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やさしい角に、たんぽぽを。  作者: 賀東しょこら
弟以上の
18/26

拾漆/竜神様が知らない意味

【一】

 ジェッソ・カナハは、忘れられていた。

「誰だそれは?」

「……なんでもないです」

 よくわからん冗談だな、と担任の目がオレ――源琢磨(みなもとたくま)が持ってきた金属バットとピッチャー用の硬い帽子に落ちる。

「とりあえず、部活の掛け持ちならおれじゃなくて顧問の先生に相談しろ。個人的に源の脚力ならうまくいきそうだとは思うけど、部活ごとの指導方針があるからな」

「はい。失礼しました」

 早めに話を切り上げ、職員室を出た。事がこじれたことを想定して、校内で持ち歩く上でナイフのように物騒すぎず、かつ武器や防具になりそうなもの、と朝練のどさくさに紛れて野球部から借りてきた一式は無駄になったらしい。

 それにしても、ジェッソ先生はいますか、と問われての答えが『誰だそれは?』。自分自身がクラスに紹介した「教育実習生」を忘れるというのは物忘れが激しいというレベルの話ではない。

 忘れたというより、忘れ「させられ」たのだろう。どういう原理なのかはともかく、実際に当人がジェッソ・カナハという人物を「教育実習生」と思い何の疑問も持たずに接している様を見ている。思い込ませることができるのなら、当然その逆、思い込ませていた内容自体をなかったことにできてもおかしくない。

 この調子なら、校内で関わったはずの全員がジェッソ・カナハを忘れているのだろう。覚えているのは、たぶんその妙な力の影響を受けないらしいオレだけだ。

 これで、探すあてはなくなったが、探す必要もなくなった。彼女はもう校内にいない。

 口封じに校内丸ごと眠らせるという、大雑把ながらも穏便なやり口からみて、カナハは騒ぎを起こすつもりはない。覚えている人間がいない以上「部外者」である彼女が校内に留まる理由がないのだ。

 こうなると、現状、オレも動きようがない。

 次の行動を練るにしても、おとなしく放課後を待つしかないのだろう。こういうとき、学生という身分がことさら不自由に感じて歯がゆい。

「くそ……すっきりしねえ」

 神様に良からぬちょっかいをかけてくるような相手とは、さっさと話を片付けておきたかったのだ。

 オレと二度と会えなくなるのが怖い、とあの(ひと)は言ってくれた。オレだってそんなことは嫌だ。冗談じゃない。

 それに、昨日から神様の様子がおかしい。挙動不審というか、おとなしすぎる。週末に服を買いに行く約束がある以上、妙な心配をかけたくないこともあってカナハの件はまだ話していないが、これが神様に知れたら、きっと更にテンションが下がるに違いない。

 ひとまず、借りたものを返そう。野球部の部室は鍵の管理が結構適当なので返すこと自体を焦る必要はないが、泥棒扱いされても面白くない。



【二】

 後ろ手に部屋の戸を閉める。薄暗い中、抱えたままのそれに鼻を埋めた。

 吸い込んだのは、微かな汗のにおい。

 不思議と気分が浮き立つ。ただ同時に、落ち着かない。自分は禁を(おか)しているのだ。

 知れたら、嫌われるだろうか。いつかのように、怒るだろうか。

 嫌われたくない。それでも、昨晩一緒にいたら、辛抱できなくなってしまったのだ。

 自分はいつの間にかおかしくなっている。今まで、こんな心境になることなどなかった。以前同じことをした時には何も感じなかった。たまたま易きに流れ、そうなっただけだ。だが今は違う。これでなければならない。

 琢磨に嫌われるのは怖い。二度と会えなくなるのは更に怖い。そしてそれ以上に、琢磨に害をなすのが怖い。

 もし自分が狂い始めているとしたら――琢磨に害をなす前に去らねばなるまい。自分は人間ではない。本当の意味では人間の思いに添いきれない可能性があり、そしてこの身には人間を塵埃(じんあい)同然に踏みにじるだけの力が備わっている。人間は好きだが、今の自分には、名も知らぬ人間達よりも、琢磨一人の方が重く感じるのだ。この天秤が狂気の証しであったとすれば、人間である琢磨に添うべきは、形だけが人に似た災禍たるこの身ではなく、やはり人間であろう。

