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序章

私は私が嫌いだ。

学校からの帰り道、落ちる夕日を眺めながら思う。

何が嫌いかと言われれば、少し悩む。ルックスや考え方といった具体的な理由がある訳ではない。 ただ、自分は好きかと聞かれれば、躊躇うことなく違うと言う。何故かその点だけは確信が持てている。おそらくはそういうところなのだろう。批判することすらできないほど何も無い、そんな自分がこの上なく不快なのだ。

周りを見れば、たくさんの人がいる。同じ帰宅中の高校生達、公園で遊ぶ子供にそれを見守る母親などなど。彼らには役割があると私は思う。高校生であれば高校生らしく。母親ならば母親らしく。誰かにそうあるべきだと望まれ、それを果たしている。縛られていると言う人もいるだろうが、私はすごく立派なことだと思う。それほどまでに期待とは眩しく、暖かいものだ。誰かに褒めてもらえると思うだけで何かを頑張ろうという気になるし、誰かの目があればサボろうという気も失せていく。そうやって互いに期待しあって社会というものはできている。

ただ、私はどうだろうか。その社会の歯車の中に含まれているだうか。自分は誰かに望まれ、期待されていないから。良くて私は傍観者というところだろうか。社会に縛られない自由人。響きは素晴らしいが、聞こえがいい…ただそれだけ。観られていないのはいないのと同じ。私自身ですら自分のことを観ていないとすら思う。

そんなだから私には友人と呼べる人は全くいなかった。班決めで1人余るだとか、便所飯を決め込んでいるとか、そういうことでは無い。ある程度であれば会話した人もいるし、決まったグループの輪の中には入れている。しかし、それは友人とは言わない。それはただの都合のいい人だ。人付き合いが苦手な人がグループ学習で余ることを防ぐため、そんな外的問題の解決のための手段に過ぎない。

『友人関係に見返りなんて求めるべきではない!』

なんて理想論を述べるつもりはないが、私を本当の意味で観ている人はいない。

気付けば家に着いてた。

母親から渡された合鍵を鍵穴に差し込む。ギギっと擦れるような音を鳴らしながら鍵を回し、扉が開く。

「ただいま…」

帰宅の挨拶に返事はない。母親はまだ仕事に行っているようだ。いつも通りの静寂が玄関には広がっている。

靴を脱ぎ、制服のリボンを外しながらリビングへ向かう。リュックの中から教科書に埋もれた弁当を取り出し、シンクで洗う。それを終えると、リビングの向かいにある自室に向かう。部屋に入るや否や、引きっぱなしの布団にリュックを投げ捨て、制服のブレザーとスカートを床の間の突っ張り棒のハンガーに掛ける。そして毎日の流れ作業最後の工程である風呂への準備を進める。着替えを脱衣所に置き、浴室に入る。いつもは湯船に浸かるが今日はシャワーで済ませることにした。泡が流れ落ちたのを確認し、リンスを髪に塗る。そして流すことなくそのままボディソープに入る。最後にリンスごと一気に洗い流し、脱衣所を去る。私は美容品に興味が無い。乳液と化粧水の違いもよくわかってない。なので、明日の寝癖防止のドライヤーだけかけて私のお風呂は終了する。

自室に戻り、布団で寝ているリュックをどかし、スマホを片手に横になる。天井を眺め今日の終わりを感じる。

今日は金曜日。つまり明日は休みなわけだ。

昔の私なら心躍らせる瞬間だった。しかし、最近の私は浮かれることも無くなった。別に学校が好きという訳では無いが、まだ学生として勉強を強制されている間は楽だ。休みの間、無為に時間が過ぎているのを感じるとどうしようもなく虚しくなる。

それならば何か行動に移せばいいじゃないか

と多くの人は思うだろう。

無論、私もそんな事は分かっている。

しかし、私のようなダメ人間には大層な理想の持ち合わせはあっても、実行力が致命的に欠けている。いつもの事だ。夜寝る前に予定をびっしりと埋め尽くし、満足気に眠りに入る。

