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やさしい角に、たんぽぽを。  作者: 賀東しょこら
弟以上の
15/26

拾肆/竜神様と夜に

【一】

 夜。部屋は静かだった。

 シャープペンの芯が紙面をこする音。時折そこに、紙のめくれる音が別のリズムで混じる。

 一通りノートの紙面を埋め終えたところで、椅子の背もたれに背中を預け伸びをした。

「終わったか?」

「まあ、大体」

 後ろからの低女声(アルト)に応え、首をこきこきと鳴らす。

 驚くようなことはない。こうして学校の課題に手を着ける前から、背後のベッドには神様が腰掛けていて、写真付きで解説されている料理のレシピ集を読みふけっていたのだ。何やらもう一冊、雑誌も持ってきているようだが、それは伏せられていてオレの位置からは表紙が見えない。

 今日はDSを持ってきておらず、これといった用事もないらしいが、彼女はもう当たり前にオレの部屋の背景になじんでいる。彼女の部屋は実質『着替えの置いてある寝室』でしかないのだ。

 オレが課題や何かで集中しているなら、神様も用件が終わるまで黙って見守っていてくれるので、邪魔にはならない。ただし、沈黙の時間が長いとベッドを占拠して寝付いてしまうことがあり、オレは床で寝る羽目になる。

琢磨(たくま)

「ん?」

 机の本立てからバイク雑誌を取り出そうとしたところで呼ばれ、振り返ると、神様は自分の読みふけっていたレシピ集の見開きページを広げて見せた。ありえないほどの大作ぞろいの豪華な食卓が紙面に満開の華を咲かせている。

「どれが食べたい?」

「どれって……全部。美味(うま)そうだし」

「よし、わかった」

「……姉さん」

「言わんでよいぞ」

 レシピ集の作り方ページの記述を指でなぞり目を走らせながら、神様はそれ以上のオレのセリフを(さえぎ)った。

「身の程はわきまえておる。じゃが目標があれば修業にも身が入ろうぞ」

「目標ねえ……でもなんでそんなことオレに訊くんだ?」

 修業というくらいだ、自分自身を高めるための練習に、他の人間の都合が関係してくるとは思えなかった。

 問い返すと、神様はふうわりと微笑んだ。

「琢磨は前、わしにがとうしょこらを食べさせてくれたな」

「あ、ああ」

 不意の微笑。相変わらず綺麗で、ついついうなずく動作がぎこちなくなってしまう。ちょっと暑くなってきたのはたぶん気のせいだ。

「美味しいものは、とても嬉しいな。琢磨が嬉しい様を、わしはそばで見たい」

 照れたように視線をそらし、神様は角の付け根をかりかりと爪の先でかきながら、言葉を続けた。

「全てではないにせよ、わしの作ったおかずも入った弁当箱が毎日空になって戻ってくるのは、もちろん嬉しいぞ。少し余裕もできたのでくっきいも添えておるが、美味しいか?」

 最後にちらりと向けられる横目に、心臓が跳ねる。このひと、天然じゃなくなったらどれだけ恐ろしいことになるんだろう。

「あ、ああ。美味しい。でも……姉さん」

 後ろめたい。こんな好意に、オレは釣り合えているのか。今まで、彼女に何をできたのだ。

「オレ、姉さんに何もできてない。そんな思ってもらえても、どうやって返せばいいのか、わからない」

「ふ、ふ。それは逆じゃ、琢磨」

 神様は一瞬不思議そうにオレを見つめると、笑った。

「わしは琢磨と毎日会えて嬉しいぞ。かつては休みの間しか会えなかったではないか」

「まあ、そうだけど」

 言われてみれば、会う機会といえばおばあちゃんの元への帰省だけだ。幼かったオレがどうあがいたところで、独りで向かう手段などあるはずもない。

「会えたと思えば待つ、その、待っている間が、いつからか嫌に、つらくなってきていたのだ。球磨(くま)に訊いたが、それは『寂しい』という気持ちなのだな。今わしは、あまり寂しくないぞ」

