第十一章 神殿の陰謀
魔王の名は、ザナトス。
北方の荒野に棲む、この世界で最も恐ろしい存在の一人。
その軍勢が、ついに動き始めた。
「報告によれば、魔王軍は既に三つの都市を落としています」
王城の作戦会議室で、将軍が地図を指しながら説明した。
「ノルデンブルク、ヴァイセン、グラーツ。いずれも北方の要衝です」
王は険しい顔で地図を見つめていた。
「落とされた、というのは——」
「壊滅です、陛下」
将軍の声は重かった。
「住民のほとんどが死亡。生き残った者も、重篤な病に冒されています」
「病?」
勝男は身を乗り出した。
「魔王軍は、どのような戦い方をしているのですか」
将軍は勝男を見た。
「田所殿。お聞きになりたいですか」
「はい。詳しく」
「……魔王軍は、直接的な戦闘をほとんど行いません」
将軍は地図上の都市を指でなぞりながら言った。
「代わりに、彼らは井戸と川を汚染します。汚物と、何か別のものを混ぜた水を、都市の水源に投入するのです」
勝男の顔が青ざめた。
「生物兵器……」
「なんですと?」
「いえ——汚染された水を使って、疫病を蔓延させるということですね」
「その通りです。魔王軍が通った後には、疫病だけが残ります。剣も魔法も、彼らの本当の武器には効きません」
勝男は椅子に深く座り込んだ。
これは戦争ではない。
テロだ。
いや、もっと悪い。
組織的な、計画的な、大量虐殺。
「なぜ今まで、この情報が——」
「魔王は千年間、北方の荒野に引きこもっていました」
王が答えた。
「小規模な略奪はあったが、大規模な侵攻はなかった。なぜ今になって動き始めたのか、誰にもわからない」
勝男は考え込んだ。
千年前——
古代文明が崩壊した時期だ。
あの水道橋の遺跡。失われた技術。
「魔王は、何を求めているのでしょうか」
勝男の問いに、誰も答えなかった。
「破壊だけが目的なら、もっと効率的な方法があるはずです。わざわざ水を汚染するのは——」
「田所殿」
王が遮った。
「魔王の動機など、今は問題ではない。問題は、どうやって止めるかだ」
「陛下の仰る通りです。失礼しました」
勝男は頭を下げた。
「それで——私を呼んだ理由は、水の専門家としての意見を聞くためですか」
「それだけではない」
王は立ち上がった。
「田所勝男。お主を『対魔王戦略顧問』に任命する」
会議室がざわめいた。
「陛下! それは——」
将軍が異議を唱えようとしたが、王は手を挙げて制した。
「魔王の武器は水だ。水を止められるのは、この国で田所殿だけだ。異論があるか」
将軍は口をつぐんだ。
勝男は静かに言った。
「陛下。お受けします。ただし、条件があります」
「また条件か」
王は苦笑した。
「お主はいつも条件をつけるな」
「すみません。でも、これは絶対に必要なことです」
「聞こう」
「全国の都市に、緊急の浄水システムを設置する許可をください。井戸を封鎖し、配給制の水道に切り替えます」
将軍が顔をしかめた。
「井戸を封鎖? そんなことをしたら、住民は——」
「井戸が魔王軍のターゲットになるからです」
勝男は説明した。
「井戸は一箇所の水源です。そこを汚染されたら、街全体が終わる。でも、水道なら違う。水源を分散させ、途中で浄化すれば、一箇所を狙われても被害を最小限に抑えられる」
会議室は静まり返った。
「なるほど……」
王は頷いた。
「水を守れば、街を守れる、というわけか」
「その通りです」
勝男は地図を指さした。
「まず、王都の防御を固めます。次に、魔王軍の進路上にある都市に順番にシステムを設置していく。時間との戦いになりますが——」
「やれるか」
「やります」
勝男は即答した。
「水道屋は、いつだって期限に追われてますから」
王は微笑んだ。
「頼んだぞ、田所殿」
*
会議が終わった後、勝男はリーゼと合流した。
「どうだった?」
「対魔王戦略顧問、とやらに任命された」
「え……すごいじゃない」
「すごくない。責任が重すぎる」
勝男は頭を抱えた。
「水道屋が戦争の顧問なんて、冗談みたいな話だ」
「でも、あなたしかいないでしょう」
リーゼは真剣な顔で言った。
「魔王の武器が水なら、水で対抗できるのはあなただけよ」
「わかってる。わかってるけど——」
勝男は窓の外を見た。
王都の街並み。噴水。水道橋。
自分が五年かけて作り上げたもの。
「俺は、人を殺す道具を作りたくない」
「何を言ってるの」
「浄水システムを作るのは、人を守るためだ。でも、それは同時に——魔王と戦うための武器でもある」
リーゼは黙った。
「俺は水道屋だ。水を綺麗にして、人々に届ける。それが俺の仕事だ。戦争の道具なんか——」
「カツオさん」
リーゼが遮った。
「あなたが作るものは、武器じゃないわ」
「でも——」
「盾よ」
リーゼは勝男の目を見つめた。
「水道は、人々を守る盾。魔王の攻撃から、街を守る盾。それは武器じゃない」
勝男は黙った。
「あなたが作らなければ、人が死ぬ。あなたが作れば、人が生きる。それだけのことでしょう」
リーゼの言葉は、シンプルだが、真実だった。
「……そうだな」
勝男は小さく笑った。
「いつの間にか、あなたの方が俺より大人になってる」
「当たり前よ。もう二十二歳なんだから」
リーゼは少し照れたように言った。
「五年も一緒にいれば、少しは成長するわ」
「そうだな」
勝男は振り返った。
「さあ、仕事だ。時間がない」
二人は、戦争に向けた準備を始めた。
*
それから一ヶ月。
勝男は王都の防御システムを完成させた。
井戸を全て封鎖し、水道橋からの給水に一本化。
配水網の要所に浄化装置を設置。
緊急時には、街全体の水を遮断できる仕組みを作った。
「これで、魔王軍が水源を狙っても、被害を最小限に抑えられます」
勝男は王に報告した。
「後は、他の都市にも同じシステムを——」
その時、伝令が駆け込んできた。
「陛下! 緊急報告です!」
「何だ」
「ノルデンブルクが——魔王軍に包囲されています!」
勝男の顔が引き締まった。
ノルデンブルク。
北方最前線の城塞都市。
まだ水道システムが完成していない。
「すぐに向かいます」
勝男は言った。
「待て、田所殿」
王が引き止めた。
「お主が前線に行く必要はない。部下を——」
「いいえ、陛下」
勝男は首を振った。
「俺が行かないと、浄化ができない。スキルを持っているのは俺だけです」
王は勝男を見つめた。
そして——
「……わかった。だが、必ず生きて帰れ」
「約束します」
勝男は頭を下げた。
「リーゼ。お前は王都に残れ」
「嫌よ」
リーゼが即座に言った。
「私も行く」
「危険だ」
「危険じゃない場所なんて、もうどこにもないわ」
リーゼは勝男の目を見つめた。
「私はあなたの弟子よ。師匠が行くところには、弟子も行く」
勝男は溜め息をついた。
「……仕方ないな」
こうして——
勝男とリーゼは、北方最前線に向かうことになった。
魔王との戦いが、いよいよ始まろうとしていた。




