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避けるには手遅れだと悟った俺は、諦めて目を瞑る。すると、俺は背中に強い衝撃を感じて前にのけぞる。そのおかげで、間一髪でマンホールの蓋が俺の頭上スレスレを横切る。マンホールの蓋は、目の前にあった郵便ポストに直撃し、ポストを薙ぎ払って地面に転がり落ちた。
「危なかったぁ」
「助かったよ..橘..」
背中に感じた衝撃は、橘が俺を押したからだと気付き、俺は声を震わせながら礼を言った。まるで心臓が飛び出るかと言わんばかりに、ドクドクと鼓動する。
しかし、俺たちを畳み掛けるように、何個かある辺りのマンホールも、嫌な金属音を奏で始める。
「夢喰いは休む間も与えてくれないのかよ! くそっ!」
「このままだと、この一帯が浸水する! 早く逃げなきゃ!」
そうは言うが、そこら中で舞い上がるマンホールの蓋に気を取られ、思うように逃げられない。豪雨のように、噴き出した水が降り注ぎ始める頃には、既に足首近くまで浸水していた。これだけの量が出続ければ、身動きすらとれなくなるのも時間の問題だろう。何か策は無いのか?
「いよいよ排水溝からも溢れ出してきてる。雨なんて降ってないのにどうして..?」
「相手は夢喰いだ、何をされても不思議じゃないと思った方が良い」
橘の言う通り、排水溝のグレーチングが溢れ出す水圧でガタガタと揺れ動いている。厄介な事にこの辺は低地だ、腰近くまで来たらもう逃げ道は無くなる。
「とにかく、高い所に避難しよう!」
「あそこのスーパーの屋上なら、しばらくは耐えられそう!」
橘が指差す方には、この辺では定番のスーパーマーケットがあった。確かにあそこなら何とかなる。
俺と橘はスーパーの扉を目指した。
しかし、いくら力を入れても扉がびくともしない。考えてみれば、膝近くまで水が溜まっていたら、水圧で扉が開くわけなかった。
「ダメだ、動かない! 外から行ける場所は無いか?」
「探したけど無いよ! 他の建物も扉が開かないんじゃどうしようも..」
もう他の手段が見つからなくなってきた。所謂、詰みというやつだ。水ももうへそ近くまで来てるし、もはや泳いで高地に移動するしか無い。
「橘、泳げる?」
「本気? 潜ったら方角も分からないよ?」
「もうそれしか見つからない」
とは言え、まだ何とか歩ける。今のうちに進めるだけ進もう。しかし、まるででっかい鉛でも引き摺っているみたいに体が重い。
「野球部が良くやってるタイヤ引きながら走るやつはこの為にあるのかな」
「冗談言っていられる余裕があって良いね..でも良いダイエットにはなりそう」
「橘も余裕そうじゃん」
この状況でもお互い冗談が言えるとは、人間の心も案外頑丈に出来てるのかもしれないと少し思う。
しかし、水量はみるみるうちに増えて、気付けばもう胸元まで水が来てる。そろそろ泳がないとまずそうだ。
「橘、このまま真っ直ぐ泳ぎ続ければ、高地に辿り着くはずだ」
「分かった」
橘は、一瞬戸惑いながらも、大きく息を吸って潜り始める。俺も同じように息を吸って潜る。
水泳は習っていたわけじゃないが、体育の授業では人並みには泳げた。でも、ここはプールとは違って思うように前に進めない。微かに目を開けて橘を確認するが、橘も思うように泳げていないようだった。
このままだと高地に辿り着く前に2人とも溺れてしまう。息継ぎをしようにも、浮いている店の看板や自動車のせいで上に行けない。
それからもしばらく泳いだが、全然地上に辿り着けない。長く息を止めているせいか、意識も遠のいていく。何とか正気を保とうと踏ん張るが、その力すらも抜けてきた。
まずい...もう限界だ...
