【コミカライズ化】お腹がいっぱいなら、悪役令嬢なんて生まれないと思うの
お読みいただきありがとうございます。
「わたくしは明日戦場に赴きます」
「この平和な時世に?」
「お茶会ですわ」
「ああなるほど」
安心したように紅茶をまた飲みだした、わたくしの婚約者であるキリル様は「ソニチュカ、今度は令嬢方を怯えさせないよう気をつけてね」とわたくしに緩く釘を刺した。
「……しょうがないでございましょう? だって、皆様とっても細いんですもの、骨がうっすら透けているんですもの。紳士なキリル様は、乙女の肌を直視しないから知らないでしょうけど」
「だからといって、口に勝手に食べ物を突っ込むのは無作法だよ。口の中を怪我してしまうかもしれないし」
「なるほど、つまりは自ら食べてもらえるように仕向ければ良いということですね」
「それは公爵令嬢の職権濫用だよ」
名案はすげなく却下される。
キリル様はわたくしが持ってきたクッキーに生チョコを挟んだ手ぐらいの大きさに相当する生チョコサンドクッキーを食べて「あま……」とため息をついた。
「ソニチュカ、君が持ってくるお菓子は毎度毎度甘くて大きくて僕は食べるのが大変だよ」
「あら、では使用人の方にあげては?」
「それが君の思惑だろう。ソニチュカの計画通り、使用人たちは今日はどんなお菓子を持ってきたのかと君が来るのをソワソワ待っているのを知ってるよ」
さすがキリル様。わたくしの意向をこうして汲んでくれる。
キリル様は翡翠の瞳に憐憫の色を乗せてわたくしを見る。
「ソニチュカ、君はどうして、こんなに人に食べさせたがるんだ」
「わかりませんわ。ですが、お腹が空いてたまらない人がいる、というのがとてつもなく耐えられないのです」
「そうやって、領地で炊き出しなどもやっているのか」
「よくご存じで」
「そして、領民たちが炊き出しに頼らなくても生きていける為に生活の基盤も整えている、と」
「よくご存じで」
お腹が空いているとは悪だ。空いている人が悪いのではない。空かせたままの環境が悪なのだ。
「君はいつか、途方もない暴走をしそうで怖いよ」
嘆くキリル様に、わたくしはにへりと笑う。
「その為にキリル様がいてくれるのでしょう?」
「まったく、ソニチュカは本当に。はあ……」
ため息を再度つくキリル様に「でも途方もない暴走だなんてレアですから早々には見せられないでしょうから安心してください」とわたくしは胸を張った。
……そう胸を張った時が、わたくしにもありましたね。そうです、昨日の話です。
暴走の時が来ました。今です。
◇◇◇
戦場、もといお茶会に赴く。まず初めにわたくしは、お菓子をつらと見た。あれから警戒されたらしく、お菓子の量が目に見えて減った。これからは持ち込みも視野に入れるか……
「ちょっと、招待状を持ってない方は駄目ですわよ」
門の辺りから声が響いた。
不思議に思い行ってみれば、今回の茶会の主催者であるアリーナ様が小柄な少女の前に立ちはだかっていた。
少女は手を握りしめ小さくなっている。夏なのに袖の長いドレスを着ていてわたくしは首を傾げた。
ふと、少女が顔を上げた。真っ黒な髪から覗く赤い瞳がわたくしに向けられる。瞬間、なにかが弾けた。
――お腹いっぱい、ご飯を食べさせてあげたかった。
頭を押さえる。これは、なに? この声は、誰のモノ?
そうだ、この声は、わたくしのモノだ。前世、梢という人間だった頃の声。
ここは、ネット小説の世界。
「……アナスタシア」
全部思い出した。
そのネット小説は、ヒロインが学園で数多くの男性に言い寄られる逆ハーレムストーリー。そしてわたくしの目の前にいる、黒髪の少女の未来で出来る婚約者も、数多くという男性の中の一人だった。
黒髪の少女、アナスタシアは絶望した。自分を虐待する両親の元から連れ出そうとしてくれた婚約者がヒロインに心酔していく様を見て。満たされなくて、ひもじくて、ヒロインが憎くてたまらなくて。
ついにヒロインを虐めて、婚約者に見限られ婚約破棄された可哀想なアナスタシア。物語では、アナスタシアの断罪は美談だった。
だけど梢は涙した。アナスタシアはただお腹が空いていただけなのにと。お腹がいっぱいなら、きっと悪役令嬢なんて生まれなかったのにと。
可哀想なアナスタシア。お腹が空いていたアナスタシア。満たされることを知らないアナスタシア。
梢の心がわたくしにじわりと広がる。
気づけば歩き出していた。
「アリーナ様、どうなさったのですか?」
「まあソニチュカ様。お騒がせして申し訳ありません。いえ、招待してない方がいらっしゃったものですから……」
アナスタシアを見やる。
彼女は今、なにを考えているのだろう。
その長い袖で隠された腕には、既にどれ程の傷があるのだろう。
未来で、自分を助けてくれると思った人に裏切られた時、彼女をどれ程の絶望が占めるのだろう。
「私の友人、ということで入れることは出来ませんか?」
すみません、キリル様。わたくしは公爵令嬢の職権濫用をします。
「え、ですが……」
「お願いします。この子がなにかした暁には、わたくしが責任を取り切腹……いいえお詫びします」
