捌/竜神様と後輩
【一】
目覚めた瞬間焦げ臭い。
「火事か!?」
布団を蹴飛ばす。跳ね起きるなりドアを抜け階段を駆け下りる。居間に飛び込むと黒煙を上げるガスコンロ――のそばに人影が二つあった。母さんと、なぜか神様。彼女はいつもならまだ寝ているはずだが。
「おはよう琢磨」
惨状を背景に、母さんはいつもどおり過ぎた。
「ああ、おはよう母さん――じゃねーよ! 火事か無事か無傷だな!?」
「うん、無事鎮火。ごめんね琢磨、それにお父さん。ちょっと失敗しちゃった」
オレと、遅れてやってきた父さんに、|母さんは『てへ』と後ろ頭に手を当ててみせた。
「いや、ちょっとってレベルじゃないだろあれ」
全く原形を留めていない黒い何かがこんもりと乗った黒焦げのフライパン。飛び出した中身がガスコンロや周囲の壁にこびりつき、台所は黒煙とすすと焦げた何かでもはや暗黒一色の魔界と化している。
「片付けは……ちょっとかかるわね」
「朝練休むわ。父さん仕事だし、これ母さんだけだと面倒だろ」
「いいの?」
「いいから言ってんだろ」
こういう面倒くさい仕事は、男手があった方が早く済む。
「ありがとう琢磨。助かるわ」
「で、あっちは何してるんだ?」
母さんの後ろでは、さっきから無言のまま神様がうつむいている。彼女は普段の巫女装束に、デニム地に毛筆タッチで『チェンジ冷熱ハンド!』と書いてあるエプロンを付けていたが、元が和装な上にエプロン全体が黒く汚れていることもあって、凛とした美貌には壊滅的に似合っていない。
「ショックなことがあったのよ。そっとしておいてあげて」
「ショックなことねえ」
「とりあえず、朝ご飯は用意できてるわ。けど、お弁当を作ろうと思ったらやり過ぎちゃって。お父さんの分は確保できてるから安心してね」
その言葉に、嫌な予感がした。お父さんの分『は』って、何だ?
「ありがとう。しかしかあさんが失敗なんて、珍しいな」
「ちょっと事情があって。後で話すわ」
「ところで母さん……オレの分の弁当は?」
「ないわ」
言い切ったよこの人。
「ひでえ!」
「琢磨の優先順位はお父さんの次。諦めなさい」
「さすが母さん、潔いぜチクショウ!」
「でもお昼時にはちゃんと食べられるようにするから、そこは心配しないでいいわ」
「そっか」
ならいいや。母さんがそう言うなら、そうなんだろう。
「あてにしてるぜ」
「私はそろそろあてにされなくてもよくなりそうだけどね」
「なんだそれ」
「さあ、何かしらね」
くすくすと笑いながら、母さんは朝食の準備に移った。
神様は、まだコンロの前で固まっていた。
【二】
少し前のことだ。
陸上部のマネージャーである橘川直は部室の片付けをしていた。
埃が立つので換気のため窓やドアは開けてあったが、かさばるものも多く、一通り片付け終わる頃には彼女の額にはうっすら汗が浮いていた。
残っていたのは、用具ロッカーの上に積まれた、古いスターティングブロック。トラック競技のスタートダッシュに使う足場だ。長い金属の塊なので当然重く、後回しにしていた。
他の部員はランニングに出ていたし、いても本来マネージャーの仕事である片付けに部員の手を借りるのは少し申し訳ない。だから直は、自分ひとりで片付けようと脚立を持ち出し、ロッカーの上に手を伸ばした。
「ん……!」
小柄な彼女には、脚立の高さも少し足りなかった。脚立の上で背伸びして、ようやく指先が届く程度。
何度か指先を引っ掛けて、スターティングブロックが動いた、と思ったときには、それは崩れ、落ちてくるところだった。爪先立ちでふらつきながら引き寄せていたので踏ん張りは利かず、それを避けることはできない。
悲鳴を上げることはできなかった。