そして、翌日目が覚めるとその熱意は霧散し、惰性のままの生活に戻る。

そんな1週間が中学から永遠と続いている。

中学の頃は、こんな自分でも特に何も感じていなかった。

それどころか一匹狼な自分に酔っていた所まである。

だが高校に入り、多少なりとも大人に近づくにつれて嫌でも将来のことを考えてしまう。

こんな自分が大学に入学できるだろうか。

就活で長所を聞かれたら何をアピールすれば良いのか。

またこれも最近になって気づいた事だが、自分は自身が思っている程1人が好きではない。出来れば誰かと話していたいし、何かやり遂げれば(行動しないのでやり遂げること自体少ないが)誰かに聞いて欲しい。

自分で言うと気持ちが悪いが、私は寂しがり屋なのだろう。

そして気付いた。

自分は「1人で生きていける人」ではなく、「1人が好きだと思い込んでいた痛い人」だったということに。

薄々は気づいていた。

だが何もかもが遅い。人間関係を築ける方法など分からない。

1度、固定化された輪の中にはそう簡単には入れない。

なのに承認欲求だけは、一丁前に他人を求めている。

そんなんだから、偶に…いや、頻繁に死にたいと考えてしまう。 こんなに悩むくらいなら…と頭に浮かんでしまう。

しょうもない話だと思うだろう。私もそう思う。

だが悩んでいるのだから仕方がない。

だからダメ人間の私は、そんなことをしても無駄と分かりながら、今夜も明日の計画を立て始める。


翌日、転機が来た。

親の命令で家を出ることになった。買い出しの命令を受け、近所のスーパーに向かう必要ができたためである。

昨夜の予定表にはなかったものだが、普段と違う行動というのはそれだけで気持ちが高揚する。客観的に見れば何も特別でなくても、私からすれば目的を持って行動していると言うこの状況が非常に気分がいい。

何か起こるかもしれない。

今までの何も無い自分が変わるチャンスが起こるかもしれない。

そんな超の付く程の受け身姿勢な情けない期待を胸に、徒歩10分程のスーパーに歩を進める。

そしてそんな自己満タイムは長くは続かない。

特に大した事件等もなく買い出しはつつがなく終了した。

受け身姿勢でいいのは中学生までと言うが、本当にその通りのようだ。帰路に着き、家に近づいて行く。

高校生にしては非常に幼稚な夢が霧散していく中。

異質なものが目に映る。

橋の上に男性がいる。

私のような目をした男性が立っている。

周りには人目はなく、車も通ってない。

この状況はある行為を行うための条件が揃っていることに気づく。

まさかとは思う。

そんな瞬間に自分が立ち会うなんてありえない。

1度落ち着き、いつもの思考に戻そうとし、1度目を閉じ、そして再度目を開く。



男性が足を上げ、柵をこそうとしているのが目に映った。



自分が1番驚いた。

荷物を道に捨て、男性の腰に飛びつき押し倒した。

どうして? なんで助けた?

