廿壱/竜神様と交わした約束
【一】
「裏切られたと思うか?」
風の中、間近から男の声が聞こえた。九条さんに抱えられて空中にいたのだ。
「裏切る?」
ふわり、と着地。降ろされてみると、鎌首をもたげ見下ろしている竜神と目が合った。
そうだ、今……あのひとはオレを喰おうとした……?
「何でだ?」
わからない。どういう考えがあってあの行動につながったのか、見当がつかなかった。優しいあのひとがオレにかみついてくる様を想像できないのだ。
「人の意思を容れる。代償として人を喰う。荒ぶる神は生贄と表裏一体の存在だ。人の形をしていないものは特にな。そういう存在として生まれた以上、本来竜神はそれ以外の『人間の求め方』を知らないはずだ」
「何だよ、それ……」
「どう歪んだのか、今となっては判らないが、いつからか源村には人の姿をした竜神の伝承も生じていたんだ。結果として竜神は人の姿と心を得、君とめぐり逢ったんだろう」
細く、長く、竜神が天に鳴き、再び牙の群れが迫ってくる。オレを脇に抱える九条さんの足下に青く光る円陣が現れ、オレごと九条さんを真上へ打ち上げた。
「しかし、驚くしかないな」
がぢり、空振りしてオレたちを見下ろす定位置へ戻っていく竜神の頭を眺めながら、着地した九条さんがつぶやく。
「荒ぶる神は、天災に対する人の恐怖から出来ている。一度猛れば、恐怖を人に返す存在だ。それが、理性を捨て、起源に近い名無しに成り下がっていながら、攻撃してこない」
無事なオレと九条さんの姿を見て、竜神はまた、細く、悲しげに鳴いた。
九条さんの視線が、オレに向く。
「本当に君のことしか頭にないんだ。敵意がないから、傷つけて弱らせた上で喰うという『狩り』の発想もないんだろう」
前に神様が言っていた『琢磨が欲しい』『何をすればいいかわからない』という言葉が頭の中に蘇った。
それは、そういうことだったのだ。
そしてもうひとつ。彼女は『危なかったら逃げろ』とも言っていた。
きっと、ずっと悩んでたんだろう。自分が人間じゃないから。人間には当たり前の発想ができないから。
「冗談じゃない」
歯を食いしばる。握った拳が震える。
オレが逃げたらあんた消えちまうんだろ。オレは味方だって言ったはずだ。
オレには何の力もない。抵抗もできずにさらわれたし、九条さんがいなかったらとっくに死んでいた。男だ何だと言ったって、何も格好つくようなことはできてない。
でも、大事なひとの名前まで呼べないわけじゃないんだ。
「姉さん!!」
腹に力を込めて、全力で怒鳴る。竜神の眼はずっとオレから離れない。遠くて届きづらいかもしれないが、聞こえているはずだ。
「あんたの名前はなくなったりしない! 捨てさせないし、忘れたってんなら何度だって呼んでやる! だから、聞きに来いよ! もっと近くに!」
鳴きながら、竜神がオレに向かって首を伸ばしてくる。前のそれを見たまま、背後の九条さんの気配を手で制する。
口が開く。巨大な牙がむき出しになる。
「――紗雫!!」
がくん、と視界を占める牙の群れが揺れた。スケールがスケールだけに揺れ幅も大きく、その拍子に右肩と左腕が熱くなった。たぶん、牙の先でえぐられたんだろう。頭に血が上っていても、痛いものは痛い。
だが、それがどうした。
自分を思ってくれる相手より自分自身を惜しむなんてこと、あっていいわけがない。格好つかなくたって、譲れないことはある。
「あんたは紗雫! 寂しがりですっとぼけた……オレの大好きな、紗雫媛って女だ!! そういう悲しげな声、もう出すな! オレが……オレが幸せにするからッ!!」
反応はなかった。ただし、それきり動きも全くなくなっていた。
牙に囲まれて薄暗かった視界が不意に明るくなり、その理由に気付いてぎょっとした。
オレを呑み込む寸前だった竜神の顎が、透けてきている。透けた先に見えるとぐろを巻いている胴も、一気に透き通り、輪郭さえあいまいになり消え始めていた。
雲が晴れて、空は赤い。残光の中で背筋が冷たくなる。もう遅かったのか?