その暇がなかったからではなく、服の背中をつかんで後ろへ引っ張られ、首が絞まっていたからだ。
間近で床に激突してワンバウンド、こちらへ倒れそうになるスターティングブロックが蹴飛ばされ、頭上から声がした。
「大丈夫か」
「げほ、ごほっ」
返事をしたくても、できない。舞い上がった砂埃で、余計に息が苦しかった。
「あ、悪い。つかみっぱなしだった」
解放されて、深呼吸。見上げてみると、陸上部のロゴ入りジャージを着た背中越しの横顔には見覚えがあった。
「――源センパイ!」
「危ないだろ。お前ちっちゃいんだからこういうのは他のやつに頼め」
目が合ったのも束の間、源琢磨はそれきり直に構わず歩を進め、奥にある自分のロッカーから取り出したペットボトルのラッパ飲みを始めた。
「あの、源センパイ」
ペットボトルから口を離して無言で向けられた眼に、直は思わずびくっとすくんでしまった。この先輩、普段から眉が怒ったような逆八の字で、しかも無口なのだ。にらまれてはいないのだが、近寄りがたい。
直が言葉を継げずにいると、逆に質問が飛んできた。
「お前、回し飲み大丈夫か?」
「え? えと、はい」
質問の意図はわからないながらも、頷く。コンビニで冗談としか思えないような期間限定ペットボトルを見つけては友達同士で回し飲みすることはよくある。最近一番のヒットはアズキ味のコーラだった。
でも、なんでいきなりそんな。
「やる。汗かいてるみたいだし」
すれ違いざまキャップをしなおしたペットボトルを押し付け、琢磨はすぐまた部室を出て行った。どうやら水分補給に寄っただけで、練習はまだ続けるつもりなのだろう。
「源センパイ……」
怖い人だと思っていた。初対面の頃から自分とは目を合わせようともしなかったし、数少ない会話でもひどくぶっきらぼうだったから。
本当は、怖くなんかなかった。いい人だ。むしろ危ないところを助けられて見上げたあの後ろ姿は――ヒーローみたいだった。
その場にまた自分ひとりになり、受け取った体勢のまま両手で握りしめていたペットボトルに視線が落ちる。
「ど、どうしよ……」
急にどきどきしてきた。たった今まで、先輩が飲んでいたものだ。回し飲みはよくやる。でも、男の人と回し飲みをしたことはまだない。だってほら、それって、あれだ。少女マンガとかでおなじみの、間接……。
「いや、ほら、でも、先輩、わたしが汗かいてたからくれたものだし? 深い意味なんかないんだ、たぶん。あったら困るし、どういう顔すればいいかわからないし、ていうか、せっかくもらったものを捨てちゃうのは、もったいないよね?」
もちろん、全部独り言。直自身、自分で何を言っているのかよくわからなくなってきている。
「と、飛んでけ邪念! いただきます!」
とりあえず決行。どきどきしたまま一気飲みしてしまったので、中身の味はほとんど分からなかった。
そして――今。
もらったペットボトルは、なんとなく手放せず、今も部屋に置いてある。
言いそびれたお礼を言う機会がほしくてよくタオルを渡しに行くようになったが、先輩は相変わらずぶっきらぼう。会話もできない。助けてくれたことを恩に着せるどころか、直の顔も覚えていないかもしれない。
しかし、タオルを差し出せば『ありがとう』とお礼は必ず言ってくれる。いい人なのだ。
そのうちに分かったのは、女が苦手らしい、ということ。実際、それを教えてくれた鑑先輩と一緒にいるときは、ときどき、笑っている。女子部員やマネージャーと顔を合わせたときは、絶対、笑わない。
どうして女が苦手なんだろう。何かつらいことがあったのかな。
できるなら力になりたい。わたしは、いいところ知っちゃったから。
【三】