体の行動に思考がついて来ず、混乱する。

別に人が死ぬことがどうでもいい訳では無い。人並みに殺人はなくなって欲しいとは思っている。

でも、その程度だ。

その上私のような人格者が、咄嗟にそこまで反応できる正義感があるとは思っていなかった。

人のために行動できるとは思っていなかった。

「あの、そろそろどいてくれるか」

「え……あ! す、すみません!」

男性の声にやっと押し倒しているという状況を思い出す。

それを機に思考も追いついてきて、荷物が気になり取りに戻る。崩れるようなものはなかったのが功を奏した。

荷物の無事を確認し、再度自殺未遂者に声をかける。

「あの…大丈夫です、か?」

「まぁ、そうだな。君のおかげでね」

言葉は感謝の体を示しているが、節々に悲壮感というか喪失感を感じる。おそらく1歩踏み出すのに相当の勇気を出したらしい。助けることのできた安堵感に少し影が差す。

「え、と…じゃあ私はこれで」

いたたまれなくなった私はそそくさとその場を去ろうとする。

が、それを低い男の声が呼び止める。

「まさか君は助けるだけ助けて、話も聞いていかない気かい?」

「う……」

その通りだろう。助けたのは私個人の事情であり、相手からすればいい迷惑なのだから。出来ればこれ以上関わりたくは無いが、渋々その場に留まることを選択する。

「えっと…ど、どうして死のうとしたんですか?」

「ははっ、直球だね、君」

乾いた笑みを零しながら、男性は橋の柵にもたれ掛かり語り出す。

「理由ねぇ…今落ち着いて考えると恥ずかしいような理由だけどね。…生きている意味が分からなくなったからかな」

「生きている意味…」

「付き合ってた子に振られた、ただそれだけ、ほんとに情けないそんな理由で死のうとした」

確かに情けないと言えばそうなのかもしれない。

簡潔に言えば、振られた男性側がヒスって死のうとしたということだ。別に浮気とかそういうことでもないのだろう。

その程度で命を粗末にするな、と大半の人はこの男性を非難し、軽蔑するかもしれない。

でも私は。

私だけはそれを否定できなかった。

私も同じ状況で違う選択を取れる自信を持てなかった。

「あれ?もっと呆れられたり、笑われるかと思ったんだけど」

「まぁ、そうですね」

「とにかく。根本はそんだけ。俺には趣味もないし、友人関係も恵まれてない。家族とも反りが合わないしね。だから、俺にとっては彼女が全てだったんだ」

どこがチクッする。馬鹿ですね、と笑えない自分がいる。

「それを失ったら…うーん、なんというか自分が薄くなっていくって言うのかな。自分のことが心底どうでも良くなったんだよね」

空を仰ぎながら、なんでもない様に軽く語る。

全くその言葉に重みはない。中身もない薄っぺらな理由。

やはり客観的に、人一人を殺せるほどの殺傷性はない。

「で、死のうとした。 死にたかったわけじゃなかったけど、逆に生きたいわけでもなかったから、楽に出来そうな方を2択から選んだ」

何も映さない男性の表情がこの言葉に嘘は無いことを物語っている。

一人語りは終わった。時間にして5分ほどだった。でも、私には数十分聴いていたような疲労感を感じる。

男性は満足したのか、それ以上は何も言わず去っていった。一瞬引き留めようかと考えたが、余りにもカラッとした態度の男性がまた死のうとする状況を想像できず、背中を見送った。

1人になり、自身の目的が買い出しであったことを思い出す。

言うほどの時間を取られる事態ではなかったので、特に母親には何も言われず、本日のスケジュールは終了する。

ベットに寝転がり頭で思考するのは、やはり先程の男性。

私の人生最大のイベントかもしれないものは、振り返ると、言うほどの大規模化することなく静かに幕を閉じた。

人が亡くなることも無く、警察沙汰にもならなかった。

ドラマのような展開もなく、興奮も感動も特段感じない。

なのにどうしてか、私の思考はそれを掴んで離さない。

延々とただひたすらに、先程の情景がリプレイする。


どうして私は生きているのかだろうか。


彼と私にどれ程の違いがあるだろうか。


私の中には何かあるだろうか。


私は今死にたいだろうか。


その日はそんな事ばかり考えて終わりを迎えた。

次の日の朝になっても答えは出なかった。



あの男性とまた出会ってしまった。

いや、厳密には一方的に見つけた。

昨日のこともあり、日曜も外に出ることした。別に目的など無かったが、今までにないことが起きる気がした。

そしてそれは偶然にも叶ってしまった。

前と似たカラカラの笑みを浮かべている。

さらに言えば、1人ではなかった。友人…にしては少し歳が離れている。40代前半程のスーツのおじさんと、なにやら会話している。

咄嗟に隠れた電柱の影から様子をうかがっていると、2人は路地裏に進んでいく。その際、振り向いた男性の顔が今までとは違う…どこが救われたような顔でおじさんに着いて行ってしまった。その表情に引っかかり、私もあとをつけることにした。


路地裏は人ひとりがやっと通れる程の狭い道だった。家と家の隙間を縫うように伸びており、まるで迷路に迷い込んだみたいだ。10分ほど進んだ先で、ようやく出口にたどり着く。

