8匹目 共闘
「──とうとうあの“炎蛇”の奴が現れたのかい」
暗い暗い部屋の中。その女は不意に語った。しかし返答は無い。だがこれはいつものことなので、女は続ける。
「あの“蛇”の血族は昔っから男を誑かしてばかり……産まれる子が不憫だよ。その娘も同じことを仕出かすんだがねぇ」
皮肉を言おうと相変わらず返事は無い。虚空に言葉を放つのも慣れっこなので、女にとってはこれが普通なのである。
「そうは言ってもあの血族にはそれが赦される程の美貌がある。妾が『撰ぶ』女も厳選に厳選を重ねた末に見つける時代の最高傑作の身体を持ってるんだが……それでも敵わない。最近は見に行ってないから、久々に、見に行ってやろうかい」
「…………余計なことはするな、“オロチ”」
漸く、女が一向に話し掛け続けていた男が口を開いた。
「あら? 何だい? 妾が『あの子』の邪魔するって言いたいのかい? そんなら心配要らないよ。密偵なら、妾の方が何倍も上手いよ」
「そうではない。一度に2匹も顔を出す必要が無いと言っている」
荘厳な態度でそう返す。女は頬を膨らませ、
「そうかい」
とそれまでに比べひどく短い言葉だけで返した。さりとてその腹中では、舌を出していた。
彼女はいつだって抜け出せるのだから──。
──いつもと同じ、朝の時間が流れていた。番いの鳥が空を駆け、黒いバッグを抱えて会社員は走り、色とりどりのランドセルを背負った小学生たちが口々に昨日あったことを話し、主婦たちが家事をこなす、いつも通りの朝が。
但し、たった3人のいる、ごく狭い場所を除いて、だが。
「俺はお前達を『殺す』ことが目的ではない。飽くまで目的は『捕獲』。それが上手く出来るか、正直案じていた所だったんだ。幸い、上手くいってくれたようだが」
淡々とそう話す男。腹部に傷を負っているが、大した負傷ではない。
「更にそれ以上の幸福があったようだ……まさか“水蛇”を先に仕留める事が出来るとは思っても見なかったぞ。
“炎蛇”……お前に比べ、奴の方が強いと聞いていたからな。闘いが幾らか楽になった」
「……楽、ですか」
男の言葉に反応する。間合いを詰める刀使が如く、一歩一歩、男との距離を縮めながら女──飛良 亜巳は、昨日抱いたものと同等、或いはそれ以上の怒りを、その胸に内包させていた。
「それを判断するには、随分情報量が足りないのではないですか? 貴方と私は、まだ会ってからほんの数分程度しか時間が経過しておりませんわよ?」
「数分。判断するには十分すぎる時間だ。その証拠に、お前はもう既に俺の能力を見抜いているのではないか?」
間違っていなかった。と言うよりも、その能力は実に単純であった。
「……身体のあらゆる箇所から、白蛇を生み出す能力……数に限りは無い」
「ご名答」
勝負で優位に立ったと考えたからか、男の仕草に僅かに余裕が見られるようになった。然し隙が出来た訳ではない。亜巳は必死にそれを探しているが、針の穴ほどの細かな隙すら垣間見えない。
「だがお前は肝心な所を見抜こうとしていない。それは『弱点』だ。敵……即ち俺の『弱点』を見抜く。それができなければ、お前は何をしたって勝てないだろうな」
男はそう語り、此方の準備はできているとばかりに両手を広げ立っている。
「……なら私からも、ひとこと言わせて頂きますわ。貴方こそ……」
その気の緩みぶりを見た彼女は、一定リズムで重ねていた歩みを止め、紅く光る眼を見開いた。
「私の『能力』、解っておられませんわよ」
刹那、男の胸から火が生まれ、瞬く間に全身に燃え広がった。白いパーカーに身を包んでいた彼は黒い影に変わり、そして悲痛な叫びをあげた。
「あ゛っッ、っ゛あ゛ぁあぁぁっぁぎぃぃぃぃぃいぃぃぃぃッッ――――――!?」
声にならぬ声。燃え盛る炎の音にすら勝る声量で叫ぶ男の姿を見ても、亜巳は油断しなかった。たとえ瀕死状態に彼を追いやることができても、再び燃やす。それほどの気でいた。
「『目で見た物体を燃やすことができる』……。恐らくそこまでは仮定できていたのでしょうが、”英気”を纏っていれば平気だとお考えだったのではございませんか? 『”英気”の炎には”英気”の盾』、そうお考えだったのではございませんか?
