逃亡
村のあちらこちらから黒煙が上がっていた。
煤で真っ黒になった顔を拭いもせず、少年は杖を胸に抱え、轟々と燃え盛る家の間を走り抜ける。足元にはパチパチと音を立てて爆ぜる木片や、崩れたレンガ、粉々になり炎に反射して輝くガラス。少年が過ごした記憶の一部が、そこかしこに形を変えて散らばっていた。
「あなただけは、逃げて……生きて……」
少年の背を押すように、優しい母の声が耳の奥にこだまする。
彼は走る。足がもつれ、石につまずき、爆風に体を吹き飛ばされようと。走る。
「生きろ……ローレル……」
いつもの力強い父の、かすれた声。
父の声を背に、ただひたすらに前へ。どこでもいい。ここから生きて逃げられるなら。
――どれほどそうして走ったのだろうか。
気づけば少年の周囲からは、音が消えていた。耳にこびりついて離れない爆発音も、人々のうめき苦しむ声も、もはや幻想にすぎない。無我夢中で走ったせいか、どこかの森の一端にまで来ていたらしい。
木々の隙間からは煌々と月の光が零れ落ちている。焼けた木々の匂いもせず、血の匂いも、大量の魔力が混ざった空気の、あの独特なにおいもしない。森林の穏やかな緑の香りが鼻を抜けるだけだ。
少年はようやく立ち止まり、大きな木の下で腰を下ろした。
「僕は……助かったのか……」
彼は胸に抱いた杖を強く握りしめる。村の方へ視線をやることは出来なかった。ただ、千切れた洋服の裾を見つめ、ぼんやりとその切れ端が風に揺れる様子を見つめていた。
「僕だけが……」
その声は、かすれてざらついていた。風で揺れる枝葉の音にかき消され、言葉にしたはずの思いは、空気に混ざって溶けていく。やがて、慟哭は、ただ頬を伝う涙に変わり、次第に瞼も閉じられる。
夜の月明かりが、一層静けさを際立たせていた。
――少年は、夢を見た。