希望
長い夢から、少年は空腹に目を覚ます。昨日から何も食べていない。その上、体力を消耗し、野宿をしたともなれば、体が悲鳴をあげるのも当然。危機的状況を脱し、気が抜けたせいかもしれなかった。気持ちが冷静になるほど、体は痛みや疲れを訴える。
「せめて……水を……」
少年は昨夜背もたれにしていた木の幹に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。まだ、昨日の出来事が夢のようだ。現実離れした出来事を、脳が受け止め切れていない。いや、正しくは、彼が目を背けていただけだった。一晩では、時も解決してくれない。少年はヨロヨロと足を動かし、杖を握り締めて、また一歩、もう一歩、と足を進めるのであった。
生きなければ――。
少年は、両親の言葉を何度も頭の中で反芻し、ただ強くそう思う。
ぼんやりとする頭で体を引きずりながら、彼は森の中をさまよう。混碧の外に出ることは出来たようだが、どの程度離れた場所なのかは分からない。村を超えたところにある森だと思うが、それも定かではなかった。何せ、方角も分からぬままに逃げ続けたのだ。途中で何度も進路を変更せざるを得なかったし、当てがあるわけでもなかった。このまま歩き続けて、水や食料にありつけるのかどうかさえ分からない。唯一の救いは、空気がひんやりとしていて新鮮なことくらいだが、それでは少年の体を癒すことは出来ない。時折、目の前がチカチカと明滅し、彼はそのたびに歩みを止めた。幸いにも木々が生い茂っていて、体を預けるには十分だった。
あの時、両親と一緒に死んでしまいたかった。いや、このまま生きることをあきらめてこの森で死んでしまおうか。そんな気持ちが少年を蝕む。
しかし、それを両親の幻影が許さないのだ。死の衝動に駆られるたび、頭に響く声が。
しばらくそんなことを繰り返し、何時間が過ぎただろうか。少年の目の前に、小さな泉が姿を現した。湧き水だ。少年はそっと泉のフチに体を下ろし、震える手でその水をすくいとった。冷たい。しかし、手の震えのせいですくった水は指の隙間からこぼれてしまう。彼はもう一度ゆっくりと泉に手を差し込むと、今度は間髪入れずにその手に顔を近づけた。ズッと水を吸い込むようにして口の中へ入れる。うまい。もう一杯、もう一杯、とそれを繰り返し、体中の渇きを満たした。
不思議なものだ。一時は死んでしまいたいとまで思っていたのに、こうして水を口にする。生きる希望にすがりついてしまう。
まだ、死にたくない。両親を弔うことすらできていないのだ。このまま死んでたまるか。
少年の心にはゆっくりと、そんな気持ちが広がっていく。
水を飲んだことで、少年の体は久方ぶりに生気を取り戻した。まだ、歩ける。とにかく人の気配がする方へ行かなければ。一体その方向がどちらなのか、少年には分からない。だが、このままここにいても餓死するだけだ。それだけはまっぴらごめんだった。できる限り森の開けている方へ。木々の間隔が広い方へ。太陽の向きを確認し、方角を確認しながら進む。
どうか、神様……。いや、誰でもいい。どんな場所だって村に比べればましだ。どうせ帰る場所もない。
少年は杖を抱え、三日三晩、ほとんど眠る暇も惜しんで、森の中を歩き続けたのだった。
◇◇◇
木々の奥に一本の道が続いているのが、少年の瞳に映った。森と並走するように舗装された土の道だが、人工的に作られたものだ。数日ぶりの人の気配。少年はもつれる足を何とか懸命に動かし、その道へと向かって走り出した。
土の上にはまだ新しい轍があり、荷馬車か何かがつい最近ここを通ったようだった。人の足跡もいくつか見受けられる。
少年はその場にへたり込んだ。待ち望んでいた瞬間だった。緊張の糸が切れ、力が抜ける。彼はただひたすらに、その人の気配を愛おしく思い、しばらくはその感動をかみしめた。やがて、再びゆっくりと立ち上がると、轍を頼りに足を踏み出す。道に残ったいくつかの手がかりを見落とさないように、その後を追った。おぼつかない足取りで、ゆっくり、ゆっくりと。
少年を支えているのは、もはや気力だけだった。森の中でほとんど飲まず食わずだったのだ。いつ倒れてもおかしくはなかった。それでも、倒れるわけにはいかなかった。両親の残した『形見の杖』と共に、生き続ける。今となっては、それだけが、両親に出来る唯一の恩返しだった。
道を歩いて、数時間が経った頃。あたりは夕暮れに染まり、木々は柔らかな橙を反射させていた。
少年は、目の前の光景に足を止める。数メートルほど先。美しい緑色の屋根が夕日に照らされ、輝いている。彼は目を見開いた。自らの歩いてきた道が間違いでなかったことに安堵する。ずいぶんと昔から建っているようだが、しっかりとした造りで、玄関先には色とりどりの花が咲いていた。手入れも行き届いている。人が住んでいることは間違いなさそうだった。
「ついに……見つけ、た……」
少年は、途切れとぎれに声を発する。長い道のりだった。村も、家族も失い、体力も底をついている。『形見の杖』を握り締めるのが精いっぱいで、それ以上はもう何もない。少年の視界はじわりと闇に侵食されていく。体は言うことを聞かず、ゆっくりと地面に吸い寄せられていく。
「あと、す……こし、なの……に」
少年は自らに言い聞かせるように、強引に声を発したが、体は動かなかった。
さきほどまで朱に染まっていたはずの空は、いつの間にか深い紺色を纏っている。少年の瞳もそれに引きずられるように、暗くぼんやりと光を失っていった。彼の体は、ドサリと音を立て、土の上に落ちた。
土埃が舞い、風がそれを運び去る。ゆっくりと闇があたりを包み込み、夜が訪れる。
どれほど時間が流れたのだろう……。
少年は、あたたかな感触に包まれた。心地良く、ほんのりと花のような良い香りがする。目を開けることすらできず、ただ、さざ波のように優しく揺れる振動を感じていた。




