壱/竜神様がみてる
【一】
一晩ほとんどノンストップで走り続けた昼下がり、ダム湖のほとりのお社には先客がいた。
「源さんの息子さん方ですね。後藤です」
ジャケット代わりに白衣を羽織り、首には聴診器、といかにも町医者っぽい格好をした小柄で初老のおじさんが、父さんに白髪交じりの頭を下げる。
「こちらです――といってもご存知だとは思いますが」
言いながら鳥居を抜け、境内を抜け、父さん母さん、そしてオレを先導して奥へ進んでいく。神社とつながっている家の中、廊下の先の和室で床についていた人の顔を、もちろんオレは忘れていなかった。
「母さん」
「お義母さん」
「おばあちゃん!」
口々に呼ばれ、彼女はうっすらと目を開けた。
「ああ……錬磨に、朱鷺絵さん。それに――」
すうっと笑みの形に目が細まる。
「琢磨。来てくれて……ありがとうね」
【二】
「おばあちゃん」
呟きながら傍らに腰を下ろしたきり、オレは口を開くことができずにいた。
素人目に見ても、弱っている。穏やかな笑みをたたえた表情はそのままだが、覚えているのは立ち姿ばかりで、こうして上体さえ起こさず横になっている姿はほとんど覚えていない。雰囲気そのものにももっと張りがあったはずだ。
横になったまま、おばあちゃんは穏やかな眼でオレを見つめている。
容態を詳しく訊くため、父さん母さんは後藤医師と一緒に離れた部屋へ行ってしまっていて、今この場にはオレとおばあちゃんの二人きりだ。
沈黙に耐えきれず、口を開く。
「おばあちゃん……元気だった?」
元気なわけがない。そうだったらこうして呼ばれることなんてなかったのだ。
気まずさ丸出しなオレに、おばあちゃんはころころと笑い、そして咳き込んだ。乾いた咳の弾みで上体が起きる。
「おばあちゃん!」
助け起こそうと思わず前のめりに腰を浮かした、その鼻先に、おばあちゃんの手のひら。大丈夫だと言いたいんだろうけど、それは聞けない。構わず体を支え、背中をさすった。
そして、自分でも渋い表情をしているとわかる顔のこわばりが、余計に深まった。どうしようもなく、おばあちゃんの体は軽く、小さかったのだ。
「元気だよ。……大きくなったねえ、琢磨」
「最後に遊びに行ったの、中1の夏休みだったっけ。オレもう高校生だぜ――」
語尾が途切れる。小さな手が、寄り添っているオレの頭をなでていた。
思春期真っ盛り、いっぱしの男を気取りたい身としては照れくさいことこの上なかったが、振り払うこともできず、人の目もないので、しぶしぶされるままでいる。
布団に入っていたにもかかわらず、その小さな手が冷たいことが、つらかった。この手は、ずっと暖かかったはずなのだ。
「ねえ、琢磨」
「うん?」
「頼みがあるんだ。ちょっと付き合ってくれるかい」
言いながら、おばあちゃんはよろよろと立ち上がる。
「おばあちゃん!? 寝てなきゃダメだろ!」
「いいんだよ」
肩をつかむオレの手に触れての笑みは、いつかのように柔らかい。
「わかってるんだ、あたしはもう長くない。最後くらい、勝手に動かせておくれよ」
「最後って……そういうこと言うなよ」
止めるに止められず肩を貸す。無理矢理連れ戻すには、もうおばあちゃんの体は細く、弱すぎた。
「悲しいことだけど、みんないつかは死ぬんだ。だから命は惜しんじゃいけない、大事なものはちゃんと大事におし」
「オレがおばあちゃんを大事にしたらダメなのかよ」
前へ伸びる細い手よりも先にふすまを開けながら、廊下の先を見る。
おばあちゃんの行きたいらしい方向には神社としての本殿しかないので、ある意味行き止まりといってもいい。逆方向にあるふすまからは微かに光が漏れている。そこで父さんと母さんが後藤医師におばあちゃんの容態を訊いているはずだ。
父さんと母さんを呼ぶべきだろうか。
「それは言いっこなしだよ。思い通りにさせてあげないのを、大事にしているとも言わないだろう?」
「……わかったよ」
そう言われちゃ返す言葉がない。すぐそばで地続きの本殿なら、夜風に当たって体調を崩すこともないだろう。
