廿零/竜神様を呼ぶ
【一】
雨音がする。
おかしい、と思った。今日の天気予報は『快晴』のはずだ。まるで、あの時みたいじゃないか。
雷鳴が近い。
あの時は、自分が妙なことを考えたせいで神様が泣いた。
空気が震える。ひっきりなしの落雷に混じって、まるで何かが吼えているような。
神様の泣き顔は、どうしても記憶に刺さってまだ抜けない。
「姉――っ痛ぇ!」
我に返って跳ね起きざま、思わず悲鳴が出た。ごりごりばきばきと派手な音がする。首や肩周りの筋肉痛がひどい。
いつの間にか、ふかふかのソファーに横になっていた。
見たこともない部屋だ。カーテンといいカーペットといい、高級そうなデザインぞろいのくせ家具が少ない辺り、まるでホテルか何かのような。
ついさっきまで神様と昼ご飯を待っていたはずだ。何がどうしてこうなった? 確か、ドリンクバーにいたら、黒服の男たちに囲まれて……。
急なノックの音に、思わず立ち上がる。
「失礼、声が聞こえたのでね。首の具合はどうかな、源琢磨君」
返事をする気にはなれなかった。入ってきた初老の男は、オレを取り囲んだ連中と同じような黒服姿だったからだ。
オレの反応を気にした様子もなく、男は手近な椅子を引き寄せて腰を下ろし、口を開いた。
「まず、手荒な真似をしてすまなかった。君の身の回りでジェッソが動いていて、事情を説明している暇がなかったのだ」
「ジェッソ?」
聞き覚えのある単語だ。
「君も見たことがあるはずだ。あの白い女を」
ジェッソ、白い女――ジェッソ・カナハ? 教育実習生を名乗って現れた、あの変な女?
「最初から信用してもらえるとも思ってはいないが、弁明の機会をもらいたい」
返事はしなかったが、男は言葉を続けた。
「オーパーツ、という言葉を聞いたことはないかね? 場違いな工芸品……要は時代にそぐわぬありえざる技術の産物だ。そのひとつに『青く輝く白い石』があってね」
思わず男の目を見返してしまってから、自分のうかつさに気が付いた。
こいつも御神体が何なのかを知っている。得体のしれない世界の住人なのだ。何がどんな弱みになるか判ったものじゃない。
男はオレの反応に黙ってうなずくと、また言葉を続けた。
「それは人知れず世界各地に存在し、そして未だ機能を維持している。人の意思を力に変える兵器なのだ」
確かに、あのカナハも御神体を危険視している風だった。
「その『白い石』は、時として勝手に機能し、周囲の人間の意識を具現化する。言わば願いの塊だな。それが、君と共にいた女性だ――」
「あんたも」
反射的に男の言葉をさえぎっていた。
「あんたも、あのひとが邪魔だってのか」
どうして、いること自体を他の誰かに否定されなくちゃならない?
男は、首を横に振った。
「我々はジェッソとは違う。連中は『白い石』を封印してまわるだけだが、我々はそれを人類のために役立てたいと思っている。あの女性の力も、きちんと活用する方法があるはずだ。我々はただ、君に協力を仰ぎたいだけなのだよ」
「それなら姉――あのひとも呼べばよかっただろ」
「残念ながら、それは不可能だ」
言いながら男は立ち上がり、部屋を横切って歩き出した。
「ジェッソの妨害を避けるため、どうしても人目は避けたかった。事情を説明している暇もなかった。その上、今彼女は言葉の通じる状態ではない」
音を立ててカーテンが全開になる。
かなり高層の階なんだろう、天気は大雨で薄暗いながらも見晴らしはよかった。そして――。
見下ろした街の真ん中に、竜がいた。
鹿に似た一対の角。鬼火のように冷たく光る翠の眼。土がむき出しになった更地の空中でとぐろを巻く長い体を覆っている黒い鱗は黒曜石か何かのように稲光を受けるたびきらきらと光っている。
遠目でもはっきり判る巨大な体の周囲を何か白いものが飛び回り、竜がうっとうしげに体をくねらせ吼えるたび、落雷がその白いものをかすめていた。
「まさか……!?」
振り向くオレに、男は竜から目を離さないままうなずく。なぜか、その表情は興奮しているように見えた。
「あれが、彼女の本性だ。誤解がこじれ、猛り狂ってしまった。もはや君以外の言葉は届くまい」
「何が誤解だ」
不意に別の声が後ろから聞こえたかと思うと、男が軽々と窓から吹き飛ばされた。風圧だけがあっけにとられるオレの前髪を揺らして過ぎる。
