表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やさしい角に、たんぽぽを。  作者: 賀東しょこら
男のひと
23/26

廿弐/竜神様の名前

【一】

「ねえ琢磨(たくま)

「ん?」

 バイク雑誌から顔を上げると、母さんは、暇そうに食卓で頬杖をついていて、台所で動き回る神様の後ろ姿を眺めていた。

 あらかたのことはもう神様一人でこなせるようになってしまっているらしく、逆に台所で動き回る邪魔になるから、と母さんの方が一歩引いている。

 家事をする時はそれと決めたんだろう、今日も神様は黒髪を後ろで一本に束ねていて、その長さのせいか、本人は激しく動いているわけでもないのに毛先が尻尾のように前後左右へ跳ねている。ポニーテールとは、名付けた人もうまいことを言ったものだ。それやってるの、小馬(ポニー)どころか竜神(ドラゴン)だけど。

「私たち、子どもが二人になったと思っていいのかしら」

「何それ。どういう意味?」

 突然だったことを差し引いても、何を言っているのか、いまいちよく解らない。オレは一人っ子だから、母さんの視線から言って二人目は神様なんだろう。歳の差を考えれば神様が本当に姉さんということになるが、それならどうして母さんは『する』じゃなくて『なった』なんて言い方を?

 それ以前に、養子縁組なんてされると、オレは困る。姉弟じゃ――。

「薬指」

 支えをなくした雑誌がテーブルに倒れる音が、他人事のように聞こえる。

 解った。解りました。

「く……薬、指……?」

「女の子が、自分ではめた指輪をことあるごとに笑顔で眺めるわけないじゃない。それに――」

 母さんの視線を追ったら、手を止めて振り返っている神様と目が合った。やっぱりオレと母さんの会話が気になっているらしい。

「昨日帰ってきてから、神様の眼が違うのよね。もう、ためらいがないの。愛に充ち満ちてるわ」

 なんだか、暑い。

「で、どうなの?」

「ど、どうって……」

 いわゆる彼氏彼女の関係になったか、という問いなのか。大人の階段を駆け上がったか、という問いなのか。キスを散々しただけに、そこを突っ込まれるとかわしきれない。挙動不審になるのは目に見えている。

 母さんの眼は確実に面白がっている。どこからどこまでお見通しなんだろう。

 思わず目を向けると、オレをじっと見ていた神様は顔を赤らめて台所に向き直り、忙しそうな動きを再開した。オーバーアクションなくせに、物音はさっきまでと違ってほとんどない。

 話題を振られそうな流れから逃げた。しかも聞き耳立ててる。この見事な空気の読み方……年の功というヤツだろうか。

 母さんはにこにこを通り越してにやにやしている。答えづらい。さっきのに輪をかけて暑くなってきた。

「き……」

「き?」

 まともに母さんの顔を見られず、下を向きながら。

「キス……しました。指輪も、贈った」

「指輪を贈るとき、何か言った?」

 うなずく。

「オレ、まだ学生だし、ちゃんとしたそれらしいことはできないけど……約束したんだ」

「ねえ、琢磨」

 呼ばれて顔を上げると、母さんは真顔でオレを見つめていた。

「意味のある指輪なのね? あなたの人生……神様にあげられる?」

 改めて訊かれると、自分が大きな決断をしたんだという実感が湧いてきた。自然と背筋が伸びる。

 おばあちゃんに言われたからっていう義務感でも、泣き顔を見たくないからっていう同情みたいなものでもない。源琢磨が、紗雫媛(さなひめ)と一緒にいたいと思った。そうして出した結論だ。