「……あまり?」

 引っかかる言い方だ。思わず問い返すと、神様は、あ、と小さく声を発した。

「か、語るに落ちたのう。その、な」

 どこか恥ずかしげに目を伏せ、ちらりと上目遣い。

「そばにおるのに、ぬしに触れられぬのは、少し寂しいぞ。恥ずかしいのは、わからぬでもないのじゃが」

「え」

 一瞬、硬直。

 つまり、スキンシップがしたいと? 最近抱きつかれたりしなくなったとは思っていたが、今までずっと遠慮してくれていただけなのか? 恥ずかしくも申し訳なくなってきた。

「な、何したいんだ?」

「抱いてよいか?」

 即答に、瞬間沸騰。血が上って暑い。

「無理!」

 反射的に返す即答に、神様は困ったように眉を寄せる。

「じゃろう。わしにはいまいち加減がわからぬ。わしは琢磨に触れたいのじゃ」

「ん……?」

 ちょっと待てよ、と記憶に引っかかるものがあった。つい最近、ソフトなスキンシップで神様がとても嬉しそうにしていた気がする。

「ええ……と……」

「どうした、琢磨?」

「ちょっと待った」

 不思議そうな神様を手で制し、腕組みでうつむく。

「今……思い出せそうなんだ」

「何をじゃ?」

「前、姉さんが何か、オレの行動で喜んでくれた気が」

 言ったとたん、神様の表情がほころんだ。

「わしの頭をなでてくれたのう」

「それだ! ――え」

 顔を上げてみて、期待に満ちた眼に気付いた。

「してくれるのか?」

「え、いや、えっと」

 きらきらした眼が、相変わらずまぶしい。心なしか、頬が赤らんでさえいるようにも見える。

「いや、か?」

 輝く眼が、微かに(かげ)る。

「いや、いい――じゃなくて、いい。いやじゃない」

 普段どおりの口調だと否定的に聞こえかねないので、あわてて言い直した。

 そして悟る。自分は神様が喜んでくれたことを思い出そうとして、流される形ながらもその実行を承諾した。現時点でもう、選択肢はひとつしかないのだ。

 静寂の中、神様の視線に物理的な熱さえ感じる。

 落ち着かない。大したことではないはずなのに、動悸(どうき)は止まらない。加えて、口の中が(かわ)く。

「そ、それじゃ」

「う、うむ」

 椅子から腰を浮かし、ようやく出せた声はかすれていて、それに応えて神様もレシピ集を脇に置いて神妙な面持ちで背筋を伸ばす。

 わずか数歩の距離を恐る恐る縮め、うっすら汗ばんだ右手をズボンで(ぬぐ)い、目前でベッドに腰掛けている神様の頭上へ、これまた恐る恐る伸ばし……置く。そのまま、手を左右に。

 豊かな黒髪は、さらさらした感触がとても心地よい。毛布や犬猫のように軽く柔らかいわけではなく、驚くほど摩擦がないのだ。極上の糸とされる(シルク)はきっとこのような手触りなのだろう。思わず、洗った後の指通りの良さを(うた)うシャンプーのコマーシャルが頭の中に蘇った。

 神様は、されるまま黙って目を細め、心地よさそうに表情を緩めている。

 まつ毛が長い。ふっくらとした唇はみずみずしい(つや)を帯びている。トレードマークでもある巫女装束には黒髪がよく映えていて、一見しただけでは判らないその内側の曲線美を、不本意ながら鮮明に覚えている。他にも、連れ立って歩いていて首を抱え込まれたときの、柔らかな感触、ほのかな香り。この細く柔らかそうな首筋に触れたら、彼女はどんな反応をするのだろう。あるいは、もっと、首から更に下はどんな感触――。

 ごく、とつばを飲む音で、自分が神様を食い入るように見つめていたことに気付いた。

 熱。顔と言わず背中と言わず、体に火がついたような気がした。自分が恥ずかしく、腹立たしい。

 下品だ。

 極端な話、神様はオレがキスを迫ろうと押し倒そうと怒らないかも知れない。それこそ、実際にその先の行為に及んだとしても。だがそれは、無防備な信頼につけ込む(よこしま)な、薄汚い考えだ。そもそも、神様はまだ何もわかっていない。

 神様のことは好きだが――その『好き』が、女を知らないガキの性欲の言い訳でないと、どうして言えるだろう。

 自分の勝手で、また彼女を悲しませるのか。そもそも『あの時』、オレは彼女に悲しげな顔で拒まれた。こんな人間が誰かを、ましてこの(ひと)を好きになろうなど、図々しい。

