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神童[Shen tong]

ハニーグレー

作者: 藤夜 要

「ねえ、GIN、水族館へ行きたい。今度の祝日に連れてって」

 由有が突然そうねだって来たのは、木枯らしが冬の便りを届けに来るころだった。

「連れてって、って、なんで俺が」

「いいじゃん。誕生日プレゼントくれなかったし」

「なんで俺がお前に誕生日プレゼントをやるのが当然って設定になってるんだ」

「……じゃあ、いい。遼とアキバに行って来るから」

 近ごろすっかり由有の常套句になった、その殺し文句にギクリとする。

「ちょっと待て。まさかまた」

「事務所に盗聴器とカメラをセットしてやる」

 由有が得意げに宣言した。勝ち誇った顔で腰に手を当て、顎を上げてわざと見下ろすポーズを取る。

「あのな……」

 下らないいたずらを教えたRIOに向けた思いつく限りの文句を、脳いっぱいに散りばめた。

「だぁって、結局教えてくれないんだもんっ。ねえ、ホントはどっち?」

 零と恋人同士なのか違うのか。恋に恋する年ごろの由有らしい、言葉は悪いが“下世話なデバガメ根性”だった。答えるついでに、つい苦笑が浮かぶ。

「何度も言ってるじゃん。元同僚で、今は本間の右手と左手みたいな関係だ、って」

 どうしても色恋の方へ答えを持って行きたいらしい由有は、不満を頬いっぱいに溜め込んで、GINにあからさまなアピールをした。

「絶対ウソ。認めない。それならどうして零があたしに“GINにまとわりつくのも大概にしておきなさい”なんて言うの? なんで本間さんまで“そろそろバイトから足を洗ったらどうだ”なんて言い出したの?」

 その質問にも、確か先週答えたはずなのだが。そう思いながらも、壊れたレコーダーのようにまた同じ答えを溜息混じりで口にする。

「だから。零がそう言ったのは、一部のマスコミにお前が鷹野の娘だってリークされたらしいからって言っただろう。もう隠密で警護する必要がなくなったの。零以外の警護もついたし、遼も校内でお前を警護する必要がなくなったから学校を辞めただろう?」

 真っ赤な顔が、更にむくれる。かと思うと、膨らみに膨らんだ由有の頬が、いきなりプシュっと風船が弾けたようにすぼまった。

「もういいっ。オトナってみんな嘘つきばかりっ。鷹野だって待つって言ったくせに、結局しょっちゅう秘書の瀧田さんを使って顔を出せとか言って来るし。余計に友達が出来にくくなったじゃないのっ。どうしてくれんのよっ」

「親父さんに直接言えよ。俺の知ったことじゃないし」

 しまいとばかりに書類に視線を落とす。実は白紙だったりするが。

「……っ、風間神祐の大バカヤロウっ! 葛西に十時だからねっ! 来なかったらまた家出してやるっ。そしたらあんたの責任よっ」

 ガツガツと荒っぽいブーツの音が床を蹴る。バタンと扉が閉まったかと思うと、はめ込まれた飾りガラスがピキ、と小さな悲鳴を上げた。

「……ヒビ、入ったし」

 GINは心底呆れた溜息を漏らし、デスクの一番下の引き出しを開けた。透明テープを手に取り、斜めに走ったガラスの傷に応急処置を施した。

「で、水族館はごり押しするわけね」

 葛西臨海公園。そこはGINにとって、あまり足を踏み入れたくない場所だった。

 ――ねえ、神ちゃん、水族館へ行きたいの。

 遠い遠い昔、由良がそう言った言葉と、さっきの由有の声が重なった。




『ねえ、神ちゃん、水族館へ行きたいの』

 由良からそんな連絡を受けたのは、夏も終わりに近い八年前のある日。次の春に警察学校の卒業を控え、紀由から警部補として配属されるであろうと打診されて間もないころだった。九月の連休であればと寮の外泊許可を取り、それを利用して彼女につき合った。ペンギンの前で散々待たされた場内をようやくひと巡りしてから外へ出たとき、おもむろに由良が呟いた。