「オレが自分であの(ひと)の薬指にはめたよ。実際そうだから早いとかガキとか言われても仕方ないけど、必要なことは全部やるから」

「世の中、他にも女の子はいるからね?」

「オレの好みを決めたのは、神様だよ」

 オレはあの(ひと)みたいな相手を好きになる。他に本人以上なんて、いない。

「そう……わかったわ」

 にっこり笑うと、母さんは台所を向いた。

「よかったわね。これで私も晴れてあなたを『さなちゃん』呼ばわりできそうだわ」

 つられて見た台所の後ろ姿は、うつむいていて動かなかった。

「母さん……どういうことだ?」

「琢磨が起きてくる前に、同じようなことを神――さなちゃんと話したのよ」

 振り返る母さんは、さっきまでとはまた別の嬉しそうな表情だ。

「まあ、訊くまでもなかったっていうか、訊いてるこっちが恥ずかしくなったけど。で、こういうことって、お互いの気持ちが全てじゃない? さなちゃん純粋だから、ちゃんと愛されなかったら傷つくと思って『琢磨に問い(ただ)してその気持ちが揺らぐようなら、反対します』って言ったの」

 かなり真面目に、試されてたらしい。

「合格。いちゃついていいわよ」

 笑みで細まった目は、微妙にオレを見ていない。

 違和感を持った時点で捕まっていた。後ろから腕が伸びてきていて、肩越しに豊かな黒髪が流れこぼれてきたかと思うと、オレの横顔をひんやりすべすべした感触がなで始める。

 考えるまでもない。神様がオレに頬ずりしているのだ。

「あ、あの……姉さん?」

 どうにも、近い。何となく動物っぽくて抵抗は薄いが、冷静に考えたらキスすれすれ、見ようによってはもっと念入りな愛情表現かもしれない。

 母さんの目の前ということもあって落ち着かなさで暑く、熱はあっという間にもっていかれて、触れている神様の肌ももうしっとり温かい。

「辛抱できなんだ……これくらいは堪忍しておくれ」

 傷のふさがっていない肩や腕が痛む寸前の絶妙な加減できゅっと一回腕の力を強めると、神様は耳元でささやき、離れていった。思い出したように台所から物音が聞こえ出す。

「私が言うのもなんだけど……さなちゃん躊躇(ちゅうちょ)ないわね」

 固まっているオレの代わりに神様を見送り、母さんがつぶやく。その表情はほんわかと緩い。

「今夜辺り、家を空けていい?」

「そんなん息子に訊くな息子に! 一応未成年なんだぞ!?」

「婚約者をつかまえておいて言うセリフ? ダメよ、そういう深みにまで足を突っ込んだ以上、目をそらしちゃ」

「あのな……」

 脱力感に襲われる。考えたらそもそも両親の夫婦仲は客観的に『熱苦しい』。ただ、こういう親だからこそ認めてくれたんだろう。恥ずかしいがありがたい。

「そういえば……せっかくなんで今訊くけど」

「なあに?」

「そんだけ仲いいのに、なんでうちにはオレしかいないのさ?」

「うん? ええと……ああ、そういうことね」

 納得した様子でうなずく母さん。訊きたい内容を悟ってかにやりと笑った気もするが、気付かなかったことにしておく。

「私、不妊症らしいのよ」

「……は?」

 不妊症って、妊娠できない病気じゃなかったっけ。

「あの人がいれば足りたから、あんまり真剣に治す気はなくて、でも愛し合って気が付いたらお母さんになってたというか、まあ、有り体に言えば琢磨は『ついで』なのよね」

「さすが母さん、(いさぎよ)いぜチクショウ!」

 変に言葉を取り繕わない分、清々しい。

「愛の結晶なのは確かだし、生まれてきてくれて心から嬉しかったけどね」

 そう言われるとオレも嬉しいけど。口に出してて恥ずかしく……ないんだろうな。たぶん父さんもこの手のことは真顔で言えるはずだ。

「母さんも躊躇ないよな」

「本音を隠してどうするのよ。まあ、今夜のことはお父さんの予定次第で考えるとして……困ったわ」

「今度は何だよ」

「さなちゃんには源家の家事をあらかた仕込んじゃったから、姑としてはいびりようがないのよね。お祖母ちゃんって呼ばれるまで暇なんじゃないかしら」

「義母上」

 不意の神様の声に、一瞬きょとんとしてから、母さんの表情が輝いた。

「なに? なにかしら、さなちゃん!」

 言いながらさっと立ち上がり、台所の神様へ駆け寄っていく。そんな反応に、当の神様も戸惑ったように見えたが、すぐ照れくさそうに笑い返した。なるほど、きっとこれも親子の姿なんだろう。