だとしたら飛んだ見当違いでしたわね。私の『念燃焼』は」
全身を焼かれる激痛に苦しむ男に向かって、きっと聞いていないだろう、そう考えた上で言い放った。
「全てを燃やすのです!」
勝利を高らかに宣言するように彼女は吼えたが、先の状態のまま油断は僅かたりともしていなかった。まだ残っている二つの炎を放つ準備はできていた。
が、次の瞬間彼女は思い知る。『隙』は必ずしも、皮算用で生まれる尚早な勝利の確信のみが作り出すのではなく、
不測の事態に手を打てない経験の無さからも生まれることを。
「うぐぁぁぁっ………………ふぅ……」
突如、男の叫び声が止んだ。宛ら不満を訴え続けて泣き疲れた赤子のように溜息まで吐いている。だが炎は未だごうごうとその場で燃えているし、彼は依然その中に居る。視覚に訴えかけてくる矛盾した情報が、亜巳を混乱させた。
「存外、叫び続けるというのも疲れるものだな。何も考えず無心でいられる分、容易で気楽かと思っていたんだが」
今度は淡々と語り始めたではないか。それのみか、痛みに苛まれ苦悶の中にあるはずの彼の顔に、笑みが浮かんでいる。
亜巳の中にあった『混乱』が、『戦慄』に姿を変えていく。
「能力のことを解っていない、か……負けじと返したその心意気は認めるが、解っていないのはやはりお前だ。
その証拠にお前は、俺が何故こうして彼此と話していられるのか、憶測すら出来ていない。そう顔に書いてある」
炎の威力が徐々に弱り、その間から男の顔や服が見える。その中で、亜巳は見た。
男を包んでいた薄い膜のようなモノを脱ぎ去り、何事も無かったように、無傷の彼が現れるのを。炎は膜だけを燃やしていて、言わば『本体』である男の身体には一切火は回っていなかった。
「『脱皮』だよ。何も俺は攻撃を成す為の『飛び道具』のように蛇を生み出すだけではない……。俺自身を蛇に変えて身を守ることだって可能なのだ」
戦慄は少し治まったものの未だ動けずにいる亜巳に説く男。
「“始蛇”は素晴らしい能力を与えて下さったものだ……。一見、弱々しいものに思える能力にも無限の可能性がある。俺は感謝しているよ……」
先祖を想う人のように天を仰ぎ、そして、亜巳の方に向き直る。
「ああそうだった、急ぎだったのだ。つい酔いしれて油を売ってしまっていた」
休戦時間の終わりを告げる鐘が響くように、男の身体から三度、無数の白蛇が生まれ、亜巳に向かって一目散に伸びる。
蛇を燃やしても代わりが再生し、本体を燃やしても皮によって通用しなくなる。手の打ちようがない。自身の敗北を、亜巳は早くも悟った。そしてそれを捨てることは出来ずにいた。
彼女が来るまでは──。
「──戦いは終わってない! 亜巳!」
自分の名前が呼ばれたのが聞こえ、はっと我に返る。敗北を認め閉じていた瞼をそっと開くと、
中院 永香の背中が、そこにあった。彼女の小さかったはずのその背中は精悍に見え、亜巳が、傍らにあった塀の下に寄せかけたことの記憶などは跡形もなく消え去った。
「亜巳の……ハァ……ハァ……力が要る……! わたしだけじゃ……ハァ……倒せないっ!」
息が荒い。間違いなく、あのダメージの影響は存在している。それでもそうして立っていられるのはどうしてなのか、今の亜巳には理解が及ばなかった。
しかし彼女も、ただ立ち尽くすだけの案山子のような人間ではなかった。
「……二度も命を救われるとは……思いもしませんでしたわ……! そのようなことをして頂いたのにお返しのひとつも無いようでは、」