オレはいつも学食で昼食をとっている。
普通の男子高校生の例に漏れず母親の弁当持参でそれしか食べないが、別に注文しないからといってとがめられることはない。
特別誰かと話しながら食べるのが好きなわけではなく、そもそも相手もいないのだが、人のざわめき自体は嫌いではないのだ。
だから、昼休みの到来を告げるチャイムが鳴ったほとんどその直後に震えた携帯電話の画面を見たとき、正直わけが分からず困った。
『屋上に行くこと』
母さんからのメールの文面は、そのたった一行だけだった。
「なんだそれ」
呟きに応えがあるわけもなく、そして空腹に逆らえるわけもなく。なんといっても生き物の根幹、三大欲求の一角だ。しぶしぶながらも手ぶらのオレは屋上に向かうしかなかった。
埃っぽい階段を上り、軋む鉄のドアを押し開けるなりドアの隙間から差し込む光に、思わず目を閉じる。
「へえ」
目が慣れてみると、穏やかな陽射しとゆるい風。初めて来てみたが、給水タンクや配管が鎮座している殺風景さの割に、居心地がよさそうだ。
がさ、とビニール袋がこすれるような音がした。
「先客か?」
先へと進んでみると、手頃な配管に腰を下ろしてリスよろしく胸元に両手でつかんだパンをぱくついていた女子生徒が、オレを見るなり跳ねるように立ち上がった。制服のネクタイの色から、下級生だと判る。
驚いているようだが、パンを口に含んだ直後だったらしく、丸くした目でこっちを見つめながら、口はもぐもぐと忙しく動いている。
反応に困るオレと、驚いている女子生徒。微妙に気まずい静寂は、女子生徒がパンを飲み込み、ようやく表情どおりの声を発したことで破られた。
「源センパイ! どうしてこんなところに!」
「は?」
誰お前、と言いかけて、その顔には見覚えがあったことに気が付いた。
「お前、マネージャー?」
「そ、そうです! 橘川直です!」
「いや、名前言われても。覚えてないし」
「やっぱり!?」
がっくりとうなだれる橘川。しかし胸元に両手で持っているパンは放さない。そこから漂う香ばしい匂いに、オレの腹の虫が鳴いた。麦パンか何かだろうか、いい匂いだ。
「あれ、源センパイ、ご飯はどうしたんですか?」
「食えるはずなんだが」
どういうことですか、と言いかけた橘川とオレに注いでいた陽射しが一瞬翳り、ずどん、と屋上全体が揺れた。
直後響く、綺麗な低女声。
「待たせたな!」
「なにい!?」
ぎょっとして周囲を見回す目前に、長身の女性が頭上から軽やかに一回転して降り立った。
腰までの黒髪に赤いフェルトのシルクハット、白衣に赤い袴の巫女装束。手にした布の包みを誇らしげに突き出し、彼女は言った。
「琢磨坊、弁当を持ってきたぞ!」
「ちょっと待てどっから来た!?」
「空に決まっておろう。走ってきたのだ」
人差し指を真上に伸ばす神様。
「空って……走れるもんなのか」
「前に言うたぞ、わしは竜神じゃと。竜は飛ばぬ。雲を踏みしめ空を駆けるものよ。まあ、この辺りは雲が薄かったので無理矢理跳び下りてきたがの」
「……さすが神」
遥か上空を流れる雲を見上げ、思わず呟く。あの高さからここまで落ちてきて五体満足でぴんぴんしているとは、頑丈にも程がある。
「ところで、何じゃこの娘は」
あっけにとられたまま固まっている橘川を目に留め、神様が問う。
「オレの部活のマネージャー……っつってもわからないか。こいつが部活動の手伝いをしてくれてる」
「ほう。……琢磨坊がいつも世話になっておるようで。すまぬのう」
「え? ええと、その、どういたしまして」
神様に頭を下げられ、わけが分からぬまま頷き返す橘川。
うむ、と頷くと神様はオレに向き直り、改めて弁当箱を差し出した。
「さあ受け取れ、弁当じゃ」
