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「わざわざご連絡頂き恐縮です。また機会が御座いましたら宜しくお願い致します」
受話器相手にぺこぺこ頭を下げて礼を言う。先週のプレゼンの結果をご丁寧に電話で連絡をくれた相手方は好感が持てるが、今の俺には声で伝えられるのは痛い仕打ち以外の何物でもない。結果はもちろんダメだった。分かっていた、だが落ち込むものは落ち込む。
相手が電話を切るのを確認して少々乱暴に受話器を戻すと、どさんと椅子の背もたれに体を預けて小さくため息を漏らした。あまり大きく態度に出せば、また青鬼が黙ってはいまい。己の気分すらまともにさらけ出せないのはかなり辛かった。
我慢をするのは慣れたけれど、発散する場が無ければ溜まっていく一方だ。これが花粉症のようにいつか爆発するのではないかと自分でも怖い。
顔でも洗うか、とぼとぼ歩き出すと八代さんのデスクが見えた。背筋を伸ばして少しだけ前傾でパソコンを凝視している彼も、さすがに今は忙しそうだ。いくら仕事が出来るからといって、努力していないわけではないし忙しい時もある。それを乗り越えられるかどうかなのだ。理解は出来ているのに、実行には移せない。原因はますます自分にあることが浮き彫りになって、新入社員からやり直した方がマシとさえ思えてきた。
顔を軽く洗ってすっきりした後、話しかけられるか様子を窺いつつ八代さんに近づいた。
「どーも、お疲れ様っす」
振り向く彼は少し髪の毛が乱れているだけで、忙しさからくるストレスを後輩相手に当たり散らそうという気はさらさら無いらしく、穏やかな笑顔を携えてくれる。
「おー、どした」
「いやあ、何でもないですけど忙しそうですね」
「月末締めのがいくつかあるから」
「そうですか」
何と言ったらいいのか、むしろ何を言いたかったのか自分でも分からず会話が中断する。
八代さんは上目に俺を確認して笑った。
「高田、今日の夜暇か」
「えっ」
「飲むぞ」
俺もつられて笑った。
「うっす!」
八代さんはやはりすごい。俺が普段抱えているものが大きくなっているのに気が付いてくれる上に、それを一緒に考えようとしてくれる。自分が忙しいのに、だ。今日は先週友人たちと飲み会した日と同じ木曜日。明日を乗り切ればしばしの休息が待っている。何としても定時で終わらせようと、先ほどの気持ちを吹き飛ばして業務に集中した。
各々がパソコンとお友だちになっている時に、後ろからうろうろと歩き回る気配がする。見るまでもなく青鬼で間違いない。
「お前らが終わらないと俺も帰れないんだから、しっかり働けよ」
さも自分が被害者である態度で言っているが、それなら自分自身が見本になるように見回っていないで、率先して仕事をしてほしいものだ。
忙しい時に暇な人を見て、イライラすることはあっても和むことなど一ミリもありはしない。上司は自分の仕事だけでなく部下の仕事も見ないといけないからというならば、部下は上司の顔色を見ながら仕事をしているのでお互い様である。
心の中でそう叫びながら無言でキーボードを打ち付ける。平常心無の心、何も考えないことがこんなにも難しいなどとは知らなかった。
奇跡的に定時に上がれた二人は、会社近くにある学生御用達の居酒屋チェーン店に入った。社会人になったら高級焼肉や回らない寿司を食べるものかと思ったが、そういうものは上司との少人数で行われる特別な飲み会か得意先との打ち上げくらいだということを知った。
それはそうだ、社会人になったばかりで食費に使える金は高が知れているし、給料が上がった頃には伴侶が出来てその金は家庭に入れるのだ。
平均的な給料で働くサラリーマンで高い店に入りたいなら、しばらく独身でいるしかない。それはそれで寂しいものがあるが、家庭があって小遣い制か好きなものが食べられて独身か、どちらが幸せかはそれこそ人それぞれだろう。
「八代さ~ん! 助けてくださいよ」
「よしよし、とりあえずここは飲んどけ」
「返事になってない……でも飲みます!」
飲みの席で愚痴を零すが、爽やかにスルーされてしまう。しかしながら、俺の方も会社のことを忘れられるならそれ以上はないので、八代さんに従って目の前の一杯を一気飲みした。
ビールは味というより、喉に流れていく瞬間が心地良い。途中で「今日は奢り」と言われてさらに気分は上昇し、遠慮を忘れていつも以上に飲みに飲んでしまった。
「お前、もうちょっと遠慮しろ」
「うっす」
冗談だと分かる注意を適当に返して、さらに注文する。
「この野郎~ッ」
「あはは」
八代さんは怒るでもなく、ふざけてこめかみをぐりぐりゲンコツしてきた。地味に痛くて、会社でも学生でもない緩やかな空間が寂れた心を癒してくれた。
「満足するまで食べろ。いっそ一週間分食べるか」
「そんなこと言われたら本当に食べますよ」
「いいよ」
八代さん、人生二周目とかじゃないよな。
「じゃあな、お前ならやれる。高校の時だってぶっ飛んでただろ」
「いや、あれはテンションだけで生きていた頃でもうこの年じゃあ」
「はは、まだ二十代半ばで何言ってるんだ。世の中行動起こしたもん勝ちだぞ」
ばしばしと叩かれる背中が痛いけれど有り難い。この痛みが追い風となって一歩先へ走っていかれそうな、前を向くことが出来そうな、そんな気分にさせてくれる。青鬼とは大違いだ。
「有難う御座います!」
「おう、また明日」
仕事帰りに面倒な後輩の世話をしたというのに変わらず爽やかな八代さんは、笑顔で手を振って暗い道へ消えていった。
いつもなら、また来る明日に備えて冷たく狭い我が家へ帰るのは憂鬱なはずなのに、今日は何だか歩く歩幅も大きく足取りも軽い。明るい人は周りをも明るくさせてくれるらしい。今はあやかってばかりであるが、いつか俺もそんな大人になりたいと思う。直接指導している後輩はいないが同じ部署に新人もいる。毎日悩んでいるが、新人たちからしたら自分だって先輩なのだ。
また明日、それが楽しみに思える日がまた来たなんて、ふわふわと幻でも掴んでいるようだった。
本当に幻だった。