 何やら笑顔で話し合っている二人を眺めていると、後ろから足音がした。

「おはよう父さん」

「おはよう、琢磨」

 母さんや神様ともあいさつを交わし、父さんは食卓につくと新聞を広げた。

「……父さん」

「なんだ、琢磨」

「母さんと出会えてよかった?」

「ああ。……急に変なことを訊くんだな」

 照れたり事情を問い返したりする前に即答する辺り、さすが我が家の大黒柱。全くぶれない。

「母さんとちょっと話してたんだ」

「そうか」

 台所から戻ってきた二人が、食卓に手早く皿を置いていく。

 いただきます、と声がそろう。とっくになじんだはずのいつも通りの朝食は、照れくさいのに妙に居心地がよかった。



【二】

 昼下がり、呼び鈴が鳴った。

「さなちゃん、お客さんよ」

「客、とな?」

 玄関先からの義母の声に首をかしげる。友人と呼べるような人間はまだ一人しかおらず、琢磨の学友なので、琢磨が学校へ出ているこの時間帯に訪ねてこられる道理はない。

 義母……義母。婚約という語が頭をちらついて離れない。どうにも顔に締まりがなくなりがちで困る。

「ネザエルさんて方。知ってる?」

「……ああ」

 得心がいった。確か、この身を鎮めるために琢磨を助けてくれたという一派の一人の名だ。

「知っておる。中へ案内してもらえぬか」

「わかったわ」

 程なくして、短い黒髪に燃えるような赤い瞳の娘が義母に連れられやって来た。

 その耳は普通の人間のそれとは違って細く長い。何より、不思議と覚えのある気配がする。他人のような気がしなかった。

「人間以上の話をしに来たが、この婦人は深入りさせても良いのか?」

「む、それは困る。――義母上、しばらく部屋で話してくるぞ」

「ええ。お茶は、いる?」

 目で問うと、娘……ネザエルは首を左右に振った。

「少し込み入った話じゃ。お茶はいらぬよ」

「そう。じゃ、ごゆっくり」

 義母の声に送られ、階段を上る。

「こうして直接話すのは初めてになるか、竜神」

 戸を閉めて早々、ネザエルは口を開いた。

「そうじゃな。琢磨からはぬしらが手助けしてくれたと聞いておる。その節は世話になったのう」

「よい。人と共に在るタタリ同士の(よしみ)と思え。それよりも」

 言いながら、懐から取り出された拳大の布の包みを差し出す。もしや……。

 受け取り布を解くと、青く光る白い球が顔を出した。

「これは、わしの……」

「おいそれと破壊できるような代物ではないがな、置き忘れられているのを見つけた時はさすがに呆れたぞ」

「むう、すまぬ。世話になり通しじゃな」

「思っていたよりも教えておくことは多そうだな。それと――」

 壁に寄りかかり、ネザエルは腕組みをした。

「個人的な感想だが、似たような存在と似たような立場で敵対せず話ができることを、余は嬉しく思う」

「似たような、立場?」

 自信にあふれる強く赤い眼が、面白そうに細められた。

「余と影仁(かげひと)が普通の関係のように見えたと、そちはそう言うのだな?」

「む……気に障ったか?」

「否。そうだな、次にそちと顔を合わせるとき、何か講じておくとしよう。あれの困る顔が目に浮かぶようだ。くっくっくっ……」

 何やら、楽しげに肩が震えている。

 この者も、自分と同じように、思いを寄せる相手がいるということか。それがあの、琢磨に助力してくれたという長い黒髪の男なのだ。

「困らせたい、のか?」

(しか)り。あの男の人生は余のものだからな。対価を支払って得た以上、振り回してやらねばもったいない」

「よく、分からぬのう」

 大事に思う相手を困らせて、楽しいのだろうか。それに、他の者の人生を自分のものと胸を張るのは、どうなのか。

「それに、対価じゃと? 人生で支払うような取引とは……押し売りではあるまいな」

「余の心と体の全て――あれ自身の持ちかけた、正当な取引だ。文句など言わせはせん」

 その表情に後ろ向きなものは一片たりとない。嬉しそうで、楽しそうで、そして誇らしそうだ。

 言葉に詰まった。触れてはならないものに触れてしまったような、恥ずかしさと多くの何かが渾然一体となった名状しがたい感情が湧き上がる。義母から義父への思いを聞かされている間に感じていたものと同じだった。