「姉さん!?」
見回して、黒くきらめく大きなとぐろが薄れていく中に、紅白の二色を見つけた。
それが巫女装束と判った時点で、走り出していた。既に竜神の顎は消えてなくなっている。左腕がうまく動かないので重く、うっとうしい。
腰まである黒髪の、耳の上辺りから鹿の角を生やした、色白な女の人。
ぼうっと立っていた彼女は、オレの足音に気付いてか顔を上げた。人の姿でなくなってもずっとオレを見ていた深い翠の眼が、またオレを見つめる。
「……琢磨」
「ああ」
「琢磨じゃ……」
切れ長の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出す。見る間に顔をくしゃくしゃにして、神様が抱きついてきた。
「いッ……!!」
激痛。本来なら大歓迎というか、妙な気分になりそうな状況が、大真面目につらい。右肩とか左腕とか、怪我してた気がする。それを、加減のあまりない腕力で締め上げられているわけだ。
「琢磨?」
目が、オレの顔から体に移り、不思議そうな表情が凍る。弾かれたような勢いで腕が解かれた。
「琢磨! 血が! 痛いか? お……の、れ、誰じゃ……!!」
「待った。とりあえず……落ち着こうか」
動く右手で、中腰で食い入るようにオレの怪我を見ているその頭を、そっとなでる。相変わらずさらさらすべすべの黒髪が指先に気持ちいい。
「う、む……」
険しい表情が、あっさりと幸せそうに緩んだ。右肩は痛いが、こういう顔を見ていられるならちょっとくらい無理をしても悪くない。
「さっきまでの記憶、ある?」
「い、いや……琢磨が見知らぬ者どもにかどわかされてから後は、ぼんやりとしか。琢磨がわしの名を呼んでくれたような気はするのじゃが」
「覚えてない?」
それは、オレにとってむしろ幸運だ。九条さんや、ネザエルさん、ジェッソ・カナハ。人がいる場に全力で叫んだセリフは、できればオレ自身忘れたい。
「……覚えてないなら、別にいい」
ウソではないから、困るのだ。
「そ、そうか。ところで……」
周囲を見回した神様の表情が曇る。
「この惨状は、わしがやったのじゃな?」
「そのとおり」
オレが言葉に詰まった直後、後ろから声が飛んできた。遅れて、足音が近づいてくる。長く伸びた影は一つ。
「そこの彼が妙な連中にさらわれ、我を忘れたあなたが暴れた結果だ。源の竜神よ……あなたの力は強大だ。ゆえにひとつ問いたい」
九条さんが、オレたちからほんの少し間合いを取り、腕組みをして立ち止まった。
「今後人間の世界に、力で我を通す気がありますか」
九条さんの眼は強い。夕陽を背にしていてもまぶしさ程度では目をそらすことを許されない威圧感があった。軽口はもちろん、嘘はとても通じそうにない。
重い沈黙を、神様が破った。
「約束はできぬ」
九条さんの眉が片方だけ持ち上がった。
「なぜです」
「わしは琢磨に害をなすものを許さぬ」
「居合わせた無関係な他人を皆殺しにしてでも、ですか」
「それは、避けたいが……琢磨が傷つくならばやむを得まい」
「では、彼の安全を確保できれば、どうですか」
「約束できる。わしの気がかりはそれだけじゃ」
九条さんの眼が、オレに向いた。
「源琢磨、君はどうだ。何かあったとき、竜神の力を頼るか」
「オレはこのひとを護りたい。何かしてもらおうとか思ってない、です」
「そうか」
九条さんは目を閉じ、深呼吸。目を開いたときには笑顔になっていた。
「人間以上の力は、人間の都合で他の人間に向かっていいものじゃない。返答によっては敵対しなければならないところだった」
言いながら歩み寄ってきて、ポケットの名刺入れから名刺を手渡してくれた。
名刺には連絡先と一緒に『立花探偵事務所 所長 九条影仁』と書いてある。
「……所長なのに、どうして事務所と名前が?」
「俺は二代目なんだ。また今度連絡するから君の連絡先も教えてくれ」
「あ、はい」
「妙なことに巻き込まれて大変だったな。今日は帰るといい。一応、君の家は徒歩でも帰れない距離じゃないはずだ」
「でも……」
周囲の街並みを壊してしまったのは、半分以上オレが変なのに捕まったせいだ。どうしようもなく後ろめたい。
「街なら、なんとか今晩いっぱいで直しておく」
「……は!?」
今、とんでもないことを言わなかったかこの人。
まじまじと顔を見返しても、言ったことを否定する様子はない。オレは何か聞き違えたんだろうか。
「俺達は魔法使いだ。少しくらいなら常識に対しても無理は通せる」