彼女は眼前に立っていた永香の横に並び、
勇ましく構えた。
「母から受け継いだ“炎蛇”の名に瑕がつくというもの、ですわ!」
失いかけていた闘志が、再びその火を燃やし始める。その高まる熱に呼応するように、傷負いの永香もまた、しっかりとその脚を地につける。
「……諦めの悪い。……俺に捕らえられる、それだけの楽なことだというのに」
失笑する男。面倒、というものがこの世で最も嫌いな彼の戦意はこの瞬間、なかなか解放してくれない亜巳達への厭悪に変貌した。
「兎に角、あの男を倒す方法を……何か勝算は御座いまして?」
戦闘を早急に終結させたいのは亜巳達もまた同様であった。特に永香の身に残る傷は只事でない段階にある。而してその永香には、
「……ない」
勝機は見えていなかった。
笑いをとる笑劇師のように倒けそうになったが、生憎そんな和やかな時間は用意できない。亜巳は気を取り直し、構えた。
「……私が近接戦闘を仕掛けに行きます故、中院さんは後方から援護をお願い出来ますか? 特に、あの厄介な蛇たちの処理を」
「近づくなんて……あぶないよ」
永香は引き止めるが、亜巳とて無謀に突っ込むだけの猪ではなかった。
「御安心を。これでも少しは体術も学んでおりますわ。それに、『脱皮』という能力のせいで私の炎が通じない以上、直接殴打でしか倒せない……。中院さんは隙を見計らって、その水の刃で彼を穿いて下さい。それが決定打になるはず」
「作戦会議は済んだか」
済んでいないのを承知で、男が煽り立てる。
ほんの1秒後、その行動を後悔することも知らずに。
半端ではあるがこれ以上話し続けることも出来ない2人は、作戦遂行に当たる。
まず亜巳が、男に白蛇を出させる暇も与えない速度で距離を詰め、“英気”で包んだ拳で接近戦に持ち込む。男も白蛇で防ごうとするが、距離が距離である。拳の勢いをやや抑えることは出来ても、白蛇諸共、その身にダメージが蓄積されていく。
何度か使った手である事を知りながらも、前方に意識を奪われている亜巳の後方に白蛇を用意しようとするが、水勢を強めることによって刃と化した水流に次々と斬り裂かれ、無に帰す。
男は思った。“ソラ”の与えてくれた情報は間違っているのではないか、と。彼曰く、2人が出会ったのは昨日のこと。まして“炎蛇”の方の女は、昨日まで他の“蛇”のことを知らなかったと言っていた。
それならば、こんな相性の良い共闘成立が可能な筈がない。先程まで苦戦を強いられていたとはまるで思えない完成ぶりだ。
兎に角先ずはこの女を自分から引き剥がさなければ勝ち目は無い。そう考えた男はいよいよ、白蛇に頼らず己の両手で亜巳の拳を食い止め、連撃を阻止した。欲を張り追撃も試みたが、そこは亜巳の予期範囲内だったようで、軽々と躱されてしまった。
「中途半端な作戦で、少々手荒くなってしまったことをお詫び致しますわ。私としたことが、少し躍起になってしまいました」
攻撃を一時中断した亜巳が、謝罪の意志皆無であることを露わにしながらそう告げる。だがその態度は、確証のない勝利に酔いしれたからではない。
対して男は挑発にこそ乗らなかったものの、この戦況のまま戦闘を継続に持ち込んでも勝算は見込めないことを悟った。2対1という不公平な人数関係からして、持久戦に持ち込んだとて体力勝負で負けになるだろう。
それを避ける為にもこの瞬間、決着に展開を進める必要がある。彼はそれを察知し、亜巳の言葉に返すことなく、
