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「うわぁっ」
この悲鳴にも聞き慣れた。荒田は素直だし仕事に対する姿勢も良い。如何せん、ドジだ。学生の女子であれば「可愛らしい」とちやほやされるかもしれないが、社会に出てこれは致命的とも言える。いつまでも学生気分ではいてはいけない。
「お前なあ……もっと慎重に行動しろよ」
「あはは」
呆れにも似た笑顔で揶揄すると、荒田は乾いた笑いで返した。この荒田、研修中からこの調子だったそうで、研修初日にさっそく社内で迷子をやらかしたと言った。しかも、迷子はその後も数回しでかしたらしい。
確かに、我がハップは大企業と比べれば見劣りするものの自社ビルを構えているだけあり、いくつもの部署を抱えている。エレベーターも、混雑を避けるために六階までしか行かないものと最上階まで行く二種類がある。ハップ以外にも数社企業が入っていたりもする。それだから、ぼーっと歩いていれば、あるいは忙しさに疲れ果てていれば部署を過ぎてしまうのもやむを得ない。やむを得ないが、地図を渡されている初日からやらかすのは、褒められた行動ではないことも事実である。
「それでどうしたんだ?」
三度目にやらかした迷子話をそれはもう盛大な出来事に話す荒田へ適当に相槌を打ったら、やけに瞳を輝かせて人差し指を突き立てられた。
「おい、人を指差すな」
「すみません! まあそれは置いておいて、そう!その後がすごいんです! 泣きそうになりながら立ちすくんでたところ、高田さんがやってきて道を教えてくれたんですよ! 覚えてません?」
なるほど、何故荒田が興奮した様子で話し出したのか理解出来た。初めて助けてもらった先輩と偶然教育係として再会したのだから、嬉しくなるのも当然だ。しかし、期待に応えてやれない俺はいつまでも視線をぐるぐる動かし続けた。
──そんなことあったっけなぁ。研修期間中なら最近なはずなのに、全然思い出せない。
「う、ううーん……ごめん」
残念な返答にも荒田は笑ってくれる。
「いやぁ、そりゃそうですよね。気にしないでください! 助かったことだけ伝わればそれでいいんで」
「そっか」
以前の、燻っていた頃の自分でも人の役に立っていたことを知り、少しむず痒い気持ちになった。
「あ、お昼ですよ」
気が付けば時計が正午を示そうとしている。同期と食べる約束をしている荒田は軽く会釈してして去っていった。
女子たちは社会人になっても賑やかで良い。昼休憩はもちろん、廊下で他部署の人間に会っただけでも会話が盛り上がる。これが数年経って俺の年代になると、五名程いた女子社員は転職や結婚、早い子だと妊娠して育児をするためほとんど辞めてしまうのだけれど。それでも、残った一人だって近い年の人間と昼休憩に行くのを見かけるので、やはり女は強しと言ったところか。
「昔の高田みたい」
真後ろを振り向く。きっと今の俺は、目も口も全部まんまると間抜けに開けているに違いない。八代さんが楽しそうに口を開けた。
「そりゃないですよ! どうせ八代さんより使えないですけど、あそこまでおっちょこちょいじゃなかったし」
「違う違う。失敗したって何だって、真っ直ぐな感じがさ。結局、高校の時から根っこは変わってないよ。だからどんなに愚痴ったって、腐らないで毎日会社に来てただろ」
会うたびにこの会社を選んでしまった後悔をぶつけてた俺をそんな風に見ていてくれたなど、知らなかった。余計な水分が流れてしまいそうな俺に「それにしても、荒田さんに失礼だよ」と相変わらずの笑顔で注意してくる。確かに荒田はここにいないのに申し訳ないことをした。だが、おっちょこちょいなのは本当だ。
今更の話だが、会話の全てを聞かれるのは恥ずかしい。たまに何処かへいなくなることはある。それを考慮しても、俺の傍にいる時間が一日の大半だということを思えば、やはりいくら親しい先輩でも勘弁願いたい時もあった。
──こんだけお世話になってて、何我儘言ってんだって話だけどさ。
デスクに戻りメールを確認する。電話は完全に顧客になった会社であれば日常的にかけてくる相手もいるが、大概メール連絡を好む。電話と違って時間を気にしなくていいことが一番だろうか。自分も気兼ね無く話せる人間でなければ、メールがいい。電話はハードルが高いのだ。
「クジームからだ」
以前、アポ無しで飛び込んだ野原さんからメールが着ていて、読むために自然と前のめりになる。改めて青鬼とともにクジームへ挨拶に行ってからまだ数日しか経っていないが、連絡が着ているか毎日確認していたので、内容が気になって仕方がない。何せ、大手企業は既存客を上司から引き継いだ経験があるだけで慣れているとはとても言えず、初めての経験ばかりで戸惑いの方が大きい。
「お、これは……もしかして脈あり」
内容は、どの方向から読んでみても好意的なものだった。居ても立ってもいられず、勢いのまま内線電話を取り上げ番号を打つ。
「営業の高田です! 小会議室の予約したいのですが」
「有難う御座います」
無事にクジームとの打ち合わせの準備を終え、帰宅する。青鬼にも進捗を報告しておいた。一番に言っておかないと後々面倒なことになる。
それにしても、奇妙な連鎖が続くことは心に何とも言えない靄をかけるが、良い方向へ風が動いているのであればそれに任せて乗っていくだけだ。
──今日は最寄り駅より手前で降りて歩いてみようか。
ただの気まぐれであった。気分も体調も良く、仕事が終わっても変わらないものだから、少しだけ疲れることをしたかった。ジムに通っているわけでもスポーツをする趣味も無い。そうなれば、いつもより遠回りして歩くくらいしか思いつかなかった。
「何だ、やけにツイてるな俺。いや、八代さんが憑いてるからってことか……ほんと八代さん様様! 有難う御座います!」
「おい、酔っぱらってんの」
「素面ですよ」
「知ってる」ずっと横にいた八代さんは俺が飲んでいないことを分かっていてふざけてきた。よほど嬉しそうに見えたのか。よほど珍しい顔をしていたのか。そういえば、営業用のスマイルはすっかり慣れていたが、それを忘れるくらい仕事に食いついたのも今回が初めてな気がする。初めて尽くしを経験して、ちょっとだけやりがいが土から顔を出し始めていた。




