ある愛の果てに
プロローグ
人は生涯。幾人の人を愛するのだろう。また、そのうち何人と結ばれ、幸せになり、また、心ならず不幸になっていくのだろう。
私には、愛すべき妻がいる。そして二人の子供に恵まれた。幸せな結婚生活を送っている。
実は、それ以外にも愛した女性がいる。彼女との間には娘が、私の知らないところで生まれていた。
自己の名誉と彼女の名誉の為に最初に言っておくが、私達は巷で言う不倫関係というものではない。
家内と出会う前に、付き合い、そして別れた。
その彼女は、私と出逢って、幸せだったのだろうか。彼女との再会は、突然訪れ、そして、私たちの家族の生活を一変した。
娘の出現
「お父さん。」そう呼ばれて、何気なく振り向いた。そこには、白人の綺麗な女の子がはにかみながら立っていた。
「Is it me?」
思わず、英語で聞き返して苦笑してしまった。何故なら、彼女は日本語でしゃべったのに、私は、英語で聞き返した。我ながら違和感を覚えたからだ。
彼女もやや、笑いながら、
「貴方しか周りに居ないわよ、お父さん。」
確かに。日曜の朝の、この小さな神社には私と彼女しか居ない。
私は日曜の朝、この神社で散歩するのが日課になっていた。
「そうだね。でも、相手にいきなりお父さんと呼びかけるのは、正しい日本語ではないよ。」
彼女は少し困った顔をして、
「だって、お父さんは私のお父さんなんだもの。間違ってなんかいないわ。」
この子はきっと頭がおかしいのだろう、そう思い、話しかけた。
「悪いけれど、私には、君のような大きな娘はいないよ。娘はまだ二歳。それに日本人だよ。君はおそらく一八歳位・・・。」
「私は、頭がおかしい訳じゃないわ。私の名前はリンダ・アンダーソン。お母さんの名前はジェニファー・アンダーソン。」
全てを聞く必要は無かった。その名前に覚えがあった。しかし・・・。
「これが、お母さんの写真。そしてこれが母からの手紙。」
何かの間違いであって欲しいと思った。身に覚えがあった。私は、社会人になって、すぐに海外赴任を言い渡された。発展途上の国で、技術協力をする為に。
私は、新人だったので、仕事の経験を積むためとアシスタントとして赴任した。
その職場には、同じく、A国から、若くて綺麗な技術者がいた。それが、ジェニファー・アンダーソンだった。
私は、初めての海外生活と、パートナーと性格が合わずに苦しんでいたが、そんな時に助けてくれたのが、ジェニファーだった。彼女は、みんなの憧れだったが、いつしか、私の恋人という位置にいた。
彼女のお陰で、辛い海外赴任もいつしか、楽しいものになっていた。
半年を迎える頃。悲しみは突然やって来た。
彼女が、国に帰ることになった。そして、私にも帰国命令が。
彼女のお父さんが、彼女の会社の社長だったと知ったのは、私が帰国した後だった。私と彼女の仲が、彼女のお父さんの耳に入り、呼び戻されたのだ。
私は、彼女に結婚を申し込んでいたが、良い返事を貰えていなかった。帰国後何度か、彼女に手紙を出したが、返事は返ってこなかった。今のように電子メールという手段はなかったし、携帯電話なんて無かった。時代だ。手紙だけが頼りだった。一度、A国まで意を決して行ったことがあったが、彼女の家のガードマンに追い払われた。二度とジェニファーに会うことはなかった。
私のなかでは若い頃の甘くて切ない思いでとして生きつづけ、過去の事として整理するにはかなりの時間が必要だった。
手紙には、
「お元気だった、健司。手紙をくれていたそうね。そのことは、つい最近まで知らなかった。お父さんが貴方からの手紙を全て私に渡さないようにしていたの。リンダは貴方との間に出来た子供よ。日本で勉強がしたいというので、留学させたの。日本で力になっていただげたら嬉しいわ。リンダには貴方とのことは全て話しているの。お父さんは、三年前に亡くなった。その時に手紙の事を話してくれた。捨てずにおいてあった手紙も見せて貰ったわ。何時か、貴方にあって詫びたい。そう言って父は亡くなった。」
手紙には別れてからの事とリンダのことが書いてあったが、既に私の頭はホワイトアウトしていた。
家内になんて話せば良いのだろうか。
秘密にするには、大きく重たい話だった。何を聞けばいいというのだ。突然現れた娘に。
ふと、頭によぎる思い。本当に私の娘なのか?しかし、それは余りにも不誠実だ。彼女の目的は?
「今何処に住んでるの。」
何か話そうとしてそう聞いた
「学校の近くに学生向けのマンションを借りてるの。」
「そう。何か困ってるのかな?」
なんとも間抜けな質問だ。
「お父さん。ごめんなさい。困らせるわけでも、何かを頼みたいわけでもないの。母が、生涯一人と決めたお父さんに、一目合いたくて。」
なんとも嬉しい話だが・・・・。生涯一人とは、どういうことだ。
「まさか、ジェニファーは、君のお母さんは、結婚はしなかったのか?」
搾り出す質問。
「そう。縁談はいくつかあったけれど、結局しなかった。お父さん以外は嫌だったそうよ。それに、無理やり別れさせられた事に対して、御爺さんに仕返しをしたかったんだって。」
なんて事だ。
「しかし、私は、結婚してしまった。」
「それは仕方ない。お母さんもお父さんを責めたりしない。」
風が頬をかすめる。ふと、頬が濡れていることに気づく。
「リンダ。少し時間をくれないか。今夜もう一度ゆっくりと会おう。何か美味しい物でも食べに行こうか。」
とりあえず私は、頭を整理したかった。
「リンダの言いたい事を、冷静な頭で聞いて考えたいんだ。理解してくれるよね。」
「解ったわ。」
「じゃあ、夕方六時に、駅前の、バスロータリーで待っているから。」
告白
一人になると、家内の顔が目に浮かぶ。しかし、逃げるわけに行かない現実がそこにある。どう切り出し出すべきなのか。
「美紀、おれな隠し子がいてたんだ。凄いだろ。」
なんておどけて言えるものでもないし。
「すまない。隠し子が現れたんだ。俺と別れてくれ。」
これでは、飛躍しすぎだ。黙っていて済むような問題でもない。そんなことを考えてふらふらと家に帰った。まるで宙に浮いているような感覚だ。
ドアの前で深呼吸を無意識に行う。
「あなたどうしたの?」
「うわっ!」
家内に声をかけられて、飛び上がりそうになる。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ?何か隠してるの?」
笑いながら家内が言う。
「・・・・・・。」
やはり、言いづらい。時間を延ばしても、結果は好転しない。それは解っている。
「はっ話がある。」
やっとのことで、そう言った。もう後には戻れない。
「あなた、どうしたの?声をひっくり返して。」
リビングで家内と向かい合う。さっきまでの勇気がしぼんでいく。どう切り出せば良いのか。
「あなた、お茶でも飲む?なんの話か知らないけれど、落ち着くと思うわ。」
「ありがとう。」
お茶を一息飲む。
妻に優しくされると更に、勇気が薄れていく。
「あのな。実は・・・」
探るように話しかける。次が続かない。
しかし、これ以上の優柔不断は、自分自身が許せない。
「何よ。隠し子が出てきたわけでも有るまいし。」
私は飲みかけのお茶を思わず、吹き出すところだった。
「お前を騙すつもりはないし、隠し立てするつもりもなかった。」
やっとの思いで、事について少しずつ話し出す。
「俺には娘がいたんだ。」
「何言ってるの。当たり前じゃない早紀が居るじゃない。」
「いや、そうじゃなくて、さっきお前が言っていた、隠し子なんだ。お前との間の子ではなく、別の女性との間にいたんだ。」
言ってしまった。これで全てが終わるかも知れない。
「なに?それ・・・詳しく話してくれるのよね。」
美紀の顔が引き攣っている。
「あぁ。そのつもりだ。」
「俺が、I国に行っていた話は知ってるよね。」
何処から話して言いか解らないが、少しずつ話し始める。
「貴方が、新人の頃の話でしょ。」
「そうだ。その時に、俺と同じ様に、A国から出張してきていた女性が居た。その女性と恋に落ちたんだ。」
「その噂は、知っていたわ。外国で、仕事も出来ないのに、恋人だけはしっかり作っていたって。」
この言葉に、美紀の怒りを感じる。
「そういう噂が、流されていたの知っていたよ。」
「でも事実なんでしょ。」
守島が流していたのだろう。まぁ当たらずとも遠からずなんだが。
「いま、総務に行ってる守島部長と一緒だったんだが、虐められてね。その時、慰めてくれたのが、彼女だったんだ。そして、いつしか、恋に。」
「それで、その貴方の娘というのは、その女性との間に出来た子供だというの?」
「あぁ。そうだ。年齢も一致する。」
家内の顔をまともに見られない。しかし、それでも意気地を出して、家内の顔を見て返事をする。
「どうして、その話を今頃するわけ?黙り通すつもりは無かったの?」
美紀の声が幾分震えている。
「俺も今日知ったばかりなんだ。子供がいたって。その娘が、今日、俺に会いに来たんだ。そして初めて。俺自身も知った。」
なんですって?」
家内の声が完全に震えだしている。
「どうするつもりなの?」
「・・・・・」
「黙っていては分からないわ。それに、いくら若かったとはいえ、どうして避妊はしなかったの?」
なんて、直接的な批判を・・・。
「避妊はしてたさ。だけど、一度だけ、彼女が安全な日だからと言って。」
我ながら具体的な回答したものだ。既に、二人とも冷静とは言い難かった。
「いいわ。で、でも、お互い、遊びだったのでしょ。結婚する気がその時無かったのでしょ。軽はずみじゃないの?」
批判口調で美紀は私を責めてきた。仕方がないと思う。どう答えるか。真実を全て言うしかない。
「俺は、結婚する気だった。だけど、彼女の父親に別れさせられたんだ。彼女の父親は、彼女の会社の社長で、財界の大物だったんだ。彼女と、俺との仲が分かるや、彼女を帰国させた。そして、俺も、帰国させられた。俺は、彼女に手紙を出していたが、父親によって、全て彼女の手には届かなかった。彼女を忘れるのに数年かかった。お前に出会わなければ、俺は、いまだに独身だっただろう。」
幾分か家内の表情から、険しさが消えてきている感じがする。
「彼女の父親の会社って?」
「ジェネラル・アンダーソン。」
家内の顔に驚きの表情が。
「あの、GAなの。」
「そうだよ。当然知っているよね?」
「当たり前じゃないの。協力会社じゃない。では、まさか貴方の娘ってまさか・・・リンダ・アンダーソンなの?」
今度はこっちが驚く番だ、何故、家内が、私の娘の名前を知ってるのだ?
