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 山からの帰り道、何故だか三浦さんをおんぶしながら息も絶え絶え歩いている。いや、原因は理解しているが、どうにもこの状況に納得し切れていない。いくら女性とはいっても、大人一人を背負って山を下ることは容易いことではないのに。


「ふぐッ……はぁッ」

「そこぉ、情けない声を出すなー!」

「部活のコーチか!」


 すぐ数センチも離れていない三浦さんは何も気にしていないのか、腕を俺の首に絡めて鼻歌まで歌う始末だ。それ、十年以上前の曲。彼女の手にぶら下がったパンプスが、心もとない様子でぷらぷら揺れている。


「ちょっと三浦さん、胸当たってるんですけど」


 嫌味は、相手に通じなければただのおかしな独り言に過ぎない。


「当ててるんですけど」

「……嘘ですよね?」


 この人、どこまでが冗談なのかよく分からない。完璧だと思っていたけれども、段々と素が出てくるにつれ、思ったよりもとっつきやすい気さくな人らしかった。これならば、友人の一人としてお付き合いが出来るかもしれない。八代さんがいないのに、三浦さんと会うなんて少々奇妙であるが。


「嘘じゃないけど、嘘! こっちだって願い下げです。清一君より良い男なんているわけない」

「男としては情けないけど、八代さんの後輩としては同感です」


「でっしょう? ほんと格好良くて性格ばっちりなんてさ、どこの少女漫画だよって思ったね。無理してるんじゃないかって、でもほんとなの」

「あの人と比べて敵うわけないじゃないすか」


 八代さん以上の男に出会ったことがない。帰り道は、八代さんがどれだけの男か討論大会になった。なんだこれ。こんなの楽しいに決まっている。


 やはりどう考えても人一人背負って坂道を下るのは重いし、怖い。休み休み、数十分で登った距離を一時間以上かけて駐車場にたどり着いた。


 汗が垂れる。きっと三浦さんが触れている背中も濡れているはずだが、何も言われなかった。それはそうか、こうなったのは俺の所為ではない。


「ごくろーう、ありがとね」


 助手席に下ろされ満更でもない顔をして言うので、こちらも恭しく頭を垂れる。初めて会ったというのに、三浦さんとの立場の構図が出来上がっていた。親近感が湧くと言うべきか、言葉にし得ない感情が巡る。


「いえいえ、俺の大事な先輩の彼女なら大事です」

「うわ! こんな科白さらりとよく出るなんて、モテそうなのに」

「それ、俺がモテないの前提に話してません?」


 手を緩みに緩んでいる口もとに当てて、わなわな震わせながらこちらを見てくる。三浦さんのテンションが斜め上を行く時があって、そんな時はいまいちノリ切れない。慣れれば楽しいのかもしれないが、この面白い人と一緒になるつもりだった八代さんを新しい意味で尊敬した。思い返してみると、八代さんもお笑いとか好きだったな。こういうところが気に入っていたのかも。


 来た道を戻り、三浦さんのマンションまで送る。元々これきりにしようと思っていたが、自然な流れで連絡先を交換することになり、不思議な縁で次に繋がった。


 八代さんがいない今、いや、いたとしてもこうして会うべきだったのか正直分からない。正解が無く、許可をくれる人もいない。どんなことでも、これからは一人で決断しなければならなかった。


――俺がしでかしたことで三浦さんが少しでも笑えるようになったら、勝手に会いに行ったこと許してくれますか。


 ぐりぐり、俺の頭を撫でながら苦笑いする八代さんが浮かぶ。そっと、自分の頭に触れてみた。賑やかな声が離れて一人になったからか、また水分が少しだけ流れ落ちた。


「翔君?」

「ん?」


 急に下の名前を呼ばれて、顔を上げる。前髪を払う振りをして目尻の残骸も退けておいた。そこにはかつての最愛の人がいた。


「菜穂ちゃんッ?」


 声が上ずった。耳が熱い。鏡が欲しい。変な顔をしてはいないだろうか。菜穂ちゃんが目元を緩める。


「やっぱりそうだった。この辺に住んでるの?」


 変わらない声、穏やかな雰囲気。ああ、菜穂ちゃんだ。


「ううん、用事があって。菜穂ちゃんこそこの辺に?」

「そう。もうちょっと歩いたとこだけど。ねぇ、一つ聞いていい?」


 その表情には心当たりがあった。俺は頷いた。「いいよ」


「八代先輩のことでしょ」


 菜穂ちゃんは正解を当てた俺に驚くことなく、曖昧に口を開く。


「――うん。先週友だちから聞いたばかりで。驚いちゃった。まさかって。それで、翔君が同じ会社にいるってその時知って」

「そっか。うん。俺も最初は信じられなかったよ。前日一緒に飲みにも行ったし。でも、現実だった」


「…………淋しいね」

「うん」


 菜穂ちゃん。俺の彼女だった菜穂ちゃん。八代さんの友だちだった菜穂ちゃん。


 八代さんは至るところに生活する誰かの中にいる。誰か一人でも思い出せば、八代さんの生きた証が浮かび上がる。今だってこうして、俺たちの心を乱していく。八代さんという人間は、八代さんを覚えている人が生きている限り無くならない。


「翔君は元気?」

「元気だよ。この通り!」


 大げさにポーズを決めれば、菜穂ちゃんが吹き出した。高校時代に戻った気分だ。


「菜穂ちゃんも元気そうでよかった。大変なこともあるだろうけど、無理しないでね」

「ありがとう」


 そう言って、菜穂ちゃんと別れた。手の振り方まで可愛かった。連絡先は聞かなかった。もしかしたら昔と変わっていないかもしれないけれども、きっと連絡しないだろう。


 と、思っていたら、焦った足音が戻ってきた。


「あ、あの」

「どうしたの。なんかあった?」

「えーと」


 乱れてるよ、髪の毛。綺麗におだんごにしてたのに。なんて言ったら、また一言多い俺に戻ってしまう。ぐっと声を飲み込む。俺は空気の読める大人になったんだ。多分。


「また偶然、そう偶然会った時は、また話しかけていい?」

「もちろん。俺が先に気付いたら、こっちから話しかけるよ」

「うん、ありがとう!」


 髪の毛をそのままに、菜穂ちゃんはいなくなった。嵐みたいだった。連絡先変わってないって言いながら帰っていった。俺は笑ってしまった。


 先輩っぽくない菜穂ちゃん、初めてかも。あの時の二人はどうあっても、先輩と後輩だったのだ。お互い社会人になって、二歳差。実はあまり変わらないのかもしれない。

 もしもまた会えた時は、食事の一つでも誘おうか。


「よし、もうひと頑張りだ」


 俺は腕まくりをし、大股で歩き出した。

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