婚約破棄したのに、私の名前でお客様を呼ばないでください
「君との婚約を破棄する。だが、来週の茶会は予定どおり頼む」
オスカー様は、私が書いた招待客の一覧をめくりながら言った。
隣に座るヴィオラ様が、こちらを見た。彼女の膝には、新しいドレスの見本帳がある。先ほどまでお二人は、私の前で、婚約発表の日に何を着るか相談していた。
「……お茶会も、私がですか」
「招待状はもう配った。今から変える方が面倒だろう」
先週までは、私たちの婚約披露を兼ねた会だった。
オスカー様のお父様から、堅苦しい宴より親しい人を招く茶会にしたいと頼まれて、三か月かけて準備してきた。今朝、婚約について話があると呼び出されたときも、私は席順の相談だと思っていた。
「君は、こういう裏方に向いている。ヴィオラを支えてやってくれ」
机の端に、私の名前を書いた席札があった。
エマ・ローレンス。そのカードの上へ、オスカー様が見本帳を置く。私の名前は見えなくなった。
「承知いたしました」
自分の声が思ったより落ち着いていて、少し驚いた。泣いたら何か変わるのだろうかと考えて、変わらない気がした。少なくとも、ここで私が泣けば、お二人は面倒そうな顔をする。
「婚約の解消は、父を通してお返事いたします。お茶会については、私の名前を外してください」
「何?」
「私が主催する会では、なくなりましたので」
オスカー様がようやく、一覧から顔を上げた。
「名前にこだわるようなことか。準備をするのは同じだろう」
「準備も、今後はそちらでお願いいたします。会場と菓子店には、変更をお伝えします」
「君は、お茶を淹れて人の話を聞くことくらいしかできないのに、その役まで放り出すのか」
私の手が、膝の上で止まった。
お茶を淹れて、人の話を聞く。確かに、私が得意なのはそのくらいだ。珍しい魔法は使えないし、夜会で華やかな話題を提供することもできない。
それでも、楽しく過ごしてもらえたらと考えてきた。
硬い菓子を召し上がれない方がいるから、別のものを用意した。耳の遠い方が話に入りやすいように、席を近くした。オスカー様が来客の話を忘れてしまうので、帰った後には、次に尋ねると喜ばれそうなことを書いて渡した。
あの紙は、どこへ行ったのだろう。
「皆、私の家との付き合いで来ているんだ。婚約者でもなくなった君を、わざわざ招く者などいない」
そうかもしれない。
けれど、この会に残って、ヴィオラ様の席へお茶を運ぶところまでは、どうしても想像できなかった。
「でしたら、私の名前がなくても、お困りにはなりませんね」
机から自分の席札だけを取った。
オスカー様は何か言ったけれど、私は退出の挨拶をした。扉が閉まるまで、カードを折らずに持っていられたことだけが、その日の小さな自慢だった。
翌日の午後、温室で鉢を動かしていたら、侍女のマルタが客を告げた。
「お茶を淹れてもよろしいでしょうか」
うなずきかけ、相手の名前を聞いて手を止めた。
レオン・ハーウェル様。王立植物園に勤める侯爵家の次男で、何度かオスカー様の屋敷の茶会にいらした方だ。来週の会にも招いている。
「お約束を、していたかしら」
「いいえ。お渡ししたいものがあると」
慌てて袖を払った。土のついた服でお迎えするわけにはいかない。けれどマルタは、ここで構わないとおっしゃっていると付け加えた。
母が残した、小さな温室だった。
伯爵家の庭の奥にあって、冬でも少し暖かい。私は花より、ここに置いた丸い卓が好きだった。母はよく、誰かに会いたくなったら、立派な理由を探す前にお茶へ誘えばいいと言っていた。
「突然、申し訳ありません」
レオン様は入り口で帽子を取った。手には平たい包みを持っている。私が椅子を勧めると、彼は先に、床に置かれていた重い鉢へ目を向けた。
「どこへ?」
「あちらの、窓際へ」
「では、それだけ先に」
止める間もなく、鉢を運んでくださった。私は慌ててお礼を言い、空いた床を布で拭いた。そんなふうにしている間に、マルタがお茶の道具を運んできた。
「これを、お返ししたくて」
包みの中には本があった。
前の茶会でお貸しした、母の植物図譜だ。レオン様が探している花の話をしていたので、家に似た絵があったとお伝えしたのだった。