そう思った次の瞬間、左手を強く握られる感覚を感じて、俺は生き返ったかのように目を見開いた。
握られた手から視線をたどらせると、橘が首を大きく横に振りながら何かこちらに訴えかけている。
橘だって苦しいはずなのに、俺は何をやっているんだ。
そうだ、まだ諦めるわけにはいかない。必ず何か方法があるはずだ。俺は心の中で大きく深呼吸をして、冷静に状況を整理した。
微かに目を開いて、周囲を確認すると、細い枝が排水溝に引き込まれているのが見える。
その時、あることを閃いた俺は、思わず口を開けてしまい、ゴボゴボと音を立てて泡を吐いた。
そうだ。排水された水がどこにいくのか、少し考えたら分かることじゃないか。排水能力が追い付かないくらいの水量に気を取られていたが、逆に言えばそれだけの水量があれば人間の1人や2人簡単に流れる事ができる。
俺は橘の手を握り返して、排水溝を目指した。
おそらく、この排水溝はここから少し離れた小河に繋がっているはず。昔、この辺の排水溝に葉っぱで作った船を流して遊んだ事があるから分かる。
排水溝に近づくと、腕でも引きちぎられるんじゃないかと言わんばかりの強力な力に引き込まれる。ここからは賭けだったが、人1人通れる広さはあるようだ。
それからは流されるまま、俺と橘は狭い排水溝の中をまるでスライダーかのように猛スピードで流れていく。
その証拠に、数分もすると、先にうっすらと光が見えてくる。間違いない、地上だ。
狙い通り小河に出ると、俺と橘はすぐに呼吸をした。気管に入った水を吐き出しながら咳き込む。
橘が息を切らしながら。
「よく気付いたね..もう諦めて頭おかしくなったのかと思ったよ..とにかくありがとう..」
「やっぱ、小さい時に小船は作っとくべきだな」
「どういう意味?」
とりあえず2人とも無事で良かった。俺と橘は水浸しの体で陸地に出ると、そのまま地面に横たわった。
俺は同時に大きく息を吐く。
「あーしんど..運動はしとくべきだな」
「ほんとにね、ところで今、何時?」
そうだ、タイムリミットは17時だ。かなり時間を使っているからおそらくそこまで時間は残っていないだろうけど。
偶然近くの電光掲示板に時刻が表示されており、俺はすぐさま確認した。
「16時35分...さすがに間に合わないよな..」
ここまでにかなりの体力を消耗しているし、精神的にも疲労している。自転車に乗れば10分くらいで着くが、今の俺たちじゃ不可能だった。
「でも、多分大丈夫だと思う。いつも17時になると学校で目を覚ますから。またリセットされると思う」
そいえば、さっきそんなこと言ってたな。要はゲームみたいなもんで、ゲームオーバーになってもセーブ地点からまたリトライ出来るみたいな感じか。
でも、問題なのは現実の橘の体があとどれだけ耐えられるか。現実の肉体が死ねば、そこでゲームオーバーだ。それに、俺も夢に囚われたらもう救いようがない。
「いずれにせよ、何とかして夢喰いを攻略しないと。橘も俺も、そんなに時間は残されていないから」
「やっぱり、私の体も限界に近いんだ..」
「そ..そこまでは言ってないよ..!」
今橘にそれを伝えたら、彼女を混乱させるだけだから、余計な事は言わないようにと思っていたが、まさか本人が気付いている?
「何となく分かるの。自分の体だから」
そこまで言われたら、もう隠す必要もないか。
「実は、橘のお見舞いに行った時、担当医が言っていたんだ。橘の身体的影響を考えると、そう長くは持たないって..」
「やっぱりそうなんだ..」
「うん..」
頷くと、橘の表情が曇った。そんな自分を悟られたくないのか、俺から顔を逸らして。
「お母さんには会った?」
「会ったよ..橘の事、心配してた」
「きっと怒ってるよね」
「それは戻ったら分かるさ」
言うと、橘は大きく頷いた。俺は続けて。
「あと、山本さんもな」
「やっぱりバレたんだ」
「自分を責めてたよ」
「私のせいなのに..」
「それも、戻ったらちゃんと謝ろう」
とは言ったものの、まだ何かが解決した訳じゃない。夢喰いが次に何を仕掛けてくるのか分からない。次は槍が降ってきてもさほど驚かないかもしれない。
「色んな人に迷惑かけちゃってるよね。何としてでも戻って、ちゃんと謝罪しないと」
「うん、そうだね」
少し沈黙が走るなか、ふとある事を思い出した俺は。
「そいえば、山本さんって愛想悪いよな」