おっといけない。『切腹』など伝わるわけないだろう。
アリーナ様は暫く考えた末に、渋々ながら許可してくれた。
「しょうがありません。ソニチュカ様の願いなら」
「ありがとうございます。さあ、行きましょうアナスタシア様」
手を差し出す。びくりと彼女の体が震えた。
「……あの?」
不思議そうに見上げられる。まさか彼女は、手を繋ぐことすら知らないのだろうか。
わたくしはアナスタシアの手を取り、優しく握りしめた。
「椅子をもう一席用意してちょうだい」
「わたくしの隣でお願いします〜」
アリーナ様の声に応じて使用人が椅子を用意してくれ、そこにアナスタシアを座らせた。
そしてアナスタシアは、出された紅茶をグビグビ飲み始めた。周りの令嬢は絶句し、口をぽかんと開けている。
わたくしは注意しようと口を開いた。
「アナスタシア様」
「は、はい。なんでしょうか……」
「紅茶をそんな風に飲んではいけませんわ」
うんうんと、周りの令嬢が頷いた。
「舌をやけどしてしまいます」
「あ、わかりました……」
「そこなんですの!?」とどこから声が響いた。そことはどこだろうか。
もう一度紅茶を淹れてもらえば、今度は丹念にふーふーしてからアナスタシアは紅茶を飲んでいる。
可愛い。とっても可愛い。赤い目はくりくり丸っこくて可愛いし、目鼻立ちも美少女の気配をビシビシ感じさせる。
なんて可愛さ。着飾らせたい。髪をといてあげたい。
「このマドレーヌも、とても美味しいですわよ」
「食べて、良いんですか?」
「勿論です」
お腹いっぱい、食べさせてあげたい。
はぐはぐマドレーヌを食べるアナスタシアの背をそっと撫でる。そして思案する。
アナスタシアが未来で救われることがないのなら。それならばわたくしが救っても誰も怒らないだろう。
算段をつける。よーく考えて、わたくしはやるべきことを決める。
「アナスタシア様」
「は、はい」
真剣な声音で尋ねれば、アナスタシアの背がすっと伸びた。瞳にまた恐怖が見え隠れする。
安心させたくて、わたくしはにこりと笑った。
「わたくしの妹になりませんか?」
「えっと、貴女様の、妹ですか?」
「はい、わたくしはラストニア公爵家が長女ソニチュカ。わたくしの妹になってくださったら、もう二度と貴女にお腹は空かせません。約束します」
「でも、勝手に妹になったら、お父様とお兄様怒っちゃうかも……」
「だーいじょうぶです。そこは、お姉ちゃんであるわたくしが、必ずどうにかしますわ」
そう、公爵令嬢という地位と財力をもって!
「でも……」
「アナスタシア様、なにが不安ですか?」
「……ソニチュカ様は、どうして私を助けようとしてくれるんですか? 私には、なんの価値もありません。私は生まれなければ良かった子ですから」
アナスタシアを生んだ母は、アナスタシアの命が芽吹く代わりに自分の命を喪った。
だからアナスタシアは父と兄に責められ生きた。母殺し、お前なんて生まれなければ良かったと。
「そんな想い、もう二度とさせません」
アナスタシアの口にマドレーヌを小さくちぎったモノを運ぶ。
「わたくしはアナスタシア様に会えて嬉しいです。だからお姉ちゃんになりたいのです」
マドレーヌを頬張りながら、アナスタシアは首を小さく縦に動かしてくれた。ともすれば見逃してしまいそうな、小さなアナスタシアの心だった。
「ありがとうございます! では、早速わたくしたちのお家に帰りましょう。ではアリーナ様、すみませんがこれにてお暇させていただきます」
「はいわかりましたわ、ごきげんよう。……アナスタシア様、ソニチュカ様は際限なく食べさせようとしますから、ちゃんとお腹いっぱいの時は言ったほうが良いですわよ」
「……? はい、ありがとうございます」
十八歳、もう学園を卒業したわたくしよりも五歳年下の筈の少女は、それ以上の年の差を感じさせる程に小さい。
これから、目一杯可愛がるの。うんといっぱい可愛いがるの。
馬車でくうくう寝息を立てるアナスタシアを撫でながら、何色のドレスが似合うだろうかとわたくしは考えた。
◇◇◇
「というわけで、アナスタシアがわたくしの妹になりましたの」
「まさかの事後報告」
キリル様にじとっと不満気な視線を送られる。
わたくしの隣には今、可愛い若草色のドレスを着たアナスタシアがクッキーを食べている。
最初はあざや切り傷が多かったが、治療していく内に真っ白な肌は綺麗になっていった。
連れて来た時に、お父様とお母様は目を丸くしていたが、わたくしの話とアナスタシアの状態を見て、アナスタシアをあの家に置いてはいけないと判断してくれたようで向こうの家と話してくれ、お金と代わりにアナスタシアは我が家の家族となった。
驚いたのが、アナスタシアには満腹という感覚がなかったことだ。
我が家に連れてきた日、消化の良いパン粥を出したらアナスタシアは目を輝かせ食べだした。
食べ方が粗く周りに牛乳が飛び散っているのを見てお母様が「これは色々教えなくちゃいけないわねぇ」と言えば、アナスタシアの動きがピタと止まった。
