秘密のメッセージ 甘美なときめき
39歳の麻友子にとって、人生は平穏という名の心地よい絨毯の上を歩いているようだった。
夫は口数は少ないが穏やかで誠実、二人の子供たちは特に問題も無く、すくすくと育っている。
仕事に家事と育児、日々のタスクは多いものの、下の子が小学校に上がったことで、麻友子には少しだけ心の余裕が戻ってきた。
肉体的にも、そして何より精神的にも、張りつめていた糸が少し緩んだのを感じていた。
その緩みが、ちょっとだけいけないことをさせてしまう。
ある夜、子供たちを寝かしつけた後で、麻友子はスマートフォンを手に取った。何気なく開いた、まとめサイトを巡るうちに、まるで磁石に引かれるように、とあるバナーに視線がいった。
――既婚者限定! 大人のための秘密の出会い――
胸がドクンと鳴った。夫への愛はある。家族を捨てたいなんて微塵も思わない。それでも、今の人生にはどこか物足りなかった。
安定した暮らしは、安心と安泰をもたらす。しかしそれは同時に『刺激の無さ』と同義だった。
麻友子は、この平穏な日々に、ほんの少しの刺激を求めていた。でも今の生活を壊すようなリスクは負いたくない。
サイトの登録画面では、希望の交際方法を選択する項目がある。実際に会うことを選ぶこともできるが、彼女が選んだのは『匿名メッセージでの交流のみ』という、最も安全な、それでいて甘美な逃避行だった。
数日後、『まゆゆん』というニックネームで登録した麻友子のもとに、一通のメッセージが届いた。
送り主は『はるぴー』40歳、二児の父親、とプロフィールに書いてあった。
最初のやり取りは、仕事のメールのようにぎこちなかったが、すぐにそのメッセージは熱を帯びていった。
お互いの子供の面白いエピソード、仕事への不満、そして、現実には誰にも語れない『満ち足りた生活の小さな寂しさ』を打ち明け合った。
「まゆゆんさんは、本当に繊細で素敵な文章を書かれますね。夜中にこっそり読んでるんですけど、まゆゆんさんの姿を想像するとドキドキしちゃってます」
ある夜、はるぴーからのメッセージが届いていた。そのメッセージを読んだ麻友子の顔が、まるでラブレターを貰った女子中学生のように、ポッと熱くなる。
「そんな風に褒めてもらえるなんて、すごく嬉しい。はるぴーさんの優しさが、メール越しでも伝わってくるから、私も、毎日メールを確認するのが楽しみなんです」と返信する。
お互いに顔も本名も知らない、声も知らない。住んでいる場所も知らず、会うことも触れることもない。ただの文字の羅列だ。
しかし、その文字には、現実の生活では決して交わすことのない、純粋で甘く刺激的な感情が込められていた。
そのメッセージのやり取りは、日に日に情熱的に変化していった。
「まゆゆん、大好きだよ。もし、僕たちがもっと早く出会えてたら…… なんて、馬鹿なこと考えてます」
午後11時過ぎ、眠る夫と子供たちの隣でスマホの画面を見ながら、麻友子は息をのんだ。そして、すぐに返信する。
「私も、はるぴーさんのこと、好き。好きすぎて、頭がどうにかなっちゃいそう。この秘密の関係が、私にとってどれだけ大切か、はるぴーさんに伝わってるとうれしいな」
二人の間には、いつしかラブラブという言葉では表現しきれないほど甘美で、現実から切り離された空間が生まれていた。
二人のやりとりには、お互いを褒め称え、愛の言葉を囁き合うための交換日記となっていた。
午前0時を回り、さすがにもう眠らなくてはと思い、麻友子はトイレに行った後、ふと洗面台の鏡に映る自分を見た。頬は少し上気し、瞳には少しの潤みがある。
それは恋をする女の顔だった。
今までは、このままオバサンになって老けていくだけだと思っていたが、この秘密の恋が平凡な人生の中で『ときめき』という名のスパイスになっていた。
翌朝。麻友子は、大きく伸びをしてから、スマホをサイドテーブルに置いて、起き上がった。
今日も、妻と母親の役割を完璧にこなす準備をする。
「ほら、もう朝よ。起きなさい」
二人の子供たちの肩を揺すり、優しく起こすと、ちょうど夫も起きたようで「おはよう」と言いながら、目をこすり微笑む。
「おはよう」と麻友子も微笑み返す。その笑顔は、昨夜の秘密を完璧に隠していた。
彼女の心の奥底には、はるぴーからの『大好きだよ』という甘い言葉だけが、そっと響いていた。