「見つかりましたか」
「ええ。おかげで、古い標本の名前が分かりました。お借りした礼に、今度は植物園へご案内したい」
封筒が一通、卓へ置かれた。
私の名前だけが書かれている。
「私を、ですか」
「ほかに、どなたをお誘いしたことになっています?」
「いえ。その……オスカー様と、ご一緒にというお話かと」
レオン様が少し眉を寄せた。
もう婚約者ではないと話すと、彼は茶器へ目を落とし、話しても構わないことなのかと確かめてくれた。私はうなずき、昨日のことを短く説明した。茶会も辞退したと伝えると、彼の手が止まった。
「では、こちらは?」
上着から出された招待状は、見覚えのあるものだった。白い紙に緑の縁取り。私が選び、先週、屋敷から送り出したものだ。
下の方には、茶会の世話人として私の名前がある。
「昨日、念押しの使いが来ました。あなたが皆に会うのを楽しみにしている、と」
昨日。
私が名前を外してほしいと頼んだ、その後だ。
喉の奥が冷たくなった。私が残るつもりだと思われている。それどころか、私が会いたいと言っていることになっている。
「……申し訳ありません。私からは、そのようには」
「あなたが謝ることではない」
レオン様はすぐに言った。
「ただ、欠席するなら早く返事をしたい。あなたの会だと思ったので、出席するとお伝えしてあります」
私は顔を上げた。
母の本へ伸ばしかけていた指が、途中で止まる。
「私の、会だから?」
「ええ」
「オスカー様のお家との、お付き合いではなく?」
「それもあります。でも、今回、休みを替えてまで行こうと思った理由は、あなたに会いたかったからです」
カップを持とうとして、持てなかった。
そんなふうに言われると思っていなかった。昨日の言葉が、まだ頭の中に残っている。私をわざわざ招く人などいないと、あんなにはっきり言われたのに。
卓の上には、私宛ての封筒がある。
「植物園も、お招きしてよろしいですか」
「はい」
返事が小さくなった。もう一度、はいと答えると、レオン様はようやく笑った。
「よかった。実は、それを断られたらどうしようかと」
私は目を瞬いた。
この方も、誘う前にそんなことを考えるのか。うれしくて、まだ少し戸惑って、私は封筒を両手で受け取った。
*
その夜、来週の茶会にお招きした方へ手紙を書いた。
婚約を解消したこと。私は茶会の準備と出席を辞退したこと。行き違いがあれば申し訳ないけれど、当日のご案内は先方へお願いしたいということ。
新しい婚約者の名前も、昨日言われたことも書かなかった。
ただ、私に会えると思って来てくださる方がいるなら、先にお伝えしたかった。遠くから馬車を出して、着いてからいないと知るのは、きっと残念だ。
宛名を書くたび、顔が浮かんだ。
膝を悪くしてから外へ出るのが億劫だと言っていた夫人。地方にいる娘さんから、ようやく手紙が届いたと笑っていた伯爵。婚約のお祝いより先に、その後のお話を伺いたかったのかもしれない。
私は封筒を閉じてから、何も書いていない便箋を一枚、別に取り出した。
社交のためではなく、私が会いたくてお誘いする手紙。
母の卓なら、四人くらいでちょうどいい。大きな会ではないけれど、一人ずつのお話は、ゆっくり聞ける。
最初の一通を書き始めると、今度は、さっきより言葉が出てきた。父には、先方の伯爵との話し合いで、茶会の名前のことも伝えてほしいと頼んだ。
二日後、オスカー様が来た。
返事を待たずに応接室へ入ろうとしたので、マルタが入り口で止めてくれた。父はちょうど、先方の伯爵と書斎で話している。私は温室から戻り、来訪を父にも伝えてから、面会に応じた。
「君が余計な手紙を送るから、欠席の返事ばかり来る」
椅子に座るなり、封筒を卓へ置かれた。
「何と書いた」
「婚約を解消したことと、私は出席しないことを」
「だから、それをなぜ今知らせるんだ。会が終わってからでよかっただろう」
私は彼の顔を見た。
困っているのは分かる。でも、何に困っているのか、私にはまだ分からなかった。私の名前は必要ないと、あのとき言っていたのだから。
「お伝えするのが遅いほど、ご迷惑になると思いました」
「実際、私が迷惑している。せっかくヴィオラを紹介する機会なのに、肝心の方々が来ない」