「どうしたのです? 安心してください、お母様の教え方はとっても優しいですから」
「いえ、違うんです……これ、とても美味しいのに、もっと食べたいのに、食べれないんです」
「……?」
「お腹が、いつもとは違う感じに痛くて……なんで? なんでぇ、もっと食べたいのにぃ」
ボロボロ涙を零すアナスタシアは自分のお腹を叩き出した。
慌てて拳を掴んで止めさせる。
「大丈夫ですよアナスタシア、それを『満腹』というのです。アナスタシアがいっぱいご飯を食べたから、お腹がもう入らないよーと言っているだけなのです。なんらおかしいことではありません」
「でもでも、もっと食べないと……」
「アナスタシア、貴女がお腹を鳴らせば、明日も明後日も、その先の未来でも必ずご飯がでます。だから今、無理して食べなくて良いのです」
アナスタシアはようやく抵抗をやめ、拳を膝の上に下ろした。
「さあ、お腹がいっぱいになったら、感謝の気持ちを込めて『ごちそうさまでした』と言いましょうね」
手を合わせてお手本として見せてみれば、アナスタシアは目をぱちくりした後に手を合わせた。
「ごちそうさまでした。明日もいっぱい食べれますように」
「よく出来ました〜」
可愛い。アナスタシアがとっても可愛い。わたくしの妹は賢くて可愛くて最強すぎる。
そこまでの話をすれば、キリル様が呆れたように額を押さえた。
「まったく、ソニチュカはいつも一人で暴走するんだから」
「ごめんなさい、キリル様」
キリル様が紅茶のカップを置いて、アナスタシアのお口サイズの小ちゃなクッキーをわたくしの口に放りこんだ。
「ソニチュカ、今度からは僕にも早く相談してくれ。言われた時にはもう全て終わってた、というのは嫌だ」
「気をつけますわ!」
いつもよりキリル様の元気がなくて、わたくしは慌てて頷く。
キリル様がガーデンテーブルに突っ伏した。呆れられてしまったかしらと焦っておろおろしていると、顔だけ上げたキリル様がわたくしを上目遣いで見た。
「君が、だ、大好きだから心配なんだ。だから、相談してほしい」
「…………」
大好きという言葉の破壊力。上目遣いという破壊力。わたくしの婚約者はどうしてこんなにも素敵なのでしょう。
「はい、心得ました。大好きなキリル様に隠し事はもうしません。大好きですから。わたくしとっても大好きですから」
「っもういい。だからそんなに大好きと言わないでくれ……」
「そういう訳にはいきません。大好きなキリル様に事後報告など、本来してはいけなかったのです。だってわたくしたち、二十歳には結婚するのですから」
キリル様が顔を真っ赤にする。
「もう、勘弁してくれ……」
可愛い。今度こそ完全に突っ伏してしまったキリル様の髪に指を通して撫でていると、くいと服を引っ張られた。
横を向けば、アナスタシアがクッキーを食べるのをやめてわたくしを見ている。
「どうなさったのですか?」
「……わかんないです」
俯いてしまった。わたくしはキリル様の髪を触るのをやめて、アナスタシアの頬を両手で包み顔を上げさせた。
「わたくしの可愛い可愛いアナスタシア。なにか困ったことがあったらすぐ言ってくださいね」
「はい。……お姉様は、私がお姉様のように賢く強い女性になったら嬉しいですか?」
お姉様!!!! 言葉の破壊力が凄すぎて脳が貫かれた。
わたくしはアナスタシアを抱きしめ頬ずりする。
「ううう、既にわたくしの妹は宇宙一可愛くて賢くて最強です!」
「ほ、本当ですか」
「はい」
嬉しそうに頬を緩めるアナスタシアが可愛い。
「でも、そうですね。学ぶことはとても大事なことですね。アナスタシアが学んだこと、経験したことは、いつかの貴女を絶対に見捨てません。助けてくれますから」
「いつかの私を、助けてくれる……」
「はい」
「わ、私っ、お勉強頑張ります……! 貴女の自慢の妹になれるように!」
なんて良い子なのだろう。この子がどうして、悪役令嬢なのだろう。なんて酷い。誰かがお腹いっぱいにさせてあげれば、この子はずっと良い子でいられたのに。
わたくしはアナスタシアに、なるべく沢山の道を提示してあげたい。その為にしなくてはいけないことは数え切れないくらいある。
アナスタシアの頭をうりうりと撫でる。笑うアナスタシアに、どうしようもないくらいの愛おしさがこみ上げた。
「貴女は既に、とっても自慢の妹ですわ」
◇◇◇
それから二年の月日が経った。
「お姉様、今日は先生にピアノを褒められました!」
「まあ、アナスタシアはピアノがとっても上手だものね。すごいわ」
撫でると、アナスタシアはふふふんと嬉しそうに笑った。
二年前とは違い、十五歳のアナスタシアは肌もふっくらとしていて、黒髪にも艶があり更に可愛さに磨きがかかってる。お茶会でも他の令嬢からも綺麗だと褒められ、社交界でも美しいと評判なのだ。
またスポンジが水を吸い込むようにアナスタシアはよく学んだ。二年で粗さがすっかり抜けそんじょそこらの令嬢と比べてもアナスタシアは優秀で、先生方もアナスタシアの優秀さには驚かされるとよく言っている。まあ、わたくしの自慢の妹ですから当たり前ですけどね!