そこは変な場所だった。公園1つ分程のスペースが唐突に広がっており、四方は一軒家やアパートに完全に囲まれており中庭のようになっている。出入口はさっきの路地裏だけのようだ。見間渡すと、ベンチに花壇、ブランコなどの遊具が置かれており、それこそ公園のように見える。しかし、一つだけ不自然なもの…いや、そもそもこの空間が不自然なのだが、周りから明らかに浮いている建物がある。追ってきた男性の姿が見えないので、おそらくこの建物に入ったのだろう。直方体の形をした市役所のような外見。特段変わったところはないが、何処か不気味な雰囲気を纏っている。さらに言えばその雰囲気はこの空間全てに立ち込めている。この場所に来てから私は一度も人の声を聞いていない。中庭があるというのに、子供1人周りには見られない。静寂、気持ち悪いほどの静寂だけが居座っている。私は入っていけない所に来てしまったような恐怖と後悔を感じ、早々に立ち去ろうと路地裏に向かう。


その時に建物の自動ドアが開く音がする。


神経が過敏になっていた私は肩をビクッとさせ、反射的に振り向く。そこに居たのは、私が追いかけていた昨日の男性だった。

「あれ、君はあの時の…」

「ど、どうも……」

「まさか君とこんなところで再開するなんてね!」

「そ、そうですね…」

前にいる彼は今までとは別人のような表情で笑っている。あの時のような乾ききった空っぽな笑いではない、本当の笑みに見えた。

「元気そうですね」

「ん?そうかい?……あぁでも、あんなことがあったばっかりだったね」

「ははは…」

「君には色々迷惑をかけてごめんね? あの時の僕は本当にどうかしてたと思う。ただ家族や友人と離れることになったくらいで…本当にすまなかった!」

「え?」

男性は私に向けて深々と頭を下げる。その勢いは土下座に移行しそうな程で、建前や冗談なんかではないことは私でもわかった。私は戸惑った。それは突然の謝罪だけが理由ではない。男性の言葉に違和感を感じたからだ。

「ごめんね、今から行かないといけないところがあってね。また会えたらその時は必ずお返しするから!……じゃあ、君も暗くなる前に帰るんだよ!」

「あ、はい…」

そう言い残して、男性は路地裏へと駆けていく。その背中が見えなくなるまで、私は呆然と立ち尽くしていた。男性の急激な変化に驚かされたのもあるが、何よりもその発言が以前と全く一致していない。家族や友人とはもとより疎遠だったはず、それに自殺未遂の理由も…………

状況を飲み込めずにほうけていると、また背後から機械音が響いてくる。そちらに意識を向けると、見慣れないスーツの男性が立っている。

「おや?ぼうけでいらっしゃいますが、どうかなさいましたか?」

「あ、いや、ごめんなさい…」

回らない思考に反射的に謝罪する。

「いえいえ、構いませんよ。お客様は大事なパートナーですから」

スーツの男性は笑顔でそう言う。服装、話し方から市役所勤務の公務員のような印象を持った。

「お客様は初めてのご来店ですね?」

「え…は、はい」

「でしたらまずは本店のご説明をお伝えしますね。ではこちらへ」

この状況で、尾行してきただけ、とはいえずよく分からないお店?の店員さんについて行く。

自動ドアを抜けると、そこはまんま銀行だった。入って左手にはATMが置かれており、右手には発券機と待機用のソファー、そして1番から5番までの窓口が見えた。所々に置かれる観葉植物達はいかにも銀行らしさを演出している。

「ん?どうかなさいましたか?」

「え、えと私口座とかないですけど…」

「あぁ、もしかしますと当店を銀行と勘違いさせていますね?ご安心ください。当店は金銭の貸付・預かり等のサービスはございませんので、未成年の方でも問題ありません!」

「え、じゃあなんで窓口とかが…」

「それは内装のイメージ改善の一環ですね。ご提供させていただくサービス自体はこれといった機械も場所も必要ありませんので、元々は何も置い出なかったんですが…それでは寂しいとのご意見を頂きまして、店名になぞり銀行を採用したという訳でございます」