「ああ、ありがとう。ホント助かった」
「ちゃんと朱鷺絵の作ったものじゃ。焦げてはおらぬぞ」
口調といい、表情といい、神様はどこかすねたような様子だ。
そこで気が付いた。母さんが作ったから焦げていない、ということは、今朝の惨状は母さん以外の誰かの手によるものだということになる。その場には、母さんを除けば一人しかいなかった。
「……ひょっとして」
神様は目が合ったとたん渋い顔。それは肯定だ。
「わしには才能がないのやも知れぬ。神が料理するなど、今まで誰も想像しなかったじゃろうからな」
神様いわく、その存在を構成しているのは人の認識、願いだという。ならばなるほど、神様の手料理などというものは誰も想像しないだろうから、彼女にそういった方面の能力はきっと普通の素人並みになかったのだ。
「わしにも不得手があるとはな。なかなかに衝撃じゃったぞ」
「それで固まってたのか」
「なに、近いうち上達する。待っておれ」
「そ、そうか。うまくいくといいな」
「うむ。朱鷺絵の手ほどきがあるのでな、わしはもう行く。弁当、残すでないぞ」
「冗談。残さねえよ」
「結構。ではな、琢磨坊、それにまねえじゃあ殿」
「ああ」
「は、はい!」
神様は軽く前方へ跳躍したかと思うと、そこに階段があるかのように空中を駆け上がった。仰角四十五度の上昇がやがて水平移動へ転じ、そのままかなりの速さで遠ざかってゆく。
「結構いいフォームしてるな」
見送り呟くだけのカロリー消費さえ既に負担だったのか、腹の虫が、再び空腹を主張する。
「……で、いつまで直立不動なんだお前」
「はわっ!? ご、ごめんなさいっ!」
これまた再び、びく! と小さく跳ねて、胸元にパンをつかんだまま気を付けの姿勢でいた橘川が配管の上に座り直す。
「隣いいか。座れそうな場所他にないし」
「はい! どうぞっ!」
橘川の隣に腰を下ろし、バンダナで包まれていた弁当の封を解くと、両手を合わせた。
「いただきます」
橘川もパンを食べ始める。
もぐもぐと無言。二人分の食べる音だけがしばらく続き、思い出したように橘川は口を開いた。
「あの、源センパイ」
「何だ」
「今のひとって、誰なんですか?」
「神様」
他に説明のしようがない。
「そ、そうなんですか」
戸惑いつつも、橘川に驚いた様子はない。実際にその無茶な機動力を目の当たりにしては、それくらいしか形容する言葉が思いつかないし、冗談として突っ込む余地もない。オレ自身そうなのだから、初めて見る人間はなおさらそうだろう。
もっとも、橘川はそれとはまた別のことを考えているようではあったが。
ぼそり、と呟きがもれる。
「お料理か、苦手なんだよなあ――って、なんでもないですすみませんごめんなさい!」
聞かれてまずいことだったのか、橘川は呟いた直後全力で頭を下げてきた。
「何か知らねえけど、別にいいぞ」
「あ、はい。あの……センパイ。普段、お昼ってどこで食べてるんですか?」
「学食」
「そうなんだ……教室とかじゃないんですね」
「むしろ女子がなんで一人でメシ食ってんだ?」
オレからしてみれば、女子は常時二人以上の複数で行動しているという認識だった。野良女子とか新しい。
「あー、それは、です、ね」
言いづらいことなのか、橘川の眉が八の字に寄る。
「友達ほとんど彼氏持ちなんですよ。なんか最近、タイミング悪いこと多くて」
「へえ、付き合い悪いんだな」
なんとなく、鑑の無駄にさわやかな笑顔を思い出した。目を離すと女子生徒と話している割に、あいつはよくオレにちょっかいをかけてくる。男女では感覚が違うものなんだろうか。
恋愛沙汰に首を突っ込む気はないものの、ほんの少しだけ後輩に同情した。