わたくしに抱きついたアナスタシアに、ナッツが沢山入ったサブレを食べさせる。サクサクと小さなお口を動かして食べたアナスタシアは、それからふと目を細めた。
「……お姉様は、これからどこへ? キリル様と出かけるのでしょう?」
「あら、わかってしまったかしら」
「ええ、いつもお姉様は綺麗だけど、今日は特に綺麗ですから」
確かに、キリル様と出かける日はいつもより明るい色のドレスを着る。今日はキリル様の瞳と同じ翡翠色のブローチが付いた淡いピンクのドレスで、フリルも沢山のモノを選んだ。アナスタシアにはすっかり見抜かれていたらしく顔に熱が集まる。
「わたくしの可愛い妹に隠し事は出来ませんわね。そうね、今日はウエディングドレスの最終確認に行くの」
二ヶ月後、わたくしとキリル様は結婚する。その為のドレスが出来上がったらしい。
「そうですか……」
なんだろう。アナスタシアからネット小説のアナスタシアと同じ雰囲気がする。
お腹が空いているのかしら。
もう一枚クッキーを差し出せば、身を乗り出すようにアナスタシアはクッキーを頬張った。ハムスターのように愛らしいわたくしの妹は、行儀よくクッキーを飲み込んでからそっとわたくしに甘えたそうな表情をした。
「ねえお姉様」
「なんでしょう」
「お姉様は、キリル義兄様と結婚しますよね? そして、この家の当主となるんですよね」
「はい、そうですわね」
「そしたらお姉様には子供が出来て、私はお父様とお母様が選んだ方の下へ嫁ぐんですよね」
「はい。アナスタシアに見合わない男は私が蹴散らしますけどね」
にこ、と笑えば真剣な顔を返された。そのままアナスタシアは「私、帰りますね。次の授業がありますので」という言葉を残し風にさらわれるように去っていく。わたくしは目を見開きながら、その背をなぞるように見つめていた。
アナスタシアの小さな呟きを、わたくしは確かに聞いてしまった。
――キリル義兄様も、お姉様の子供も、皆死んでしまえばいいのに。
「…………」
「どうしたのソニチュカ。ドレス、気に入らなかった?」
はっとなる。
わたくしは今ウエディングドレスの最終確認で着た姿で直してもらってた。
眉尻を下げ心配そうな顔をするキリル様に答えるように頭をぶんぶん横に振れば「お嬢様、危ないので動かないでください」とお針子に怒られたのでピタリと止まり改めて「違うんです」と否定する。
アナスタシアが……と言葉を続かせようとして、詰まってしまった。どう説明すればいいか分からなくなってしまった。
にへりと笑う。
「えっと、ドレスが入らなくなる、なんてことが起こらないように甘いモノは食べすぎないようにしなくちゃ、と思いまして」
「……そっか」
「はい、そうなんです」
訝しげな顔をしながらも一応納得してくれたみたいでホッと胸を撫でおろす。
「お嬢様、気を緩ませないで胸をもっと張ってください」
「はい!」
◇◇◇
わたくしはこの光景を知っている。
「私のモノなんですから、離れて!」
見たことはないけど、読んだことならある。悪役令嬢アナスタシアが、ヒロインを牽制するシーン。
――でも牽制されてるのがヒロインじゃなくてキリル様で、奪い合われているのがわたくしってどういうこと!?