『小姑ってつらいよねえ。でも兄さんが堅物だから、兄さん夫婦と別居っていうのは今更どうせ無理だろうし』

 そんな話を聞きながら公園をぶらぶらと歩いた。GINは露店のアイスクリーム販売に目を留めると、それを買って由良に手渡した。

『志保さんと仲良かったのに、どうした? 一緒に住んでみたらイメージが変わった、とか?』

『ううん、そういうわけじゃ、ないんだけど』

 茶化せば怒って、沈んだ表情が消えると思ったのに。由良の好物なプリンアイスなら、少しは笑ってくれると思ったのに。どちらも、沈みがちな彼女の表情を変えてはくれなかった。

 由良の口許からピンク色の舌がちらりと覗く。受け取ったアイスクリームを、少しずつすくうように舌先へ乗せて食う。幼いころから変わらない、けちけちとした食べ方で味わいながら、彼女はぽそりと呟いた。

『……部屋がね、隣同士、なのよね』

 歯切れ悪くそう言って笑う由良の頬が、うっすらと紅に染まっていった。それを見て、やっと同居が苦手という言葉の意味を理解した。

『親父さん……にぶい……』

『そ。っていうか、ほとんど家にいないでしょう? そういうところが解らないだけだと思うの。お母さんは、あなたも旦那さまを見つけてさっさと出て行きなさい、って取り合ってくれないし』

『うわ、あのおふくろさんなら、本気で言ってそう』

 目に浮かぶ母娘のやり取りに、つい思ったことをそのまま口にさせられた。

『神ちゃん……やっぱり家族になろうよ』

 由良が懐かしい言葉を口にした。彼女は昔からこんな風に、兄妹喧嘩などの不協和音を感じるとGINを味方に引き込もうとするきらいがあった。そんな彼女の信頼が嬉しくて、これまで幾度となく紀由に食って掛かっては理攻めで返され負けていた。懐かしい申し出にくすぐったさを感じるものの、そのころのGINには、もう紀由を敵に回すほどの青さはさすがになくなっていた。

『お前、俺がいくつになったと思ってんだよ』

『同い年だから、二十三。だから、何?』

『何って……。よほどの事情がない限り、成人の養子縁組なんて聞いたこともないぞ』

 呆れ返った心境が態度と顔に表れたらしい。由良の顔が、益々曇っていった。返す言葉もフォローの策も思いつかず、場つなぎにポケットから煙草を取り出して一本を燻らせた。

『……そういう意味じゃないのに』

『は?』

『神ちゃん、家のお父さんのこと、鈍いなんて言えないね』

 そんな言葉が間近に聞こえる。由良の食っていたアイスクリームのくどい甘さが、それまで満たしていた煙草の味を凌駕する。その瞬間GINの頭の中が、無地のキャンバスに負けないほど白一色に塗り潰された。


 ――風間由良になりたいって意味なのに。神ちゃんの鈍ちん。


 そんな思念が淡く漏れ伝う。零との違いを感じさせる柔らかな質感が、GINの奥底をくすぐった。由良の閉じた瞼を飾るまつ毛が、こんなに長いという事実に初めて気づかされた。コンマゼロの距離を実感させる甘ったるい匂いが、妙な心地よさと交じり合いGINの心臓を跳ね上げた。

 もうひとつ、気づいたこと。

(……見えない……?)

 彼女から伝わる思念が、混沌としていないつるりとした表面で思い描いた言葉そのものだけだった。

 濡れることもない幼い触れ合いが、次第に互いの唇から消えていった。ぬくもりが離れたかと思うと、寂しげな微笑がGINをまっすぐ見つめていた。

『困らせちゃったみたい。ごめんね。やっぱ、今のは、なし』

 由良はGINの呆然自失に構うことなくベンチから立ち上がり、食べさしのプリンアイスをGINに握らせた。コツコツと数歩歩いてGINと距離をとると、彼女は向けた背中をくるりと返し、GINの瞳をまっすぐ捉えた。膝丈までのフレアワンピースの裾が、ふわりと軽く舞い上がる。そこから覗いた白い美脚を、そのとき初めて意識した。

『今度会う時も、今までと変わらない神ちゃんでいてね』

 由良の長い髪がたなびき、彼女の表情を隠す。渇き切った喉が、ようやくゴクリと唾を飲み下してくれた。

『妹ちゃんは、独りで帰れます。じゃあね』

 守って来たつもりでいた元少女が、一方的にそう言い捨てる。彼女はGINに変化球の攻撃を食らわせたまま、フォローも入れずに立ち去って行こうとしていた。GINはそれを追うことも、呼びとめることさえ出来なかった。

