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「いてて」
青鬼にやられた箇所を擦りながら廊下を歩く。無事、明日からサイトに関する指導を先輩に約束してもらい、ようやく青鬼に開放された。横でくすくす聞こえるのは、八代さんだ。じと目で抗議してみるが、「知識が無い」なんて新入社員でも怒られるような科白を吐いてしまった俺が悪いので、何も言えずに歩く。ふと、後ろから違う声がした。
「高田さんっ」
荒田だった。彼女もあの場にいて喜んでくれた一人で、先ほどの失態も目にされているので少々気恥ずかしい。
「どうしたんだ? トイレ行ったらすぐ戻るけど」
教育係のためデスクも隣同士、安易に話すことがあるならそこでしたらいいと提案したのだが、にこにこしながら「私もトイレなんで」と付いてきた。トイレと言っても男女で別であろうが、そこまででもしたい話があるならとこちらも断ることはしない。様子を窺っていると、荒田は鼻息を荒くさせてこちらを見てきた。
「さっきの話、すごいです!」
やはり先ほどの話のことらしい。恥ずかしいのをごまかして頭を掻く。
「いや、今回のは棚ぼたというか」
本当に、青鬼から聞かされるまで、担当者から新しいイベントを行うことを匂わされただけだった。ハップがやることになるなど、考えてもいなかった。俺自身、自分が中心にいることに未だ半信半疑である。しかし、こうして手放しに褒められるのも悪い気はしないのも事実で。「好きです!」
「え?」
「あ、やだ」
聞き違いか空耳か、荒田の言葉に反応出来ず不明瞭な声を返せば、荒田は顔中を赤くさせて両手をばたばた動かし出す。そんな顔されたら、空耳とは言えなくなる。
「いえ、違うんです! 違くないですけど、違うんです!」
ますます俺は首を傾げるばかりだったが、先ほどの一言が違わないなら、これはまさか告白というものだろうか。つられて赤くなってしまう。クジームの件並に予想しなかった衝撃だ。沈黙が襲ってくる。先に耐えられなくなったのは、言った本人だった。
「すみません、気にしないでください! ほんと、私なんかに好かれちゃ嫌ですよね。ドジだし、怒られてばっかだし」
「荒田!」
俯いていく荒田に苛立ち、最後まで聞かずに荒田を呼ぶ。ぴたりと荒田の早口が止んだ。少しだけ頭を下げて言う。
「ごめん」
「……気にしないでください。私だって思わず言っちゃって。こんな時でもドジですね、嫌になっちゃう」
最後の方が震えている声を、知らない振りをして俺も続ける。荒田に言い訳をしてほしいわけではないのだ。
「違うんだ。勘違いさせちゃうと申し訳ないから結論から言っちゃったんだけどさ、俺、荒田に好かれてるって分かって嬉しかったよ。そりゃおっちょこちょいなところはあるけど、俺がきつく言ったって失敗したって、負けないで次の日笑顔で出社してくるじゃん。それだけでも才能だと思う。俺はすごいと思ってるよ、荒田のこと」
言っている途中で照れくさくなったのと同時に、半分は八代さんに言われたことだと気が付いた。だから、八代さんは荒田と俺が似ていると言っていたのか。
聞いていた荒田がいきなり涙を溢れさせる。
「うわっ泣かすつもりはないんだ! 言い方きつかった?」
両手で顔を覆ったまま、ぶんぶん首を振る。
「違う、違うんです」
行き場のない両手が荒田の前で頼りなく彷徨う。こんな時どうすれば良い男の振る舞いになるのか、仕事が少し出来るようになったとしても、こういう小さなことすら思いつかない。
「高田さんが優しいから。あと、私、高田さんが沢山受注してきてすごいからって勢いで言ったんじゃないです。それより前、研修中迷子になったところを助けてくれた時から気になってて。教育担当になった時は驚きましたけど、私のこと今みたいにちゃんと見てくれる、真面目で優しいところを知って好きになったんです。それだけ分かってほしくて」
「うん」
そういえば、以前そんなことを言っていた。まだしっかり思い出せないでいる。それもごめん。でも、言われてみれば薄っすらあった気もする。俺が醜くジメジメしていた頃に新人と会話した気が。あれが荒田か。
俺を見てくれる人は、自分自身が思う以上にいるらしい。八代さんの言う通りだ。ちゃんと周りが見えていないのは俺の方だった。嬉しい素直な気持ちをもらって喜ぶ半面、いかにまだまだ子どもだったことを思い知った。細身の肩に乗せようとした手を下ろして、一言だけ告げる。
「分かってるよ。荒田のこと、結構認めてるんだぜ」
「たかだ、さん」
安心させたくて笑ってみせたら、また泣かれた。その中に「ふふ」と笑う声が漏れたので、俺の方が安心してしまった。
女という人間は、俺みたいなうじうじした男と違って総じて強いのだろうか。それとも、俺がマイノリティなだけで、他の男たちもすぐ立ち直れる強さを持っているのか。
トイレの前で別れて戻ってきた荒田は、一見全く変わらない様子でその日一日を過ごしてくれた。俺の方が意識してしまった。
定時から二時間程で仕事を終える。結局、今日の今日では営業のスケジュール調整がままならず、残業の人数が多数出てしまい飲み会は次の機会に流れた。青鬼が「今度飲みに行くぞ」と威圧感のある笑顔で強制してくるのを会釈だけ返して会社を出る。
「高田さん」
「うん?」
一緒に残業していた荒田が小走りでやってきた。
「あの、彼女はいないんですよね?」
「いるようには」
「見えないので」
「はっきり言うねぇ」
いないけど。やっぱ独り身オーラが出ているのか。少なからず落胆する。
「じゃあ、好きでもいいですか。望み無くていいですから」
「荒田……純粋なんだな。ありがとう、俺は強制出来る立場じゃないから、荒田の自由にしてくれていいよ」
「有難う御座います。まあ、意外とあっさり他の人見つけるかもしれないですけど」
「言うねぇ!」
「言うでしょ!」
イイコだ!
最寄り駅までの五分、仕事以外の話をした。荒田は実家に住んでいて、帰宅するとご飯が待っているので毎日を頑張れていると言っていた。正直羨ましい。俺の実家も会社から遠くはないのだが、乗り換えが不便で一人暮らしにした。自立の意味も込めて。自立出来ているかは胸を張れないけれども、どうにかこうにか過ごしている。
「残業でいつもより遅くなっちゃったから、夜道気を付けて」
「最寄りからすぐだし明るい道なんで大丈夫です。高田さんこそ気を付けてくださいね」
「おっけーおっけー」
かなり言うようになった。距離が一気に縮まった気がして楽しくなる。こういうノリ好きなんだよな。
最寄り駅まで乗り、そこからマンションまで歩いていると、今日の出来事が次々に思い起こされる。大きな仕事を依頼されるかもしれない。嬉しい。
後輩から告白された。嬉しくて気まずくて、申し訳なかった。
それより何を断ったのだ、あれだけ幸せになりたい、彼女が欲しいと愚痴っていた自分が。伝えたことに嘘は無く、荒田は良い人だと思う。さっきの態度でも再認識した。
それなのに。好みではなかったからか? いや、自分自身の幸せの意味が変わったのだ。不幸だ不幸だと勝手に拗ね、大衆的に幸せだと思うものに憧れている振りをして口にしていただけだった。告白されてそれに気付くなど、恥ずかしい。好きだと実感出来ていないままに承諾することが失礼なことだと、荒田に返事を出す前に分かっただけいくらかマシであろうか。