「神様、どこですか?」

 呼び声に、思わず肩が跳ねた。

 幸いにも、声は離れたところ、階下から聞こえてくる。押入れの中へそれをしまい、部屋を出た。

「――ここじゃ。どうした、朱鷺絵(ときえ)

 階段を下りていくと、居間の方から当の朱鷺絵がやって来た。

「ああ、神様。お部屋でしたか。実は琢磨がお弁当を忘れてしまって」

「行く。わしが琢磨のところに行く」

 即答すると、朱鷺絵は一瞬あっけに取られたように自分を見つめ、くすくすと笑い出した。

「どうかしたのか?」

「琢磨を本当に気に入ってくださっているのですね」

「うむ。わしは琢磨が好きじゃ」

「まあ……ふふ」

 言ってから、やはり不安になってしまった。自分はそうだ、むしろ自分の知る『好き』という言葉の定義では足りないくらいだが、幼くない今の琢磨の方は、自分を好いてくれているのだろうか。

「神様?」

「ああ、何でもないぞ。しかし珍しいな、琢磨が弁当を忘れるとは」

 食べ物を大事に扱う琢磨が、弁当を忘れることはない。その琢磨が弁当を置いて出かけるというのは、異常事態と言ってもいいほどだ。

 最近、琢磨の様子がおかしい。悩みを抱えているのは間違いないが、自分の問題だからと口を開かず、昨晩も、時折何かを考え込むように上の空でいることがあった。

 心配だ。琢磨の助けになりたい。弁当を届けて、琢磨の悩みも訊いてみよう。

「帽子を取って来る。すぐ行くから弁当箱は玄関に置いておいてくれ」

「わかりました。お気を付けて」

「では、行ってくる」

 部屋へ引き返して帽子をかぶると取って返し、草履を履くのも早々に弁当箱を取り玄関を出る。

 家を出た途端、何か――よからぬ視線を感じたが、構っている暇はない。宙を蹴り、琢磨の学校へ向かうことにした。



【三】

 昼休みを告げるチャイムが響き渡り、教室の人口密度が一気に減っていく。

 カバンに手を突っ込んだところで、弁当箱を忘れていたことに気付いた。

「やっべ」

 カナハの件で考え込んだまま家を出ていたらしい。弁当箱を受け取った記憶はあるので、たぶんカバンに入れ忘れていたのだ。

 仕方がない。後で学食、間に合わなければ昼は抜きだ。

 母さんにも神様にも悪いことをしたと思うが、今はカナハのこと以外にも神様の用事がある。済ませておかなくては埋め合わせもできない。

(かがみ)

 呼ぶと、幸運にもイケメンは教室に残って大きめのフランスパンをかじっていた。がりがりという音と共に、整った顔の下半分が派手にゆがんでいる。女子の受けを気にして身だしなみに気を遣っている割に意外と食事は豪快だった。

「どした、源」

「マネージャーのクラス、どこだっけ?」

 訊いた瞬間、鑑の顔が固まった。しばらく間を置いて、ごくりと喉が鳴り、パンのかたまりをほおばっていたふくらみがすっきりする。

「……源。お前はそこまで器用じゃないと思うんだ」

「は?」

 器用って、何だ? けなされてるのはわかるが、心当たりがさっぱりない。

 わけがわからないまま黙っていると、納得がいったのか鑑は大きく頷いた。

「悪い、誤解してた。噂に踊らされるとか、どうかしてたな、オレ」

「噂?」

「お前とマネージャーが付き合ってるって話。それが本当ならクラスなんてとっくに知ってるはずだもんな」

「どっから出てきたんだそんな話」

「二人でメシ食ってるとこ、陸上部の女子が見てたらしいぞ。マミ先輩とかヒロちゃんが言ってた」

 それだけでどうしてそんな結論につながるんだ。やっぱり女子って面倒くさい。

「嫌そうだな」

 当然だ。恋愛がらみで女子と話すのは、神様の悲しげな顔を思い出して嫌なのだ。

「陸上部入ってしばらくしたら、やたら女子に声かけられたからな。あの時期すげえ憂鬱(ゆううつ)だったぞ」

「……贅沢(ぜいたく)を自覚なしに受け入れてる辺りがさりげなくイヤミだな」

 わざとらしく首を振り、肩をすくめる鑑。イヤミって、何だ。

「ところで、どうしていきなりマネージャーにちょっかい出そうと思ったんだ?」

「え、ああ。女物の服は女に訊くのが一番いいと思って。オレが知ってる女子、あいつだけだし」

「話が読めねえ……」

「説明しなきゃダメか……仕方ないな」

 神様のことを相談した以上、隠しても仕方ない。事情を説明することにした。

 今週末、神様と一緒に服を買いに行く約束があること。神様は綺麗なくせして服に無頓着なこと。資金は母さん持ちなので額面は気にしなくていいこと。そしてなぜか母さんは服について相談を受け付けてくれなかったこと。