「店名に銀行が入るんですね」

「はい。その辺りも含めて説明させていただきますね。どうぞ1番の席にお座り下さい」

外見と同じく、この建物は内装までおかしいようだ。というより、この店員さんが掴みどころがないというか、何処か不思議な人であるせいだろう。

兎にも角にも案内されるまま窓口の椅子に腰を下ろす。

店員さんは奥から数枚の用紙を持って、対面の席に座った。

「では早速ですが、際ほどお伝えした通り当店、記憶銀行のサービスについてご説明をさせていただきます」

「記憶の…銀行ですか?」

「はい。その名からご想像された通り、私共はお客様の記憶を商品とさせて頂いております」

「はぁ…」

営業スマイルで当然のことのように述べる店員さんに、私は怪訝な表情を浮かべる。しかし、そんな対応には慣れているのか、表情を変えず店員さんは続ける。

「サービスの内容としては既存の銀行と差異はございません。お客様の要望に合わせ、御記憶の預り又は貸付を行っております。とは言いますが、多くの方は貸付のご利用が中心となっていますね。あと、ご利用されているのは半数が学生の方ですので、年齢制限等のご心配はありませんのでご安心ください。なんでしたら、本日よりご利用することも可能ですので」

「記憶を借りれるんですか…?」

「おや? ご興味湧かれましたか?」

「……そうですね…す、少しだけ」

「そうですか!!そうですか!!ではでは、早速ご準備に取り掛からせて頂きますね!」

店員さんは嬉しそうに奥の棚へ駆けて行った。

正直に言うと怖い。記憶を借りるなんて現実味が無さすぎるし、もしこちらの記憶を含めて全て消えたらと考えると不安にもなる。そもそも口頭の説明だけで記憶の受け継ぎなどほんとにできるのだろうか。ただの詐欺という可能性もある。

こんな怪しい話は断り、金輪際関わらないのが吉だろう。

おそらくそうすることが最善手だと理解はしている。

分かってはいる…なのに、どうしても先程の男性の様子が脳裏をよぎる。憔悴し空っぽに見えた男性が、明るい好青年に変わっていた。発言の一部が以前と合致していなかったし、記憶の預かり・貸出しを利用していたのだろう。

少し会話しただけだが、記憶が違うこと以外は特に問題があるようには見えなかった。

普通に話せてたし。

全くの別人になっているわけでもなかった。

ただ嫌なことだけを忘れて、前を向いて笑っていた。

もしも私もなれるのなら…

その権利が私にもあるというのなら変わっていみたい…

私だって明るい毎日を送ってみたい…!

「私だって……」

「どうかなさいましたか?」

「え?あ、いや…!なんでもないです」

いつから居たのか、店員さんが心配そうに此方を伺っていた。

「そうですか? でしたら具体的なお話をさせていただきますね!」

「はい、お願いします」

「まずはお渡しする資料がありますのでお受け取りください」

そう言われ店員さんからクリアファイルを受け取る。中身を取り出すと厚さからして数枚程度のプリントが挟まっていた。

「まずは表の資料から順に説明させていただきますね。先程もお伝えした通り、当店のサービスは記憶の預かりと貸し出しになります。まずは預りから説明しますと、これはお客様の記憶を此方で保管しお客様には完全に忘れていただくサービスになります」

「完全に忘れる…」

「はい!万が一にも思い出すことのないように、取り残しのない完璧な回収をお約束します。預かりになる記憶は、日時等で指定していただく形か、誰かとの記憶等の対象で指定来ていただく形のどちらかをお選びください。ただ1つ注意点がございまして…」

「注意点ですか?」

「1度お預かりになった記憶には期限がありまして、長期間お預かりすることはできません。理由は後ほどお話致しますが、最長でも2ヶ月までとなりますので、その点お忘れにならないようお願い致します」

