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第一関門突破の鐘が鳴る。とりあえず相手の陣地に足を踏み入れることを許された。今日はツイている。後ろに八代さんも憑いている。気のせいかもしれないが、八代さんのおかげで駒がスムーズに進んでいるとさえ思えた。
了承を得て浅めに腰を掛ける。これからが本番、意気込んで前のめりになれば、相手もこちらを向いて瞳を輝かせた。
「改めまして、野原と申します。高田さんがいらっしゃってくださって、こちらも助かります!」
「え、と。そうおっしゃいますのはどういった……」
世間話をしようとした矢先、相手側から食いついてくるとは思わなかった。上辺の笑顔が剥がれかかる。しかし、絶対に幸運は逃すまい。
ここに来たのは後援しているイベントの様子を確認して回っているだけだと野原さんは言った。だから、ここのプロデュースに関しては簡単に口を出すことは出来ない。その中でこの反応、他に仕事があるというわけか。
「ただね、うちが主催しているイベントの方で困ったことが起きまして」
言い方は悪いが、野原さんの会社が、インディーズとは比べ物にならない大きなイベントをいくつも行っていることは俺も知っている。つまり、イベントで契約している業者も決まっているということ。契約更新時でもない限り、弊社なんぞ話を聞いてくれる機会すらないはずだ。神妙に相槌を打つと野原さんは続けた。
イベントの一つに、定期的に行われている野外コンサートがある。メジャーの音楽事務所と提携して行っているイベントなので、すでに年間予定が組まれている。それなのに、急にプロデュースを任せているイベント会社が撤退することになったというのだ。通常、顧客側が特別な事情で他社に乗り換えない限り、途中で業者側が断りを入れるのは考えにくい。複数の事業を行っていて、プロデュース業務を止めることにしたか、そもそも会社自体が危ういか……。
さすがに社名を聞くことは出来ないので想像でしかないが、絶好の機会であることは理解した。時間が無い中、建前でもパンフレットを持ってきてよかった。すぐに野原さんに提案を開始する。稀に見る早さで話は勢いを増した。
「では、野原さんもバンドを?」
「高田さんもですか! 私はベースだったんですが」
「私はギターです。大学のサークルで」
「私もですよ。高校で始めて、大学も続けました。大学は東京だそうですが、スタジオはどこで入ってました? 新宿とか?」
器材や楽器に詳しいことは野原さんにしてみれば当たり前だが、マニアックなバンドに話が及んだところでお互いにバンド経験者だと分かり、さらに話が弾む。趣味の一致は、年齢も性別も関係無く距離を一気に縮める効果がある。俺たちはまさにそれだった。
好きなジャンル、何処でライブしていたか、脱線することすら楽しんでイベント同様に盛り上がる。仕事中に自然と笑顔が出てくるのは何年振りだ、もしかしたら初めてかもしれない。何の話をしにきたのか分からなくなってきたところで、大音量が止み、イベントが終わったことを知る。
「おっと、話が逸れてしまいました。失礼」
「いえ、こちらこそ。いきなり押しかけた上、お邪魔してしまいまして」
「楽しい時間を有難う御座いました」
二人握手を交わす。指だこの感触。この人今でも弾いてるのか、すごい。それだけで尊敬してしまう。社会人になってからの俺には趣味らしい趣味が無い。
「是非、前向きに検討させて頂きます」
「宜しくお願い致します!」
前向きに、と言われても、最終的な決定権は無いだろうから、期待半分に聞いておく。それでも、大きな顧客を獲得するチャンスを手にすることが出来た。名刺をもらえただけでもラッキーである。挨拶をする野原さんに勢い良く頭を下げて会場を出る。
二本の足が驚く程軽い。浮き上がりそうだ。
高揚感。羽でも生えたか。
急いでもいないのに足早にその場を去り、会場が見えなくなった頃、右手で小さくガッツポーズを作った。
今日だけで二社から良い話をもらった。しかも、自分が求めなければ獲得出来なかった貴重な仕事。二年半が嘘みたいに、今日一日に吸収されていく。
早く、早く。
スキップしてないよな。通報されるような行動は避けないと。