 もちろん、神様の普通じゃない身の上や、一張羅が巫女装束だということは伏せてある。

「で、ちょっと事情があってここんとこ気まずくて話せてないし、そのひとも少し元気ないんだ。今回のでうまく何とかならないかと思っててさ」

 一通り話し終えたところで、鑑はわざとらしく大きなため息を吐き出した。

「お前さ、のろけてるだろ?」

「のろける? 付き合ってるわけでもないのに、つーか何を?」

「とっくに両親公認じゃねーか。あげく相手のこと綺麗とか真顔で言いやがって……お前みたいな男の敵、やっぱふられちまえ、マジで」

「ひでえ」

 綺麗な(ひと)を綺麗と言って何がおかしいのだ。何がまずいのかいまいちわからないが、そういうことを言われると結構傷つく。

「まあ、いいや。せっかくの初デートみたいだし」

「デっ!?」

 思わず出そうになった大声を手で押さえ、周りを見る。昼時ということもあってか、オレたちを見ている人間はほとんどいなかった。どうにか、デートという小っ恥ずかしい単語がまき散らされる事態は防げたらしい。しかしいきなり何言ってんだこいつは。

「鑑、オレまだあのひととは付き合ってなんかないぞ!?」

「うーるせー。アドバイスはひとつ、黙って聞け。デートってのは、言ってみれば『お姫様デー』だ。相手の言うこと全部聞いてやれ。以上。で、マネージャーはA組だな」

「あ、ああ。ありがとな。そんじゃ行ってくる」

「ああ行ってこいコンチクショウ」

 さっそく教室を出て走り出す。

 オレは二年生でマネージャーは一年生。学校は三階建てで、廊下の両端に階段があり、上から一年、二年、三年、という割り振りになっている。最上階の階段寄りとは、道理で屋上に縁があるわけだ。

