9
俺は混乱していた。
八代さんについて荒田に聞く前とは打って変わって口数が少なくなった俺を彼女は心配していたが、これ以上巻き込むことは望ましくない。なけなしの理性で「しばらく一人きりにしないでほしい」と懇願する気持ちを抑えて荒田と別れる。そう、八代さんを自室で目撃した時振りに、俺は彼に恐怖を覚えていた。
見間違いだ。荒田の。何故なら、毎日一緒にいて、朝から夜まで八代さんは八代さんのままで、生前と変わったところを探す方が難しいくらいであるのに。まさか、人によって視え方が異なるのだろうか。
それならば、もし俺の視える八代さんが本来の姿と違っていたら――。
バカバカしい。俺が信じなかったら、本当に八代さんが消えてしまう。嫌な予感がして無理矢理思考を遮断させた。
何重にも枷を付けた足でどうにか部屋でたどり着く。鍵を開ける際、ややためらったが、いざ入ってみればもぬけの空だった。誰もいない部屋を暖かく感じたことにまた恐怖した。それにしても、彼が何処へ行ったのか見当も付かない。帰宅するまでの道でも姿を現さなかった。
知らぬところで手違いがあって成仏してしまった? 手違いってなんだ。自問自答して解決するわけもなく、八代さんに向かっていた恐れが一気に罪悪感へと変わり、不安になった俺は八代さんを探すべく玄関のドアへ手をかけた。
「高田?」
脳へ直接届く涼やかな声がした。ゆっくり振り向く。
「うわあっ」
いつもの八代さんがいた。情けないことに腰を抜かしたらしく、その場にへたり込む。八代さんが笑って手を差し伸べたけれども、お互いに忘れていた所為で掴もうとした俺の手はみごとに宙を切り、二度目の尻もちをつく羽目となった。
「しまった。迂闊だった」
失敗を謝る仕草がやけに人間臭い。やはり荒田が違うもの、例えば八代さんが透ける瞬間を偶然視て、その奥側にある赤い服を着た人間と重なって錯覚した、原因はそんな笑い話であろう。もしくは八代さんは視えていなくて、他の幽霊を視たとか。血みどろで俺を見つめる他の……それこそ危ないな。考えないようにしよう。
「いやいや、俺の方こそすんません。いつも八代さんに頼っちゃってるからつい忘れちゃうんですよね」
「そうなんだよ、俺もうっかり」
安心した。ずっと鳴り響いていた心臓が痛くて、服を掴む。
ビールを浴びてきたのに、もう喉が次の水分を主張した。
「あー喉渇いた。八代さんの分も開けますね」
「いいよ」
「後で飲むんで付き合ってください」
大丈夫。
大丈夫。
八代さんはここにいる。俺もいる。
笑い声も、照れた時頬を掻く癖もまんま変わらない。明日も変わらない。
いつか止む雨すら待てなかった男が、いつの間にか今日と変わらない明日を望むようになっていた。
寝るのが惜しくて、しかし翌日も仕事があることがちらついて、ようやく深夜一時を回った頃横になった。目を瞑っても眠気はやってこない。これは明日きついな。
結局、うまい具合に寝付けず最近ご無沙汰の隈を貼り付かせて出社した。そんなものだから、出会い頭に荒田が慌てるのも当然だ。勝手に昨日の出来事は無かったものと考えていたが、自己完結しただけで何も彼女との話に決着はついていない。
「高田さん……! まさか昨日の奴に!?」
「違う! 違うから!」
放っておけば近くの寺にでも駆け込んでいきそうな後ろ姿に、言い訳もさせてもらえず声を荒げて止めるのが精一杯だった。そこへ飯塚が通る。唯一残っている貴重な女性同期だ。背が高くて仕事も出来て格好良いと後輩から評判で、はっきり言って俺よりモテる。女子に。羨ましくなんかない。
「何々、痴情のもつれっすか! やだぁ~~」
「ふざっけんな! ちょっと勘違いされただけだ、助けろ飯塚!」
「ふふっふ~~どうもどうも。じゃあねェ」
「あとで覚えてろよ!」
助ける素振りすら見せず去っていく同期に怒りが沸騰するが、今のやりとりで若干冷静になったらしい荒田の瞳を確認して、どうにか隈の原因を説明することに成功した。
まだ手負いの獣よろしく息巻く荒田をどうどうと鎮め、深夜まで宅飲みしたことを説明する。もう言える限りの限界まで言い尽くしたが、まだ表情は優れない。飲みまくってさらに自宅でも飲むなど、やはり嫌なことがあったのだと思われても仕方なかった。
「本当に? 嘘吐いてないですよね? 私に心配かけまいとして、実は夜中ずっと首を絞められてたとか」