「どうして、君が娘の名前まで知ってるんだ?」
「私の方が驚きよ。」
「どうして?」
「いい?GAは世界的な企業よ。電子分野に始まり、工業関係に、出版。情報分野でも成長しているわ。特に、凄いのが、数年前にポール社長が亡くなって、社長の娘だった、ジェニファー・アンダーソンが新しい社長に成ってからはね。」
何でこんなに詳しいのだ?
「才色兼備で、人格の評価も高い。だけど謎の娘がいるの。ジェニファーは独身だから、私生児と言うことになるのだけれど、その父親が誰かというのはかなりワイドショーなんかでも取り上げられたわ。おおかた、日本の俳優との子供じゃないのか?と言うのが一般的な話だったのだけれど、外国に一時行っていたから、その時に現地で恋に落ちていた、と言う話が、少しだけ流れた。だけどこちらはすぐに聞かれなくなった。まさか、相手が貴方だったなんて、本当に信じられない。」
俺にしてみれば、俺の昔の恋人のことと娘のことを、俺以上に知っている家内のことが、信じられない。
「話は戻るけれど、どうするつもり。本当に貴方の子供なの?」
「向こうがそう言ってるのだから、そうなんだろう。」
「DNA鑑定で調べないで良いの?」
「君には悪いが、そんな気はない。お父さんだと言ってきている、初対面の娘に、本当の娘か分からないから、DNA鑑定で決めさせてくれなんて、とても言えない。傷つく人間をこれ以上増やしたくない。」
家内の表情に笑みが漏れる。
「そうね。その答えを貰わなければ、離婚を考えたわ。」
声の震えも収まっている。
「じゃぁ許してくれるのか?」
「それと、これとは話が違うの。」
女って本当に複雑なんだから。
「だってそうでしょ。正直、貴方の隠し子のことで、早紀や誠にどういう影響が出てくるのか分からないのよ。」
確かにそうだ。その影響は計り知れない。
「私が思ったのは、貴方はやはり思いやりのある人だと言うこと。少なくとも、リンダさんにはね。そして、私にもかも。私に全てを、自分から話そうとしてくれている。貴方の誠実さを感じないわけにはいかないわよね。だけど、私は、混乱しているの。だってそうでしょ。貴方は、結婚してから、浮気はしなかった。女性の居るお店にも近づいた様子はない。凄く良い夫だったのよ。満足していたわ。その夫に隠し子が居たのよ。しかも、本人さえ知らなかった。私たちが知り合う前に生まれているのよ。これじゃ、怒りたくても怒れないし、暴れたいのに暴れられないじゃない。正直、お皿の一枚でも投げて割りたいわよ。だけどこれじゃ、生殺し状態。浮気で出来た子供だったら、貴方を責めることが出来たのに。でも、隠し子は隠し子なのよ。」
この美紀の一言はかなり効いた。そうなんだ。隠し子は隠し子。知らなかったではすませられない。
普通で行けば、もっと前に分かっていて、認知問題や、親権の問題、養育費の問題を抱えていたはず。それに、避妊をしなかったというのも美紀には認められないのだろう。
「悪いけれど、一人にしてくれる。流石の私も混乱している。」
「分かった。しばらく子供達を連れて、実家に帰ってくるか?」
「その必要はないわ。実家と言っても車で5分。いつも帰ってるしね。そうそう、今晩リンダさんに会うのでしょ。美味しい物食べさせるのよ。分かってると思うけれど、ファミリーレストランじゃダメよ。ちゃんとお店を今から探しておいたら。」
私の選んだ妻は、やはり自慢の妻だ。この状況でも、他人を思いやってる。しかし、どうなるのだろう。この先、認知問題が在るのだろうか。
親権は今更争えないし。養育費と言ったって、向こうは億万長者。しかも、リンダは既に一八歳。
今まで、会わさないで、この時期に急に会わせた。そこに何かの意図があるのだろうか。
ジェニファー・アンダーソン
リーン、リーン
美紀が自室に引き上げて間もなく電話が鳴った。
「もしもし。佐伯ですが。」
「ヘロー、ディス イズ ジェニファー。」
何と言うことか、電話の主は、ジェニファーだった。
「どうしましたか?佐伯さん。」
「どうかしましたじゃないよ。ジェニファー。」
意地悪そうに笑いながら彼女は言った。
「クスクス、かなり驚いてるみたいね。リンダにはもう会ったのでしょ。」
私は、殆ど、投げやりだった。
「あぁ。さっきね。立派に育ててくれてありがとう。」
「それは、私の仕事よ。奥様にもう話したの?」
「当たり前だろ。内緒に出来る話じゃないよ。お陰で、彼女は混乱しているよ。」
「やっぱり貴方らしいわね。何も変わっていない。もう少しずるく出来れば、楽なのに。その代わり私は、貴方を愛したりはしなかったけれど。」
「真っ正直すぎると言いたいのだろ?それしか取り柄がないから仕方が無いじゃないか。今更、生き方を変えても仕方がないし。」
「私ね、今日本にいるの。夜、食事でもしない。」
「あいにく先客が居るよ。リンダという、若くて綺麗な人と。」
「じゃぁ私もそこに合流するわ。奥様も連れてきたら?」
「頼むから、話を自分たちのペースで進めないでくれよ。」
一体どういうつもりなのだろう。幸せが音をたてて崩れていくような思いがした。
「4人が集まれるチャンスってそう無いでしょ。私と貴方が二人きりで会うと、私どうなるか分からなくてよ。クスクス」
悪戯っぽく笑うジェニファーに対抗するすべを私は持ち合わせていなかった。
「しかしだな・・・・」
「あなた、誰と電話で話してるの?」
美紀が、電話の会話に気がついて、近くまでやってきた。
「ジェニファーちょっと待ってて。」
私はしかめっ面をしながら、美紀に向かって電話の相手が誰かを教えた。
「ジェニファーだ。今日本に来てるから、今夜食事をお前も含めて一緒にしたいと。」
「私、行くわ。」
意外なほどキッパリと美紀が言い放った。
「本気か?」
「あなた達だけで会わすよりましよ。」
自分の知らないところで、物事が進んでいく。焦燥感に私はどうする事も出来ない。
ただ、昨日までの私たちではいられなくなる。そんな予感だけがしていた。
家内と二人で約束の時間に、約束のTホテルに出かけた。
流石に世界の金持ち。選ぶ場所が違う。
ロビーで待ち合わせと言っていたが、少し早かったのかまだ、誰もいなかった。
「いきなりセレブな感じね。貴方のお陰と言っていいのかな。」
美紀は皮肉交じりに、細かく私を攻撃する。好きにさせておくしかない。
「きついね。」
「当たり前よ。」
「佐伯健司さん。お久しぶりね。」
ジェニファーは、薄い黄色のドレスで現れた。
「やぁジェニファー。相変わらず美しいね。あれから二〇年近く経ったなんて信じられないよ。痛!」
美紀が私の腕をつねった。
「つねること無いだろう。只の挨拶じゃないか。」
「もう少し力を入れれば、良かったのかしら。」
「貴方の口のうまさも、相変わらずね。」
笑いながらジェニファー近づいてきた。
冗談抜きで本当に美しい。四三歳だから、年と言うほどでも無いのだが。世間で言う四三歳とは違うのは確かだ。
「紹介するよ。家内の美紀だ。美紀、彼女がジェニファー。」
「初めまして、ジェニファーさん。」
「初めまして、美紀さん。健司さんが選んだ人だけあってお美しいですわ。それにお若い。」
二人の視線の絡み合うのを見るのが恐ろしかった。
女のバトルが始まるのか、息をのむが、外見上は和やかな滑り出し。
確かに浮気相手との会見ではないから当たり前といえば当たり前。
そこへ、リンダがピンクのスーツ姿で近づいてきた。
「お父さん。来てくれたんだ。来てくれないのじゃないかなと思っていた。」
リンダは神経質そうに私に言った。
「どうして、そう思う?」
「だって、待ち合わせの場所が突然変わるし、お母さんも一緒だから。」
この娘はこの娘なりに不安を感じていたんだなと思い、不憫を感じる。
「それは、さっき言ったでしょ。私が、割り込んだからだって。」
「レストランは予約を入れてあるわ、美味しい物をまず食べましょう。話は落ち着いてした方がいいわ。」
「ちょっと待って、君みたいな有名人が、レストランでは不味いのでは?」