「お姉様は私のモノなの!」
「違う、ソニチュカはモノではなく、心も体も、彼女の尊厳も全てソニチュカ自身のモノだ。……まあ、あと少しで僕の花嫁になるんだけど」
「最後の最後で牽制されたー!!」
導火線に火をつけたキリル様は、わたくしの腰を抱き幸せそうな顔をしている。
顔を歪めたアナスタシアが、涙を溜めながらわたくしの胸に飛び込んだ。
「どうしたんですかアナスタシア。最近はご飯もちゃんと食べないし、わたくしは可愛い妹が心配でたまりません」
「……だって」
「話してくれませんか?」
「……だって! 私がお腹いっぱいになったら、お姉様がもう心配してくれなくなるじゃないですか!」
わたくしとキリル様が顔を見合わせた。
「お姉様が好きなのは、お腹が空いている子にご飯を食べさせることなのでしょう!? 私が満たされたら、次はまた違う子に行ってしまわれるのでしょう? お姉様の子供に、私にしてくれたみたいに愛を注ぐのでしょう?」
なにも言葉が出なくなった。
わたしには、ご飯をお腹いっぱい食べさせたい人がいた。とっても大切な子で、わたしの妹で、お腹を空かせたまま死んでしまった子。
その子とアナスタシアを重ねなかったかと聞かれたらそれは嘘で、だからこそなにも言えない。
「アナスタシア……」
「私を、一人にしないでください。お願い……」
弱々しく揺れる肩を抱きしめる。
「一人になんてしません。ずっと一緒です」
「毎分毎秒一緒にいてくれるんですか? 違いますでしょう?」
梢だった頃のわたしは、母親から放置されて育った。父親はいなかった。毎日お腹が空いて辛くて、ボンヤリ生きていた。
そんなある日、妹が生まれた。みすずと名付けられた妹が、わたしの枯れ枝のような腕に乗る。母親が「ソイツの面倒見て」という言葉と共に五千円札を置いて、どこかへ行った。これからまた、二週間は絶対帰ってこないだろう。
でもわたしの目はみすずに吸い込まれたままで。わたしはみすずを積み重ねた洋服の上にそっと乗せる。みすずの小ちゃな手に自らの指を近づければ、存外強い力で握られた。
涙がじわと滲んだ。この子を、わたしの一生をかけて守ろうと思った。
それから本屋の立ち読みで得た知識を元に頑張ってお世話をして、いつもいつもひもじかったけど、みすずと一緒なら辛いこともへっちゃらだった。そしてみすずが九歳の頃わたしは高校を卒業し、その足で二人で家を飛び出した。行く当てはあった。住み込みの仕事だ。それなら、みすずと二人で暮らしていけるから。
「今日からここで暮らすんだよ」
社宅のアパートのドアを開け、わたしはみすずを家の中へ入れる。わあ、とみすずが歓声を上げた。
「このクッション座ってもいいの!?」
「勿論だよ」
「畳がチクチクしてないから、寝転がっても痛くなーい!」
「うん、うんそうだね」
「……お姉ちゃん、泣いてるの?」
小さな手が、そっとわたしの頬に触れた。
「これは嬉し涙だからいーの」
「そっかぁ! じゃあみすずもいっぱい泣く!」
二人で畳に寝転び笑い合った。わたしは寝転んだまま、隣にいるみすずを見つめる。
「ねえみすず」
「なーにーお姉ちゃん」
水を張ったような黒目を見て、ようやく新しい生活が始まるんだと安心して涙がコロリと畳の上に転がった。
「今日をわたしたちが生まれた、本当の日にしよう」
「お誕生日ってこと?」
「そう」
わたしの誕生日は、いつかなんて分からない。みすずも、あの家に来た日を誕生日にしたけど、それだってきっと本当じゃない。
だから、わたしたちが新しく生まれ変わった証に、今日を誕生日にする。とっても心がドキドキした。
「お姉ちゃん、今日がみすずたちの誕生日ってことは――」
なにかをひらめいたように瞳を輝かすみすずがとっても可愛い。
「みすずとお姉ちゃん、双子になったってこと!?」
ああもう、うちの妹が宇宙一可愛い。
「そういうこと! さすがみすず!」
抱きしめて頭をうりうり撫でれば「きゃあ」と嬉しそうに笑った。
早咲きの桜が風に吹かれサアサア揺れている、そんな夜だった。
わたくしは唇を噛み締めながら、アナスタシアの肩口に顔を乗せた。ドレスを濡らしてごめんなさい。と心の中で小さく謝る。
わたくしは死んでしまったみすずの面影を、アナスタシアに重ねているのだろうか。
すぐさま否定が出来なかった。だって確かにわたくしの心の根底には梢がいて、梢はなによりもみすずを大切にしていたから。
――お腹いっぱい、ご飯を食べさせてあげたかった。
梢のこの気持ちが受け継がれてしまっているというのも分かる。
でも、それでもわたくしにとって、二人は別なのだ。
それをどう表現すればいいかなんて分からないけど。
もうなにも話せなくて困ってしまえば、アナスタシアがわたくしの手を払った。
「もういいです!」
淑女に似つかわしくない全力疾走で駆けていくアナスタシアに手を伸ばすが、虚しく空を切る。
ペタンとその場に座り込む。
「大丈夫? ソニチュカ」
「キ、キリル様、わたくし……」
「落ち着いて、ゆっくり深呼吸をして」
ひっひっふー、ひっひっふー。
