弐/竜神様は風邪をひくか
【一】
笑みも束の間、神様は真面目な顔になった。
「さて、球磨はどこだ?」
源球磨。それがオレのおばあちゃんの名だ。
「おばあちゃんは……」
「そこか」
オレの視線を追って見当をつけたのか、返事を待たずに歩き出す。迷いのない足取りで、彼女が境内を把握していることはわかった。
「待てよ神様、おばあちゃんは、もう」
「知っておる」
置いてきぼりを食らいかけて小走りで追うオレに、足を止めず肩越しで応え、玄関を抜け、ふすまを開ける。慣れた様子で伸びる指がスイッチを捉え、部屋の中が明かりで照らし出された。
顔に白い布をかけられ、布団に横たわっているおばあちゃん、その傍らに正座すると、神様は神妙な面持ちで手を合わせ、目を閉じた。
確かに彼女は普通の人間ではないのだろう。十年以上前の記憶はややぼやけているものの、その中の端正な横顔は目前のそれとほとんど変わらない。
「大儀だったな、球磨」
神様が、手を合わせるという、人の流儀で人の死を悼む。その姿に、オレの中でひどく複雑な感情が渦を巻いた。
神様のために独りここで暮らしていたおばあちゃんは、神様を恨んでいなかったし、神様も今こうしておばあちゃんの苦労に報いようとしてくれている。そこには何のわだかまりも残ってないんだろう。
でも。オレの手は拳に変わり、力がこもる。
今日おばあちゃんを亡くした、もしおばあちゃんが神様に関わっていなければもっと長生きできていたかもしれない、そういう源琢磨のわだかまりは、どこへ持って行けばいい?
言葉になりきれないオレの視線の先で、神様は目を開き、振り返った。
「琢磨坊、球磨は何か言っておったか」
「……オレに御神体と神様を護れってさ」
「そうか……その他には」
「おばあちゃんは神様を恨んでなかった。ひとりぼっちなんかじゃなかったって言ってた」
神様は愁いを帯びた眼をおばあちゃんに向けた。
「苦労をかけたのに、な」
「なあ、神様」
「なんじゃ」
改めて向けられた深い翠の瞳を、見返す。
「オレは何をどうすればいいんだ? もっと早くオレに代わっていれば、おばあちゃんはもっと長生きできたのか?」
あんたのせいでおばあちゃんが今日死んだのか、と直接口に出しては訊けなかった。まだ実感は薄いものの、自分を幼い頃から知っているはずの相手だ。それを真っ向から切り捨てられるほど、源琢磨という人間は冷静にも酷薄にもなれなかった。
オレを見つめる眼が、何かの感情に揺れた。
「ぬしは、わしが嫌いか?」
「そういう問題じゃねえだろ」
我ながら、冷たい声だと思った。そして、そのせいか、神様の目はどこか怯えたような光を帯びて逸らされた。
「……そうじゃな」
神様は居住まいを正し、オレを見つめなおした。改まった話をしたいんだろう、オレも彼女に向き合う形で正座する。
「言ってしまえばな、わしが球磨をこの地に縛っておった。それは確かじゃ」
「……脅迫でもしてたのか」
思わずもれる低い声に、神様は一瞬唇を噛み、目を伏せた。
「それは、違う。わしが消えてしまうと思うた球磨が、この地を離れることを拒んでおったのだ」
「どういうことだ?」
「人のいないところに神はない。今も、わしという神を知って『居る』と思う者、ぬしがおるから、わしはここにおる」
「いると思ったから、いる?」
呟いて、はっとした。さっき顔を合わせたとき、神様は『呼んだから現れた』と言った。そのことを言っていたのか?
「わしは人の願いだ。願われた在り方をわし自身が拒むことはできぬ。わしを悪しき存在として憎む者がいるとき、わしはそのとおりに悪しき神となる。そして、わしを知り左右できたのは、源の村なき今――」
おばあちゃんの言動と、目の前の話が、かみ合った。
「この神社……いや、御神体を守ってたおばあちゃんだった」
神様は小さく頷いた。
「この身は、いつか誰かがこの地の天災に心があると思ったとき生じたものじゃ。わしが悪神となったときは、山をも崩す災禍が人に向かうことになろう」
じゃから、と神様は自分の胸元に手を当てた。
「球磨はわしと共にわしの神威をこの地|に留め置くことを選んだ。忘れれば無用な縁から解放され、かわいい孫とも暮らせようものを、球磨はわしの心を惜しんだのじゃ」
「おばあちゃん……」
おばあちゃんらしい。きっとそういう優しい選択は確かにあったんだろう。彼女と一緒だったのだから、それは確かにひとりぼっちではなかったのだ。
「わしを護ろうと、球磨はこの地に留まっておった。しかし、一つ誤算が出ての」
「誤算?」
「琢磨坊、ぬしじゃよ。初めて逢うたのは、山奥に迷い込んでおったときじゃな」
「……そういえば……」
幼い頃、薄暗い山の中で泣いた覚えがある。山奥へ迷い込み、しかし帰ることはできたのだ。あのとき、オレの手を引いてお社まで歩いていたのは、父さんではなく、母さんでもなく、おばあちゃんでさえなく――。
「あれは全くの偶然でな、元々球磨にぬしをわしと引き合わせるつもりはなかったのだ。わしとしても球磨の元まで送り届けて終わりのはずが、そこからぬしとの付き合いが始まるとは思わなんだが」