「大丈夫よ。個室を取ってあるから。」
流石にこの辺りは抜かりが無い。
「ワインはどうしようかしら?イタリアの赤で良い?貴方好きだったわよね。」
「それは君が俺に教えたのだろう!痛!」
「だからつねるなよ。」
「フフ。そうだったかしら。教えたのはそれだけじゃなかったけれどね。」
しばらく見ない間にジェニファーの小悪魔振りは酷くなっていた。
「おい。勘弁しろよ。娘も居てるんだぞ。それにそれぞれの事情もあるだろ。」
「御免なさい。」
その時美紀の顔が鬼のように変化しているのが横目でも確認できた。
「どうして、今頃、健司の前に現れたの?どうして、娘さんを彼に会わせたりしたの?
私たちには私たちの生活も事情もある。そちらがそちらの事情があったように。」
美紀はやはりいらだっていたようだ、単刀直入に切り込んだ。
「貴女は世界が認めるセレブだわ。今更、養育費だのなんだの事で、わざわざ現れたとは思えない。」
そして、まさしく直球勝負を仕掛けた。その方が話は早く進むが、私は身の置き場に困った。
「それについては謝るわ。事情も何も、意図するところもないの。これは事実よ。」
素直にジェニファーが謝る。めったに人に頭を下げることがないジェニファーが。
「では、なぜ。」
「私が会いたがったの。お父さんに。私にとって、お父さんは伝説の人なの。だから会いたかった。」
すでに、少し涙ぐみながら、リンダが答える。
「リンダの言うとおりなの。」
ワインが運ばれてきて、間があく。
「良いワインだわ。奥様はお酒のほうは大丈夫ですか。」
テイスティングの後に、美紀にジェニファーに誘いをかける。
「えぇ。いただくわ。」
その美紀の答えに私はたじろいだ。美紀はアルコールは全く飲めないはずなのだ。
「おい。一滴も飲めないだろう。君は。」
「私だって、ワインぐらい。飲めますよ。(多分)」
「確かに、娘が、父親と会えないのは不自然よ。では、何故子供が生まれた事を健司に知らせなかったの。」
針のむしろってこの事なんだろう。今更ながら女性問題の恐ろしさを感じる。
浮気なんてしたことのない私が、こんなことになるなんて。まさしく晴天の霹靂。
そして、ジェニファーが話し出した。
「私たちが別れなければならなかった本当の理由はね、守島さんが、私の父にした告げ口からなのよ。」
「どういうこと。」
「守島さんって凄く嫌な人だったわ。父に、あなたの会社の女性社員が、うちの若い男性社員を誘惑して、職場の風紀を乱しているって。彼、告げ口したのが、その風紀を乱している女性社員の父親だって知らなかったの。もうそれからが最悪。」
守島が原因だとは薄々感じてはいたが、告げ口をしていたとまでは思えなかった。彼の方こそI国で、酒を飲んで騒いだり、女を買ったりしていたというのに。
「それから、父からの調査が入ったの。そしたら、娘が、日本人男性と恋愛してる。父は驚くやら、激怒するやら。私は、結婚するつもりだからと答えたら、本当に、あの時は健司と一緒になるつもりだったもの。そう言ったら、さらに大激怒。絶対に認めないって。子供が出来たら、変わるかなと思ったけれど、そう甘くはなかった。私は、しばらく、別荘で軟禁状態だったの。リンダが生まれて、しばらくして、孫の可愛さで、少しは目がさめたみたい。父は貴方が本気だった、貴方の人柄の噂を聞いて許す気になったの。でもね、そう都合よくはいかないわよね。そのときには、時間が経ち過ぎていた。私は、誰とも結婚せずに、リンダを育てるのにかけた。おかげで、リンダは、素直に育ったし、全てを話してあるから、貴方に対しても、偏見は持っていない。」
「ジェニファー。・・・」
「美紀さん。誤解しないでね。いまさら、貴女から健司さんを奪う気はないわ。そんな事をしても、幸せにはなれない。今の私にはリンダとビジネスで十分幸せ。」
「それで、いいの?やっと自由に会えるようになったのに、ジェニファーさん。あなたはそれでいいの?」
「仕方ないじゃない。好きな人と別れさせられた。辛い思いはそれだけで十分。この上、泥棒猫にはなりたくないもの。さきに私が、彼の子供を産んでいても、結婚はしていない。結婚したのは美紀さん。貴女よ。だから、二人で幸せになって欲しい。
ただ、お願いがあるとすれば、リンダは別。いつでも、時間が許す限り、会ってあげて欲しい。」
三人の大人と、一人の娘が向かい合って涙を流している。
既に、席についたときの緊張感や険悪さは影をひそめていた。
「それでも、疑いはあると思うの、DNA鑑定をするというなら、・・・・」
「その必要はないよ。」
「えっ?」
「リンダは私の娘さ。君がそういっている。疑いなんて持っていない。第一、身に覚えがあることだし・・・だから、つねるなって。
見ろよ、赤くはれちゃったじゃないか。」
「もう、娘さんがいる前で、言うことじゃないでしょ。それに、私だっているんだからね。でも、彼が言ったように、DNA鑑定は考えなくて良いいです。留学の間は、良ければ、一部屋空いてるから、うちで暮らせばいいわ。」
「おい!」
「あなたは黙っていて。」
「どうかしら。親がいるのだから、親の下で生活するのが自然じゃない?もっとも、これが父親かと思ったら、幻滅するかも知れないけれど。」
「嬉しい。でも、慣れるまでは、今のままで、通い娘でいさせていただけませんか。勝手ばかりで申し訳ないですが。」
「リンダさんの好きのようにすればいい。親子の時間を埋めるのには、お互いの理解が必要だと思うから。」
「ありがとう。お父さん。それに日本のお母さん。」
リンダの言葉に美紀は驚きの表情をする。
「私のことお母さんと読んでくれるの?ジェニファーさん。本当に良い娘に育てていただいたわ。」
「だって、お父さんの奥さんだから、お母さんでしょ。本当のお母さんのつもりで、甘えさせていただいていいかしら。」
「もちろんだわ。」
「リンダ、私の部屋に先に行っていてくれる。これからは、親だけの話があるから。」
「わかった。」
リンダは素直に、席を立ちジェニファーから部屋のキーを受け取り、その場を後にした。
美紀と私にやや緊張がはしった。
「親だけのはなしって?」
「流石に、娘の前では言えない事があるでしょ。」
それもそうなんだが。
「緊張しなくてもいいわ。これからのことを、少し話しておきたいの。」
「まず、リンダの事なんだけれど、健司さんに認知していただきたいの。娘として。」
「それは、今までの話の流れで、当然そうなるだろうと思っているが。」
「それは、貴方は良くても、美紀さんは、必ずしも納得できないと思う。」
「・・・でも、リンダさんのことを考えれば、認知は当然だとおもいます。」
「法律的に、娘だと認めて欲しいの。もし、私に何かが有った時はあの娘の後見人として助けて欲しいの。」
「何かあったらって、縁起でもない。」
「例えばの話よ。」
「それと、これは、明日発表するけれど、GAは青井電気を買収することになった。」
「なんだって?」
「このことと、私たちの、プライベートのことは関係ないけれど、そうは言っておけなくなる。貴方を役員にすることも検討中なのよ。」
「どういうことだ。」
まさしく青天の霹靂。自分の人生が大きく回転していくのを感じる。
「この買収は、実は、何回もでては、消えては復活の繰り返しだったの。一番旧くは、貴方の入社時ね。そのときは、かなりの線まで行って、発表直前で、白紙になったの。原因は、社長の娘を妊娠させた人がいてね、社長が激怒して白紙。」
まさかそんな話まで、私の知らないところで、進んでいたとは。確かに、元々は、関係の深い会社であったのには違いが無いが。
「それから、何度となく、青井電気の方から打診があったけれど、父が、断りつづけた。でもね、父は、最終的には、貴方のことを認めていたの。」