「落ち着きました、ありがとうございます」
「嘘でしょ?」
「いいえ、元気いっぱいです」
「……嘘だっ」
わたくしは目を見開いた。大声を出されたからじゃない。キリル様が、顔を真っ赤でくしゃくしゃにして泣いていたから。
「いつも僕にはなにも相談してくれない! 君にとって僕は、そんなにも頼りないか……!」
「ち、違う。違います……」
だって、梢には頼れる大人がいなかった。だから頼ろうとする考えすら浮かばなかった。
でもそれを、どう説明すればいいのだろう。前世の話なんて、誰が信じてくれるのだろうか。
わたくしの手を、キリル様が包んだ。骨張った男の人の手は、見かけによらず柔らかく優しくわたくしの手を包んだ。
「ソニチュカ。君の言葉を、聞きたいんだ。どんなことでも良いから、話してほしいんだ」
「…………」
「なにを話してくれるかが重要なんじゃなくて、君に話してもらえるのが嬉しいんだ。僕を信じてくれ」
「キリル、様」
椅子に座ったわたくしたちは、お互いにそわそわと所在なく視線を彷徨わせる。
わたくしといえば手まで動かしちゃったりしてぎこちない。なにから話せば良いんだろう。
迷った末にちらりとキリル様を伺えば、きゅっと眉根を寄せ真剣な顔をしていた。そういえば、キリル様はわたくしの話が聞きたいと言っていた。
わたくしより頭の良いキリル様なら、ちんぷんかんな説明でも理解してくれるかもしれない。
「キリル様。わたしには妹がいたんです」
「妹が、いた?」
「はい。目に入れても痛くない程に可愛い子でした」
「その子は今……」
「死んでしまいました」
その日は、わたしが会社で働いて一年目の日。そしてわたしとみすずの誕生日だった。
時刻は七時。遅くなってしまったと焦りながらわたしは歩いていた。春の香り漂う道を。
みすずの好きそうなくまのお人形。いつもは食べれないお肉。そして、二人共食べたことがないケーキ。それから、職場の方に誕生日だと話したら貰った沢山のお菓子。大切に大切に持ちながら、アパートへと歩みを進めていく。いつもは三キロ先にある激安スーパーだけど、今日は仕事場から近いスーパー。早くみすずに会いたくて、奮発してしまった。
まだ生活は苦しいけど、少しずつ豊かになってきてる。このまま頑張って働いたら、みすずを大学まで行かせてあげられて、毎日お腹いっぱいご飯を食べれる日もきっと来る筈だ。期待に胸が高まる。
早歩きになっているのを自覚しながら歩き続ければ、ふとサイレンの音に意識を戻された。交差点辺りで人がわらわら集まっている。早く帰らなければいけないのに、強く意識をひかれた。
ケーキの箱やくまのお人形を大切に抱えながら近づき、野次馬の壁の隙間からなにが起こったのかを確かめる。
次の瞬間、わたしはケーキの箱もくまのお人形も、お肉もお菓子も放り投げ野次馬たちをかき分けていた。
野次馬たちに囲まれた子が着ていた真っ赤に染まった上着は、わたしがみすずに買った白いふわふわの上着と一緒だった。
「みすず! みすず!」
野次馬をかき分けみすずの前に躍り出る。頬に触れれば、まだほんのり温かかった。
なんで、どうして。思考が定まらない。ボンヤリとみすずの持っているモノに目を向ける。
みすずが持っていたのは、三つのプリンが連なって一個として売られている商品だった。二つはお互いで食べて、残り一つは二人で半分個にして食べたプリン。『ごほうび』とみすずが呼んでいたあのプリン。
プリンを食べる時、みすずはスプーンですくったプリンをよくわたしにくれた。みすずが小さなスプーンの上に沢山プリンを乗せてくれるから上手く食べれなくて、口元にプリンがよくくっついたのを憶えてる。
――三キロ先のスーパーで値引きされている時だけ買うプリン。
『みすず、アパートの人にお金貰ってるの?』
『うん。荷物運んだり、皆がお仕事行ってる間にお花に水をあげると貰えるの!』
『そうなんだ。大事に使うんだよ。あと、明日改めてお礼に行こうね』
『はーい』
「そっか、あのお金、プリンに使ったんだぁ」
プリンはプラスチックカップの中でぐちゃぐちゃになっていた。
それからは全てがボンヤリしていて、なにも憶えてない。
気づけば、わたしの手には小さな骨壺が納まっていた。
『お姉ちゃん、このチャーハン、すっごく美味しい!』
『ええ~? 大根の葉っぱとかを入れて作っただけだよ?』
『すごーく美味しいよ! お姉ちゃんも、そう思うでしょ?』
『うん、そうだね。とっても美味しい』
お腹いっぱい、ご飯を食べさせてあげたかった。
こんなに小さくさせる為に、今まで育ててきた訳じゃない。もっともっと、幸せにしてあげたかった。
昔、休憩時間に同じ所で働いている野村さんが面白いからと読ませてくれたネット小説を思い出す。短編のそのお話は、ヒロインよりも悪役令嬢の方がわたしの心に触れた。職場でボロボロ泣いてしまって、皆に心配されたのを覚えている。
あのアナスタシアという悪役令嬢の気持ちが、より一層理解できてしまった。
苦しい。苦しい。もう生きていたくなんかない。死んでしまいたい。
