。どうしてこんな。あの人を半分騙すようにして主婦の座を望んだのが、私の罪なんだろうか。
「いいかげんにしなさ……」
たまりかねて叫ぼうとしたそのとき。
「神宮兵衛だ!」
(えっ)
「神宮兵衛とは誰か」としきりに訊いてきた娘に、そうと確信させた何者かがそこにいるのだろうか。
なにやらぞっとして振り向くと、そこにはサンタクロースの扮装をした、雲をつくような大男が娘を抱きかかえ、傍らに置いた赤黒い皮製の、大きな袋の口を開けようとしていた。
連れ去られる。
本能的な恐怖があふれ、彼女は奇声を上げて駆け出した。やめて。連れて行かないで。
その子は、その子だけは。
後先も考えずに体当たりを敢行した彼女の肩口を、男は事も無げに受け止めた。黒々とした顎鬚と、どこか高貴ささえ湛えて見える薄い色の瞳。それがセットで眼前へ下りてくる。
明らかに北欧系の特徴を示すその男の口から出たのは、しかしごく平易で聞き取りやすい日本語だった。
「子供は大切にしろ。立ちすくんで泣き喚く子供をほったらかしにしてはいかん。親がどう思おうと、こやつらには親しか頼るものがないのだ」
「……」
無言のまま引きつって固まる母親に、大男は肉食獣のような微笑を向けて、次の瞬間皮袋から金色の包装紙に包まれた箱を手渡した。
「めりー・くりすまーす」
そこだけ妙にたどたどしい日本語でそう告げると、大男は重そうな木製の橇を自分で引いて雑踏の中に消えていった。
「お母さん。神宮兵衛おっきかったね」
「……美矢。アレはね、サンタクロースよ」
早く帰って開けて見ようね。そう言い交わしながら二人は家路を急いだ。
神宮兵衛なんか勿論いない。娘の聴き間違えが作り出したイメージだ。だがとにかくあの大男は、絶対に商店街のバイトなどではなかった。
じゃらり。
大男の引く橇はいつの間にか装飾タイルの並ぶ舗道にあわせ、昭和の匂いのするリヤカーに姿を変えていた。駐車場の入り口に掛け渡されるような、ごく常識的な太さの鎖。ただし目の覚めるような赤と緑に塗られたそれを、男は直接握ってリヤカーを引いた。
「おかしいな。俺は死んだはずだった……ヘクラ山の見える斜面で」
誰にともなくそう呟くと、リヤカーの上から応えがあった。
「久しぶりだな、『熊』。私も気がついたらこの町にいた。何がなんだかわからない」
男のような尊大な口調で話す声は、だが甘くつややかな女のものだった。暗赤色をしたベルベットのコートで膝下までを覆い、同じ色のブーツと手袋。
袖口に襟、帽子の縁と随所に飾られた毛皮は白いフェイクファーではなく、一本一本の毛の先端に金色の光を帯びた、灰色狼のそれだった。
「なるほど、あんたが呼んだのか。分ってみれば納得の――」
「違う」
『サンタ娘』は顔をしかめてそう答えた。
「私も誰かにここへ呼び出されたようなんだ。とにかくやることははっきりしている」
「ああ。……この皮袋の中身を、朝までに正しく配り終えること」
旧主の言葉を引き取って、『熊』がそういった。
腿肉よ 腿肉よ
滋味この上なき腿肉よ
腿肉よ 腿肉よ
煙香り脂甘き腿肉よ
街角の公園に集まり、イルミネーションの下で腕を組んで「はないちもんめ」のようなダンスを踊る男たちは明らかに様子がおかしかった。頭には牛の曲がった角を取り付けた、絵に描いたようなヴァイキング兜。肩に羽織った毛皮の下には、ぎらぎらと鈍い輝きを放つ鎖鎧が覗き、腰にはどうやら剣らしきものが下がっている。
「あれは俺たちと同類かも知れんな」
郷愁にも似た視線を向ける『熊』に、『サンタ娘』はきっぱりと釘をさした。
「余り視線を向けるな。接触してはだめだ」
「ナンデ?」
「どこでそんなおかしな言い回しを覚えた……とにかくあの一団は、我々にとっては危険だ。この上なく近しいが、互いに存在が矛盾しているんだ」
「なんとなく、拙いと言うことだけはわかった」
「それでいい」
次第に勢いを増して振り続けるみぞれは、やがてはっきりとした雪の結晶にその座を譲り、路面にはようやく白いものが積もり始めた。いつからあったのか、リヤカーの上でラジオがどこか遠い国の電波を捉え、雑音混じりながら、音楽と軽妙なトークが流れ始めた。
クリスマスの季節がまたやってきた! 孤独や憎悪を忘れて、愛と寛容を思い起こすのにはいい日だ。なに、そばに愛するものがいない?
教会へ行け!教会へ! 今宵ミサに与るものには、神と神父がケツに愛と奇跡を突っ込んでくれるとも。拙者は最近痔が悪いのでご免こうむるがな。
さてお知らせだ。今夜の特番が終わったら拙者は新年をスコットランドで過ごす。プロデューサーに文句を言われたが、なに、元旦の特番はイングリッドとスタッフに任せて、必要なところは録音で済ませるからな!
えー! そんなあ。私もスコットランド行きたいです!
キューも出てないのに喋るでないわ! まあそんなに言うなら現地から中継にするか?
(ドアを開けて駆け込む音)そんな予算ないから! ないから!
プロデューサー! 調整室から出てこないでくださいませんかねえ!