「何度となく、貴方のことを調べていたのを私は知っている。そして、仕事振りなどは驚嘆していたわ。その頃は、別の事情で断っていたらしい。で、今回は、その流れで、青井電気が、貴方の考案した、BGMシステムを海外展開したいので、うちに頼ってきたわけ。で、買収となった。まぁ、いずれ、この買収はあった話なので、今回の私たちの事とは関係ない。ただ、何かの時にはリンダを守って欲しい。いつそういう事態がおきるか解らないし。そのためにも、貴方を役員に抜擢するつもり。そうなれば、昔の事を知ってる人間も何人かいるから、噂になるかもしれない。
隠し事は、マイナスにしかならないから、貴方がリンダの父親だという事をはっきりさせておきたい。そうなれば、美紀さんは不愉快な思いをするのは目に見えている。だから、これは事前に話してお願いしておきたかったの。」
青井電気は、私の努める会社で、音響関係のメーカなのだが、言うなれば、マニア受けする技術力で勝負のメーカー。
経営的には何度か苦しくなっている。
この数年に限って言えば、経営は好転していた。
私が企画した、BGMシステムが、販売好調なのだ。
有線放送がお店などのBGMとしては古くから、使われていた。
機械は小さくて、何処にも置けるし、いろんなチャンネルがあるので、多種多様に利用できる。ただ、音がもう一つなのと、チャンネルを探すのが面倒。
そこで、パソコンを使ってネットから、サーバーにアクセスし、曲を自動でダウンロードして、プレイするというシステムを考えた。
パソコンに予め、そのお店の特徴を入れておき、その入力にそって、パソコンが曲を探しに行って、ダウンロードをする。
もちろん、リクエストも割り込ませられる。嫌な曲がかかっても、後から、ログ確認で、その曲をチェックして、かからないようにする事も出来る。
演奏後にはパソコンがその音楽ファイルを削除してしまうので、著作権も問題ない。
気に入った曲は、後から購入する事も出来る。
音に関してMP3ファイルを使っているので、CD並みの音が聞けるし、スピーカやアンプで、さらに、アップグレードも出来る。
インターネットを使っているので、新たに有線のケーブルを引かなくても問題ない。
このシステムが、受けて、最近は好調な経営だった。
「解った。この事も了解しよう。ただし、二度と、不吉な物言いはするな。」
「私も、依存はない。場合によっては、A国に移り住まなければいけなくなるという事ね。」
「美紀さん。そういうことも考えられるわね。だけど、あくまでも、未確定の話。子供はリンダだけじゃない。お二人にもお子さんがいるでしょ。それに、役員と言っても、日本にいてもらう。何かの時だって起きないかもしれないでしょ。まだまだ先の話よ。」
「あの、嫌がってるわけじゃないのよ。むしろ、その逆。いろんなところを子供たちも見たほうがいいと思う。それに、私への気遣い。うれしいです。私は、大丈夫よ。噂をする人間なんて、勝手にさせればいいことだし。噂を信じていたら、私この人と結婚していないもの。」
「だって、噂では、新人の頃仕事も出来ないのに、海外で恋人を作って、帰国させられた、女たらしという噂でしたから。でも、この人、実際はそうじゃなかった。一部当たっていたけれどね。フフ」
話は終わった。昨日までの人生とは大きく変わろうとしている。
美紀にこんなたくましさがあるとは知らなかった。
親子そして夫婦
これでよかったんだわ。あのリンダの嬉しそうな顔。
だけど、私は・・・。
嫌な女に成れれば、ずるい女になることが出来れば、どんなにいいだろう。
私は、まだ健司を愛している。あの人が欲しいのに、それを口にすることさえ許されない。
「何の話だったの。」
「大事な話よ。お父さんを、会社の役員になってもらうという話。」
「えっ!本当に?」
「そうよ。お父さんの会社を、買収するという話もしておかないとね。」
「お母さん。本当に良かったの。お母さん辛そうだわ。」
「どうして。」
「だって。お父さんのこと、まだ好きなんでしょ。」
子供だと思っていたら、いつのまにか、娘は大人になってるものね。そして、女にも。
「子供が、親の顔を知らないとか、有っていいことじゃない。リンダはずいぶん我慢したじゃない。いじめられた事だってあったんでしょ。それは全て、大人の事情よ。これから先は、あなたの事情があっても罰は当たらない。」
「お母さん。」
「私には、あなたがいるし、仕事も。健司とだって、会うことが出来た。それで十分幸せ。」
今夜は、隣の部屋に泊るといいわ。部屋をとっておいたから。」
娘の幸せ。それが大事。
健司はやはりやさしい人だった。
彼を愛せて、彼の子供を産んで育てられただけでも、世界の誰よりも幸せな人生だわ。
「本当は残りたかったんじゃないの?あなた。」
「ん?どうして。」
「私って嫌な女ね。彼女に嫉妬している自分が恥ずかしい。彼女は、貴方をまだ愛してる。それも深く。」
「・・・・・」
「貴方だって、彼女のことをまんざらではない。それは仕方が無いわ。憎みあって別れたわけじゃないのだもの。」
「でもな、俺には君がいる。君を愛してるのは事実だよ。それも、深くね。」
「どれぐらい?」
「日本海溝よりも深いな。」
「もう。・・・・。もし、彼女のところに行きたいのなら、正直に言ってね。生殺しは嫌よ。」
「馬鹿だな。行かないよ。君の元からは離れない。哀しい思いをする人をこれ以上増やしたくない。ジェニファーは彼女には悪いけれど、過去なんだ。」
「本当にそう割り切れるの?」
「割り切るんだよ。」
お父さんは、思い描いた人だった。お母さんが愛したのはわかる。
でも、これでよかったのかな。
お父さんはやさしいし、美紀さんもやさしい。
会えてよかった。だけど、お母さんの気持ちになると複雑。
みんな良い人だから、みんなが気を使っている。
美紀さんが嫌な人だったら、お母さんはどうしたんだろう。お父さんを奪い返すのかな。
でも、良い人だもん。とっても。お母さんがかわいそう。
誠君や早紀ちゃんはお姉ちゃんって言ってくれるかな。
兄弟か。私にも兄弟が出来たんだ。
抜擢
眠い。
結局、あれから、眠れなかった。
しかし、仕事には行かなければならない。
「あなた。大丈夫?寝たいのでしょ。」
「ああ大丈夫だよ。寝ていないのはお互い様。」
私は、眠気覚ましにシャワーを浴び、朝食も、そこそこに会社に向かった。
「おはようございます。佐伯課長。」
「おはよう。」
部下の後藤が声をかけてきた。
「なんだか、あわただしいですよ。幹部連中の動き。」
「どうして。」
「何か、発表があると言ってますよ。課長も呼ばれるんじゃないですか?」
「俺みたいな、平課長が呼ばれるわけ無いよ。」
とぼけるしかない。
「社員諸君。」
社内放送で発表するつもりらしい。
「社長の鈴木です。今から、重大な発表と報告を行います。かねてから、協力関係にあった、A国のGA社に我が社は買収合併される事になりました。これから先は、世界のGAグループの一員としていっそう成長していきます。今回の合併に伴う、人員整理はありません。基本的には全員雇用されます。ただし、人事面での異動は若干ございます。ご理解をお願いします。」
「では、今から、管理職の人事を発表します。社長は、引き続き、私、鈴木が行いますが、副社長にはGAから、トーマス・ハリソン氏を迎えます。
そして常務取締役に同じくGAから岡本信二氏を迎えます。そして、サービス企画部長は佐伯課長についていただき、取締役とします。・・・・・」
周りがざわついている、まさか、いきなり今日、こんな発表があるとは、流石に考えていなかった。
まだ少し先だとばかり思っていたのだ。
「佐伯課長。いや部長だな。おめでとうございます。大出世じゃないですか。いつかは、やってくれる人だと思っていましたよ。」
「調子のいいことばかり言っても何もでないぞ。」
しかし、やりすぎなのでは。話はまだ続いている。
「・・・で、続いては、総務の守島部長には、中東支店の総務課長として行って頂きます。・・・」
なんだって、ジェニファーの報復人事じゃないか。いくらなんでもやりすぎだ。
確かに、守島の行った事は、個人的には許せない。しかし、俺たちにだって、落ち度が無いわけじゃない。
この人事を決行して、先行きまずい事にならないか?
