2匹目 炎蛇
自らの正体を暴かれた亜巳。彼女の執る『決断』は──。
「──ねぇ、亜巳」
「……? なあに? おかあさま」
「これから私ね……とっても遠い所に行くの。遠い遠い、もしかすると、もう帰ってこられないかもしれない場所に」
「……? どうして? 何しにいくの?」
「何しに行くかは、まだ決めてないの。けど、そこに行かなくちゃいけないの。
……だからね、今から亜巳に『おまじない』をかけるわ。亜巳がいつでも、『おでんわ』をかけることが出来る『おまじない』」
「『おでんわ』していいの!?」
「うん、いいよ。嬉しい事があった時、困った時、一人ぼっちで寂しい時だって、いつでもかけていいよ」
「よかった、これでいつでもはなせるね!」
「じゃあ『おまじない』かけるから、手を出して」
「はい」
「ありがとう」
病床に就いたまま、彼女は娘の手を握った──。
「──どうして……永香さん、貴女がその言葉を……!?」
『炎蛇』。
中院 永香が突然発したその言葉に、亜巳は驚きを隠せずにいた。
何故ならそれは、通常生きているだけでは知り得もしない、加えて、そんなものは想像上の生き物であるとされている物の名前を、
この女──飛良 亜巳に向けて、お前の正体だと自信満々に言ったからである。
「あなたのその力……『みんなを見惚れさせる』力。単純に美しいのもあるけど……それだけじゃない。ラミアにしかない能力が働いている」
永香は説明をつらつらとしながら、一歩一歩亜巳に近づいてくる。
「私は、
その影響を受けない……」
そして、ある程度の距離を取ったところで立ち止まり、
その身体から『何か』を発生させた。空気のような、ガスのような、温度のない『何か』を。
その『何か』の正体を、亜巳は知っていた。
「『それ』を使える人はいると聞いていましたけど……まさかこんな所で出会えるとは思いもしませんでしたわ。この運命的な『出会い』に、もっと感動していたいところですけれど……」
そして亜巳もまた、それを身体から放出させた。
「父との『約束』がありますので……!」
その気体のような何かは、亜巳が気合いを入れると、
急激に熱を帯び、やがて、青く光った。
「『念燃焼』!」
彼女は吠えた。その途端、永香が手をついていた机が、激しく燃え盛り始めたではないか。
赤ではなく、青い炎。それは即ち、高温であることを意味する。数字にして、摂氏凡そ800度ほどだ。
机はみるみるうちに灰へと変貌していく。
「『炎蛇』の力……! 炎を支配する力」
慌てて手を離しながら永香はそう呟いた。
「随分とご存じのようですね……!本か何かで、読まれたのですかっ」
亜巳が訊ねかけると同時、また別の机が燃え始める。永香は逃れるのに精一杯で、教室の外に出ざるを得なかった。
廊下には、彼女らだけでなく、他のクラスの生徒が和気あいあいと戯れていた。その和やかな雰囲気の中に、突如として戦闘状態の彼女たちが解き放たれ、もちろん廊下は騒然とし始める。
「違う……。私も、
”蛇”の一人だから……!」
「”蛇”?何を仰っているのか、判らないですわねっ!」
亜巳が叫び、窓枠が燃え始めた。今度は永香も逃れることができず、その右手に火が移ってしまった。その光景に、多くの女子生徒が悲鳴を上げる。しかし二人の耳には届かず、冷静を保ち続けていた。
「早く治療なさった方がよろしくてよ!そのままで居ると、やけどしても知りませんわよ!」
そう忠告しながら駆け出す亜巳。その向かう先は無論、永香のもとだ。直接殴打による戦闘に持ち込まなければならないのだ。
一方の永香は、亜巳の言うとおり、手を燃やし続けている炎を鎮火させなければ、戦闘もままならない。
そこで彼女がしたことは、傍らにある水道の蛇口をひねること、だった。
「何をしているのです? いま貴方の手を焼いている私の炎を、そんな少ない水で鎮められるとお思いですか!?」
亜巳の言葉に耳を貸さない永香だったが、その理由は次の瞬間に判明する。
捻られた蛇口から弱そうに流れていた水の量が急激に増大し、それに耐えきれなくなった水道管が、破裂した。自由を得た水はあちこちに飛散する。その水が亜巳の目を眩ませ、彼女の速攻を阻んだ。
「ちっ……!」
亜巳はたじろぎ、後ろに引き下がる。その様を見た永香は攻撃が来ないその隙に、
「みんな! 早く逃げて!」
と日頃なら出さない大声を発し、目の前で行われる超人戦闘に唖然として硬直している傍観者たちを逃がそうとした。
同時に、炎に侵略されつつある窓枠に、自由自在に操作できる水をかけた。勿論火は鎮まる。
「おい、お前達! 何してる!」
そこに、騒ぎを聞き付けてやって来た教師の吠え声が響いた。学校一厳しいと言われている男性教諭だ。
彼の姿を見た亜巳は、笑みを堪えきれなかった。
「こうも上手く事は回ってきてくれるものなのですね……中院さん。我ながら……これほどに幸運でいいのかと怯えてしまいますわ」
教師を他所につらつら話し出す亜巳を見て、永香は良い予感を持たなかった。
「貴女がいま、その窓枠の火を消してくれなかったら、私は次の火を発火させることができずにいたのに、貴女は他の皆様への影響を考えて鎮火した。その『水を操作できる能力』を用いて。……まあ、そうすることは当然といえば当然ですけれど」
これ以上何かをさせる訳にいかない、永香は思って腕を上にあげ始めた。しかし、
「動かないで!」
と亜巳に吠えられ、その行動を中断せざるを得なくなった。
「お前たち何をしていると訊いているんだ!」
彼女たち二人の間に走る緊張感を察知せず、と言うよりも教師としての本分の為に、戦いを止めに入る男。
その瞬間2人は互いに、戦況が大きく動くと感覚で察知した。そしてそれは、やはり的中するのだった。
──『第二の能力』、発動──!