 これは確か……『惚気(のろけ)』と言わなかっただろうか。

「わしが口をはさめることでは、なさそうじゃな」

「はさまれても聞かぬがな。さて――話が横道にそれたか」

 気を取り直したか、ネザエルの表情が真面目なものへと切り替わった。



【三】

「ありがとな!」

「ども」

 逆立った黒髪の店長に軽く頭を下げ、ドアを押し開ける。手にはガトーショコラの小箱が入ったビニール袋。

 神様が暴走した時の怪我でまともに腕を振れないので部活は休んだ。どうせ時間が余るなら、と寄り道して何気ない約束を果たすために奮発して今に至る。

 服を買いに出かけること自体はうまくいったので、アドバイスをくれた(かがみ)橘川(きっかわ)にはミーティング前にスポーツドリンクを差し入れしておいた。今度、きちんとお礼をしておくつもりだ。

 電車に揺られて、それから徒歩二十分ちょっと。学校とは逆方向にある駅から家まで戻ってきたときには、空もすっかり薄暗くなっていた。

「ただいま」

 ドアを開けて、違和感。置いてある靴が少ない。

「お帰りなさいませ、御主人様」

 居間から現れた神様がふうわりと微笑む。相変わらず綺麗で、ついつい見とれた。

 見とれて、我に返る。

 待て。

「今、何て?」

「む?」

 神様も白い指先を唇に当て小首をかしげる。長い黒髪がさらりと揺れた。

「何か台詞を間違えたじゃろうか」

 たぶん、巫女装束で吐くセリフじゃないと思います。

「少し、気取ってみたかったのじゃ。その……男の連れ合いを『主人』と呼ぶではないか」

 照れくさそうに目をそらし、角の根元をかきながら、神様。

「うわあ……」

 耳が熱い。顔も熱い。

 聞き返すんじゃなかった。そのままならただの意味不明な合体事故だったのに、動機が分かってしまうと、とたんに恥ずかしい。

 そろって、沈黙。間が持てない。

 手持ち無沙汰にこっそり指を開閉して、かさりという音で自分がビニール袋を持っていたことを思い出した。そのまま、それを神様に突き出す。

「これは――!」

 覚えていたんだろう、ビニール袋に収まっているシックなデザインの黒い紙箱を見た神様の表情が輝いた。

「前、約束しただろ。また今度買ってくるって」

「ありがとうな、琢磨。お茶を()れて待っておるから、着替えておいで」

「ああ、わかった」

 ビニール袋を神様に預け、部屋へ。荷物を置いて手早く着替え、居間に戻ると、ガトーショコラはもう切り分けられて皿の上にあった。皿に添えられたフォークは一本、持ち手はこちらを向いていて、ご丁寧に父さんたち愛用の夫婦湯呑で緑茶が湯気を立てている。

 本当に神様、もう色々躊躇(ちゅうちょ)ねえ。

 食卓でフォークを握りしめ臨戦態勢で待ち構えていた神様が、オレを見るなり満面の笑みを浮かべる。よっぽど楽しみだったんだろう、その笑みはもう綺麗なイメージよりも動物っぽく『獰猛(どうもう)』と表した方が近い。

「さ、琢磨。食べようぞ」

「いや、姉さんがまるまる食べてくれよ。元々ひとつしか買ってないし。お茶はありがたくいただくけどさ」

 食卓について父さんの湯呑を手に取りながら言うと、神様の眉はしょんぼりと下がった。

「一緒に……食べたいぞ」

「わかったよ。でも申し訳ないからちょっとだけな」

「うむ」

 機嫌を直してくれたらしく、オレがフォークを持つのを確認してから神様のフォークが閃いた。

 口に含んでは幸せそうな笑みを浮かべ、ゆったり口を動かしていたかと思うと、いつの間にか新たなものを口に含んでいる。何だかんだでガトーショコラは食べてほしい本人の口の中へ片っ端から消えていく。

