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君がくれた沈黙の旋律

 耳の聞こえない少女が、どうして音楽室に通っているのか。


 その理由を知ったとき、僕はたぶん、もう彼女に恋をしていた。


◆◆◆◆


 最初に見かけたのは、高校二年の春だった。


 昼休み。クラスに残っていた僕は、ふと廊下から覗いた音楽室に、ぽつんと一人で座っている女子を見つけた。


 誰もいない教室の片隅で、彼女は静かにピアノに手を添えていた。音は鳴っていない。ただ、指だけが鍵盤の上を滑っていた。


 あのときの空気を、僕は今でも思い出せる。


 窓から入る光、カーテンの揺れ、わずかに香るチョークの匂い。


 そして、音のない旋律を奏でる、彼女の横顔。


「……誰?」


 その名前を僕が知るのは、もう少し後のことになる。


◆◆◆◆


 白石美琴(しらいしみこと)


 隣のクラスの女子で、生まれつき耳が聞こえないらしい。


「補聴器つけてるけど、音はほとんど入らないって。筆談とか、口の動きで会話してるらしいよ」

「なんか、ピアノが好きらしい。毎日音楽室いるの、あの子だよ」


 他人の噂話はあまり信じない主義だけど、不思議とこのときは気になった。


 僕の中で「ただの見かけた人」だった彼女が、急に名前と物語を持って現れた気がした。


 それから僕は、昼休みにこっそり音楽室を覗くようになった。


 彼女はいつも同じ席に座り、無音のピアノに触れていた。


 演奏じゃない。練習でもない。ただ、そこにある何かをなぞるように――。


 ある日、思い切って中に入った。


 彼女は驚いた顔で僕を見た。


「ごめん、邪魔だった?」


 僕が口を動かすと、彼女は少しだけ首を横に振った。


 ああ、ほんとに聞こえてないんだ。


 そのことに、僕は妙に納得した。


 手元のスマホに文字を打ち、画面を差し出した。


『ピアノ、好きなの?』


 彼女は一瞬だけ戸惑って、そして小さく頷いた。


 そこから僕たちは、スマホの画面越しに会話を始めた。


僕:『なんで、音楽室に?』

彼女:『ここだけ、昔の音が残ってる気がするから』

僕:『昔の音?』

彼女:『……母が、よく弾いてくれた曲。小さい頃、少しだけ聞こえてた』

彼女:『でも、もう……ほとんど思い出せない』


 その画面を見た瞬間、僕の胸の奥がチリッと痛んだ。


 何かを失った痛みを、彼女は笑顔の中に抱えていた。


 それから僕は、毎日のように音楽室に通った。


 最初のうちは文字だけのやりとりだったけれど、次第に僕は彼女の目を見て話すようになった。


 口の動きを丁寧にゆっくり動かしながら、時には紙に書いたり、時にはスマホを使ったり。


 彼女は話さないけれど、表情と目線がとても豊かだった。


 たとえば、僕が冗談を言うと、小さく肩を揺らして笑った。


 僕が音楽の話をすると、目を輝かせてうなずいた。


 伝わらないことを怖がらなくなったのは、彼女の存在があったからだと思う。


 ある日、僕はギターを持って音楽室に入った。


 彼女が少しだけ驚いた顔をする。


「聴こえないけど、見てて」


 そう言って、僕は弾き語りを始めた。


 彼女のために作った、短いメロディ。


 好きな本のこと、彼女が笑ったときのこと、昼休みに出た給食のプリンのこと――。


 全部詰め込んだ、くだらなくて、だけど真剣な歌だった。


 歌い終えると、彼女はしばらく目を閉じていた。


 そして、手のひらで胸をとん、と叩いた。


「届いた、ってこと?」


 彼女は、にこりと笑って頷いた。


◆◆◆◆


 六月。文化祭の準備が始まった。


 僕のクラスはバンド演奏をやることになって、僕も参加することになった。


 選曲会議のとき、ふと手を挙げて言った。


「一曲、自作の歌を入れたい」


 最初はざわついたけど、仮演奏を聴かせるとみんな納得してくれた。


 「え、意外と良くね?」

 「恋愛ソングっぽいけど、誰かモデルいる?」


 僕はごまかすように笑った。


 誰にも言わなかったけれど、その歌は、美琴のために書いたものだった。


◆◆◆◆


 文化祭の前日。


 リハーサルを終えた帰り道、彼女を呼び止めた。


「明日、来てくれる?」