「では、我がグループの総帥ジェニファー・アンダーソン氏に挨拶をしていただきます。」
「レディース・アンド・ジェントルマン。今日の記念すべき日にお祝いいたしましょう。
以前から、協力関係にあった私たちですが、資本を統一し、より強固な関係で、発展をしていこうではありませんか。そのためにも、あなた方の力が必要です。私達は、日本的な経営を否定するものではありません。成果主義というものも、日本には向かない事もわかっております。どうすれば、みんなが、幸せに働けるかだと考えています。と言ってぬるま湯にするつもりはありません。頑張った人にはそれだけ報いを得られるようにするつもりです。」
「後藤。ちょっとここを頼む。社長室に行って来る。いくらなんでも、守島の中東左遷は酷い。」
「佐伯さん。人が良すぎますよ。彼が貴方にしてきたこと、社員にしてきたことを考えれば、首にならないだけ、御の字じゃないですか?」
「いやそういうものではない。」
守島部長
早足で、社長室に向かう。廊下を早足で、階段を二段飛ばしで駆け上がる。まだ若い。と妙な事に感心しながら、社長室の前に立つ。
おりしも、守島部長も息を切らせながら、やってくるのと、ほぼ同時だった。
君か、取締役への抜擢おめでとう。何をしたかは知らないがたいしたものだ。」
無視をして、秘書に取次ぎを頼む。そういえば、昔、美紀もここにいたんだなと懐かしむ。
守島部長と一緒に社長室に通される。
ジェニファーが、社長室のソファーに座って社長と話をしているのが目に入る。
「珍しい取り合わせだね。どうかしたか佐伯君。」
「まずは、抜擢有難うございます。私には身に余る、役職といえます。しかし、全力で、ご期待に沿うよう頑張ります。」
「人は、抜擢と思うだろうが、実はそうじゃないのだよ。君には、GA本体での役職も考えていたんだ。しかし、まずは、取締役としての君を教育しなければならない。そう思い、今のポジションにしたんだ。そこのところを考えてくれたまえ。」
「岡本さん。来ていらしたのですか。」
「あたりまえじゃないか。君に会いたかったしね。」
岡本常務は、大学の先輩で、常務とは言いながら年齢は、私より二つ上だけ。
大学時代は、ともにバンドを組んで、私が、ギターで、岡本さんはドラムだった。豪快なドラムが彼の持ち味だった。
卒業時に彼から、GAに誘われていたのだが、音響をやりたいと言う事で、青井電気に就職したのだった。
「お取り込み中申し訳ないが、社長。どうして、私が、中東に行く事になったのでしょうか?しかも、降格ではないかこれは。こんな人事受けられない。」
唐突に怒りを押さえ気味に守島部長が、口を切った。
「何か不満かな。守島君。悪いが、君に人事権はないのだよ。」
「不満も何もない。不当だ。」
いちようにみんなの顔が曇る。
「ジェニファーって名前聞いたことがあったな、と思っていたら、なんだ、佐伯のI国の彼女じゃないか。
そのよしみで、取締役に昇各で、俺は、あの当時いじめたから、降格で左遷?冗談じゃない。人事を何だと思ってる。個人的な恨みで左遷されたんじゃたまらない。」
守島は、一気にまくし立て、肩で息をしている。
「えーと、守島さんでしたっけ?私は今度ここに常務で来る。岡本ですが、困りましたね。私たちの間では、左遷ではなく、貴方を懲戒免職ということで、ほぼ決まっているのですが。」
岡本の冷静な落ち着いた口調は、ゾクッと来る。
「?岡本さんよ。何で懲戒免職なんだ?出る所へ出て、話してもいいのですよ。」
やくざまがいの守島の口調にも岡本は一向に怯む様子が無い。
「出るところに出れば、守島さん。貴方、刑事事件で逮捕されますが。」
守島が逮捕。これはかなり衝撃的な発言。
一体何があるんだ。
「ほう。何のことを言っているのか、わからないですね。」
「解らなければ、この資料を見ていただくと、いいと思うのですが。」
「何の資料か知らないが・・・これは。」
「貴方の総務に移ってからの帳簿です。意味がお分かりでしょう。横領の全てです。そしてこれが、社のセンターサーバーへの不正アクセスのデータ。これは、貴方が、メールサーバーに不正アクセスして、内容を読み、それをもとに、社員を脅していたという証拠です。そして、脅されていた社員に匿名で、事情も聞いています。」
「う・・・。」
「私は、会社として、貴方を刑事告発するように勧めています。覚悟をお決めになったほうがいいでしょう。」
「たしかに、では、中東に行けば、眼を瞑るというのか?」
「ありえないでしょう。これは、刑事事件です。会社が目を瞑っていい話ではありません。」
「じゃぁ中東勤務というのは一体・・・!はめやがったな?」
「中東の話は実際にあった話ですよ。だが、内部調査をしているうちにそうはいか無くなった。ほんの一時間前までは、中東で決まっていたのですがね。」
「ただで済むと思うなよ!」
盗人猛々しいとは、この事か、自信の不正を棚に上げて、それから延々と、社の告発を繰り返す守島。
見ていて、哀れを感じてしまう。
結局、彼は、そのまま、警察に連行されてしまった。
横領に恐喝。それに、社の人材を、他の企業に紹介して、小遣いを稼ぐという事までやっていたらしい。
しばらく、総務部長は、岡本常務が兼務するという事になった。
昨日から今日にかけて、あわただしく時間が過ぎていった。
一月先には取締役という、重積が待っている。
何もかもが、あわただしく、そして、めまぐるしく公私共に、動き出した。
佐伯美紀
時計の針を見ると、もう夜の9時を回っている。今日も何とか一日が終わった。
慌しかったのも、午前中だけで、その後はいつもと変わらない。いつのまにかいつもの仕事をいつもどおりこなしていた。上着を手に取り、会社を出る。
家路に急ぐ社員も、この時間だと流石にまばら。
駅について、夕刊を手にとり思わず顔をしかめる。青井電気の買収が一面に出ていた。
外国資本が入るので、否定的な意見が多そうだ。
それと、守島の事件も、横領額が五千万円。
事件にならない訳が無い。溜飲を下げている社員も多いだろうな。
かく言う私も、相当酷い目に合わされたので、その一人でもあるわけだが。
いつものように、チャイムを鳴らし、家に入る。
「お帰りなさい。あなた。大変だったようね。ニュースで見たわ。」
冷蔵庫に直行して、ワインを取り出し、ソファーにからだを投げ出す。
美紀が、ソムリエナイフとグラスを持ってくる。
いつもと変わらない。
いや、違う。グラスが一つ多い。
「お前も飲むのか?」
「悪い?」
「好きにするさ。」
ソムリエナイフで、コルクを抜く。
二人分グラスにワインを注ぐ。
「子供達は?」
「もう寝たわよ。あの子達って仕事だとわかってるのに、お父さんは?って聞くのよ。
みんなお父さんが好きなのよね。」
リー・リトナーのCDをかけて、食卓につく。
「音楽をかけながらご飯食べる癖、止めないとね。子供たちが真似をするわよ。」
「あいつら寝てるんだろ?」
溜息をひとつく。
「幸せが逃げるわよ。」
「明日から、二日ほど休む事にした。」
「そうね。そのほうがいいかも。」
美紀もワインを傾けている。
「ワインだったら、私も飲めるな。美味しい。」
「飲みすぎるなよ。急に酔いが回りだすからな。」
「会社の人、喜んでたでしょ。守島さんの解雇。当然だわね。怨んでいた人多いからね。貴方もでしょ。」
美紀は手酌でワインをグラスに注ぐ。
「おい。無理するなよ。確かに、俺も酷い目に合わされたからね。しかし、やってた事めちゃくちゃだね。」
「これからも、どんどん出てくるでしょうね。」
「ああ。多分ね。脅されていた人も相当居るだろうからね。気をつけなければいけないのは、逆恨みだな。子供たちも、お前も気をつけろよ。何するかわからないからね。当分は留置されているから、大丈夫だろうけれど。
ホームセキュリティーの点検と確認は忘れないようにしないと。」
「そこまでやるかしら。」
「解らない。念のためだよ。」
リー・リトナーの曲もあって、かなりリラックスした感じになってきた。
「貴方は、疲れると、ほんと、ジャズを聞きたがるわね。このCDか、スティーブ・ローリー。普段は、ハードロックしか聴かないのに。」