そうして、本殿。おばあちゃんは板の間を進み、祭壇のところでしゃがみこんだ。そのまま、何やらごそごそといじり始める。
「なあ、おばあちゃん」
手持ち無沙汰になってあぐらをかき、おばあちゃんの横顔に声を投げてみる。
「なんだい、琢磨」
「オレへの頼みって、何なんだ?」
「それはね、これだよ」
正座のままオレに向き直ったおばあちゃんが、木の箱をそっとオレの目の前に置いた。
「御神体だよ。あたしたち、いや、源の村が、ずうっと昔から護ってきた、神様の宝物」
おばあちゃんの手が木箱のふたを持ち上げ、中でたたまれている白い布を開いていくと、白い球体が顔をのぞかせた。
それは、つるつるとした質感の真球で、不思議なことに青い輝きがうっすらと全体を包んでいる。内側から光が透けているわけではなく、白い表面自体が青く光っているのだ。
「……綺麗だ」
思わず、呟きがもれる。
「これを、琢磨に預けたいんだ」
「え?」
いいのだろうか。
神社というものは宮内庁だか神社本庁だかの公的機関が管理していた記憶がある。曲がりなりにも神社の関係者ではあるので用語を調べたことはあるし、いつだったか、お社にスーツ姿の男が数人来ておばあちゃんと言い争っていたのを見たことがある。
「おばあちゃんが悪く言われること、ないよな?」
「とっくに言われてるよ」
ころころと笑い出すおばあちゃん。
「村の独断で勝手に移設されたお社だからね、ここは最初から『神社』じゃないんだよ。住み着いているあたしがいなくなれば、すぐにでもここは取り壊されるだろう――どさくさ紛れで物がなくなるなんてよくあることさ」
言葉を付け加えてまた笑ったかと思うと、真顔になった。
「でも御神体を託す人間は真剣に選ばないといけない。これは竜神様の宝物でね、よくない人間がお祀りするたび、村は大嵐に見舞われてしまったそうだ」
「竜神様……祀る……?」
引っかかる言葉だ。
おばあちゃんは、神様が寂しがるからという理由で、村がなくなった後もお社に残った。つまり、この御神体が、おばあちゃんをひとりぼっちにさせ、今こうしているように弱らせたんじゃないのか?
それを、持っていけというのか。大事にしろというのか。
頼みの内容が頭の中にしみこむにつれて、体に熱が湧き上がる。それは怒りだ。他の何でもない。
「なあ、おばあちゃん」
「なんだい、琢磨」
「おばあちゃん、ここにずっとひとりぼっちで暮らしてたよな。オレだけじゃない、父さんや母さんともあんまり会えずにさ。それで今、おばあちゃんがこんだけ弱ってるんだろ。それって結局、この御神体とか竜神様がおばあちゃんをこんな目にあわせたんじゃないか。違うかよ」
膝の上に握った拳が、堅く、骨を浮かせて白くなる。目を合わせないまま、オレは言葉を続けていた。
「オレ、おばあちゃんを苦しめたものを大事になんて思えない。父さんに相談すればいいじゃないか」
思わずおばあちゃんを睨んでしまいそうだった。おばあちゃんの大事なものよりも、オレにとってはおばあちゃん自身の方が大事だ。おばあちゃんの生き様を否定して、おばあちゃんを傷つけている自覚はある。それでも、これを譲る気はなかった。
「琢磨、本当に優しい……立派になったねえ。やっぱり、琢磨でよかったよ」
穏やかな声に、おばあちゃんを否定する自分がイヤになって顔を伏せていたオレは思わず顔を上げた。
声色そのままに、おばあちゃんは確かに笑っている。
「違うよ、琢磨。あたしはひとりぼっちなんかじゃなかった。それに、これは琢磨にしか頼めないんだ」
「オレにしか?」
「御神体は神様の宝物だと言ったろう? 神様は本来、自分を知らない人の前に姿を見せることはない。錬磨も、朱鷺絵さんも、神様を知らない。でも琢磨、お前は会ったことがあるんだよ。これからはお前が、あの方を護ってほしい」
「なんだよ、それ……」
「一気に話して、疲れてしまったよ」
言いながら祖母は御神体を祭壇にしまい直し、再びよろめきがちに立ち上がった。
「戻ろうかね」
「あ、ああ」
戻りは案外早かった。肩を貸していたおばあちゃんをそっと横たえ、オレは改めて布団の横に腰を下ろした。ふう、と長めのため息をつき、おばあちゃんがオレを見上げる。