長い黒髪を後ろで束ねた若い男が、腕組みをしたまま、床に転がった男を靴底で押さえつけている。若い男を見上げた直後、初老の男ははっとしたように顔の前に手をかざし若い男の視線をさえぎった。
「『英雄の魔法使い』! なぜここが!?」
「探偵を舐めるな。ついでに言えば、あれはもうじき消えてなくなる。暴走しているだけで、消える間際のろうそくと変わらない」
空気が震える。竜の吼え声は高く、泣いているようにも聞こえた。
「なんだと!?」
叫びと同時に見開かれた目が、鈍い衝撃を受けて更に大きく見開かれる。魔法使いと呼ばれた男の爪先がみぞおちにめり込んだのだ。
「ブラックボックスに手を出すな、素人が」
気絶した初老の男を蹴り転がしながら『魔法使い』が腕組みを解き、オレを振り返る。
肩幅が広い。長袖の黒いTシャツにジーンズという薄着で、細身なのに、弱々しい気配がまるでしない。
「竜神の元へ君を連れて行く。来てくれ」
「――ひとつだけ。教えてほしい」
「手短かにな」
「あの竜が……あのひとなのか? 消えるって本当なのか?」
「本当だ」
首筋の毛が逆立った気がする。ぞっとして落ち着かない。
「わかった。ついてく」
オレに何かできることはないのか。わけのわからない横槍で遠ざけられて、二度と会えなくなるなんて冗談じゃない。
「……味方かどうかは訊かないんだな」
「あのひとが心配だ」
即答すると『魔法使い』はふっと笑みをもらした。
「なるほど――」
「何を遊んでいる」
半開きになっていたドアの向こうから、若い女が顔を出した。
肩までの黒髪で、瞳が赤い。なぜか耳が長くとがっている。小柄で華奢なのに眼差しは力強く、妙な存在感があった。
外見は全く違うのに、不思議とどこか神様に似た雰囲気がする。
「片付いたぞ」
「話なら済んだ」
「よかろう」
歩き出す二人連れを追う形でドアを抜けると、続く部屋には黒服の男たちが数えきれないほど倒れていた。どうやらオレの気付かない間にとんでもない修羅場があったらしい。
更に部屋を抜け、柔らかなカーペットを踏み、エレベーターへ乗り込む。やはりここはホテルだった。
「言い忘れていたな」
手持ち無沙汰な沈黙の中で『魔法使い』が口を開く。
「俺は九条影仁。探偵だ」
「余はネザエルである」
「オレは、源琢磨。九条さんと、ネザエルさん、て呼べば?」
「ああ、構わない」
「『様』を付けることを許すぞ」
「ややこしくなるから黙っていろ相棒――今のうちに説明しておくと、竜神はこの街を根こそぎ滅ぼそうとしている。俺の仲間がそれを足止めしているところだ」
ぎょっとした。何がどうしてそんなことに? オレはまた何かおかしなことを神様に願ってしまっていたのか?
混乱していると、ネザエルさんが口を開いた。
「あの竜神、雌であろう。見も知らぬ者どもにつがいを奪われれば激怒もしようぞ。元より人間ではないゆえ、いざとなれば群れとしての人間に価値なぞ感じまいな」
「つがい……!?」
何だ、この剛速球。色々と分かってなさそうな冷静すぎる『外から目線』は……まるで神様だ。
「ややこしくなるから黙っていろと言っただろう」
ため息混じりにネザエルさんを制し、九条さんが改めてオレに目を向けた。
「さっき君は俺に訊いたな、あの竜があのひとなのか、と」
黙ってうなずく。
「君の村の伝承は調べさせてもらった。竜神の名は口伝で、唯一それを知っているはずの君が竜としての姿を知らないということは、竜神の名から『竜という意味』は失われていることになる」
「は、はあ」
ちょっと、意味が分からない。
「要するに、あれは誰も知らないはずの姿だ。自分を形作っている『人の願い』を燃やして無理矢理そうなっているから、じきに存在そのものを使い果たし、消えてなくなる」
軽い浮遊感。エレベーターの一階の表示に目をやって一旦言葉を切り、九条さんはオレをじっと見つめた。
「間に合わせる。消える前に名を呼んでやれ。連れ戻せるのは君だけだ」
名前……。そう、名前を呼べば神様は元に戻る。証拠はないが、確信があった。再会したとき、神様はオレが名前を呼んだから現れた、と言ったんだ。