 一段飛ばしで階段を駆け上がり、三階。A組の教室をのぞき込む。

「あれ」

 いない。教室はがらんとしていて、ほとんど出払っている。動き出す前には間に合わなかったらしい。

「どうしたんすか、先輩」

 聞き覚えのある声に振り返ると、陸上部の後輩だった。元々陸上部は部員が少ないので、オレに覚えるつもりのない女子はともかく、男子部員は覚えている。

 こいつは短距離走の、確か木嶋(きじま)。何かとマネージャーに話しかけている姿を覚えている。なるほど、同じクラスだったらしい。

「悪い、マネージャーいるか?」

 なぜか一瞬、木嶋は不満そうに唇をとがらせオレをにらんだが、それでも答えてはくれた。

「……橘川(きっかわ)なら、いないっすよ」

「そうか。ありがとな」

 礼を言って再び階段を駆け上がる。あいつの生態には元々興味を持っていなかったものの、昼飯時の居所なら見当がつく。たぶん屋上にいるはずだ。

 そういえば、あいつ橘川っていうのか。

 マネージャーの名前をまともに覚えていなかったことにも気が付いた。間違いない、オレひどい先輩だ。

 重い扉を押し開けると、太陽。

 予想通り給水タンクの配管に腰を下ろしていたマネージャーは、オレを見て引きつった顔で固まっていた。

 真上からのまぶしさに目が慣れる前からしかめっ面で歩いていったせいだろう。たぶん、オレは顔の作り自体が怖いのだ。

「ご、ごめんなひっ!?」

 あ、噛んだ。

「いや……悪い。単にまぶしかっただけだ」

「……ほーれふか」

 おかずごと舌を噛んだらしく、口を押さえうつむいていたマネージャーは、しばらくして口の中のものを飲み込んだのか涙目のまま顔を上げた。

「ビックリしました。わたし何かしちゃったのかと」

「たぶんしてない。心当たりないのに謝られてもこっちが困る」

「そ、そうですね。あ……えっと、隣、座ります?」

 弁当箱を膝にのせたまま、じりじりと横にずれるマネージャー。せっかくなので好意は受け取ることにして隣に腰を下ろす。

「ありがとう。ひとつ教えてほしいんだけど、いいか? ああ――食べながらでいい」

「あ、はい。すみません。何を答えればいいです?」

「女物の服って、どう選べばいいんだ?」

 動き出しかけた箸が止まり、マネージャーの首が四十五度ちょっとまで傾く。

「……え?」

「だから、女物の服」

「ええっ?」

 何か驚いた顔で振り返り、マネージャーがオレの顔を見つめる。

「源センパイ……何を始めるんですか?」

「え? オレ? ああ……違う。オレが着るんじゃない。変な誤解するな」

 オレの趣味を疑ったな、こいつ。

「おまえも知ってるだろ、この前空から降ってきた神様。あのひとの服を買いに行きたいんだけど、あのひと自身オシャレしたことないらしいし、オレじゃ女物の服のことはわからないからな……って、どうした」

 思わずのけぞる。マネージャーがきらきらした眼で身を乗り出してきていたのだ。

「デートですね! いいなあ……!」

「デっ……おまえもか」

 まるっきり同じことを鑑に言われたばかりだ。

 これはつまり、オレが気付いていなかっただけで、恋愛を物事の基準にして考えている人間が身近にあふれかえっていたってことか。何でもかんでも恋愛と直結するのはさすがに普通じゃあないはずだ。

 とりあえず、と気を取り直す。餅は餅屋、女のことは女。訊きたくて来たのだから投げ出すわけにはいかない。

「ああいう美人にはどんな服が似合うんだ?」

「美人……」

 訊いたとたん、なぜかマネージャーは顔を赤くして目をそらした。

「センパイ……何て言うか……すごいです」

「え、何が」

 ひょっとして、オレが無知すぎるのか?

「と、とりあえず、ですね」

 気を取り直したか、マネージャーが振り返る。

「わたしが見た感じ、シンプルなのがいいんじゃないかな、と。例えば、ワンピースとか。Tシャツにジーンズもさわやかな気がします。その……センパイが言うとおり素材が良すぎて、着飾るとたぶん逆効果になりますよ。神様はけっこう細身のキレイ系なんで、あの帽子に合わせて赤黒のゴシックドレスもありかもしれませんけど」

 一息に話し終えて、久しぶりに箸が動く。口の中に消えていったのは、前と同じような野菜炒め。生っぽい音は聞こえてこないので、どうやら前よりレベルアップしているらしい。

「へえ……」

 少し、女子のことを見直した。男子にはわからない話をよくずっと続けてられるな、と思っていたものの、いざ訊いてみるとしっかりした分析込みでこんなにすらすら答えが出てくるとは。

「すごいな。おまえに訊いてよかった。ありがとう橘川」

 びく、と箸がまた止まる。なぜかまた顔が赤い。ようやく呼べた名字は覚え違いじゃなかったみたいだが、この反応はいまいちよくわからない。

「センパイ……困ります」

「何が――」

 言いかけた矢先ずどん、と腹に響く衝撃が屋上を抜けた。一拍遅れて、真上から降って来た紅白の人影が軽やかに着地する。立ち上がるなり、その人影はオレを見て声を上げた。

「琢磨ではないか、ちょうどよい」

「姉さん?」

「それにまねえじゃあ殿も」

「あ、お久しぶりです」

「どうしたんだ?」

 オレの問いに、神様の眉がくいっと上がる。

「どうもこうもないわい。食べものをおろそかにせぬのがぬしの信条であろうが」

 言いながら歩み寄ってきた神様が腰をかがめたかと思うと、オレの膝には、バンダナに包まれた弁当箱が置かれていた。

 忘れたのを届けに来てくれたのだ。

「あ――ありがとう!」

「よいぞ」

 神様はにっと笑ったかと思うと、何かを思い出すように腕組みで考え込み、改めて口を開いた。

「訊きたいことがあったが、また後にするとしよう。ところで――」

 (みどり)の眼が、橘川に向き、そしてオレに戻る。

「琢磨は、まねえじゃあ殿は好きか?」

「は?」

「え?」

 当然ながら、隣からも驚きの声がする。

「いきなり何言い出すんだ?」

「見たところ親しく付き合うておるようじゃからな」

「なに言い出すんですか神様っ。わたし困りま――」

「姉さん」

 できるだけ感情を抑えた声は、やけによく通った。大声を出したつもりはなかったが、声を出す時点で橘川が黙ったということは、それなりに威圧的な響きだったんだろう。

「何を言い出すんだ……?」

 学校で誰かに適当なことを言われるのは別にいい。でもよりによってどうしてあんたがそんなこと言い出すんだ? 結局、オレのことは何とも思ってないのか?

