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 慌てて右手を口もとにやるが、もう遅い。勢いで口をついて出てしまった言葉はすでに相手に届いている。よく物事を考えないままに発言してしまう俺は、また人を傷付けることを言ってしまったのだ。頑張りたくても、頑張っても、もう八代さんに気付いてくれる人だって俺以外誰もいないのに。いくら自分が忙しかったからといっても、言っていいことと悪いことがあった。


 八代さんは大きく瞳を見開いたまま俯いてしまい、表情が読み取れない。


「あ……」力無く持ち上げた腕は八代さんまで届かない。届いたとしても、触れることも出来ない。それほどに二人の間には距離がある。


 有名な政治家でも、何処かの国の王族でも、世界で一番の大金持ちでも、この距離を縮めることは出来ないのだ。


 変えられない過去を改めて実感した瞬間、八代さんの体が赤に染まった、気がした。驚いて体を揺らす。しかし、赤に感じたのはほんの瞬き程だったらしく、すぐに元通りに戻っていた。幻覚まで見えるとは何か病気かと疑いたくなる。少しの間の後、八代さんが顔を上げた。


「頑張れって言って、ごめんな」


 いつもの笑顔が戻った八代さんだったが、俯いていた時はきっとひどい顔をしていただろう。そんな顔をさせてしまったのは、俺だ。散々頼りにするだけしてこの様で、自分自身に呆れてしまう。下唇を噛んで黙った俺に、八代さんが両手を打った。俺だけに聞こえる音が誰もいない社内に響き渡る。「ただ、たださ」


「前に言ったことあるよな。どんな状況でもどう思うかは自分次第。それで幸せにも不幸にもなるって」

「は、はい」


 急に話を振られて混乱する。その裏で、ずっと前、八代さんが励ましてくれているのに燻っていた頃の自分を思い出していた。今とそれほど変わりないはずなのに、殻に閉じ籠って、責任を知らず自由だった頃の学生時代ばかり羨ましがっていた。


 何が変わった? 何も変わっていない。変わっていたと思い込んでいただけだ。結局、忙しさと焦りに気を取られて、人一人の機微を感じ取ることも出来ない。八代さんが続けた。


「頑張れって言葉はさ、沢山の意味が隠れてるんだ。きっと今のお前には”もっと”頑張れって聞こえたんだろうけど、それ以外にもあるよ。”その調子だ”頑張れって」


 俺はその言葉に固まってしまう。


 八代さんは、言葉を選んで贈ってくれていた。人の心は、言葉にしないと伝わらないのに、優しく投げられた言葉にも蓋をしていた。


「俺が頑張れって言うのは、お前が頑張っていないからなんかじゃない。頑張っているのは知っているよ、だから言うんだ。応援しているんだ、頑張れ頑張れ、その調子って。頑張れが重荷ならそれはきっと無理してる時だ。難しいと思ってちょっと躓いているんだ、少し立ち止まって頭真っ白にしてみろ」


 八代さんは目を細めて薄く笑う。少しだけ泣いている、そう思う笑みだった。


「頑張れ、頑張れ、それしか言えない人だっている。それでも応援したい人がいる。俺だけじゃないよ、一度周りを見てごらん。お前のすぐ近くに助けたいって思っている人はいるよ。一緒に頑張ろう」


 ぎゅう、と胸が、全身が締め付けられる。八代さんは頑張りたくたって何かをしたくたって、俺以外にはもう誰にも見てもらえない。それなのに俺を応援してくれると言う。こんな甘えたな俺を。


 上手くいっていると思い込んでいただけで、結局は今でも八代さんにしがみ付いて、成長したなんて勘違いしていただけだった。それに気付くことすら手助けがいる程に。


 まだ、間に合うだろうか。八代さんのような、俺みたいな奴でも尊敬するような人になりたい。

 ふざけたことばかり言う俺だけれども、誰かの空になりたい。思わず見上げる、駆け出したくなる大空に。


 すぐにでも張り裂けそうな涙腺を、寸でのところで奮い立たせて壁を作って我慢する。そのまま大きく何度も頷いた。


「俺、頑張ります」

「うん、頑張れ」

「絶対成功させてみせるんで」

「うん」


 がばり、八代さんに向かって九十度に背中を曲げて、そのまま椅子に座って後ろにあるデスクに戻る。


 まだ結果が出たわけではない、途中で躓いたくらいでなんてことはない。おかしいと気が付いただけでも進歩だ。ダブルクリップを外して、資料をデスク一杯に広げる。最初から見直すことが最善の近道なるはず、左端にある一枚目の資料を手に取った。


「そうだ」


 引き出しから、先週借りてきた八代さんの資料を取り出す。時間なんて無い。全く無い。俺は八代さんの資料をめくった。


「へえ、初見なのにすげえ内容が分かる。易しい言葉ばかりじゃないのになぁ……グラフや写真の入れ方が上手いのか?」


――やっぱり、俺はまだまだだ。


 でも、やるしかない。“お守り”を視界の端に置く。そこにあるだけで心が落ち着いた。再度自分の資料へ顔を向ける。


 データ自体は青鬼チェックまで終わっているので、構成に目を通す。大人のイメージを払しょくするものでないといけないのだから、一瞬で目を引くもの、インパクトが必要になる。デザインも、俺の希望に応えてくれコンペに十分な数を持ってきてくれた。そこまでは良い。それで足りないもの……リピート客を作ることが出来るかどうか。


 今回の挑戦は、十代だけをターゲットにするのではなく、あくまで今までの客層に若い世代を取り込むことで、間違えると改悪と捉えられクジームが培ってきた大切なものまで奪ってしまう。材料は揃った。これをどう売り込むかは俺の力だ。この一週間協力してくれたメンバーたちの為にも絶対成功させたい。ここで逃げ出すなど、もう俺の頭にはこれっぽちも残っていなかった。


 時の流れを知らせる秒針の音も気にならなくなった。誰の声も聞こえない、あんなに頼り切っていた八代さんの声さえも。傍に置いてあるペットボトルに触れることなく、二時間休みなく手を動かし資料を作り上げた。


「出来た」


 ぽっと声が出た。張り詰めていた空気が抜けた瞬間だった。


 資料が仕上がった。もちろん本番は明日で、結果がどうなるかは明日のコンペ次第ではあるが、やるべきことは全てやった。高揚感にふわふわしながら、一番先に報告したい人へ振り向く。


「八代……さん?」


 そこには誰もいなかった。

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