開いたドアの向こう、一番人が多くいるはずのホテルのロビーは、無人だった。いつかのカナハのように、この二人も何かをしたのだろうか。
「……どうしてだ?」
ロビーを抜け、地下の駐車場へ。コンクリートがむき出しの階段を降りながら、自然と、疑問が口から出ていた。
「九条さん、あのカナハってのの仲間なんだろ。神様――あのひとを邪魔に思ってるんじゃないのか?」
訊いたとたん、九条さんは革の手袋をした指先で眉間を押さえた。険しい、同時に疲れたような顔をしている。
「多分……誤解だ。色々と伝わっていないものがあると思う」
「余はエルフだ。ヒトではない」
九条さんを追い越し、車体がびしょ濡れのくたびれたジープの鍵を開けて助手席に乗り込みながら、ネザエルさん。指先で指示され、オレも後部座席に乗り込む。
「エルフ……?」
ゲームでたまに聞く、耳のとがった魔法使いみたいな人か? 言われてみれば、ネザエルさんの耳は長く、とがっている。
「そしてこの身は純粋な生き物ではなく、影仁の心を糧に長らえている。そちに依っている、あの竜神と同じようにな。我らには肩入れする理由こそあれ、積極的に排除する理由はないぞ」
「敵かどうかは、事が片付いてから決める。君もそうしろ」
ネザエルさんから鍵を受け取り、九条さんが運転席に座った。
「世のため人のためと耳当たりのいいお題目は、謳う当人から最も遠い。人間以上の規模の力が絡む話なら、特にな。そういう連中はとりあえず邪魔してから対処を考えることにしている。君の手伝いは、ついでだ」
エンジンが動き出し、ジープが身震いする。
「舌を噛むなよ」
短い言葉と共に、急発進。ほんのわずかな間を置いてざあっと屋根へ雨粒が叩きつけ、窓を見るまでもなく外に出たのが判った。
【二】
ジープの乗り心地はとんでもなく悪かった。
揺れが激しい上に座席が硬い。ただでさえ叩きつけるような嵐の中を突き進んでいるものだから、視界も悪く、本当に道の上を走っているのかも怪しくなってくる。
走り出す前に『舌を噛むなよ』という言葉があっただけあって、車内で会話をする余裕はなかった。
吼え声が、近い。高く大きく、腹の底を震わせる響きは、唸りのように濁っていないし、金属的でもない。生き物離れした、そして悲しげな声だと思った。
吼え声に続いてまた落雷が――なかった。
雨粒に叩かれ続けて輪郭しか判らなかった視界がいきなり開け、揺れが一際激しくなる。登り坂で車体が傾く中エンジンの回転音が高まり、気が付けばやんでいた。
「着いたぞ」
返事をするのももどかしい。蹴飛ばす勢いでドアを開けてジープを飛び出すと、土の匂いと焦げた臭いが鼻を突いた。足元は砕けたコンクリートや鉄筋、土が散乱し、焼け焦げとクレーターだらけに荒れきっていて、いつの間にか雨もやんでいる。
竜神――あのひとがどこにいるかは確認するまでもなかった。オレの視界の前半分はとぐろを巻く黒い鱗の体で埋まっていて、見上げると、じっとこちらを見つめる翠の眼がある。
ど、とこもった音をさせて、少し離れたところに白いものが落ちてきた。場所が悪かったのか土が派手に飛び散り、出来上がったクレーターから不自然なくらいに白いままのコート姿が飛び出してくる。
「ミナモトタクマか」
短い銀髪に青い眼。ジェッソ・カナハだった。肩には真っ白な長槍を担いでいて、その穂先は青くゆらゆらと燃えている。カナハは確認するようにオレの名を呼ぶとすぐに視線をあのひとへ戻した。
「車が近づいていることが分かった時から、竜神はカナハを無視している。嵐が鎮まったのは、多分ミナモトタクマのためだ」
見上げる。離れていることもあってか、人間離れした顔からは感情が読めない。
巨大な姿が揺らめいた。動いたのではなく、一瞬透けたのだ。
「姉さん!?」
本当に、消える!? もう遅かったのか!?
「姉さん、大丈夫か!?」
叫ぶと、オレを見つめる翠の眼が細まった。今までとは格段に小さな鳴き声を発して、顔がゆるゆると降りてくる。
なるほど……竜だ。メートル単位で構成されている頭は肉食の獣の造作で、それ特有の怖さを含んだ何とも言えない風格と威厳がある。
同じ目線の高さまできて、竜神は顔を傾け加減に口を開けた。
オレの身長に近い大きさの牙の列が、迫って、閉じる。
がぢり、と音がした。