 目が合って――苛立ちが揺らいだ。

 神様が泣いている。

「それは……む?」

 泣いているが、様子が何かおかしい。オレの言葉にばつの悪そうな表情で返事をしようとしながら涙をぽろぽろこぼし、拭った後でそれが涙だということに気付いたらしく、目を丸くし、不思議そうな表情になる。

「わしは……、ぁあ……わし、は……」

 呟きながら何かに気付いたように一瞬暗い表情になった神様は、口をゆがめ、今度こそ本当につらそうな泣き顔になった。よろよろと後ずさったかと思うと、力なく膝を折り、両手で顔を覆う。

「姉さん!」

「寄るな琢磨!」

 震える細い肩を放っておけずに駆け寄るオレを、神様の鋭い声が止めた。

「姉さん!?」

 続いたのは、絞り出すような細い声。

「今のわしは、まともではない。後で……後で話す。だから、今は……構って、くれるな」

 袖で目元を拭いながら、神様はゆっくりと立ち上がった。そのまま、オレと目を合わせようとせず屋上の隅の方へ歩き出す。

「しばらく、休む。落ち着けば、一人で帰れるからの」

「姉さん……」

 大丈夫か、とは訊けなかった。事情はわからなくても、どう見たって平気じゃない。

「すまぬな、琢磨。それと……まねえじゃあ殿」

「は、はいっ!」

「琢磨を……頼む。すまぬ、な」

 振り返らず、丸まった猫背越しで全て言い終えると、神様は物陰に消えていった。

「何なんだよ……」

「センパイ、行きましょう」

「……ああ」

 神様に駆け寄るとき放り出して転がったままだった弁当箱を拾い上げる。ついでに耳を澄ましても、神様が隠れている辺りからは物音が聞こえてこない。

 歯がゆい。神様が何に苦しんでいるのかがわからず、何もできない。

 あのひとを助けられる力があれば。それとも、助けられる誰かがいるなら、そいつに任せなければいけないんだろうか。

 もやもやした気持ちはいつまでたっても晴れず、せっかくの弁当も美味しくなかった。



【四】

 学校は、その性質上、住宅街に囲まれていることが多い。言い換えれば、付近に高層建築物がある可能性が高い。

 実際、一ヶ月単位で貸し切られたそのマンションは学校の屋上を監視するのに絶好の条件であった。

 男は監視と共に警戒も怠っていなかった。

 この部屋が地上十メートル超の高さにあることは全くと言っていいほど警戒を緩める理由にならない。そういう邪魔が入る恐れがあるのだ。

 間近を何かが横切った瞬間、男は双眼鏡から手を放した。片手でスーツの襟をつかみ、もう一方の手を予め留め具を外しておいた懐のホルスターに伸ばす。

 ダブルアクション。弾倉回転式(リボルバー)拳銃は、力尽くで引き金を引けば、安全装置である撃鉄を起こすという別挙動を予めしなくとも発射ができる。

 乾いた破裂音は一回きり。そして放たれた銃弾は、狙いをつける暇がなかったとはいえ男の鼻先にいた標的を捉えることができなかった。

「く……がッ……!」

「案の定、張り込んでいたな」

 涼しい顔のまま片手で男の首を締め上げ、その爪先を宙に浮かせながら、長い黒髪を後ろで一本に束ねた青年が呟く。

「ぎざま……!」

 かすれた声で悪態をつきながら青年をにらみつける男は、自分を見上げる青年の眼が奥底から赤い輝きを帯びたことに気付き、驚愕と戦慄とで目を見開いた。

「活動は完全分業制、個々に与えられている情報も必要最低限、か」

 男を見上げながら、青年。セリフを暗唱するかのような呟きと共に放り出された男は、既に首を締め上げられていたこともあり、そのまま気絶していた。

「最初から俺達を想定した対策を立てているな。この街もとんだ厄介事に巻き込まれたものだ」

 青年が肩越しに横目で眺めた学校の屋上からは、ちょうど紅白二色の飛行物体が飛び立つところだった。



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