わたしは台所で包丁を取り出した。月の光に照らされ、包丁が鈍く光る。
そのまま自分の腹に突き立てた。鮮烈な痛みが脳を支配した。
「……その子をわたくしは、空腹なまま死なせてしまった。だから、確かにわたくしはアナスタシアにその子の面影を重ねているんです」
色々な部分を端折りながら、かいつまんで説明する。
キリル様は時々相槌を打ちながら、静かに聞いてくれた。
「その子の名前も、アナスタシアだった?」
どうしてそのようなことを聞くのだろう。
「いいえ」
「じゃあ、名前は似てた?」
「いいえ、一文字しか合っていません。文字数も二倍違います」
「そっか」
一体、なにを言おうとしているのだろう。
「面影を重ねていると言いながら、ソニチュカは一度だってその子とアナスタシアを呼び間違えなかったんだね」
「……あ」
なにかがゆっくり解けていく。
「大丈夫、ソニチュカ。君の気持ちは、絶対にアナスタシアに伝わる。僕が保証する」
「……キリル様ぁ」
じわりと涙を滲ませながらわたくしは彼に飛びついた。
「ありがとうございます、大好きです」
「ちょ、ソニチュカ、分かったから離れて……!」
グイグイ肩を押される。もう少しこの感傷にこの浸っていたくて力を込めた。
「ほんっとうに離れて!」
「良いじゃないですか。あと三日で結婚式なんですし」
子供のように「よくない!」と叫ぶキリル様から渋々体を離す。
そこにばたばたとメイドがやってきた。
「まあどうしたの? そんなに急いで」
「お、お嬢様! シラスタ伯爵家の方が今来ているんです!」
――それは、アナスタシアの旧姓。
「なんでも、アナスタシアお嬢様を返せと言っているらしいのです!」
「……っ、すぐ行くわ」
「僕も同席しても?」
「ええ、ありがとうございます」
応接室でお父様とお母様が対応しているらしく道すがらアナスタシアのことを尋ねると「アナスタシアお嬢様には伝えていません」と返される。わたくしは頷いた。
自分を虐めた奴らが来て、しかも自分を返せと言っている。これ程怖いことなんてない。家族であるわたくしたちが秘密裏に片付けるべきだ。
応接室のドアを開けると、シラスタ伯爵家当主とその嫡子であろう男の目がわたくしに向き、それから大きく舌打ちをしてきた。
「あのですね、私たちはアナスタシアを出せと言っているのです」
「ですから先程も申しておりますが、アナスタシアは既に僕たちの娘です。返す義理も、会わす道理もありません」
お父様が眼光鋭く応対する。
「アナスタシアを虐めた貴方たちが、一体今になってどうして来たのですか」
「社交界で聞きましたよ。アナスタシアが随分綺麗になったと。ミラのように、美しいと」
ミラとは、アナスタシアを産んだ母親のことだ。
まさかこの人たちは、今度は母親の幻影をアナスタシアに求めようとしているのだろうか。
「そんなこと、絶対に許可させません! アナスタシアはもう、貴方たちの娘でもなんでもないんです!」
「ですが、貴女様にとってもアナスタシアはもう不要でございましょう?」
「……はい?」
なにを言っているのだろう。理解が追いつかない。
「なんでも、アナスタシアを引き取ったのは貴女様が『食べ物を食べさせるのが好きだから』なのでしょう? アナスタシアはもう健康だと聞いております。でしたら、もう十分でしょう」
腹の底が熱くなる。キリル様に腰を抱かれていなかったら、立ち上がって彼らの頬を打っていただろう。
「ご飯は、一日だって欠かしてはいけません。だから十分なんてことはないのです。そして十三年もの間満足にアナスタシアにご飯を食べさせなかった貴方たちの下に行かせる気はありません。……それに」
梢として生きている時は、生きることで精一杯だった。その場その瞬間のことだけしか考えられなかった。だって、あんなに細いみすずに、明日も生きてもらうことがなによりも大事だったから。
でも、わたくしは健やかになったアナスタシアを見て思った。欲が芽生えた。
「わたくしは、アナスタシアのウエディングドレスを着た姿を見たいです。あの子の子供も見たいです。そしてアナスタシアがわたくしに側にいて欲しいと思った時に、いつでも側にいてあげたいのです。だから決してアナスタシアを渡しません」
みすずへの後悔をアナスタシアで精算しようとしているわけじゃない。
わたしはあの小説を読んだ時、確かにアナスタシアが救われることを願ったのだ。
「他の誰かじゃ駄目なんです! アナスタシアが幸せに暮らしていく姿を、わたくしは見たいのです!」
「ぐ、ぅ……っ、生意気な!」
「――生意気なのはどちらでしょうか?」
キリル様が懐から取り出した紙をピラピラさせる。
「公爵家の勉強の片手間にシラスタ伯爵家のことを調べたんです。そしたら面白いことが分かりましたよ」
サアッと彼らの顔が面白いくらい蒼くなった。
「――……ミラ・シラスタ伯爵夫人を殺したということが」
わたくしは目を見開いたが、お父様とお母様は凪いだ目をしている。もう事前にキリル様に聞かされていたのだろう。
