雨のち雨が上がれば晴れ
早朝六時、休日の住宅街はウォーキングに励む人とたまにすれ違う程度で、遠く離れた田舎に来た気分になりながら外れを目指す。ぽつぽつ家が減ってきて、一軒家が数軒と空地を抜け、もうすぐ取り壊す予定だと聞いているマンションを迷わず潜った。
住人はほとんど退去したはずなので、少々の音なら目を瞑ってくれる。……くれてほしい。万が一、苦情が出たら素直に謝ろう。謝ることは経験上得意である。最上階まで階段を上り、鍵が壊れている屋上のドアを開けた。屋上ならたいして騒音にならないはずだ。
風が入り込んでくる。
そしてまた俺をすり抜けて、何処か違う所へ行く。
昇る朝日を見つめて、目一杯全身に力を込めた。
「八代さーん、聞こえてますか」
久しぶりに張り上げた喉がぴりぴり痛む。学生時代は毎日このくらいの声は出していただろうに。ここまで鈍っていたか。数秒待って、変わらず静まり返る空気を感じ取り、今度は口をがばりと開けてより遠くまで声を飛ばした。
「いなくても、八代さんが後押ししてくれたから、ちゃんとコンペやりましたよ!」
――褒めてください。
とはとても言えなくて、報告だけに留まる。最後の最後まで寄り掛かっていた自分に、褒められる資格も何も無い。だけれども、初めて一人立ちした大仕事は、自分で驚くくらいスムーズに終わった。まるで、口を開けているだけの自分に別人が入り込んで話しているようだった。別人なんて、当然どこにもいるわけがないのに。
「付いていくばっかりの俺だったけど、これからは一人でも歩いていきます!」
気が付けばぽろりと頬を水滴が伸びた。気付いてしまえば、後から後から決壊したそれは重力とともに落ちていき、着ていたシャツと足元にいくつもの染みを作る。最近泣いてばかりだ。
「これからはッ……一人だけど!」
そうか。
一人か。
嫌だな。嫌だけど、そうか。
これが、人が通らなければならない道で、きっと同じようなことがたびたび起こるのだろう。立ち止まるのだろう。歩くのだろう。壁を失くした涙が俺の弱さまでも押し流していった。
「見ていてください!」
右手で両目をごしごし擦る。明日は腫れそうだ。元から贔屓目に見て中の上だった顔が、たった今確実に一段階下がった情けないまま、澄み切った空を見上げる。両手で顔を覆って息を吸い、勢い良く手を離した。
「俺は負けない、負けても諦めない。絶対に、絶対に、最後は笑えるように生きるから!」
ぼろぼろの顔をくしゃくしゃに歪ませて俺は叫ぶ。
何処にも八代さんはいない。
でも俺は叫んだ。
この声が八代さんに届きますように。
俺はもう大丈夫って、伝わりますように。
どんなに気持ちを溢れさせたって、伝えたい想いがあったって、言葉にしないと伝わらないことを知った。八代さんは沢山のことを教えてくれた。俺に沢山のことを残してくれた。
生きるということ、死ぬということ、哀しいということ、立ち上がらなければ前に進めないということ。
八代さんはいつだって俺たちの中にいる、でも八代さんの命はもう終わってしまったんだ。
俯く大人たちに告ぐ。
俺は生きる。生きて生きて、地べたを這いつくばったって進む。
俯いていた俺は叫ぶ。
俯いていた俺はもういない。
八代さん、俺格好悪くたって生きてやりますよ。
満足するまで叫んで泣いた俺は、誰もいないマンションの屋上を後にする。早朝でよかった、いくら住人の少ない地域でも、これが真っ昼間や夜中ならきっと誰かに通報されていたに違いない。今更ながら恥ずかしさが大波で全身に押し寄せてきたが、もう済んでしまったことなので気にしないことにした。
俺は自宅へ戻らずそのままの足でファストフード店で時間を潰した後、あるところへ向かった。
実はここを訪れるのは二度目だが、一度目は八代さんと近くを通った時に手前まで案内されて外観を覗いただけなので、実際には初めてといったところだ。はっきり言って、アポ無し飛び込み営業よりも緊張する。
時計を確認すれば午前十時、この程度ならいきなり訪ねても、失礼な時間には当たらないだろう。ただし、いつの時間であろうと、見知らぬ男に来られたら不信に思われることは間違いない。何回も大きく深呼吸する。インターフォンを少し緊張で震える手で押すと、すぐに柔らかな声が聞こえてきた。
『どなたですか』
きっとモニター越しに俺の顔が見えている、若干不安気な声だ。それはそうだ、彼女と俺はこれが初対面である。二人に接点は無い、たった一つを除いて。そんな二人を引き寄せる言葉を、俺はインターフォンへ宣言するように真っ直ぐ言った。
「初めまして、八代さんの後輩の高田です」
『えっ……』
しばしの沈黙の後、がちゃっと乱暴にインターフォーンが切られる音が聞こえ、すぐにどたどたとこちらへ向かってくる空気が押し寄せてきた。いつの日か整理がついたら何かしらの形で伝えたいとは思っていたものの、少なくともここを一人で直接訪ねる気はなかった。だが、事情が変わった。
もうここに八代さんはいない。知っているのは、八代さんがどう思っていたか知っているのは、八代さんがもう誰にも会えない以上未来永劫俺だけになってしまったのだから。
だからこの人には知っていてほしかった。
玄関のドアが少しだけ開く。目線の高さよりすぐ下からにょきっと顔が飛び出てきた。怪しむ瞳が俺に突き刺さる。大きな瞳が印象的な人だった。
「いきなりすみません。八代さんのことで伝えたいことがあって来ました」
「……さすがに初対面の相手を家に上げる程お気楽じゃないの」
「そうですよね、俺怪しいですね。じゃあ下にあった喫茶店はどうですか」
「五分」
「はい?」
「五分よ、それで明らかにおかしかったら帰るから」
「はい」
言葉はぶっきらぼうだがちゃんと話は聞いてくれるらしい。八代さんの横にいた、似合いの女性だ。彼女―三浦さん―は上着を取ってくると、廊下にいる俺の前まで出てきてくれた。
並んでみて分かったが三浦さんは背が高い。八代さんも平均よりは高かったけれど、ヒールを履かれたらそんなに変わらないかと感じる程すらっとした高身長の女性だ。背筋もぴんとしていかにも働いているオーラが出ている。仕事の出来る人には仕事が出来る相手がいるのか、世の中すごい。
「それじゃ行きましょ」