「確かに、目つき悪いよね」
言って、お互い笑い合う。さっきまでの重たい空気もこれで少しはマシになっただろうか。
俺は笑う橘を見て、思わず橘の着ている制服のシャツに視線がいく。水に濡れて透けていて、地肌が少し見えている。俺は顔を赤くしながらそっと視線を逸らした。
「もうそろそろ戻るね」
思わず見惚れていた俺は、ふと我に帰って時刻を確認する。
「そ、そうだ! もう時間が...」
その時、意識が遠のいていく感覚を覚える。まるで眠りにつくかのように俺は目を閉じた。
目を開けると、最初に橘と出会った教室で目を覚ます。これが橘が言っていたやつか。ほんとに脳がバグりそうだ。
「本当にここで目を覚ますのか」
「そう、もう一度お姉ちゃんのところに行かないと」
そうだ、考えている時間はない。とにかくまたお姉さんの所へ向かわなければ。
「あれ? そいえば、服が乾いてる」
「うん、時間そのものがリセットされるから、さっきまで起きていたことも全てリセットされるんだと思う」
確かに、肘にできた傷を確認したが綺麗さっぱり無くなっているし、疲労も全くない。不思議な感覚だが、これは俺たちからしたらラッキーかもしれない。
ただ問題なのは、あと何回繰り返す事が出来るのかだ。当然繰り返すつもりは毛頭無いが、あまりにも理不尽な邪魔が入った場合、俺たちではどうしようもない。ゲームのリセマラみたいに、当たりが来るまで何度もやり直した方が効率が良いかもしれない。
「橘がお姉さんの所へ向かっていた時は、毎回さっきみたいなめちゃくちゃな邪魔されたの?」
「そうだね。強風で歩けない時とか、道路が波みたいにウェーブした時もあった。あと酷いのは、ケンタッキーフライドチキンの店の前にある人形に追いかけ回されたりとか」
「カーネルサンダースに追いかけられたのか?」
「うん」
カーネルサンダースの件は割と気になるが、やはりどれも常識では考えられない事が起きている事は確かだ。やはりリセマラの線は捨てた方が良さそうだな。
「次はくいだおれ人形にでも追いかけられたりしてな」
「ゼロとは言えないね」
次は何を仕掛けてくるか分からないが、とにかくお姉さんの居る所へ向かわなければ。
雑談は後にして、俺と橘は教室を出た。
廊下を歩いていると、橘が笑みを浮かべながら。
「なんか肝試ししてるみたいだね」
「確かに、誰もいない学校ってなんか不気味だよな」
「覚えてる? トイレの花子さん事件」
橘の質問に、俺は数秒戸惑ったものの、鮮明に思い出して思わず笑って噴き出した。
「あー、裕太郎が普段は誰も使わない4階のトイレで花子さん見たって言い出したやつな」
「そうそう、それでみんなで見に行ったら、谷垣先生が出てきたんだよね」
それから図工の担当だった谷垣先生のあだ名が花子さんになったってやつだよな。中1の時だっけ。こんな会話をしてると、まるで中学の時に戻ったみたいだと懐かしい気持ちになって、俺も思い出話に拍車がかかった。
「じゃああれは覚えてる? 裕太郎脱走事件」
聞くと、橘は大きく頷きながら、くすくすと笑って。
「あれだよね! 結局鰻屋さんの店主に捕まってうなぎパイ貰ったってやつ!」
「そう! そっちのうなぎかよってみんなで爆笑したよな」
裕太郎は学年一のムードメーカーで、何かと事件が多いやつだった。高校が別々になってから関わらなくなっちゃったけど、懐かしくて久々に会いたくなる。
裕太郎の話題で盛り上がり、つい夢の中にいる事を忘れてしまうほど、俺たちは時間の流れも分からないくらい笑い合っていた。その証拠に、既に学校を出ているものかと思っていたが、まだ廊下を歩いている。結構長く話していたつもりだったのにな。
ん...? おかしくないか..?
異変を感じた俺は、後ろを振り返る。異変の正体は自分でもなんとなく分かっていたが、どうしても信じられなかった。というか、信じたくなかったのだ。
「橘、俺らさっき、階段降りたよな?」
「うん、降りたね」
俺は後ろを振り返りながら、教室の入り口の上に吊るされた年と組が書かれた版を指さした。気付いた橘も、手で口を覆いながら目を見開いて。
「嘘..そんな..ことって...」
橘が驚くのも当然だろう。なんせ俺たちが元々いた教室が2階にある2-3の教室で、俺たちは階段を降りて一階に降りたはずなのに、また2-3の教室がある廊下に戻ってきているんだから。