「琢磨、錬磨たちを呼んできておくれ。なるべく、急いでね」
「わかった」
おばあちゃんが人を急かすことは滅多にない。余計な口をはさまず、部屋を出ることにした。
【三】
さっきまでの弱った様子が嘘のように、おばあちゃんは父さん母さんそれぞれと話し込み、話を終えると、また起こしていた上体を横たえ、ふうう、と長いため息をついた。
「ねえ、琢磨」
「なんだよ、おばあちゃん」
「一つくらいは、わがままを聴いておくれよ」
「……わかったよ」
やっぱり、それを言うのか。
気持ちの整理などつかないし、何をすればいいのかもよくわからない。でも、イヤだ、とは言えなかった。
オレの返事に満足げに頷くと、おばあちゃんは目を閉じた。
「錬磨、朱鷺絵さん、琢磨、後藤さん、……みんな、ありがとうね」
ふううう……と長い長いため息の中、全身から力が抜けていく。
そして、彼女は二度と息を吸わなかった。
【四】
月明かりの下、オレは本殿の陰、縁に腰を下ろしていた。
後藤医師は町へ帰り、父さんたちは葬儀の手配やら何やらを一通り済ませて話し込んでいる。
ただの高校生でしかないオレにやれることはなかった。
ゆるりと風が揺れ、神社を囲む森の木々が葉を鳴らす。
思ったより、涙は出なかった。ただその代わり、どうしようもなく気力が湧かない。きっと『心に穴が開いた』というのはこういう様を指すんだろう。
おばあちゃんのことはいくらでも思い出せる。しかし当のおばあちゃんがもういない、という事実を意識するたびに、思い出しては浮かび上がる暖かな感情がどこかへ吸い込まれ色を失っていく。
「ひとりぼっちなんかじゃなかったって……それに『あの方』? まるで誰かと……」
一緒にいたみたいじゃないか、と呟きかけて、ふと考え込む。
そういえば、幼い頃、両親に連れられて帰省するたびに、この境内や周囲の山の中で祖母以外の誰かと遊んだ気がする。
「……誰だ?」
その頃は深く考えもしなかったが、そもそもこの神社は山奥にある。ダムに沈んだ村から移設されたものだ。最寄の人里といえば、車で数時間かかるふもとの町くらいしかない。わざわざそんな遠くから、訪ねてくる人間などいるのか?
確か……女だった気がする。長い黒髪で、そう、白衣に赤い袴の巫女装束だった。祖母の落ち着いた色合いの和服と好対照だったので印象に残っていた。
名前は何と言っただろうか。結構短い響きで、漢字も当人から教えてもらっていた。
「確か……二文字……」
記憶を頼りに、開いた手のひらをなぞり、書いてみる。物心ついてから調べてみて、普通の読み方ではないことに驚いたので発音は間違いない。
「紗雫……だったかな」
「媛を付けぬか。呼び捨ては……なんだ、少し早かろう」
「だが断る――は!?」
間近に美女。縁に外側からもたれて両手で頬杖をつき、深みのある翠緑の眼がオレをまっすぐ見上げている。
反射的にのけぞり、既にバランスを崩した状態で立ち上がろうとした拍子に、本殿の壁に後頭部を打ち付けてしまい、頭の中に火花が散った。
「おおぉぉぉ……!」
頭を抱えながら転げまわる。痛い。これは大変痛い。とん、と軽い音が聞こえたかと思うと、先ほどと同じ低女声が今度は頭上から降ってきた。
「なんとも、痛そうじゃな……大丈夫か?」
口調はともかく、綺麗な響きだ。
「大丈夫なわけねえだろ……じゃない、いつ現れたんだあんた」
涙目で頭をさすりながら、間近に見えていた草履とそれを履いている白い足袋をたどり、相手を見上げる。
「ぬしがわしの名を呼んだときよ。もっと早う呼んでもらいたかったものだが、何にせよ久しいな、琢磨坊」
腕組みと共に笑う、巫女装束に長い黒髪の美女。その両耳の上辺りからは鹿のそれに良く似た、枝分かれした一対の角が生えている。あからさまに人間離れした特徴に、遠い記憶にかかっていたもやが一気に晴れた。
そうだ、源琢磨はこのひとを知っている。そして、記憶の中の祖母は彼女を――。
「――神様」
そう呼んでいた。