 彼女は少し驚いたあと、スマホに文字を打った。


『……私、ああいう騒がしい場所、苦手』


「わかってる。でも、お願い。聴こえなくても、いい。いてほしいんだ」


 彼女は迷ったように視線を落とし、それから小さく頷いた。


 それだけで、僕は十分だった。


 文化祭当日。


 ステージの裏で、僕は緊張で吐きそうになっていた。


 他のメンバーはそれなりに楽しんでいる様子だったけど、僕は心ここにあらずだった。


 彼女が来てくれるか――それだけが気がかりだった。


 やがて出番が近づき、ギターを抱えながらステージに立った。


 まぶしい照明、ざわつく観客、湿った秋の空気。


 目を凝らすと、客席の一番左側、ベンチに座る彼女の姿が見えた。


 小さな体をすぼめて、静かにこちらを見ている。


 僕は深く息を吸った。 


「次の曲は、自分で作りました」


 会場が一瞬ざわつく。


 でも、そんなのどうでもよかった。


 ただ、彼女だけに届けるために――。


「『沈黙の旋律』」


 ゆっくりと、コードを鳴らす。


 静かなイントロ。深く、優しく、風のように。


 歌い始めたとき、彼女の目が少し見開かれた。



♪ 君は静かに 笑ってた

  何も言わずに 笑ってた

  だけど僕には 聞こえたんだ

  その沈黙が 歌ってるのが



 音が、風に乗る。


 歌が、心を満たす。


 客席の歓声も拍手も、僕にはもう聞こえなかった。


 彼女の瞳しか見えていなかった。



♪ 届かないはずの言葉が

  届かないはずの声が

  今、君の胸に

  ちゃんと響いてほしい



 最後のコードが消えるとき、僕は彼女のもとへ視線を向けた。


 彼女は、涙を流していた。


 声は出さない。ただ、両手で胸を押さえて、何度もうなずいていた。


 終演後、校舎裏で彼女に会った。


 何も言わず、僕はスマホにひとことだけ打った。


『届いた?』


 彼女は頷いて、それからスマホにこう打った。


『……聞こえなかった。でも、感じた』


『私の中に、ちゃんと残ったよ』


 その言葉が、僕にとってのすべてだった。


 季節は冬になった。


 美琴とは、以前より少しだけ言葉が少なくなった。


 お互いに受験を控えていて、昼休みも放課後も思うように会えなかった。


 それでも、週に一度だけ音楽室で会う習慣は続いた。


 鍵盤の上をなぞる彼女の指先を見るだけで、僕は安心できた。


 その静かな時間が、何よりの支えだった。


◆◆◆◆


 年が明けて、三月。卒業式の日。


 僕たちは同じ大学に進学するわけじゃなかった。


 僕は都内の音大へ、美琴は美術系の短大へ進む。


 離れることは分かっていたけれど、まだその実感はなかった。


 式が終わったあと、人気のない音楽室で、僕は彼女を待っていた。


 やがて、ゆっくりとドアが開く。


「……来てくれて、ありがとう」


 僕が口を動かすと、彼女はうなずいた。


 ポケットから、折りたたんだ楽譜を取り出した。


「これ……?」


 彼女は小さく頷いた。


 それは、彼女と一緒に作った『沈黙の旋律』の楽譜だった。


「預かってて、ってこと?」


 違う。彼女は手話でこう伝えた。


「これは、あなたの音。あなたがくれた、私の記憶」


 そして、彼女はもう一枚の紙を差し出した。


 そこには、手書きの五線譜と、少しぎこちないメロディ。


「……これ、君が?」


 彼女は笑って頷いた。


「今度は、私の番」


 ――君がくれた旋律を、今度は私が繋げる。


 その瞳が、そう語っていた。


 僕は目の奥が熱くなるのを感じながら、言葉を探した。


 だけど何も見つからなくて、代わりに口を動かした。


「……だいすきだよ、美琴」


 彼女は目を丸くして、それから笑った。


 涙をこらえるように、何度もうなずいて、唇だけでこう言った。


「わたしも、だいすき」


 沈黙のなかで、僕たちは確かに結ばれていた。


 もう、言葉はいらなかった。


 旋律だけで、ちゃんと伝わったから。


 ――君がくれた沈黙の旋律。


 それは、僕にとって世界でいちばんやさしい音だった。

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