「お前の想像怖いよ!」
「あいつが目の前で呪術的な科白吐くのに耐えられなくて、お酒に頼ったとか」
「そんなこと言われたら、今日も眠れなくなる!」
知らないが故の仮定はしばしば真実を凌駕する。さすがに首を絞めてくるなんて、幽霊がどうこう言う前に生命の危機に焦り倒す。
一件の所為で母親より小五月蠅くなった荒田を連れて室内へ入った。そういえば、八代さんはずっと俺の横にいる。荒田がそちらに視線を向けることは一度もなかった。
なんだ、やっぱり気のせいじゃないか。
安心した。八代さんは散歩に行くのか、手を振って俺たちと逆方向へ歩いていく。あんなに悩んだというのに当人なはずの彼はのん気なものである。
「ん?」
先ほど、八代さんが立っていた場所に丸い染みが付いていた。掃除のおばちゃんが拭き残したらしい。よく廊下は満杯に淹れたマグカップからコーヒーを垂らす連中がいるのだ。
「……取り乱して申し訳ありませんでした」
「俺相手に殊勝な態度取らなくていいよ。心配してくれただけだろ」
「謙虚なこと言わないでください。もっとふてぶてしくしててくれないと」
「え、荒田の目には俺がそんな風に映ってんの」
「まあ、先輩ですから」
含みのある言い回しが引っかかるが、せっかく笑顔が戻ったのだからこれ以上話を広げる必要はあるまい。荒田の肩をぽんと叩こうとした手を寸でで止めて声をかける。
「さて、クジームの案件進めるかぁ。大規模なイベントだから気合い入れなきゃ。荒田も業者との打ち合わせ日の調整頼むぞ」
「はい! 調整って言わず資料作成も指示頂ければやりますんで!」
「それは一人で営業行けるようになってからな」
明るい姿勢は見習うものがある。ようやくいつもの調子に戻ってくれて閊えていた胸の棘が取れた。せっかく仕事が軌道に乗っているのだから、その道にスポーツカーを放り込んで駆け抜けてやりたい。ついでに隣に誰か可愛い子も乗せたいのだが。まあ、今のところは菜穂ちゃんとの甘酸っぱい思い出で我慢しよう。大学の彼女のことはあまり考えたくない。俺も適当だったんだな。今考えれば、いろいろなことに対して適当だったことが分かる。いろいろと周りに迷惑をかけて生きてきた。
「あ、もうすぐ青、山本課長出社するぞ。すぐ渡せるように袋デスクに出しとけ」
「そうだった、USBUSB……」
心配になってごそごそ鞄を漁る彼女を覗き見る。出てきた袋を確認してほっと息を吐く。忘れていた日には、昨日の五倍は覚悟せねばならない。
青鬼の出社を気にして入口を見ながら今日の仕事確認を行う荒田が、ぽつりと漏らした。
「私が視たのって、結局何だったんでしょうね。見間違いにしちゃグロ過ぎるっていうか生々しいっていうか」
「えー……そんなに? あんま気持ち悪いこと言うなよ、昼飯マズくなんだろ」
「大丈夫。私、そういうの気にしないで食べられるんで」
「俺を気遣って!」
昼食は無難を選択してうどんにした。荒田はがっつり定食を食べたと言っていた。
「や、し、ろ、さーん。おーい」
帰宅中、ふらりと戻ってきた八代さんは黙ったまま前を歩いている。真剣な表情に、最初は合わせて無言を貫いていたが、ものの十分でリタイヤした俺が話しかける。何度か呼びかけると、やっと振り返ってくれた。
「どうかしましたか。考え事?」
「ああ、いや、うん。そうだね、俺が死んだ日から何日経ったのかなって」
「そんな! ……こと考えてどうするんですか」
ぐっと言葉を飲み込んで当たりさわりのない科白で返す。この人を否定するなんて俺には出来ない。もしかして荒田の様子を気にしているのだろうか。
「暇になると余計な事に頭が回っちゃうみたい」
力の無い声。
──どうせ俺しかいないんだから無理しないでください。
「荒田の……あいつは何か違うものに驚いて言っちゃっただけだと思いますよ。ほら、毎日一緒の俺は普通でしょ? 八代さんだって自分の手や体を見ても普通。俺たちと全然同じ! だから平気ですって」
明るいトーンで話す姿がやや芝居がかっている気もするが、全部本心だ。せっかくこうしてこの世に留まっているのだから、八代さんには笑っていてほしい。
「そうだな……そうだよな!」
に、と歯を見せて笑う。しばらく全開の笑顔を見ていなかったため、単純な俺は釣られて笑ってしまった。