そうは思っても、体が言うことを聞かない。注意しないと、ホームの端から端まで無駄に歩いてしまいそうだ。
たった二駅の為に乗る電車が待ち遠しい。何処か遠い所へ、新幹線にでも乗ったらどうだろう。頭が綿あめになっておかしくなってきた。ようやく、三分待っただけの電車がホームに停まり、飛び乗った俺は結局車内でもずっと不審者だった。横でくすくす笑われる。
「ふはは、嬉しそうだな」
「そりゃあ、デカい案件ですもん。俺には初めての規模です」
「確かに。俺も聞いてて驚いた」
小声で一つ二つ会話をしながら会社へ戻る。社名が書かれている自社ビルが光って見えた。エレベーターで四階に上がり営業課に続くドアの前に立つ。
「高田」
「おっと」
横に目を遣り、誰もいないことを確認した。
「へへ、八代さん有難う御座います」
「いえいえ。というか、俺が驚かせたのが原因だし」
ドアノブに手を掛けたところで深呼吸する。同じ間違いは犯さない。基本だ。今度はゆっくりドアノブを押し、何でもない顔で帰社する。青鬼はいなかった。
――もしかしてまだ片付け……はさすがにないな。
もう会社を出てから一時間以上経っている。そこまで資料をばら撒いていないから、他の部署に行っているか休憩だろう。まだ珍しく喫煙者なので、喫煙ルームかもしれない。鞄を置いて廊下に出ようとドアの前に立ったちょうどその時、向こう側から勝手にドアが開かれた。
「うおっ高田か」
青鬼だった。二人で作業したからか、この不機嫌な面構えに少々慣れてきた。中に入りやすいよう一歩横にずれた俺の腕を青鬼が引っ張る。ぎょっとしたが、そういえば心配されて外に出たことを思い出した。青鬼が席に着いたところで腕を自由にされ、後ろ手にそこを擦りながら報告する。
「只今戻りました」
「大丈夫か?」
安易に頭を心配されていることが分かり、苦笑いで返す。
「問題無いです。ちょっと混乱しただけというか」
上司といて勝手に躓いた部下が亡くなった同僚の名前を言う……かなり奇抜な出来事を「混乱」だけで済ませられないことは重々承知だが、青鬼といえど社会人のマナーは心得ているらしく、それ以上個人的な感傷に突っ込んでくることはなかった。それよりも、今はもっと大事なことを報告せねばならない。
「それでですね、今アポ無し営業をしてきまして。小規模なイベントだったんですけど、偶然クジームの方に挨拶出来たのがきっかけで、クジーム主催の音楽イベントで新規案件を取ってきました。プレゼンになると思うんですが、前向きに検討してもらえるそうです」
「あ? クジームだぁ?」
「はいックジームですッ」
野原さんの会社名を出したら、眉間の皺を倍にされた。それはそうだろう。クジームといえば、音楽に明るくない者でも知っている大手中の大手だ。国内トップの楽器メーカーで、音楽イベントも多数開催している。とりあえず、その顔と声と言い方、もう少しマイルドにはならないか。ただの報告なのに、叱られている気分になる。
ドンッ! 衝撃とともに青鬼のデスク上にあった書類が落ちた。デスクと距離を無くした青鬼の拳を見て震え上がる。悪いことは何一つしていない、はずだ。咆哮が部署を制圧した。
「高田ァア!」
「うわあああああ」
脊髄反射よろしく情けない叫びとともに後ずさりした俺を、青鬼が許すはずもなく、またしても顔に似合った無骨な手で己の非力な腕を掴まれてしまった。
痛いのに、痛いことすら伝えられず、生理的な震えが襲う。
「高田ァアアア!」
テンションを振り切った青鬼はもう青鬼ではなくただの鬼で、いや鬼ではなくて人間なのだが、とにかく鬼だった。怖い。
とりあえず、逃げよう。それしか頭が回らなくて後ろを振り向く。
腕だけであるのに、心臓を鷲掴みにされた気分で顔を青くさせて顔を上げれば、社内にいる社員たちが自分以上に怯えた瞳でこちらを遠巻きに見つめていた。
「あ、いや、これは」
言い訳が思い付かずあたふた焦る。後ろから追撃が来た。
「高田! 本当だな?」
「本当です本当です!」
鬼相手に人間が嘘など付けるはずがない。こくこく、首が取れる勢いで頷く俺に、青鬼は腕を組んで感慨深げに顔を俯かせた。どのような表情でいるのか覗く勇気も無く、居たたまれない気持ちで佇む。ふいに、小さな呟きが耳元に舞い込んだ。
「……よくやった」




