夕食
アスターが店を出た日の夜。少年は目を覚ました。
ずいぶんと体が軽い。痛みも、倦怠感もない。自らの体の傷は驚くほどきれいに治っており、まるで今朝までのことは夢か幻だったのではないかと思うほどだった。窓に映る自分の姿に目を見開き、ぺたぺたと顔を触る。
「治癒魔法だ……」
のどの渇きもなく、声は滑らかだ。やや幼さの残る少年らしいボーイソプラノ。母親が好きだと言ってくれた美しい声。父親に似た顔にも傷一つない。
少年の村にこれほど高度な治癒魔法を使えるものはいなかった。
(あの女性が……?)
少年は、今朝自らを抱きしめてくれた女性のことを思い出した。
キッチンからコトコトと音がして、何やら良い匂いが漂う。香りにつられ、少年の腹は、ぐぅ、とかわいらしい音を立てた。しばらくの間、ほとんど飲まず食わずで歩き続けたのだ。無理もない。治癒魔法は空腹までは満たせないらしい。彼はゆっくりとベッドから起き上がり、キッチンの方へと目を向けた。
「目が覚めた?」
キッチンから料理を運んできた女性が、少年の姿を見つけて立ち止まる。手に持っていたスープ皿を机に置くと、少年の方へと駆け寄ってぎゅっと力強く抱きしめた。
「良かった……」
優しく、どこか甘さを纏った声が、少年の耳元で聞こえる。母親のものとは似ても似つかないのに、一人ではない安心感が彼を襲う。自然とあふれそうになる涙をぐっとこらえて、少年は所在のない手をさまよわせた。
「どこか、痛むところはない? 何か食べられる?」
「大丈夫、です……」
遠慮がちに少年が答えると、女性は安心したように目を細めた。
「サラダとパン、スープがあるから。好きなだけ食べてね。……といっても、しばらく何も食べてなかったんでしょう? 急にたくさん食べると体がびっくりしちゃうから、スープとサラダくらいにしておいた方がいいかもしれない」
女性は少年を椅子に座らせると、てきぱきと料理を並べていく。スープから立ち上がる湯気に乗って、クリームソースの良い香りが少年の胃袋を刺激した。
「さ、いただきましょう!」
女性とともに少年はしっかりと両手を合わせ、祈る。どんなものにも命はあり、それを粗末に扱ってはいけない。両親から教わったことを思いだす。
(自分の命も、きっと同じだ)
そんな当たり前のことが、少年の内心でふっと沸き上がる。だが、もう二度と、大切なことを教えてくれた両親と食卓を囲むことはない。少年の胸は締め付けられた。しかし、泣いてしまってはまた目の前の女性を困らせてしまう。彼はスプーンを手に取って、スープを口へ運んだ。
少年は、女性がじっとこちらを見ていることに気づく。視線が合うと、女性は少し切なげな表情を取り繕うように眉を下げた。
「どうかな?」
少年はゴクン、とスープを飲み込んで精いっぱいの笑みを浮かべる。
「おいしいです」
感謝してもしきれないこの気持ちは、今の一言では表しきれない。だが、いつかこのことをきちんと言葉にして伝えられる日が来るのだろうか。少年が見つめると、目の前の女性はにっこりと微笑んだ。その笑顔が温かく彼の心を照らす。
「さ、食べられるだけ食べて。おかわりもまだあるからね」
「ありがとうございます」
少年が深く頭を下げると、女性は「気にしないで」と首を横に振った。どこか悲し気な表情が混じるその笑みは、少年が今朝話したことを気にしている様子だった。チリ、と胸の奥が痛む。少年はそっと胸元に手を当てて、ごまかすように再びスプーンを口に運んだ。
空腹だったはずなのに、自分が思っていたよりも食べられなかったことに驚きつつ、少年は「ご馳走様でした」と手を合わせた。空腹期間が長いと、体が受け付けないのか。彼は一人そんなことを考えながらも、皿を片付けていく女性の後ろ姿を見つめる。皿洗いくらいなら自分でもできるだろうか。
「手伝います」
おずおずと少年が口にすると、女性は優しく微笑んだ。
「ありがとう。でも、気持ちだけ受け取っておくね」
言い終わるやいなや、女性はポケットから杖を取り出すと、ぼそりと何かをつぶやいて、宙に円を描く。ふわりとしなやかに振るわれた手首はまるでオーケストラの指揮者のよう。彼女の杖に合わせるように、食器がふわふわと舞い上がり、整列したかと思えば、ぼちゃんと水の張られたシンクへ沈んでいく。
「わぁ……」
少年は思わず声を上げた。
「簡単な魔法だけど……見たことない?」
女性は彼の様子に少し驚いたように目を見張る。少年はこくりとうなずいた。
「お母さんも、お父さんも、魔法はあまり得意じゃなかったんです」
僕も魔法はうまく制御できなくて、と少年はうつむいて服の裾をぎゅっと握りしめた。
魔法は生まれながらにして、センスを必要とする。運動神経や学力と同じだ。基礎的なものは備わっていても、それを上手く扱えるかどうか、というのは天性の才に大きく依存する。もちろん、そんな魔法を制御するにも。少年の暮らしていたような小さな村で、両親も魔法も使えないとなると、それを教えてくれる人物はいなかったのだろう。
ふつふつと、アイリスの心の中に、自分がこの少年に何かしてやれないだろうか、という思いが沸き上がる。簡単な魔法を見せるくらいなら、出来るだろう。彼は、喜んでくれるだろうか。
アイリスは、よし、と杖を握る。
「それじゃぁ、これから起こることはもっと面白いよ。見てて」
女性にパチン、とウィンクされ、少年は顔を赤く染める。可愛らしいと美しいが同居したような女性の笑みを、惚けた顔で見つめた。女性は再び小さな声で呪文を唱えると、杖を優雅に泳がせる。
「わっ……!」
少年は、目の前で繰り広げられる不思議な光景に目を輝かせた。
シンクに浸かった食器は、ぶくぶくと泡を立てたスポンジによって見事に洗われていく。洗われたものから行儀よく蛇口の下に整列し、蛇口はテンポよく水を吐き出す。泡を綺麗に水で流された食器は再び整列。女性が何やら呟き、弧を空中に描けば、整列した食器はどこからともなく飛んできたタオルに包まれ、ピカピカに磨き上げられる。そのままカチャカチャと陶器のぶつかる音を奏でながら、食器棚へ鎮座すると、あたりはシンと静まり返った。
まるで映画のワンシーン。簡単な魔法だと女性は言ったが、少年にはそれが信じられなかった。
「はい、おしまい」
女性はそっと杖をポケットに仕舞い込むと、少年の方へ向き直る。そして、少年の肩に両手をそっと添えると、少年の体を優しく方向転換させた。
「さ、お風呂に入ってきてね。浴室はその奥だよ」