「そんなこと無いよ。音楽は何でもすきなんだ。そのときの聴きたい曲を聴く。それだけだよ。」
また、一口、ワインを口に運びながら、美紀が溜息をつく。
「私ね、なんだか不安になってきた。」
「大丈夫だよ。守島は逮捕されたのだし、あいつも馬鹿じゃないのだから、よっぽどの事は無いと思う。」
そういいながら、ワインをもういっぱいグラスに注ぐ。
今日は、ワインがやたら早く減るのが気になる。
「そうじゃなくって、貴方が、遠くに行ってしまいそうで。私は、前にも言ったけれど、凄く貴方に満足していたの。女性関係も綺麗だし、子供たちの面倒も見てくれる。凄く理想の旦那だったの。」
「貴方の事を信じてる。でもね、今までとは違う。何かが不安なの。遠くに行ってしまいそうで。ジェニファーさんは魅力的だし。かなわないもの。」
そんなこと全く無いのだが。そう思ったが、後々のことを考えて口には出さなかった。
「そうだな、ジェニファーは相変わらず、綺麗だからな。」
美紀がゆっくり、グラスを持ち上げたのを見て、さすがに慌てる。
「だけど、前にも言ったけれど、過去さ。それに、俺は、君と結婚した。そして、うまくいっている。これを崩す事なんてありえないね。心配する事は無いさ。」
ゆっくりとグラスを下ろすのを見て、胸をなでおろす。やばかった。
「貴方の存在って不思議。」
「何が?」
いたずらっぽく笑いながら美紀が過去を思い出す目をしながら、話だす。
「だって、貴方の印象って最初、最悪だったんだもん。本当に不思議。」
笑いながら、ワインを傾ける。笑い上戸だったのかと、ふと考える。
「だって、私が入社して、秘書課に入った頃の貴方の噂って最悪だったのだもん。仕事は、凄いけれど、偏屈で、女好き。新人の頃海外出張で、仕事も出来ない癖に、女の子と問題をおこしたって。何でも、売春婦を部屋に呼んでたところを、当局に踏み込まれたとか、話し掛けるだけで、妊娠させられるなんてものまであった。ほんと、最悪な人だとばかり思ってたもの。」
そこまでいわれれば、苦笑するしかない。酷いうわさもあったものだ。
「ひどいな。それ。」
「ほんと。それが、今では、結婚して子供を作って、それでも、離れないで欲しいと思っている。」
「だけどな、俺から、付き合って欲しいなんて言い出した覚えはないよ。」
「あたりまえよ。付き合って欲しいと言い出したのは私なんだから。それも、追っかけまでしたのだから。」
完全に目が据わってきている。ヤバイな。
「そうだっけ。」
「そうよ。友達に誘われて、アマチュアバンドのライブにいったら、そこに貴方がでていた。驚いたわ。アマチュア界の伝説的なギタリスト。として、久々のライブという事だった。バンド名はリトルウィング。その演奏にははっきりいって心奪われた。」
リトルウィング
「あの人。ひょっとして、佐伯さん。」
司会の紹介で出てきた、本日のとりのバンドのギタリストを見て驚いた。同じ会社で働く彼が立っていた。
「美紀、佐伯さん知ってるの?」
「同じ会社の人よ。部署は違うけれどね。」
「いいなぁ。紹介してよ。」
「紹介するほど親しくないのよ。残念ながら。」
「そう。彼は、アマチュアの中では有名な人で、カリスマなのよね。テクとかセンスでは、プロ以上だわ。」
「そんなに有名なの・・・・・」
見た目も良く、話すと誠実なのに、なぜか、秘書室や総務の人間からは、最悪の評価が立っていた人。
しかし、その演奏は神がかっていた。これがアマチュアなの?という感じ。
一曲目の「月に吼える。」を聴き終わる時は、彼の演奏に引き込まれていた。
ラスト曲のリトルウィングは、総立ちで拍手を送っていた。
最後に自主制作のCDがあると聞いて、ためらいも無く購入していた。
これが、彼に好感をもった瞬間だった。
次の日に会社に行くと、全く変わらず、仕事をしている彼を見て、声をかけたくなった。
「あの。」
「ハイ?」
「佐伯さん。昨日の夜、ライブ見せてもらったんですけれど。」
彼は、ややはにかみながら、
「えっ!観てくれていたの?有難う。でも恥かしいな。」
意外とさわやか。
「CDも買ったんですよ。」
「うれしいな。言ってくれれば、サインしたのに。」
笑いながら答える彼には、噂の陰すらなかった。
「今度、いつライブやるのですか?」
「来週の日曜日にライブハウスRで演奏するよ。時間があれば見に来てください。あっ!ちょっと待って、これあげるよ。彼氏とでも見に来てください。」
かれは、チケットを2枚。私に差し出した。
そのまま、部署のあるフロアに向かって歩いていってしまった。
「今の佐伯さんじゃないの。」
同じ秘書課の望月綾子が話し掛けてきた。
「そうだけど。」
「あの人の噂、あなた聞いてるわよね。最低な人よ。」
「そうなのかな。私には、どうもそう思えない。」
「でも、新人の頃に、海外出張で、ホテルに女性を連れ込んでたとか、海外の事務所の女の子をホテルにむりやり連れこんだって。それ以外にも、風俗通いをしてるとか。不潔な噂、後立たないわよ。」
そこにつかつかと歩いてくる、男性社員。
「君たち、佐伯さんの話、してるみたいだけ、あの人の事知らないで、悪い話は止めたほうがいい。どうせ、守島の話を間に受けての話だろうが。君たちの思ってるような人じゃないよ。あの人。」
それだけ言って、立ち去っていった。
どんな人なんだろう。佐伯健司って。
総務や秘書課では最悪の評判だが、今の男性社員の様に、擁護する人も居る。
そうだ、同期の高見沢晴香が佐伯さんと同じ部署だった。
私は、確かめてみる事にした。
「秘書課の須藤です。高見沢さんお願いします。」
「須藤さん?久しぶり。今日の夕方?いいけれど。じゃぁ後で。」
なんなんだろう。興味本位にしても少しやりすぎなのかも。
「どうしたの、急に呼び出したりして?」
「ちょっと聞きたいことがあって?高見沢さん、佐伯主任と同じ職場ですよね。」
「そうだけれど、あっ、後藤さんが言ってた。秘書課の女の子が、佐伯さんの悪口を言ってたので、注意してきたって。それって、貴方達だったの?」
すこし、非難するような目で、晴香は私を見た。
「うん。私たちの職場では、佐伯さんの評判は凄く悪くて、でも、私には、そんな風に見えなくて。」
「噂って、新人の時の海外出張で、ホテルに売春婦を呼んでたとか、現地の女の子に手を出してたとか、風俗に入り浸ってるとかのデマのこと?」
「デマなの?」
「少なくとも、私たちの部署では誰も信じていない。本人に確認まではしていないけれど。デマじゃなかったとしても、若い時の失敗ぐらいにしか思ってないわよ。海外出張の話は、向こうでA国の技術者と、恋に落ちた。というのが本当の話らしいわよ。風俗に関しても行ってないのじゃないかな。独身だし、彼女が居なければ行ってたとしても、かえって、健康的な話だと思うわよ。」
「彼女居ないんだ。・・・」
「いや、彼女居ないなんていってないわよ。居なかったら、と言ったの。居ても行く奴は行くしね。どうしたの、佐伯さんが気になるの?やだ、赤くなって。ははは」
なんとなく、ホッとしたと思った瞬間、恥かしくなった。私何をしてるんだろう。
「意外と、お似合いかもね、須藤さんと佐伯主任。でもね、なかなか、心開かないから、攻略は難しいわよ。」
「私も実は、好きなんだ佐伯さん。でも、諦め気味。たまにしか、飲み会にも来ないし、私生活は、ミステリアスよね。」
私は、とりあえず、学生からの友人で、この前のライブも一緒だった、茜を誘ってライブを見に行く事にした。
「どうしたの、美紀から誘いを受けるなんて、この前ので、味しめたの?」
「そうかも。」
「チケットどうしたの、こんな前だなんて、あれからとった割には、かなり前なんだけれど。」
「佐伯さんがくれたの。」
「えっ!なに、親しくないといいながら、結構やるじゃない。」
この日の演奏は、前にもまして、凄かった、キャプテンネモで、一気に盛り上げた。
そして、湖面に水を打ったように静かさで、バーニングハート。
オリジナルも数曲演奏。
健司のギターは冴えに冴えていた。
泣きのギター。よく言われるけれど、本当に魂が泣き叫んでるようだった。