亜巳はその男の眼をしかと見つめ、そう念じた。
するとあれだけ毅然とした態度で近づいてきていたはずの彼がいきなり足を止めて、亜巳ばかりをただぼうっと見るだけの、『人形』同然の力なき人間になってしまった。
そして亜巳は、その無心男の顔の前に翳すようにして手を伸ばした。
「貴女が動いたり、能力発動の素振りを少しでも見せれば、私は彼の顔に『炎』を灯しますわよ……!」
亜巳はこうすることで、考える為と身体を休める為と敵の動向を観察する為の時間を稼ぐつもりであった。無論、彼女とて彼を燃やしたいわけではないから。成績優秀な彼女には、鬼教師の異名を持つ彼も一目置いており、叱りつけたことなどないので、特段恨みもないのである。
それを敵──永香も感知したのか、間髪入れずにこう応えた。
「私は……! あなたと戦いたいんじゃない!」
「そう言われましても、『私』を知っている人間は全身全霊を込めて消す! そういう決まりですの!」
亜巳はこう言いながら、内心は酷く苦しんでいた。何故ならこの中院 永香という女に、悪意は感じなかったからだ。
けれど父と交わした約束は、裏切れない。
彼女がその身体に秘める能力は、誰にも知られてはいけない──。
「私だって……他人に知られてはいけない能力を持つ一人……!」
「でしたら!」
亜巳は永香を、そして、彼女に悪意を感じなかった自分が正しいかどうかを試す気持ちで、ある条件を投げかけた。
「貴女がいまこの場で! 実演をしながら能力を全て明かして下さるのなら!信頼に値すると看做しますわ!」
この中院 永香の言うことが正しいとして、彼女が同じ“蛇”だというのなら、自分と同じ、
他人に能力を明かすことは自死に匹敵するというリスクを背負っていて当然である。
ある『使命』の下に、ひっそりと、誰にも知られないまま生きていかなければならない自分たちが、誰彼構わずに能力を明かしてしまえば、世界の均衡が狂う、だから何人にもその力を明かしてはいけない。
そして明かしてしまったのなら、その者を『殺す』こと。
父と交わしたこの約束に従って、亜巳が考えたのがこの条件を提示することであった。
自死に値することを為す──それは即ち、話した相手に対しての敵意は無いということを表すと言って過言でない。
「彼を燃やす準備ならできている……! そう長くは待てませんことよ!」
解答を煽る亜巳。
それに対して永香の行ったことは、亜巳の予想の真逆を行った。
彼女は悩んだり、致し方なしといった素振りは全く見せずに、
依然壮絶な勢いで、爆ぜるように放出され続けている水を、その水流を操って、己の手元に浮かべた。
「『水宴』。水を『操れる』……。凍らせたり、逆に温度を上げて空気にすることも出来る……」
言いながら手元では、球体状に浮かぶ水を、氷にしたり、透明な気体、要は水蒸気にしたりしている。まさしく実演だ。
「他には?」
てっきり永香は、こちらを殺しにかかる勢いで突撃してくると思っていた亜巳は、それでも何か隠しているかも知れないと用心し、そう問うた。しかし永香はすぐに首を横に振った上でつけ加えた。
「いまできることは、これだけ……この力、3年前に使えるようになったばかりだから」
「…………」
拍子抜けした亜巳は、いよいよ言葉を失うしかなかった。
「他には無い?」
まだ手元で水を遊ばせている永香がついには尋ねてきた。これにはお手上げだと、亜巳は警戒を解いた。
「思い込みでしてしまったこの愚行、謝罪致しますわ」
能力を発動する準備として翳していた手を下ろし、深く頭を下げた亜巳。
「それで、お話したい件とは、何ですか……?」
「今此処じゃ話せない……。別の『場所』がある……着いてきて」
そう言って、永香は亜巳を誘った。
彼女たちの頭の中に、今は体育の授業の前だということは、まるで無かった──。