アスター
アイリスの店に客がやってきたのは、それから数時間後のことだった。
まだ、体力の回復も仕切っていない少年は、ベッドで眠っている。アイリスは少年を起こさぬように、そっと店へと移動する。ギシ、と床の軋む音に、アイリスは思わず床板をにらみつけた。
(ボロ屋敷め)
アイリスは杖を床に向けて大きく円を描くと、小さく呪文を唱えた。床はみるみるうちに新品のフローリングへと様変わりする。ピカピカとした光沢がまぶしい。
「アイリス? いないのか?」
店の方から客に呼ばれ、アイリスは慌てて新品のフローリングの上をかけていった。
「お待たせしてすみません」
アイリスが店の方へ顔を出すと、そこには馴染みの客、アスターが立っていた。
「いや、大丈夫だ。何か用事の最中だったか」
「その……」
アイリスが言いよどむと、アスターはまっすぐな瞳をアイリスに向けて続きを促す。
「実は……先日、この店の前で行き倒れていた男の子を拾ったんです。どうも、先日の混碧で被害にあった村の子のようで。できるだけ今は、そばについていてあげたくて」
アイリスが目を伏せると、アスターもそうか、と小さく返事をした。くしゃくしゃとアイリスの頭を撫でて、それ以上は何も言わなかった。混碧がどれほど恐ろしいものかを良く知るアスターだからこそだろう。
魔法警団の一員として働く彼は、そうした魔法に関する自然災害の被害にあった地域へ派遣されることも多い。その惨状を目の当たりにするたび、思うところもあるだろう。アスターの口数は多くないが、その態度や表情が雄弁に語っている。多くのものを失ってもなお、生きていくとはどういうことなのか。それがどれほど辛いことなのか。
「ちょうど、その村に向かうところだった……。その少年は、今は……」
「まだ眠っています。今朝、一度目覚めましたが、泣き疲れて寝てしまいました。村から逃げてきたのでしょう。体も傷だらけで、精神的にも……」
「アイリス。君が使える治癒魔法は、簡単なものだけだったな」
アスターの問いにアイリスがうなずくと、アスターは店の奥へと視線を向けた。
「俺で良ければ力になろう。どれほどの傷かは分からないが、何もしないよりはましなはずだ」
「ありがとうございます。とても、助かります」
アイリスは深く頭を下げた。仕事中とはいえ、困っている人がいたら手を差し伸べる。それが魔法警団だ。アスターは当然だと言わんばかりに首を横に振って、失礼する、と店の奥に足を向けた。
アスターの瞳は、少年の様子に深い悲しみをたたえた。顔中に傷を作り、眉をひそめて眠りにつく少年の目元には、涙の跡が見える。アスターは一瞬、彼が握っていた杖に視線を移したが、何を言うわけでもなく、その視線を元に戻した。
「ヒール」
アスターは胸元から取り出した杖を少年に向けると、静かな声で呪文を唱えた。杖からはあたたかな光があふれ、少年の体を包み込む。アイリスが施したものとは比にならないくらい濃い魔力があたりに立ち込める。少年の体はまるで自ら発光しているのではないか、と錯覚するほど眩く輝いていた。さすがは魔法警団としか言いようがない。治癒魔法はあまり得意でない、とアスターは言うが、それでも常人のそれとは一線を画していた。
少年の顔や体についた傷はたちまちその姿を消し、その寝顔は柔らかなものへと変わっていった。浅かった呼吸は安らかな寝息に変わり、少年の整った顔には涙の跡だけが残る。
「これで、大丈夫だろう。だが……」
「……心の傷は、魔法では癒せない」
アイリスは悔しそうに唇を噛んでうつむいた。
「あぁ、そうだ。悔しいものだが……」
アスターはぐっと拳を握り締めた。しばらく少年の心のケアが必要だ、とアスターは言う。アイリスがうなずくと、アイリスの頭を再びくしゃくしゃと撫でた。
「だが、アイリス。君がすべてを背負う必要はない。困ったことがあったら、連絡してくれ。何か力になれることはあるだろう」
アスターはぎこちなく笑みを浮かべると、少し名残惜しそうにアイリスの柔らかな髪から手を下ろした。
「今から、あの村へ行く。杖をいくつか売ってくれ。そのためにここへ来た」
アスターは自らが出来ることは終わった、と店の方へと足を向ける。アイリスは優しく少年の頭をなでた後、アスターの後を追った。