気がつくと、私たち二人は、出待ちをしていた。
思ったより早く、彼が出てきた。
「お疲れ様。健司今日は最高のプレーだったね。」
「有難う。次は、さらに最高と言わせるからな。はは。」
「あの、サインいただけませんか?」
私は勇気を出して、健司に声をかけた。
「はい。いいですよ。あっ、須藤さんじゃないですか。観に来てくれたんだ。」
「健治さん。誰?」
「会社の人だよ。じゃあな。」
「光栄だな。まさか秘書課の人が着てくれるとは。あそこでの俺の評判。最悪だからね。はは」
屈託無く笑う態度は、皮肉でなく大人な態度に感じた。
次はいつですか?ライブは。」
「二週間後にここでやるよ。チケットはと。はいこれ。」
「お金は?」
「いいよ。それぐらい。じゃぁ、おそいから、気をつけて帰ってね。」
ときめきを隠せない自分が恥かしかった。
それから、ライブには、必ずと言っていいほど、見に行くようになった。
あるイベントで、彼等が出たとき、早い出演だったので、終わって、席でしばらくライブを見ていると、彼が、席までやってきてくれた。
「いつも来てくれて、有難う。今日はこれで、終わりなので、良かったら、食事でもどうかな。たいした所じゃないけれど。」
「良いんですか?」
「もちろん。お友達もいっしょに来てください。心配しないで、メンバーは置いてくるから。じゃぁ。」
そこは、ちいさいけれど、おしゃれなイタリアンのお店だった。
「えーえおしゃれな感じ。良い雰囲気ですね。」
「好き嫌いはない?」
「私達はなんでも食べられます。」
「じゃぁおまかせコースでいいね。ワインはどうする?」
「私、お酒飲めないんです。」
「そっか。じゃぁ、ブラッドオレンジジュース二つ。にグラスワイン、赤で。」
この態度に、おとなを感じてしまう。
「いつも来てくれて有難う。」
「凄いですね。佐伯さん。会社の雰囲気とまるで違いますよね。」
「そうかな。何処でも同じつもりなんだけれど。」
楽しそうに笑ってそういった。
現在の愛
「どうして、あの時、私たちを食事に誘ったの?」
完全に酔ってるな。
「別に意味は無かったよ。いつも来てくれるし、同じ会社だったので、誘っただけ。」
「そうなの。」
「まぁ、なぜ、秘書課の花と言われた、君が、ライブに来てくれてるのか、気になったしね。」
「じゃぁその後に、スタジオに誘ってくれたのは。」
仕方がないな。こういうしかないのかな。
「君が可愛かったし、君にいいかっこをしたかったから。」
「素直にそういえばいいのに。いつも。」
あーあ、飲ますんじゃなかったな。
「じゃぁ、君はどうして、俺のライブに来てくれたんだ?」
「そんなの決まってるじゃない。音楽が好きだから。」
ぐれてやろうかな。ったく。
「久しぶりに、リトルウィングを弾いてよ。」
「近所迷惑だろ。」
「大丈夫よ。防音してるんでしょこの家。」
「仕方がないな。」
フェンダーのストラトキャスターを手にとる。
あくまでもクリーンな音で、弾き始める。
ソロに入った頃には、美紀は眠りについていた。
演奏をやめ、美紀を抱き上げ、寝室に向かい、静かに寝かせる。
美紀の頬に涙が一筋流れ落ちる。
美紀。どんな事があっても、お前だけは、幸せにする。必ず。
不安になる事はない。心配させてすまない。
認知と遺産
次の日、少しゆっくり起きると、美紀はすでに起きて、家事をしていた。
「おはようあなた。」
「大丈夫か、なれないのに、結構飲んでたぞ?」
「大丈夫よ。それより今日は、どこかに行くの?」
「いや、特には。久しぶりに曲を書こうかなと思ってただけ。何かあるの。」
「ううん。何にも無いわよ。紅茶を入れるわね。ヌワラエリアでいい。」
我が家の朝は、紅茶ではじまる。
二人そろって紅茶好きなのである。ヌワラエリアは二人そろってのお気に入りの紅茶。
朝食の後に、部屋にこもり、ギター片手に、曲を作る。
結構、良い感じで、進んでいくと、下で美紀の呼ぶ声が。
「あなた、お客様よ。西沢って弁護士の方それに、ジェニファーさん。」
「どうしたの。いきなり。」
「急にごめんなさい。法的手続きをしておかないと。悪いとは思ってるのだけれど、帰国しなければならない事情もあるので。」
急展開についていけない気がする。
そこに、弁護士が口をはさむ。
「奥様は、席を外していただけますか?」
美紀の顔が不服そうだ。
「私にも知る権利があると思うのですが。」
「それはそうなのですが、ご主人の貴方以外の女性との間の子供さんの話なので。」
「それも承知しています。だけど、私は、この人の妻です。同席します。」
美紀の気持ちになれば当たりまえのこと。
「そういうことだ、彼女を外しての、話し合いは無いと思ってください。」
「ごめんなさい。気を悪くしてるのなら、私が謝りますし、日を改めても構いません。」
ジェニファーがおろおろしている。
「ジェニファー、君の気持ちもわかる。だけど、もう少し、こちら都合も考えてくれないか。アポ無しで、現れて、認知問題の話し合い。しかも、家内に席を外せ。では、態度も硬化してしまうよ。」
「ごめんなさい。では、日を・・・・」
「その必要はないです。せっかく来ていただいたんだから、お話をしましょう。」
美紀は勤めて明るくジェニファーに話し掛けた。
弁護士って、どうして、こんなに嫌な感じなんだろう。
人の不幸で、飯食ってる感じがして、どうも偏見で見てしまう。
今でも、無表情で、書類を出して話し始める。
「では、リンダさんの事を娘さんと認知するのですね。ではその書類にサインしてください。
これで、認知は終わりです。次は、遺産の話に移りたいと思います。
このビデオを見てください。そして、これがその日本語訳です。」
ビデオには、生前のポール。ジェニファーのお父さんが映っていた。
そして、弱々しく話し始めた。
「健司さん。どうもすまなかった。最初にまず、謝りたい。君たち二人が、一緒に成りたいという気持ちを踏みにじってしまった。結婚するには時期尚早という思いと、民族的思いから、君たちの人生を変えてしまった。
このビデオを見てくれていると言うことは、リンダの認知をしてくれたと言うことだろう。
君たち親子を引き裂いた罪は、償いようがない。決して、ぬぐえるものでは無いが、君をアンダーソン家の仲間として、私の遺産を受けて欲しい。君の分は少ないと思うが、二億円と、GAの株3%をお渡ししよう。そして、娘と、リンダの後見を頼む。君にも君の思いがあるだろうし、君が結婚したのも知っている。君の家族が不幸にならない範囲でと言うことを付け加えておこう。」
長い沈黙が続く。
「金なんていらない。そんなんじゃないんだ。」
絞り出すようにやっと事で、言葉が出た。
「子供が出来たのなら、その時点で、教えて欲しかった。反対するのなら、面と向かって意見を言って欲しかった。なんだったんだ。この時間は。今更、こんなビデオで謝られても、遺産を分けて貰っても、ありがとう。はい分かりました。なんて言える訳じゃないだろう。帰ってくれ。」
「健司。」
ジェニファーは今にも泣きそうな顔をしている。
「リンダのことは承知した。遺産のことも好きにすればいいさ。だけど、アンダーソン家に対する、思いは変わらない。今日の所は、帰ってくれ。」
幸せの姿
外からの、光が茜色になっている。どうやら、夕方になったようだ。
あれから、何時間経ったのだろう。
ジェニファーは泣きながら弁護士に支えられて帰って行った。
そのまま美紀と二人、ソファーに腰を下ろしたままになっている。
「貴方。ジェニファーさんが悪い訳じゃないのよ。あの人も言うなれば、被害者なのよ。
それを分かってあげて。お金なんていらないと言う貴方の気持ちも分かる。時間を帰して欲しいという貴方の気持ちも。でも、人を恨んで生きても、良いことなんて無いじゃない。」
答えを探すが見つからない。美紀の言うとおりだというのは十二分に分かっている。
あの時、ジェニファーと結婚していたら、美紀との幸せな結婚生活は無かっただろう。
それとこれとは、話の次元が違う。
だが、どこかで、気持ちにつじつまを合わせなければ、次に勧めない。
「美紀。お前の言うとおりだ。極論を言えば、ジェニファーと結婚しなかったから、今が幸せなんだ。」