今までの白蛇達を集結させたような巨体の白蛇を、その細く縦に長い身の真中から生み出した。
「ウオオオォッ!!」
痛みに耐える為の咆哮。或いは、2人を威嚇するが為の咆哮。
その咆哮を聞き入れることなく、代わりに2人は身体をうねらせながらその巨躯を現した大蛇に圧倒されていた。それまでの小さな傷を幾つも負わせ殺すのが目的の白蛇とは比べ物にならない──というより異質な恐怖。
だがそのままではただ喰われて終い。そうなる前に、まず考えず攻撃を仕掛ける。
「『念燃焼』ッ!」
狙いは1つ。その分“英気”の炎の数も少なくて済むのだが、生存に無我夢中な亜巳は制限数の事など眼中に入れず、3つの炎を一点に投じた。
が、大蛇にとっては所詮、前方に現れただけの『実体の無い壁』に過ぎなかった。そんなものなど無かったと言わんばかりに容易に炎の中をくぐり抜け、依然進行を止めない。
だが逆に、その呆気なさが亜巳を諦めさせた。空しい攻撃を続け餌食となるよりも、一旦退いて僅かでも長く生存し勝利への糸口を見出すことの方が大事だと判らせた。
考えに基づき、亜巳は永香を伴って後ろに退いた。勿論大蛇は彼女たちに作戦を熟考する時間こそ与えてくれないが、結果、生き延びることにはなってしまった。
ただこの行動が、亜巳たちにとって嬉しい誤算を生む。
特に計測することも無く、彼女らが感覚的に『この距離なら一瞬でも安全になれる』と察知した距離──数にして8メートル半。
この距離が、白蛇の大口が届かない、瀬戸際だったのだ。
限界まで伸びた末にピンと張った糸のように、少しの歪みもなくまっすぐな蛇の巨躯。その先では、2人を喰らってやろうと、バクバクと空気を喰らう蛇の頭があった。
「ちっ……!」
男は激しく舌を打った。己の限界を量れぬ程、彼も愚かではなかった。
彼の能力──『無限の脅威』は、“英気”で蛇を創造しその身体の一部から放出する。数や大きさに際限は無いが、その値が高くなるにつれ、必要となる“英気”の量も増す。また攻撃の届き得る範囲も徐々に狭まる。
そして何より多く奪われるのは、“英気”と体力である。その底が、今の彼には見えていた。
山を滑り降りてきた巨石のように降りかかる疲労。身体がビクとも反応しない。支えきれなくなった脚が悲鳴を上げて、立てなくなった末に跪き、手を地につけてしまう。
その姿はまるで、敗北を喫し、敵に対して服従を誓った戦士。
「……永香さん」
亜巳が蛇を前にして、友に依頼する。その友は、空気中に『気体』となって浮かぶ水分をかき集め、『液体』へと『凝縮』した。更に、その水流を調節した後、温度を低下させ、刃の形をした氷──『固体』へと『凝固』させた。
そうしてそれは、未だ挫折せず食そうとしている蛇の顎を穿いた。痛みに耐えきれず、けたたましい悲鳴を上げたかと思えば、“英気”で創造された白蛇は砂塵のように散り、消滅した。
こうして男の武器は無くなった。新たに白蛇を生み出す”英気”も力も残っていない。
任務を、果たせない。その所為で、
『彼女』を、救えない──。
「貴方の命を奪うことはしませんが、此処で一旦、貴方を別の場所に連れて行かせて頂きますが……よろしいですよね」
選択の自由を与えているような言葉の羅列だが、実質許されている選択肢は言わずもがな1つだけ。
「……ああ」
彼は渋々ながらにそう答えた。
亜巳の『美魅体』に意識を奪われるまで、彼はただ1人のことを想い続けた──。