「何だこれは。アイスランド語のようだが、恐ろしく古風な奴が一人いる」
「実際アイスランドの放送らしいが……こいつはノルド語かな」
ラジオと放送の概念をいつの間にか理解していることには、二人の思考は及んでいなかった
首をかしげる二人のほうへ、路上清掃車か除雪車か、重機めいた車両が一台移動してきた。運転席には10代半ばの、きりっとした意志の強そうな目をした少女。その傍らには仮装なのか、特撮ヒーローめいた複眼のマスクをつけたようにみえる人物がいた。
「イーェッホーゥ!」
車両の上に鈴なりになった若い娘たちが歓声を上げた。
「わーみてみて。アレ、サンタクロースってやつじゃねえ?」
「神宮兵衛かも」
「なにそれ」
「死んだママが言ってた、子供のころに見たって。黒い髭のでっかい男がサンタの格好でさ……」
「うっそでー」「ばっかでー」
「なんだよぅ!」
きゃあきゃあと笑い騒ぐ娘たちの多くは異形で、あるものは頭に獣の耳を生やし、あるものの腕は触手。尻尾を生やしているものもいる。
「『熊』。あいつらにこの大きい箱を」
「分った」
めりーくりすまーす! そう叫んで歩み寄り、一抱えほどの大きな箱を『熊』はその重機の一団に手渡した。
クリスマスなんてまだあったんだ。そう叫んで箱を受け取り、彼女たちは二人とすれ違って街路の向こうへ去っていく。
「ねえ、なにが入ってるのー?」誰かが発したそんな問いに、『サンタ娘』は声を張って答えた。
「素敵なものだ! お前たちが望みうる、最上のものだ! 仲良く分け合うんだぞ!」
「抽象的ー! でもありがとう! メリークリスマス!」
丸いキャノピーを備えた黄色い重機は、大通りへ差し掛かると角を曲がって視界から消えた。
「ずいぶんと優しくなったものだな、あんたも」
「そうかな? まあ1000年近くも生きていれば、人間少しは丸くなるというものだ」
「まだ人間なのか?」
「自信はないなあ。まあ、そのへんは気持ちの問題だから」
『熊』は少し歩調を速め、それに応じたようにリヤカーはいつしか再び、ただし今度は軽やかに走る銀色の橇に変わっていった。
降り積もり始めた雪の上に、二条の痕が長く長く延びていく。夜はまだ長い。
勝利。これは勝利なのだ。太陽の輝きすらピンの頭ほどに縮み上がった、衛星タイタンの凍てついた地表で、アルミ・ロビンソンはわずかに残された生身の脳神経から、サポート用の電子機器へ不合理なパルスを流出させ、ループさせていた。
軌道砲兵輸送艦ヴィクトリクス号は、不時着時に降着装置の一部を失った。エンジンの故障は修理できたが、降着装置の予備パーツはなく、そのままでは離陸できなかった。
それで、アルミは志願した。折れてへしゃげた合金製トラス構造のかわりに機体を支え、バランスを保った状態でタイタン脱出のための噴射を完遂させる。そのために地表に残る役をだ。
かくして、ジョニーたち軌道砲兵第三中隊は戦場へ舞い戻った。巨大惑星の重力がレールガンの弾道をゆがめる戦場へ。その重力を利用して地球で言う稜線射撃に相当する「半球曲射」を応酬、弾着観測が一週間オーダーでようやく届く、人知を超えた狂気の空間へ。
(あたし、結局死んじゃうのかな)
このサイボーグ義体ならタイタンの地表でもぎりぎり3ヶ月は生存できる。第三中隊の面々は「必ず救出に戻ってくる」と口々に約束してくれた。
(ああ、もうそれで十分じゃないの)
アルミは熊そっくりのいかつい戦闘用フレームの内側で、心だけで微笑んだ。外惑星連合との戦いは過酷だ。最新のオービットガンナー・モジュール4機を擁するヴィクトリクス号も、戦闘終結まで生き残れる可能性はごく低い。
だが、内惑星統合軍は確実に勝利を収めるだろう。17歳の花の命を無慈悲に間引いた「木星3003」ステーションはつい先月、統合軍の接収するところとなった。アルミの復讐はおおむね、遂げられたのだ。
(恋がしてみたかった……ううん、恋ならもう、していたよね)
ジョニーは優しかった。ありていに言えば片思いだったが、それでもアルミの生体脳神経はエンドルフィンの奔流に浸され、甘く疼いてときめいた。
これは勝利なのだ。
後はもう、出来ることは、一縷の望みを繋いで生命維持と緊急通信以外の機能を止め、エネルギーを温存して救助を待ち続けることだけだ。
それを希望と呼んで許されるのならば――アルミは今、勝利と希望を手にして、虚空の果てで緩慢に死のうとしているのだった。
<センサーに感>
切る寸前だったセンサー群の中央統御回路から、短い信号が送られてきた。
(えっ)
アルミは驚愕し混乱を覚えながら周囲をサーチする。あたりには凍結したメタンの奇妙な形をした結晶が舞い飛んで、視界はまるで効かない。音響センサーが何かの音を拾い、アルミは慌てて感度を最大に上げた。
じゃらり。
鎖が鳴った。
メタンの吹雪が吼え猛る荒野の向こうから、赤い服を着た男と女が、耐寒合金で出来た物々しい橇を引いて、ゆっくりと近づいてくるのだった。
皆さんよいお年を。出来れば私にもと願ったが色々と――
まあとにかくよいお年を。