「お招きの理由を説明して、改めてお願いしてはいかがですか」
「君が会いたいと言えば、来るんだ」
その言葉に、少し黙った。
来てくださる方がいる。それは、うれしい。でも、その気持ちを、私が会いたくもない会へ人を集めるために使っていいのだろうか。
「エルザ夫人まで欠席だ。どうしてなんだ。君を世話人にしてくれたのは、あの方だろう」
「はい」
「なら、君から出席をお願いしろ」
私は封筒の一つを見た。覚えのある、少し右へ傾いた文字だった。今朝、私のところにも返事が届いている。
欠席の連絡を済ませたこと。そして、娘が無事に子供を産んだので、会えたらその話を聞いてほしいと書いてあった。
「夫人の、お孫様のことはご存じですか」
「何?」
「先月、お生まれになったのです。前にお会いしたとき、娘さんのお体を心配されていました」
「それが茶会と何の関係がある」
胸の奥で、何かが静かになった。
ああ、聞いていなかったのか。
夫人が何を話したか、私が何を書いて渡したか。この方にとっては、招待客の一覧に名前があって、席に座ってもらえれば、それでよかったのだ。
「夫人は、お嬢様のお話をしに来てくださっていたのだと思います」
「だから、その相手は君がすればいい。菓子と茶なら、こちらで手配する」
「私は、出席いたしません」
オスカー様の眉が寄った。
「まだ拗ねているのか」
「婚約を解消した相手の、新しい婚約披露のお手伝いをしたくないのです」
言ってみると、難しい理由ではなかった。
気が利かないと思われるだろうか。大人げないと言われるだろうか。そう考えて口を閉じていたけれど、私が嫌だということも、理由にしてよかったのだ。
「それから、私の名前でお客様を呼ばないでください。昨日も、私が皆様に会うのを楽しみにしていると、お伝えになったそうですね」
「その方が、話が早いからだ」
「楽しみに待ってくださった方に、私は何と申し上げればいいのですか」
「来れば済む話だろう」
「私には、済みません」
声は少し震えた。
それでも、言い直さなかった。オスカー様が立ち上がりかけたところで、扉が開いた。父が、もう一人の男性と一緒に入ってくる。
オスカー様のお父様だった。
「伯爵。手紙を読ませていただきました。うちの息子が、まだ何か頼みに来ていると聞いたので」
父が、私を下がらせようかと目で尋ねた。
私は首を振った。私の名前のことだから、最後まで聞いていたかった。オスカー様のお父様は、息子へ向き直った。
「先方が出席しないと知ったうえで、名前を使って招いたのか」
「会を無事に終えるためです。皆、エマが来ると思っていて」
「なぜ、そう思っている」
返事はなかった。
卓の封筒を一通取り上げ、彼は中を確かめた。私に対する意見の違いでも、社交の行き違いでもない。ただ、いると伝えた人が、最初から来るつもりはなかった。そのことを、ようやく問題にしてもらえた。
「招待客には、こちらから訂正とお詫びを出す。会の形式も改める。お前は、まずヴィオラ嬢の家へ説明に行きなさい」
「ですが」
「彼女にも、エマ嬢が喜んで協力すると伝えたそうだな」
私は顔を上げた。
あのとき、ヴィオラ様がこちらを見た理由を、少しだけ理解した気がした。お父様は息子の返事を待たず、私へ深く頭を下げた。
「不快な思いをさせてしまった。申し訳ありません」
私はうなずいた。
謝っていただいたから、元どおりに手伝うとは言わなかった。卓に残っていた私の名前入りの招待状を一枚だけ取り、父の前へ置く。それで、私の話は終わりにした。
婚約の解消は、その週のうちに両家で合意された。
茶会は延期になり、改めて招くときは、オスカー様とヴィオラ様の名前で知らせると連絡があった。私宛ての訂正の手紙も届いたので、父に確認してもらってから、引き出しへしまった。
そして、元の茶会の日。
私は母の温室で、お客様を迎えていた。
エルザ夫人は、孫の手を写した小さな絵を持ってきてくださった。地方の娘さんから返事をもらった伯爵は、今度は自分から会いに行こうと思うと話した。レオン様は植物園の種を持参し、夫人に求められて鉢の増やし方を説明していた。
四人で囲むと、卓はちょうどいっぱいになった。
