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まるで最初から何も無い穴のように、ぽっかりとそこは空いていた。
目を強くこすってみても変わらない。
「やだな。冗談止めてくださいよ。本物の幽霊とかくれんぼなんて、勝てるわけない」
震えながら、出来上がった資料をクリップ留めして封筒に入れる。立ち上がった俺は、ゆっくり歩いて、一人しかいない社内を各デスクの下や廊下などくまなく探した。本当に笑えない冗談だ。八代さんはよく笑うしユーモアある話し方をするけれど、人を心配させる冗談など言わないはずなのに。途端、けたたましく心臓が鳴った。
「八代さん……八代さん!」
デスクからはみ出していた椅子にぶつかり、転ぶ。一人きりのフロアに大げさな音が響いた。固いところに当たって痛いが、それを気にするまで頭が回らない。
そっぽを向いてしまった椅子を無視して、足をもつれさせながら俺は走った。廊下に出て八代さんを呼ぶ。トイレも探した。深夜で動かないエレベーターホールにも行った。果ては非常階段で一階まで下りてみたけれど、外の閑散とした、やけに冷える秋を覚えかけの空気を浴びるだけだった。
心の底まで冷えるのを感じる。社内に戻った俺は、震える手つきで何とか片付けと戸締りを終え、終電差し迫る電車へ飛び込んだ。
――いなくなるとか嘘だ!
見つけないと、見つけてやらないと。俺しか八代さんを視ることは出来ない。
俺が探し出さないと誰が八代さんがいるって分かる?
数駅程の電車の時間すらもどかしい。着いた瞬間、ホームに階段に駆け降りて俺はがむしゃらに走った。
――八代さん! 八代さん!
夜中の住宅街はまばらにしか人がおらず、その中で走っている俺は目立っていることだろう。それも今は関係無い。俺のおかしく映る行動より大事なものがあるんだ。
走り疲れた俺はどう帰ってきたのか、気付けば自室のベッドの上に寝ころんでいた。あれから随分走った気がする。今まで行ったところ、八代さんが住んでいたマンションにも行った。でも誰もいなかった。何処にもいなかった。俺の部屋にも、いなかった。
八代さんがいなくなった。
この頃、確かに傍にいない時間が増えた。それは、適当に何処かをふらついていると思っていた。
もし、段々視えなくなっていたとしたら。まさか今もここにいて、視えない俺を悲しんでいるのか。
分からない。分かるわけがない。これも妄想で、やはり八代さんはいないのだろう。
時計を見遣る。もう日をまたいでいて、ようやくのそのそと起きて寝る準備をする。ひどく疲れた。これで明日起きればまた八代さんがいればいいのに。いや、むしろ今までが夢だったのではないか。そんなことを思ってしまう程、俺は独りを実感していた。
「よ、今日は朝から疲れた顔してんな」
「おはよう……」
結局、眠ることが出来たのは明け方のほんの数時間ばかりで、起きても一人だった。それが元より当たり前だったように一日が始まる。
押し潰される通勤ラッシュ、味気ない出来合いの朝食をデスクでかき込む。受け付けたくなくて途中で逆流しそうになる喉を、水を何度か飲み込んで誤魔化した。同僚の言葉が突き刺さる。俺は一人だとやっぱり弱かった。
死んだ顔を貼り付けたまま適当に返事をしてトイレに向かう。鏡を見てぎょっとした。落ちくぼんだ瞳は尋常ではない程に、暗い。自分の顔をまじまじと見る機会はあまりないけれども、こんなにひどい顔だっただろうか。死んでるのが実は俺だったとか。
ばしんッ!
瞬間、何かに背中を叩かれた。気がした。
『おい、落ち込んでんなぁ。何もないだろ? お前は全力で頑張った、それだけだ。俺がいなくなったとか、また一人になったとか、そんなちっぽけなこと今の高田なら跳ね除けられるぞ!』
痛みはやってこない。衝撃だけが体を突き抜けていく。それよりも、聞き覚えのあり過ぎる声が昨日から探してやまない持ち主のものだから、一瞬で涙腺が爆発した。
「えっえっ?」
真後ろを見ても辺りを見渡しても、人一人いない。言葉は続く。
『頑張れ! 一緒に頑張ろう! 俺はいつだって、高田を応援してる』
「八代さん!」
包み込む温かさに俺は泣いた。見事に鼻水まで垂らしながら無様に。今時、小学生でももっと綺麗に泣くぞ。
八代さんの声はもう、聞こえなくなっていた。しばらく待ってみたが変わらない。鏡をもう一度見る。泣いた所為で先ほどより輪をかけて不細工になった気がしたが、関係無い。蛇口を全開に開いて両手ですくい上げて顔を豪快に洗った。ハンカチでごしごし顔を拭いてやれば完了だ。両頬を思い切り叩く。
「いっ……てぇ!」
少々頬が痛むが、今までの顔に比べれば可愛いものだ。やっと引き締まった顔を引っ提げてデスクに戻る。やるべきことが俺にはある。八代さんが傍にいてくれるかどうかは、俺自身の問題であって、向かうべきことに迷惑を掛けるわけにはいかない。八代さんが手助けしてくれたこの案件、絶対に成功させる。
――でも……八代さんがいないことは「ちっぽけ」なんかじゃないですよ。
言いたい相手に伝わらない言葉を心うちに仕舞い込み、現実に戻った俺は一番下の引き出しから昨日の封筒とファイルを取り出す。ファイルは一撫でして、引き出しに仕舞い直した。
この武器で、今日のコンペも、俺自身という弱さにも立ち向かってやる。大股で歩いて、青鬼がいるデスクの前で直立した。
「山本課長、準備が整いました」
「早いな。ちょっと待っててくれ」
クジームまで青鬼も付いてきてくれる。発言がいつも暴力的で、笑顔の似合わない顔面も営業より違うものが向いていそうな程威圧的で、頼りがいがある青鬼。視界が狭くて、一面でしか他人を見られていなかった。今は違う。
――俺、結構頑張ってるのかも。
青鬼が立ち上がる。気合いの入ったネクタイは新しいデザインで、期待を裏切らず青色をしていた。よく観察すると鞄からちらりと見えるスマートフォンのケースも青だ。まさか、自宅の色まで青くはないだろうな。食欲減退の色だったと記憶しているが。私生活まで想像したところで、青鬼と目が合う。
「よし、行くぞ」
「はい!」
昨日まで重かった資料は軽くなり、鞄の中で静かに出番を待っている。
結果は分からない。でも、これ以上は出来ないくらい全力は出した。競合は、恐らくサイト構築の企業も来る。専門的に考えれば負ける。
ただ、俺には武器がある。プロデュース業務を任せてもらえて、イベントの内部を知っていることはもちろんだが、我がハップはイベント会社なのだ。お客たちを楽しませることにかけてはプロ、サイトだけに留まらず、そこから飛び出して提案が出来る。向き不向きではない、勝てる確信ではない、先方が何をしたいかを知っているか、何をともに喜べるのか。人と、それこそ初対面の人たちとも一緒に楽しめること、それが俺の生きがい。
負けない。勝つ。
俺自身に、勝つぞ。