「調べたらおかしいと思ったんです。ミラ・シラスタ伯爵夫人の死んだ日づけがどこにも記されていない。本来ならアナスタシアが生まれた日に、記される筈なのに。それはなぜですか。記せない理由でもあったんですか」
「……黙れ」
「そして、アナスタシアが生まれた少し後にシラスタ伯爵家を辞め実家に帰った使用人が何人もいる。彼らに秘密裏に会った時に、教えてくれましたよ。『旦那様が奥様を階段で突き飛ばしたのを見た』と」
「黙れ黙れ――!」
身を乗り出した彼らが騎士に押さえつけられる。蛙が潰れたような声を漏らした。
唇が震える。胸の前で手を握りしめた。
「どうして? 好きだったんでしょう? どうしてそんな酷いことが出来るんですか!」
「ミラは美しいだけで良かったんだ! それなのに、アナスタシアを産んでから醜くなった上に口出ししやがって! アナスタシアをもっと見てやれ、だの。黙って笑っとけば良かったのに!」
「じゃあどうしてアナスタシアを虐めたんですか」
「ギャアギャア泣いて耳障りだったんだよ!」
美しい人形しか愛せなかった。罪深いその言葉に、目の前が真っ赤になる。
「その人を本当に愛しているなら、見た目にこだわったりしません。だって、一緒にいられればそれだけで幸せだったから」
わたしはそうだった。みすずといられることが幸せだった。
「金輪際、アナスタシアに関わらないでください!」
そしてそのまま、彼らはズルズルと運ばれていった。キリル様によると、数日前にこの話は王にも行っていて、彼らは爵位を剥奪され一生を牢屋で過ごすらしい。もうアナスタシアの前に現れることはないのかと思うとホッとした。
それからふと、キリル様を見つめる。
「そういえば。キリル様もわたくしに隠し事してましたね?」
「うっ」
「わたくし、とーってもびっくりしました」
「すまなかった、ソニチュカ」
がっくり項垂れるキリル様の頬を、柔らかくつまんだ。
「いいえ、わたくしもようやく分かりましたわ。隠し事をされるのがこんなにも悲しいなんて。だから、これでおあいこです」
キリル様が頬を緩めた。
「……うん、ごめん」
「はい、わたくしの方こそ、ごめんなさい」
これからはもっと、キリル様とも色んなことを話したい。
そう思いわたくしがころころ笑っていると、扉の影から黒い髪がひょっこりと覗いているのを見つけた。
「アナスタシア、隠れるのが下手ですよ」
いつから聞いていたのだろうか。そう首を傾げていると、アナスタシアが駆け寄って来てわたくしに抱きついた。頭でぐりぐりとされる。
「……お姉様。ありがとう」
「ふふ、いきなりなんですか」
顔を上げたアナスタシアは、晴れやかな顔をしていた。
「私、お姉様の妹になれて良かったです」
「わたくしの方こそ、こんなにも可愛い子が妹になってくれて、嬉しい限りですわ」
次にアナスタシアは、わたくしの胸に顔を埋めたままキリル様の方を向く。
「……お姉様は、譲ってあげますわ」
「うん。一生幸せにするよ」
「ふふっ、良かったです」
心底幸せそうに笑ったアナスタシアを抱きしめる。
春が来る香りがした。
◇◇◇
それから二日後の夜。
もう寝ようかという所で、扉が叩かれた。
扉を開ければアナスタシアがいた。
「ねえ、お姉様。最後にもう一回だけお姉様と一緒に寝てもいいですか?」
「ええ、勿論」
アナスタシアが来た頃、夜が怖くて眠れないと言っていたアナスタシアと一緒に寝た記憶が蘇る。
一緒のベッドに入り、手を繋ぎあった。
意識がとろとろしてきた所で、アナスタシアがそっと目を開ける。
「……お姉様、私ね。好きな人がいたんです」
「まあ」
「でもその人の一番好きな人は私じゃなくて、とても苦しかった。私多分、とてもとても嫌な子になっていたと思います」
「アナスタシアは、いつだって良い子ですわ」
暗闇で、アナスタシアが身じろぎした。
「……、ありがとうございます。お姉様が教えてくれたんです。好きな人の幸せの願い方を」
「わたくしが?」
「はい。私の両の手から零れてしまいそうな程に、沢山のことを」
アナスタシアが握る手に、力が入る。
「私を愛してくれて、ありがとうお姉様。私に、満たされることを教えてくれて、ありがとう」
暫くすれば、くうくう可愛い寝息が隣から聞こえてくる。
わたくしは、この子が悪役令嬢になる未来を回避できたのだろうか。
その答えは、アナスタシアの寝顔に詰まってた。みすずと同じで、涎を垂らして寝ている。とっても幸せそうな寝顔。
やっぱり、人は空腹だとよくないのだ。人は満たされているべきなのだ。お腹を空かせた人が悪いんじゃない。空かせたままの環境が悪いのだ。
わたくしはもぞりと体を横にし、アナスタシアを抱きしめる。
今日は結婚式の前日。明日も明後日もそのまた次の日も、この幸せは続くのだろう。
わたくしがお腹を空かせる日は、きっと二度と来ないだろう。
夢を見た。
朝起きたら、口元にプリンがついているような気がした。
――結婚式の日は、梢とみすずの誕生日だった。
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