思い出しているのか、神様の表情は硬さを薄れさせていた。
その穏やかな表情は、確かにオレの知っているものだった。自然、彼女の言う付き合いの記憶も蘇ってくる。
山奥に優しい存在がいると知った幼い頃のオレが、山を怖れることはなかった。逆に足が向くようになり、わざと迷っては神様と顔を合わせるたび呆れられ、いつの間にかお社へ来たら山の中に入り浸るのが当たり前になっていたのだ。
山の中を目いっぱい使った鬼ごっこ、花輪作りにカブトムシとり、どんぐり拾いに雪だるま作り。そこには確かに、彼女がいた。
「あ――」
芋づる式に引っ張られ、身じろぎする記憶があった。
輪郭だけに薄れていた面影が、目前の美貌と違和感なく重なる。彼女が――彼女だったのだ。
それは火傷のような記憶だ。思い出さなくてもいいはずのことだった。
横目で神様の横顔を盗み見るが、神様は再びおばあちゃんを見下ろしていて、オレの表情には意識が向いていない様子だった。
「――お陰で球磨にも欲が出てしまった。が、ぬしを呼ばなかったのは、自分の選んだ道を押し付け苦しめることになると思うてのこと。ぬしが事情を知り、代わりたいと言うても、球磨は拒んでいたやも知れぬ」
「くそ……」
思わず、低くうめいていた。
横たわるおばあちゃんに注がれる神様の眼差しは、紛れもなく感情のこもったものだ。神とかそういう理屈以前に、彼女は本当におばあちゃんを惜しんでくれている。言っていたことにも嘘はないんだろう。
おばあちゃんは望んでこうなってしまった。悪者などどこにもいないのだ。これ以上ごねたところで……八つ当たり以外の何にもならない。
「球磨は長いこと悩んでおった。ぬしがここにおるということは、最後の最後になって、ぬしを巻き込んででもわしを長らえさせようと思ったのじゃろう」
「そうか……だから、オレに」
神様を護れ、なんて言ったのか。わがままを承知で。
「得心は、いったか?」
「……ああ。おばあちゃんのために悲しんでくれてるひとを疑って悪かった。ごめん」
「そうか……では、訊きたいことがあるぞ」
「え?」
顔を上げると、神様はオレの眼をじっとのぞき込んでいる。
「ぬしは、わしが嫌いか?」
「え、いや。嫌いじゃな――」
語尾が、文字通り埋まった。すすす、と膝立ちでいざり寄ってきた神様が、オレの頭を胸元に抱え込んだのだ。
「ならばもう、こうしてもよいのじゃな」
「え? ええ?」
暗い。少し冷たい。柔らかい。ついでに苦しい。
「ああ……逢いたかった。逢いたかったぞ、琢磨坊」
間近から直接伝わってくる声は、ひどくしっとりした、優しい響きを帯びていた。
抱えられた頭はひんやりした手でさらさらとなでまわされ、髪が乱される。
「え――え? ええ?」
この状況。のりの利いた白衣越しでもはっきりわかる柔らかな質感に顔が埋まり、今にも窒息しそうなこれは――客観的に考えると。
「ちょ、神様、放してくれ。苦しいから!」
思わずもがく。
「これ、くすぐったいではないか。暴れるでない」
「いや無理、無理だから! 頼むから放してくれ!」
女の人の胸に顔を埋めているとか、かなりありえない。
神様の腕はびくともしないが、もがくのをやめるわけにはいかない。苦しいのはもちろんだが、これ以上密着し続けるのは思春期真っ盛りの一男子として大変困るのだ。
ただでさえ気後れしそうな美女を相手に、故人の前という不謹慎な場で、この無節操な生理現象がばれたら、死ぬ。紳士としてのプライドが。
「まったく、そういうところは小さな頃から変わっておらぬのう。一丁前に恥ずかしがりおって」
つまらなそうな声と共に頭は解放された、が名残惜しそうにもう一度頭がなでられる。顔を上げたときにはもう、神様はオレから離れ腰を上げていた。
「伝えることは伝えたぞ、琢磨坊。どうするかは明日訊きに来る。またな」
「あ、ああ、おやすみ――って神様」
「む、どうした?」
「普段どこで寝てるんだ?」
「わしか。山の中が多いのう」
当然のような返答。だがそれは人としてちょっと当然の域を外れている。
「……いや寒いだろそれ」
「言ったじゃろう、琢磨坊」
逆に神様の方が困ったように眉を寄せた。
「心配はしてくれるな。ぬしがそう思ったとたん、わしは人並みの体になるんじゃ。神に風邪とやらを患わせる気か」
「心配するなってのも無茶な話だぞ、人として」
角が生えているのは明らかに普通じゃないが、その外見はあくまでも若く綺麗な女の人。気遣うなって言うのは理不尽もいいところだ。
「では言い方を変えるぞ。信じよ、琢磨坊」
「……わかったよ」
神様が立ち去り、静けさを取り戻した部屋の中、おばあちゃんに話しかけずにはいられなかった。
「とんでもない頼みごとしてくれたんだな、おばあちゃん」
これは確かに、わがままだ。普通に通そうと思って通せるような話ではなかっただろう。
とはいえ、頼みごとそのものが意味する再会は、決して迷惑ではなかった。少なくとも、あの神様がいなくていいとは思わない。