 その間神様、ずっと無言。

 オレは確保しておいたひとかけらを少しずつ崩しながら時々緑茶と一緒に口に含み、神様の幸せそうな顔を眺めている。

 やっぱり、買ってきた甲斐があった。

「満足してもらえた?」

「うむ」

 訊くだけ無駄のような気さえする満面の笑みで、皿を綺麗に食べきった神様は大きくうなずいた。

「ありがとうな、琢磨。ほんに嬉しいぞ」

「そう言ってもらえるのが、オレも嬉しいよ」

 ところで、と帰ってきたときの違和感を確認する。

「父さんたちはどこに?」

「食事に出る、と言っておった。遅くなるそうな」

「……そっか」

 やっぱり決行したらしい。あの熱苦しい夫婦。

 何となく力が抜け、椅子の背もたれに体重を預けながら緑茶をすする。

「のう、琢磨」

「うん?」

朱鷺(とき)――義母上や義父上は、何をしに出掛けたのじゃ? 今朝は愛し合うと言っていた気がするが」

 心臓が跳ねる。それをわざわざ訊くか。なんだってそんなところの察しだけ未だに悪いんだ。

「……裸になってたりするんじゃないかな」

 敢えてシンプルに説明したらちゃんと伝わったらしく、神様はすうっと顔を赤らめ、うつむいた。

「それが、夫婦(めおと)の営みということか。わ……わしも……愛して、くれるな?」

 いつぞやうっかり見てしまった神様の裸が、ついつい頭の中をちらついた。

 何も解ってなかったのに、今じゃ恥ずかしがったり照れたり、なんて変わりよう。本当に色々抑えが利かなくなりそうだ。この(ひと)、どこまで可愛いんだろう。

「絶っ対ぇ、イヤだなんて言わねえ」

 反射的に答えて、胸に手を当てながら深呼吸。

 落ち着け、オレ。がっついてどうする。まだこのひと、そういうことを本当に解ってるとは限らないぞ。

「ちょっと……落ち着こうか」

「む?」

「いや、正直やらしいことしたいけど。今ってのが何かシャクなんだよな。母さんたちに流されてるみたいで」

 顔を上げた神様に言うと、柔らかな笑みが返ってきた。

「わしも焦らぬよ。相応の時間をとって臨むのなら、それに越したことはあるまい。それに……」

「それに?」

「実を言うと今日は、ひとつ、試したいことがあってな」

 す、と神様が立ち上がる。

「星を見に行かぬか?」

「星か……いいね」

 神様について玄関へ向かおうとすると、止められた。

「琢磨は厚着しておいでな。外で待っておるよ」

「あ、ああ……」

 事情は分からないが、つっぱねる理由もない。とりあえず部屋の押入れをあさって革ジャンを引っ張り出すと、玄関を出た。

「どこで見るんだ?」

「遠いぞ。まずは近くの公園へ行こうかの」

 歩き出す神様は、頭に薄手の布を巻いている。角はむき出しだが、生え際が隠れているので、角の形の飾りがついた変わったかぶりものに見える。赤いフェルトのシルクハットがこの前の一件でなくなってしまったので、その代わりだ。

「試したいことなのじゃが」

 ぽつんぽつんと外灯の灯った道を、オレを先導して歩きながら、神様が口を開く。

「わしの名を、呼んでほしいのだ」

「名前を?」

「名前には意味がある。存在と言い換えてもよい。琢磨が戻してくれたこの姿が、そのひとつじゃ。今、琢磨は竜としてのわしも知っておるはず。琢磨さえ呼んでくれれば、わしは今一度竜になれようぞ」