「はい、わかりました」

「まぁ、期限があるとは言いましたが、再度取りに来られる方はほとんど居ませんがね。預けられる記憶はその多くがお客様本人にとって嫌な記憶ですから」

そう言われればそうかと納得する。わざわざ取りに帰るくらいなら、そもそも預けないだろう。

「では次に貸し出しの説明に入りますね。2枚目の資料に目を通していただけますか?」

指示通り1枚進めると大きな表が目に入る。タイトルには提供商品の一例と書かれていた。

「こちらが記憶銀行が現在保管している記憶の一部になります。それぞれの記憶は学生に向けのものや、会社勤めの方にお勧めしているものなど、いくつかのジャンルに分けられております。お客様は学生さんですので、学生向けの青春や恋愛系の記憶がおすすめになりますね」

「へぇ…色々あるんですね」

学生向けの欄に目を向ける。そのジャンルだけでも20を超える記憶が並んでいる。サッカー部でエース入りした記憶、コンクールで金賞を得た記憶、クラスメイトに一目惚れした瞬間の記憶、定期試験で学年一位になった記憶などなど多種多様である。これで一部というのだから、総数を考えると本当になんでもありそうな気がしてくる。ただ一つだけ、表の右端の欄が気になった。その欄には提供者氏名と書かれていた。

「なにか気になる記憶はございましたか?」

「その…記憶ではないんですけど…この提供者っていうのは何なんですか?」

「あぁ、そちらは載せている記憶の元々所持されていた方のお名前ですね」

「え、これって誰かの記憶なんですか?」

「はい。我々にできるのは記憶の移動だけで、創造はできませんから。お客様から預かった記憶は、2ヶ月を越しますと商品として他のお客様に提供されることになっております。先ほどお話した預りでの注意点はこのためですね」

「な、なるほど…」

記憶銀行という名前は、見た目だけじゃなく、そのシステムも表していたらしい。つまりは言ってしまえば、ここは記憶の受け渡しを行うのがサービスの中心のようだ。

色々納得はいったが、ここまで銀行と一致しているとなると、気になるのはあれだろう。

「貸し出しについては商品の一覧が資料に含まれておりますので、後ほどご覧下さい。それでは貸し出しの最後、利子についてお話しますね」

「は、はい…」

やっぱり…

まぁタダで記憶を借りれるなんて、そんな馬のいい話ある訳がなかった。

「基本的にはお借りになられた記憶の分、お渡ししていただければ問題ありません。延滞等が発生しますとその分別で上乗せになりますので、その点はご注意くださいね」

「え!? 借りた分だけ返せばいいんですか?」

「借りた分をそのままお渡ししていただければ問題ありませんよ」

「本当の本当に?」

「本当ですよ。 お客様に嘘をつくメリットが私にありますか?」

「………」

なんということだろう。そんな上手い話があってしまった。

ちゃんと返しさえすれば何の問題もないということらしい。

確かに預かった記憶はほとんどが商品になるみたいだし、利子がなくとも利益は出ているのだから経営上は問題ないのだろう。なんてよくできたシステム…!

「じゃあ、今日!借りてもいいですか?」

「はい!勿論です!ではでは、早速お借りになられる記憶を一覧からお選びください」

店員さんが机の下から分厚いファイルを取り出す。手馴れた手つきでページをめくり、学生向けのページを見せてくれた。

先ほど一例にあった記憶の数倍の量の記憶がそこには並べられている。数が多い分、より細かく設定が選べるようになっていた。恋愛で言えば、相手の容姿や性格、年齢まで選択肢がある。

「どちらに致しますか? やはり人気の恋愛系ですか?最近は種類も増えまして大変オススメですよ!」

「あ、すみません…もうどれにするかは決めてて」

「そうなんですか!ではでは、それは一体どのような記憶なんですか?」

「これです」

指さしたのは、人生の分岐点というものだった。

ジャンルは学生向けではなく社会人向け。さらに言えば、他に比べて数も少なく、最後最後のページに乗っていたことからも

人気もないのだろう。だが、貸出の説明の時に見つけた時からこれに決めていた。借りるならこれしかないと。

「…分岐点ですか? 正直いうと好んで借りられる方はいらっしゃいませんね。主観的内容すぎて、量の割には刺激が少ないですし。多くの方は他人の記憶を娯楽として借りられてますから……本当に宜しいんですか?」