 片手に、食べさしのアイスクリーム。もう一方には、燃え尽きた煙草が一本。溶けたクリームと煙草の灰が、持ち主を冷やかすように両膝へぽとりと落ちた。買ったばかりでやっと馴染んで来たところだったのに。体が固まったままでそれらを防げなかったせいで、GINのジーンズが台なしになっていた。

『え――ッッッ?!』

 晩夏の臨海公園の一角に、ヒールが駈けて行く足音とGINの絶叫がこだました。


 家族とか、関係とか、深く考えたことなどなかった。それらは自分に無縁と信じ、これまでそれを疑ったことさえなかった。紀由と由良がいたらそれでいい。ただ漠然とそう思い、今が変わらず続きさえすればそれでいいと思っていた。

 紀由と由良は、GINにとってカリスマだった。世間の汚れを浴びているにも関わらず、決してそれにまみれはしない。内からみなぎる芯の強さや義侠心は、演技や見栄で保てるようなかりそめのものではない、と誰から見ても解る類のものだった。そして何よりGINに憧れを抱かせたのは、人を惹きつけてやまない、見えない何か。そう感じて彼らに関わっている人間は、GINの知る限り自分以外にも数多く存在した。

 傍にいられるだけで、充分だったのに。それだけでも、充分生きていけると思っていたのに。

『……零を』

 どろりとまとわりつくアイスクリームをうっとうしげに眺めて呟いた。べたつくそれに蠅が集まり、蜂蜜色のクリームが薄汚い黒やグレーの斑に冒される。それが、自分と本間兄妹との真の関係を表す象徴に見えた。

『利用なんか……しなければ、よかった』

 GINに上乗せされた我欲が、そんな独語を漏らさせた。


 その後GINが決めたこと。次に寮の外泊許可を取るのは、由良と会うためだけに。零と会う時間を作るのは、やめた。念願だったフェアレディZのオーナーになるのも諦めた。元々厳しい寮生活なので遊び歩く時間もなく、給料はほとんど減っていないが。

『……兄貴と比べられるんだろうな……』

 預金残高を見て溜息をつく。まだ、“それ”にはあまりにも足りなくて心許ない。身分もまだ巡査の肩書きを背負ったまま。せめて配属されて警部補になってからでないと、国家試験を通っただけでは本間の親父が許さないだろうとも思った。

 いろんな鎮痛剤を試してみた。唯一効果が期待出来そうだったのは、神経系で一番の即効性と、胃を荒らす副作用が強いと言われるボルタレン錠のみだった。たまたま腰痛持ちだった同僚が試しにと分けてくれたそれを飲んでみたら、初めて頭痛が和らいだ。

 汚い、と思った。隠したままでいる自分のことを。

(零との約束を反古にするわけじゃないし。そもそも同じ考えでいたし、それに対する報酬なんか要らないってだけのことだし)

 誰に言い訳をするつもりだったのか、何度もそれを頭の中で繰り返した。

 由良に二度とあんな顔をさせたくはなかった。自分が由良にそんな顔をさせた。言い換えれば、由良に逆の表情も自分がさせてやれる。その可能性に思い当たると、実現させたい自分を抑え切れなかった。

 翌年三月八日。GINと由良の誕生日。あの公園の同じベンチで、彼女に誕生日プレゼントを開いて見せた。

『……うそ……』

 由良にそう言わせたのは、ピンクアクアマリンを頂にしたシンプルなプラチナのリング。

『あ~……の、ですね。石がグレードアップするのは、もそっと先になるんですけど……親父さんに言える自分になるまで、その……待っててくれ、とか言ったら、怒る?』

 グローブをしたままの手で箱からぎこちなくリングを取り出し、恐る恐る彼女を盗み見ながらようやく尋ねることが出来た。ゆるりと彼女の左手が上がり、ほどなくその手の甲に、ぽたりと雫が数滴落ちた。