 そして、と神様は一度言葉を切り、オレを振り返った。

「かつて雲の上で見た月と星を、わしは美しいと思うた。それを、琢磨と見たいのじゃ」

 話しているうちに、ほんの少し周囲が開けた。ジャングルジムや鉄棒、ブランコとお約束の一式がそろった、小さな公園だ。

「さて……これは、今はぬしに預けるぞ」

 指輪を手渡すと公園の中まで進み、足を止めた神様がオレを振り返る。

「難しいことではない。思い浮かべてくれればよいのだ。そう……『あれ』もわしなのじゃよ」

 言われて、深呼吸。

 正直言うと、難しい気がする。あの姿を見て、許せなかったからだ。

 彼女とは別物だと思ったわけじゃない。ただ、あの悲しげな鳴き声が、彼女の泣き顔とかぶって、イヤだった。

 もう一度深呼吸。余計な考えが入る前に呼ぶ。

「――紗雫(さな)

 巫女装束の鮮やかな紅白と、長い髪の黒が、薄れる。

 代わりに空がきらめいた。

 月明かりを受けて、空でうねるとぐろがきらきらと輝く。黒い竜神が、翠の眼でオレを静かに見下ろしていた。

 宝石細工のような、それでいて日本刀のような。見慣れた姿とはまた別の意味で――。

「綺麗だ」

「ふ、ふ。ぬしはほんに恐れを知らぬな」

 少し響きが違って性別の判りづらい、それでも普段どおりの調子の声と共に、竜神がゆるゆると頭を下ろしてきた。トラック並みかそれ以上のサイズの頭が、顎を地面に置き、静止する。

「さあ、ゆくぞ琢磨。この際、土足でよい。角の間辺りがよかろうが、焦るでないぞ。わしの鱗は鋭いからのう」

「いや、急ぐよ」

 ちょっとためらったが、革ジャンを羽織り、言われるとおり靴を履いたまま駆け上がる。胴はほとんど真上にあり、地面に接している頭へ続く首はかなりの急角度、どう見てもつらそうだったからだ。

 後ろ向きに伸びている角の根元に腰を下ろし、たてがみか髪かよく判らない長くつやつやの毛を腕に巻きつける。

「いいよ、行ける」

「ようし」

 頭が持ち上がり、そのまま加速。まるで落ちていくような勢いで、夜空の黒を突き進む。

「す……っげえな」

 加速はやまない。角度もどんどん急になり、体が後ろへ引っ張られる。角に背中を預けていなければ振り落とされていてもおかしくない。

「大事ないか、琢磨」

 猛烈な風圧の中でも、神様の声は不思議と静かに耳へ届いた。

「ああ、大丈夫」

「何かあればすぐに言うのじゃぞ。さあ――雲を抜けるぞ」

 言葉どおり、行く手にもやがかかり、風が粘る。それも束の間、すぐに空はまた真っ黒になる。

 加速が次第に緩み、やがて静止する。周りを見回して、驚いた。

「これは……!」

 星がはっきり見える。

 暗さでできているはずの黒に透明感があり、散らばった宝石のような星と、今まで見たことがない大きさの月がまぶしい。これを『夜空』としか呼ばないのはもったいない。

 見渡す限り、空が丸ごと宝石だ。夜が、こんなに綺麗なものだと思ったことはなかった。

「見えるか、琢磨」

「ああ、見える……! すげえよ、これ……!」

 美的センスに自信なんかないけど、そんなオレでも判る。極上の眺めだ。

「琢磨と分け合えるものが増やせてよかった。嬉しいぞ」

「嬉しいのはこっちだよ。ありがとう姉さん、いや……紗雫」

 名を呼ぶこと自体に、もうためらいはない。姿がどうあれ、自分の大切なひとなのだ。呼びながら、しみじみ実感する。

「照れるのう……」

 この状況で、どう気持ちを伝えたらいいかわからないのがもどかしく、角をそっとなでる。

 雲の上に風はない。降り注ぐ月明かりが、ひどくロマンチックだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ランキング参加中
小説家になろう 勝手にランキング /  カテゴリ別オンライン小説ランキング
票や感想、すっごく励みになってます。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