「あなたは、こちらのお茶会の方が好きそうね」
夫人に言われ、私は笑った。
「はい。皆様のお話を、聞き逃さずに済みますから」
「では、今度は私から。あなたが話す番よ」
私はカップを持ったまま、顔を上げた。
何を話そう。うれしいことはたくさんあったのに、いざ順番が回ってくると迷ってしまう。隣でレオン様が、植物園へ出かける話はどうかと小さく言った。
「……今度、お花を見に行くお約束をしたのです」
夫人がにっこりした。
レオン様はカップを置いた。彼の耳が少し赤くなっているのを見つけて、私は急に、自分まで頬が熱くなった。
*
植物園へ出かけたのは、その翌週だった。
見頃の花を教わり、図譜で見た葉を探して歩いた。レオン様は私が立ち止まるたびに待ってくれて、自分の好きな花の前では、少し早口になった。
帰り際、私は次のお茶に誘った。
今度は、誰の名前を一緒に書くか迷わなかった。レオン様だけに会いたかったし、彼が話し足りなかった花のことを、もう少し聞きたかった。
けれど当日、卓には菓子が三種類も並んでいた。
「好きなものを、まだ伺っていなかったので」
レオン様はそう言って、持ってきた包みを開いた。
「前に伺ったのは、オスカー殿の好みだったでしょう」
私は少し考えた。
確かに、いつも誰かの好きなものを選んでいた。自分が何を食べたいかを聞かれると、急には答えが出てこない。でも、彼は急かさず、一緒に選ぼうと言ってくれた。
「では、この蜂蜜の焼き菓子を」
「僕もそれにします」
二人分のお茶を淹れようと立つと、彼も椅子を引いた。
「今日は、僕が」
「お客様ですのに」
「いつも、僕がもてなされてばかりなので。少しお返しをしたい」
道具を渡し、私は椅子へ戻った。
母の卓に座って、誰かがお茶を淹れてくれるところを見る。葉を量る指が慎重で、湯を注いだ後には、ちゃんと時計を確かめている。何だか、その丁寧さまで自分へ向けられているようで、目をそらしたくなった。
「濃かったら、教えてください」
「ちょうどいいです」
「よかった」
本当に、おいしかった。
菓子を一つ食べてから、私は思い切って尋ねた。
「先日、私に会いたかったとおっしゃってくださいましたね」
「はい」
「……図譜の、お話がしたかったからですか」
レオン様はカップを置いた。
少し黙って、こちらを見る。あのとき招待の返事を待っていた顔と、同じくらい真剣だった。
「それなら、本をお返ししたところで用事は終わっています」
「はい」
「用事がなくなってからも、お会いしたかったんです」
頬が熱くなった。
彼は言葉を選ぶように、一度息をついた。それから、膝の上に置いていた手を、卓の端へ戻した。
「あなたが僕の話を覚えていてくれるのは、うれしい。でも、それだけではありません。あなたが何に困って、何を見て笑うのか、僕も知りたい」
私は指をそろえた。
誰かのことなら、いくらでも話せた。目の前の人が、私のことを聞きたいと言ってくれると、こんなに落ち着かなくなるのか。
「あなたが好きです。お茶を用意しなくても、図譜がなくても、会いたい。次も、その次も」
うれしかった。
何か役に立つ返事を探しかけて、やめた。今は、自分がどう思っているかを伝えればいい。
「私も、お会いしたいです」
彼の目が、少しだけ大きくなった。
「ほかの方とご一緒ではなくて、あなたに。今日も、お見えになるのを、ずっと楽しみにしていました」
「それは……僕と同じ意味だと、思っても?」
「はい」
声に出すと、かえって覚悟が決まった。
私は卓の端へ手を伸ばした。触れた指を、彼がそっと握ってくれる。誰かに見られていないかと気にするより先に、もう少しこうしていたいと思った。
マルタがお湯を運んできて、何も言わずに戻っていった。
しばらくして、レオン様が笑った。
「次は、僕から招待状を書きます」
「宛名は、私だけにしてくださいね」
「もちろん。会いたいのは、あなたですから」
あの日、持ち帰った自分の席札は、温室の棚に立ててある。
今はその前に、彼から最初にもらった招待状を置いていた。誰かの婚約者としてでも、茶会の世話人としてでもない。
私の名前を呼んでくれる人がいる。
もう隠れないように、二つとも、日当たりのいいところへ並べた。