『……うん……』

 少女のころを思い出させるくしゃくしゃの顔を見て、薬指にリングを嵌める手の不器用さにじれったさを覚えた。

『……出来るだけ、急ぐから』

 顔を見ては言えなくて、由良をそっと抱え込む。

『……うん』

 華奢な指が、GINの背中にしがみついた。

『急いで本間に追いつくから』

『……うん』

『親父さんに認めてもらえるように、がんばるから』

『……神ちゃん』

『ん?』

『……好き』

『……うん』

 GINの胸が、きゅ、と痛んだ。




「じーんっ」

 そんな呼び声で我に返ると、鼻にくっつくかと思うほどの近い距離に、プリンアイスが迫っていた。

「うぉ」

 八年ぶりに訪れた葛西臨海公園の、同じベンチに腰掛けていたことを思い出した。目の前の少女を、また一瞬だけ見間違える。タイムスリップから現在に戻った頭と目で由有を見れば、由良よりよほどおてんばで快活な表情をしているのに。

 GINはそんな自分の錯覚をごまかすように、由有の差し出したアイスにケチをつけた。

「なんでふたつも買って来たんだよ。こんなクソ寒いのに食えるかっつうの」

「だって、今日でおしまいだからって、おじさんがおまけしてくれたんだもの。いいじゃん、GINも甘いものが好きなんでしょ?」

 そう言って、GINの不機嫌な声などお構いなしに押しつけて来る。

「コラ、ネタネタが顔につくだろ」

「じゃ、さっさと受け取りなさいよ」

「……なんでジャリんちょに命令されてるんだ、俺は」

 渋々アイスを受け取り、腰掛けた身をずらす。開いた隣にちょこんと腰掛ける由有の横顔を見た。

「んーっ、やっぱオイシっ」

 この世の幸せすべてを嘗め尽くしたような満面の笑みが、GINを思い切り笑わせた。

「ぶふっ」

「な、なによっ」

「いや、ホントに美味そうに食うんだなあ、と思って」

 由有は相変わらず「子供扱いするな」と罵倒したものの、芝居じみた脹れっ面をすぐに引っ込めた。

「ホントに美味しいんだよ。だまされたと思って、GINも食べてみてよ」

 由有は何故か必死な眼をして、やけに熱心に食べるのを勧めた。小首を傾げつつも、ひと口ぺろりと舐めてみる。

「……うま」

「ね? でしょう?」

 冬の近づいた灰色の空気が漂う中に、淡いピンクの笑顔がやけに鮮やかな色合いで映えた。それが再び横顔を見せ、嬉しそうにアイスを頬張る。

「つめた~っ。でも、寒いときに食べる方が、夏に食べるよりサイコーなのよ、ここのプリンアイスはっ」

 だからこの時期を狙ったのだという。本当かどうかは疑問だが。

「しょっちゅうここに来てるのか?」

「うん」

「独りで?」

「……うん。去年から、だけど」

 去年。由有の周辺に鷹野の気配が漂い始めたころだ。

「えへ。ありがとね、GIN」

 ここを楽しい思い出の場所に変えられた。そう呟く横顔を見下ろすと、頬がほんのりと薄桃色に染まっていた。

「寒いんだろ。ほっぺたが赤い」

 身体が寒いのは確かなので、そう言って返事をはぐらかす。お礼を言われる筋合いはないと思った。先を越された、とも思っていた。身体は冷気とアイスで冷え切っていても、どこかが妙に温かい。

「ヘーキだもん」

 そう言ってぱくつく由有の表情は、まるで中学生と変わらない。

 手にした自分のアイスを見れば、蜂蜜色の塊はそのままアイスの形を保っている。醜いグレーも黒も混じっていない、綺麗な色のままだ。

「さっさと食って、電車に乗るか」

 GINは独り言のように呟くと、かぷりと思い切りアイスを頬張った。

「だねっ、やっぱ寒いっ。電車に乗って、あったまろう」

 シャク、とコーンをかじる音に混じって、賛成の声が元気よく響いた。

 ハニーテイストに舌鼓を打つ。ほろ苦さも生ぬるい気持ち悪さも感じない、本当に贅沢な味。それをこの場所で笑って味わえる日が来るなんて、あのころは思いもしなかった。

「由有、飯食ってから帰ろっか。ラーメン食ってあったまりたい」

 ささやかなお礼。そんなつもりで提案した。

「賛成! 恵比寿のKがいいっ!」

「げ、あそこって並ぶじゃん」

「そんでもってそのあとは、裏通りにあるジェラート屋さんでオレオクッキーとカラフルミントのダブルコーンっ」

「人の話を聞けよ。つうか、またアイスかよ」

 人がまばらになり始めた公園に、ふたつの靴音が軽快に響く。笑い声がこだまする。それは次第に遠のいていき、そして夕闇が辺りを柔らかく包んでいった。

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