本当にとんでもなかった。
真上へ右手をかざす九条さん。その上空に青く光る輪が現れ、そこからビル並みかそれ以上に巨大な白い柱がほんの少し顔を出した。距離感覚がつかめないが、下手をすると暴走していた神様より大きいかもしれない。
「あれも……御神体!?」
「そういうことだ」
白い柱から青い光が降り注いだかと思うと、それを受けた周囲一帯のコンクリートや鉄筋が浮き上がり始めた。とても人力では持ち上がりそうにない塊まで、まとわりついた土砂を押しのけて次々空中へ持ち上がってくる。
「人間以上の力で起きた出来事は、人間以上の力で何とかする。まっとうな建設業者さん達に尻拭いをさせるのは、非常識な存在にあるまじき態度だと思うよ、俺は。……はっきり言えば邪魔だ、帰りなさい」
「は、はい」
探すまでもなく、手持ち無沙汰で困ったようにオレを見ている神様と目が合った。
「帰ろうか……」
「うむ……」
連れ立って、おとなしく歩いて帰ることにした。
【二】
えぐかったが、ひどくはなかった。
肩も腕も、直線状に肉がそがれて溝ができていたが、それだけだった。骨が見えているとか血が噴き出すとかそういう深刻なこともなく、感覚もちゃんとあって、動く。
「いてて……きっつ」
「無茶をしおって」
横に座り、包帯でオレを縛り上げながら、神様。
帰り道、傷の手当に必要なものを一式買ったオレたちは公園のベンチにいた。もうすっかり日が暮れていて、時計を見なければ何時なのかも怪しくなってきている。
「逃げよと、あれだけ言うたではないか」
オレが怪我をした事情を半分以上無理やりに聞き出して、神様の表情は冴えない。
「わしが正気に戻っておらねば、ぬしは、今頃……」
「オレも言ったよな」
か細い語尾をさえぎって、脱いでいたシャツを着直す。
「オレはあんたの味方だって。さっきちゃんと通せたし、これからもずっと折れてやらないぞ。だいたい、いつか自分で言ったじゃないか『信じろ』って。オレは姉さんを信じた。それが悪いか?」
「琢磨……」
そっと、覆いかぶさるように首を抱かれた。
「すまぬ……すまぬな。わしは琢磨をまたも信じられなんだか。とんだ不束者よな」
肩越しに聞こえる声は弱々しい。
「また?」
オレの首を放し、寄り添うように座り直した神様は小さくうなずいた。左手を持ち上げかけて戻したその顔が、日没に反応して点いた公園の外灯に照らされ、陰を帯びて見えた。
「……覚えておるか? いつか、琢磨はわしを娶ってくれると言うたのだ」
やっぱり、覚えてた。
小さな頃の話だ。オレはたんぽぽの花を神様の薬指に結びつけて『いつか、おねえちゃんをおよめさんにしてあげる』と宣言した。思い出すのも恥ずかしい、子どもならではの無防備で豪快な一撃。
神様は幸せそうに笑ってくれたが、その後――。
「嬉しかった。じゃがすぐ、怖くなったのだ。わしは人間ではない。人を本当に大事にできるか、わからなんだ。それに、琢磨はきっと、わしより先に死んでしまう。受け入れてくれると言うた琢磨を、わしはその時、信じ切れなんだのじゃ」
「だから……」
あの時、悲しそうな顔になったのか。
じゃあ、オレは。最初から嫌われてなんかいなかったんだ。
「のう、琢磨」
「うん?」
「日付こそ変わっておらぬが、買い物の予定は流れてしもうたし、今日のぬしの宣言は終わったと思うてよいな?」
「今日の、オレの宣言?」
「うむ」
なぜか、膝の上で重ねられている神様の手は震えていた。
「嫌なら、嫌でよい。じゃが、わしは……」
ためらいがちに唇を噛みしめ、黙り込んでしまった神様は、オレが声をかけようか迷っているうちに、きっぱりと顔を上げた。
「嫁になりたい。琢磨と夫婦になりたい。今からでも、ぬしを信じることを許してはもらえぬか」
言われて、ようやく思い出した。オレは『今日は言うこと全部きく』と宣言した。神様はそれを踏まえて、聞き入れてもらえて当たり前なんてずるいことはしたくない、と言っているのだ。
「姉さん……」
ずっと、そういう風に思われてた。嫌われてなんかいなかった。
この女は、ずっと、オレを。
「ごめん」
びく、と神様の手が震えた。
「ちょっと我慢できない」
「え――」
神様を抱きしめる。肩とか腕とか、今はどうでもいい。全力で、それでほんの少しでも伝わるかどうか、もどかしい。少しでも近く寄り添いたいのに、足の向きやら何やらで制約される下半身が邪魔に感じる。
どうしようもないくらい、このひとの存在が嬉しい。