店員さんは心配そうに此方を伺っている。私自身もこの記憶が、私の望む結果を残してくれるかどうかは分からない。ただの無駄足になる確率の方が高いだろう。

でも……それでも私は、これに縋るしかない。今の私を変えるためには。

「大丈夫です。承知の上ですから」

「ご理解の上でしたら喜んでお借しします。準備を行いますので、こちらの用紙にお名前とお借りになられる記憶の番号をご記入ください。記憶の番号は右端に書かれておりますので」

渡された紙は誓約書のような形式だった。先程説明された注意点がまとめられ、その承認を求めている。少し緊張しつつ、空欄を埋めていく。記憶の番号まで埋めると、最後には指印の欄があった。ただその下には小さくこう注意書きがある。

自身の血液のみ

「ご記入できましたか?」

「えっと……指印以外は、できました…」

「そうですか。ではこちらをお使いください」

店員さんは胸ポケットから小さなナイフを取り出す。サイズは小指程でミニチュアのようだった。しかし、ミニチュアにしては刃は鋭く、その表面は動揺する私の顔を写している。

「え、本当に切るんですか…?!」

「はい、お客様の血液が記憶の移動の際に1度必要になりまして、最初のみお願いしております。1人では難しいようでしたら、私が代わりましょうか?」

「い、いえ!…大丈夫です」

この人にやられるのは何かダメな気がし咄嗟に断ってしまった。だがそうなると自分でやらなくてならない。自分で自分の肌を切るなんて言う自傷行為は生まれて此の方したことが無い。怖いのも痛いのも嫌いだ。

でも、ここで逃げればまた昨日までの自分が再演される。自分を変えること、それどころか行動すらできない有象無象に戻ってしまう。

ただ切るだけ。刃を皮膚に合わせ、それを引くだけ。

たったそれだけの事だ。

手の震えを必死に抑え、左の親指に刃を押し付ける。指から伝わる刃の鋭さ。力なんていらない。少しずらせば皮膚を割き、肉を切り、血を流させるだろう。想像してはならないことは分かっても、恐怖で埋まる頭が考えることを放棄しない。

あぁ、ダメだ…結局私は…



ポタ……ポタ……ポタ……

窓口の机に赤い雫が落ちる。ポタポタと落ちてくるそれは私の指から出てくる。

「えっ……な、なんで……」

ナイフを握っていた右手には、色白で私より一回り大きな手が重ねられていた。

「すみません。お困りのようでしたので、つい手をお貸ししてしまいました。痛みはありませんか?」

「え、あ、はい。思ったよりは…」

「…、そうでしたか!では傷が癒えてしまう前に、指印をお願いします」

店員さんの言葉に従い、左親指を欄に押し付ける。流れ出る血は紙に触れ、私の指の型を髪に記していく。だが傷が深過ぎたのか、滲んた血が枠をはみ出てしまっていた。

「あぁ!すみません!」

「あぁ…いえ!問題ありませんから」

店員さんは一瞬言い淀んではいたが、直ぐに笑顔を返してくれた。

「では、書類は確認しましたので此方を受け取りください」

そう言われ受け取ったのは、植木鉢のようなものだった。というのも、さっきのナイフもだがサイズがとても小さい。中には土が詰められていたが、透明な蓋が付いておりこぼれてしまうということはなさそうだ。

しかし、どうして植木鉢なのだろうか。

「此方をお客様のお部屋に置いてください。場所はできる限りベット等の近くで。蓋を外すこともお忘れなくお願いします」

「は、はい…わかりました」

「では、手続きは以上で終了です! 貸出期限等の詳細はクリアファイルの挟んで起きましたのでご確認してください。本日のご利用誠にありがとうございました! お気に召しましたたらまたのご利用をお待ちしております!」

深々と頭を下げる店員さんに一礼し、建物を後にする。

外は夕暮れ時になっていた。急いで帰らないと、真っ暗な中あの路地裏に行かなくてはならない。

早足で入ってきた場所へ目指すと、周りには数人の大人が見えた。服装はあの店員さんと同じ黒いスーツ。見たところ花壇の手入れをしているようだった。こちらに気づいたのか顔を向ける。表情は暗くよく見えなかったが、全員が笑っているような気がした。




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