「……琢磨」

「あ、え?」

 掛けられた声で我に返り、さらさらの黒髪から手を離した。まっすぐな眼差しがオレを見上げている。

「険しい顔じゃ。悩み事か? わしでよければ力になるぞ」

「あ、いや――いい」

 悩みの種に協力されても、余計に暴走しかねないので困る。

「嬉しいけど、オレの問題だから。自分でどうにかしたい」

「ふむ……そうか。うまく解決できるとよいな」

「ああ。姉さん――頭冷やしたいからひとっ走りしてくる」

 暗に着替えを告げると、神様もそれを汲んでくれたらしく立ち上がった。

「わかった。夜道は暗い、気を付けてな」

「ありがとう」

 手早くジャージに着替えて、部屋のドアを後に、階段を駆け下りた。

 玄関を出てみると、ゆるい夜風は火照った体に心地よい涼しさ。

 ストレッチもそこそこに走り出す。とりあえず、町内を一周するつもりだ。街灯は途切れず、視界に不安はない。

 走りながら思う。

 つくづく、神様はまぶしい。

 日頃から自分が神様に受け入れられているのはわかっている。先の流れも、本音を言えば嬉しい。オレだって神様には触れたいのだ。

 でも、と思う。自分は半端なところが子どもで、しかも女心というものがあまりわからない。どう加減を間違えて相手を傷つけてしまうか、わかったものではないのだ。ついさっきもそうだ。綺麗な神様をおとしめるいやらしい発想――何と汚いのだろう。神様の前であることを忘れて自分をぶちのめしたくなった。よくも自制が利いたものだ。

 もっと大人ならこんなことはないのだろうに、と自分の未熟さが歯がゆい。

 今が夜でよかった。すれ違う者がなく、一方向へ際限なく考えがめぐる反面、そのせいで険しくなっている顔を誰にも見られる心配がないからだ。顔のこわばり具合が自分でもわかるということは、他の人間の目には相当険悪に映るに違いない。

 ふと、足が止まる。

 周囲を見回してみて、これといったおかしなものはない。

 視線を感じた気がする。

「気のせいか」

 気が立っている分、めぐる考えの合間に紛れ込んだ何かに過剰反応してしまったのだろうか。頭がごちゃごちゃして眠れないときはよく走りに出るので、夜道をうろつく猫の夜行性ぶりは実感としてよく知っている。それの可能性は高そうだ。

 神経がとがり過ぎてもあまりよろしくない。頭を振って、今までよりもペースを上げることにした。

 少しは落ち着き、考えの道筋もついたので、残りの行程は当初の思惑通り無心で行けそうだ。



【二】

 数メートルであっても、地表を離れると風は強まる。電柱の上ともなればそれは顕著だ。

 彼女がまとう白い薄手のコートの裾も、意に反してはためこうとするので、少しうっとうしかった。

 彼女の視線の先では、ジャージ姿の若い男が自分自身の周囲を見回している。視線に気付いたのかも知れないが、見下ろされているということにまでは気が付いていないらしい。

 男は再び走り出した。その行く手にはこれといって目立つ建物はない。

 夜に動き出すとは何事だろう、と思ったものだが、どうやら単なる気分転換の類なのかもしれなかった。

 普通だ。とても普通の高校生だ。

 彼女は男から視線を外し、電柱から飛び降りた。夜の闇の中、その姿は短い髪の色もあいまって銀色の軌跡を描いた。



【三】

 かいた汗をシャワーで流し、裸の肩にタオル、下はパジャマという格好で部屋に戻った。麦茶入りのコップを手にした頭からはまだほやほやと湯気が上っている。

 部屋に神様の姿はない。恐らくもうパジャマに着替えて自分の布団の中にいるはずだ。オレ自身もそうだが、神様は基本的に夜更かしをしない。

 自分のものにもかかわらずいつの間にか神様の定位置と化しているベッドに、理不尽な居心地の悪さを感じつつ腰を下ろし――尻が何かを踏んだ。

「ん?」

 雑誌だ。しかし女物のブランドバッグの広告を裏表紙に掲載しているような雑誌を、オレは知らない。もちろん、買った記憶もない。たぶん、レシピ集と一緒に持ち込まれた、神様の忘れ物だろう。

 何気なく手に取り、表紙を見て、硬直。

「『今号まるまるKiss特集! バードキスからディープキスまでバッチリ解説! シチュエーション別図解でカレシのハートをガッチリホールド!!』……ってオイ」

 色々な意味で異世界の言語を口に出して読んだ際の精神的なダメージは思いのほか大きかった。思わずがっくりうなだれる。

「……姉さんが……忘れてったんだよ、な? 何考えてるんだ?」

 いつの間にか、色恋沙汰にも興味を持ち始めていたのだろうか。しかし、それにしてはさっきの物腰も今まで通り、天然というか無垢だった。

 まさかとは思うが、オレが迫ろうとするのを密かに期待されていたのだろうか。

 客観的に考えれば若い女のひとが若い男の部屋に入り浸るなど特別な関係以外の何でもない。とはいえ、神様は子供扱いはやめてくれたものの、相変わらず年上として照れのない態度で接してくるし、オレはオレで『このひとは姉だ』と、その落ち着けそうにない妄想から目をそらしているのだが。

「読めねえ……姉さんが全然読めねえ」

 もうひとっ走りしてこようか、と真面目に悩んだが、さすがにもう夜は遅い。

 とりあえず見なかったことにして、雑誌を机の上へ置いた。



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