こわばっていた神様の体からも、力が抜ける。柔らかい。いい匂いがする。恐る恐る、でもしっかりと、神様の腕もオレの体に回された。
そっと、頭をなでる。
「大好きだ。どんな言葉並べていいか分からないけど、嬉しい。絶対イヤじゃない」
「琢磨……」
温かい。一緒にいるのが嬉しい。一緒にいて同じ温かさを分け合えているのが嬉しい。離れるのが寂しいしもったいない。
「ずっと、思うておった」
しみじみと、神様がつぶやく。
「焦がれておった……琢磨の約束が、忘れられなんだ。ようやっと、成就するのじゃな。わしの経てきた時からすれば取るに足らぬ間が、かように長く、辛く感じようとは……露ほども思わなんだ」
「姉さん……」
ふと思い出し、ポケットを探る。それはちゃんと入っていた。
「ちょっと、いいかな」
神様の肩をつかみ、やんわり離して真正面から向かい合う。
「琢磨?」
ほんの少し心細そうな表情になる神様の、左手をとる。
何もない。
「やっぱり、あの騒ぎでなくなってたか」
「あ……っ?」
オレがポケットから取り出した、たんぽぽの指輪を見て、神様は目を丸くした。
「オレも買ってたんだよ。姉さんが迷わず買ってはめてたから、言い出せなかったけど」
これはやっぱり、このひとの指にあるのが一番いい。
改めて、神様の眼を真っ向から見つめる。
「意味はあの時よりも解ってるつもりだ。その上で今、もう一度きちんと約束したい。大人にはなれてないから、果たすにはもうちょっとかかるけど――」
声が震える。深呼吸して、口は震えたままで、でも今、言うと決めた。
「あなたをお嫁さんにします。だから、約束の印にこれを受け取ってくれますか」
神様は、オレが手のひらの上に乗せたたんぽぽの指輪を見つめ、複雑に固まった表情でぎこちなくうなずいた。その左手をとり、指輪を薬指にはめる。
左の薬指に収まった指輪を呆然と見つめながら、神様はまばたき。まばたき、まばたき。表情を忘れた顔が、ぼろぼろとこぼれ始めた大粒の涙でびしょ濡れになり、やがてしまりなく緩んだ。
泣き笑いとしか呼びようのない豪快なそれは初めて――いや二度目の笑顔だった。楽しそうな笑顔なら何度か見たことはあったが、幸せそうな、嬉しそうな笑顔はあの時以来だった。
「ね……姉さん?」
自分自身、やったことが芝居がかっていて恥ずかしかったのは確かだ。ただ、反応がここまで劇的だとも思わなかった。
「琢磨でよかった。琢磨に逢えてよかった」
ささやきながら、伸びた両腕がオレの肩を引き寄せる。息を感じるほど間近からじっとオレを見つめる翠の眼が、閉じたかと思うとほんの少し横に傾いて、また近付いた。
柔らかい。
頭の中が真っ白になった。肩に掛かっていた腕が輪を狭め、首筋にからむ。しゃべることは許されない。
息苦しさから解放されて、まず感じたのは物足りなさ。つい……もっと、と思った。
「ふ……ふ」
微笑が、鼻先をくすぐる。腕が緩み、うっすらと桜色をした顔が離れるのをオレは呆然と見送った。
「この気持ちを何で返せばよいか、心当たりがなくてな。じゃからせめて……正真正銘、最初の一回をぬしに捧げよう」
「ねえ……さん……」
「しかし、困ったのう」
とっておきの刺激に固まるオレをよそに、神様は照れくさそうな顔で目をそらし、戸惑い混じりにつぶやく。
「わしも心地よいのでは、返しにならぬ気がするわい」
そんなこと言われると、オレだって困る。
「じゃあ……もう一回」
思わず口をついたバカ丸出しの要求に、神様はきょとんとした顔でオレを見返し、ほんの少し遅れて意味を理解したのか、頬を赤く緩めながら身を乗り出した。
そっと、触れる。
柔らかいところ同士だからなんだろう。唇が触れ合う、ただそれだけのことに、何とも言えない気持ち良さがある。
集中し過ぎて、神様の手がオレの手を包んでいることに今さら気付いた。いつの間にか握りしめていた拳から力を抜くと、どちらからともなく指先がからみ合う。
目が合うと気恥ずかしいのに、離れるのが何となく嫌で、すぐまた三回目。
二人でつくった握り拳はそのままに、空いている腕で抱き寄せる。力をこめるまでもなく自分の胸に収まってくれる細い肩が嬉しい。
愛しい、というのは、きっとこういう気持ちを表す言葉なんだ。
結局。
帰りが遅くて心配した母さんからの電話が鳴るまで、寄り添って、触れ合って、目が合えば唇を重ねて。
回数は、もう覚えてない。我ながらバカだと思った。
止めてくれない神様も……きっとオレと同じバカだ。そう思うと、変に嬉しかった。