「わたし、そこまでは言ってないわよ。」
「気を悪くしたのなら謝る。そうじゃなくて、運命だったんだと、そう割り切るしかないんだろうな。と言う話さ。」
リーンリーン
「ハロー。ジェニファーです。」
健司だ。さっきは済まなかった。混乱してしまったようだ。遺産の話。受けることにする。」
「こちらこそ。御免なさい。貴方の言うとおりだと思う。でも、悪気があってのことじゃない。それだけは分かって欲しい。」
「ああ。そう信じるよ。じゃあ。」
バーイ」
ピンポーン。
「はーい。」
玄関のチャイムが鳴り、驚いて返事をする。
「お母さん。リンダです。夕食の手伝いに来ました。」
リンダが、買い物袋を下げて立っている。
「どうしたの。その袋。」
「だって、いきなりお母さんが来たんでしょ。ショックで、夕食の支度も出来てなんじゃないかと思って、手伝おうと。」
美紀と私は顔をあせて、笑い出した。
「よく気が付くな。お母さんが来たの知ってるの?」
「だって、お母さんたら、お父さんを怒らせたって、泣きながら電話してきたんだもん。だから、誤りの電話しなさいって。言ってやったの。電話あったでしょ。さて、今日は、私が料理するから、お母さんは座ってて。」
幸せというのは、色んなカタチがあるが、少なくとも、私は幸せなのに間違いはないと感じた。
その日の夕食は、リンダが作ったビーフシチューだった。
早紀と誠も喜んで食べていた。
にわかに起きた、佐伯家の争乱も、徐々に収束に向かっているようだった。
それから、リンダは毎日のように佐伯家に来るようになった。
誠も早紀も突然現れた、この年の離れた姉に、なついていった。
ライブ
リンダも、日本に慣れ、佐伯家に慣れ、学生生活を楽しむようになった。
リンダは、経営工学を専攻し、コンピューターの技術を勉強していた。
経営面と工学技術を身につける。
将来のGAを背負う立場としては、うってつけの学問といえるかも知れない。
しかし、リンダには、ジェニファーのような思いはさせたくない。
普通の恋愛をして、普通の結婚をして貰いたい。これが、私ののぞみだ。
「お父さん。今度、ライブ観に行っても良い?」
休みの日にギターを弄ってると、リンダが聞いてきた。
「リンダ、来てたの。ライブって誰の?」
笑いながらリンダが、
「誰のって、お父さんのライブに決まってるじゃない。今度やるんでしょ?」
二週間後の日曜日にライブの予定を入れていた。
割と早い時間の出演のライブで、持ち時間は一時間。
リトルウィングとしては二ヶ月ぶりのライブだ。
「お父さんのライブに?どうして?まあいいけれど。」
じゃあ、約束。」
リンダはそれだけ言って、出て行ってしまった。
ライブ当日は、二人で出かけた。
電車でギターとエフェクターを持って出かける。
予備のギターは、リンダが持ってくれて、なんだか、親子間が近くなった様で嬉しかった。
「健司さん。おはようございます。あれ、誰ですか?そのお嬢さんは。」
ライブハウスのマスターの村枝が聞いてきた。
「おはよう。マスター。俺の娘だよ。」
「何言ってるんですか?健司さんの娘さんの早紀さんはまだ二歳でしょ。それに、このお嬢さんは白人だし。」
「だから、隠し子だよ。若いときに海外に行ったことがあっただろ。」
全く、どうでも良いことを聞いてくるなよ。デリカシーのない奴だな。
人間は悪くないんだけどな。
少しいらつきながら、楽屋に入る。
「おはよう。」
声をかけるも、返事の変わりに、みんなリンダをみる。
「健治さん。新しい彼女ッすか?」
若手のギタリストが、聞いてきたので、思いっきり頭をはたく。
「娘だよ。」
言ってのけると、"健治さん"が"お父さん"に呼び方が変わったので、今度はグーで殴ってやる。
出番前に緊張しないのだろうか?最近の若い奴は?
と思いながらも和気藹藹とした雰囲気がうれしい。
そうこうしている内に出演の時間。娘にいいところを見せないと。いやがうえにも気合が入る。
「あれって。マーフィーじゃない?ほら、ヘルアンドヘブンの。もう一人はスーパービッグのブルースじゃない?あの二人がどうして、このライブハウスに?」
客席には、ハードロック界のスーパースター二人の姿があった。
「ここに彼が出ているという話だけれど、本当なのか?」
ブルースは、マーフィーに話し掛けた。
「そう聞いている。夏樹が言っていた伝説のギタリストがどんなものか聴いてみなくては。」
「ヴェイも偶然見たそうだけれど、日本には彼が居るというぐらいだからな。それも、アマチュアだというから、さらに驚き。」
アマチュアのライブだというのに、開演前から、客席は異様な盛り上がりを見せていた。
一曲目はオズボーンの「月に吼える」を演奏。始まった瞬間の歓声は凄まじかった。
二曲目はそのままオリジナル曲になだれ込み、ギターソロは完璧に決まっていた。
この曲が終わって、ボーカルの清水修治がMCをいれる。
「どうもありがとう。なんだか、今日は健司が、柄にも無く緊張してるみたいなんだよね。ちょっとどうしたのか聞いてみるね。健司。どうしたの?」
「いや、気になる人が来ていてさ、気になるんだよね。まさかの人がね。でも、演奏は良かっただろ?その人に敬意を表して一曲演奏してみようと思うんだけれど。」
「おいおい、大丈夫か?」
「まぁ、何とかなるでしょ。有名な曲だから、カバーやった事もある曲だしね。」
健司の卓越した、タッピングが始まる。
それは、スーパービッグの名曲。リトルウィングでも良くカバーしていた曲だった。
オリジナルそのままのコピーを軽々と演奏しきって、そのままオリジナル曲に。
後はいつもの如く、完璧の演奏でライブを終了。
「見たか?あの演奏。ブルース。」
「あぁマーフィー。完全にやられたよ。恐ろしいアマチュアが居たもんだ。」
「お疲れ様。お父さん。ナイスプレイ。」
「ありがとう。いやぁ疲れた。サンキュウ。修治。あれで気が楽になったよ。」
「普通の人間なら、あれでよけいに上がるところだけれどね。」
あきれながら、修治が近寄ってきた。
「それより、俺が、上がってるのが良く解ったな。」
さも得意そうに修治が
「何年付き合ってると思ってるんだよ。誰もわからなくても、俺はごまかせないよ。」
キーボードの小笠原麻衣子が怪訝そうな顔をして聞いてきた。
「どういうこと。のっけから、完璧なプレイだと思ってたけれど。」
「少しね。チョーキングビブラートがいつもと違ってたんだよ。」
「そんな僅かな違いなの?わからないよ。普通。」
ベースの平正義が笑いながら応酬する。ドラムの鮫島も首を振っている。
「で、本当に誰か着てたの?」と鮫島。
「ブルースとマーフィーが来てたよ。」
と小笠原。
平と鮫島が顔を合わせて、引き攣る。
「俺らなら、よけいにあがるよ。知らなくて良かった。」
みんなが笑いあってるところに、噂の主がやってきた。
「はじめまして、佐伯健治さんはこちらですか?」
「私ですが。」
いきなり大きな手で、握手を求められて、二人と握手をする。
しかし、手がでかい。
「今日のライブ最高でしたね。ビックリしました。これは差し入れです。」
と言って、エビアンを配る二人。
「有難うございます。あなた方二人を見た瞬間に足がすくみましたよ。」
笑いながら、差し障り無く返す。
「それ嘘ですね。一曲目の方が演奏堅かったですね。リラックスするのに使いませんでしたか私たちを。」
鋭くマーフィーの目が光る。
「そんなこと無いですよ。」
「まぁいいです。今日は楽しかった。また近いうちにお会いしたいです。」
そういって、二人は引き上げていった。
スキャンダル
仕事もかなり代わってきた。
もちろん現場に出ることも無くなり、
計画的サービス、サービス商品の見直し。
サービス部門の技術者のレベルアップ。
事細かに、計画書を作成する必要が出てくる。
クレーム対応も大事な仕事になってきた。
そんな矢先、新たな職種として別部門の仕事をする事になった。
GAが持っている、ミュージシャン養成スクールの非常勤講師。副校長という仕事だ。
週に一回スクールで、ギター講師をするのである。
練習不足になりがちの私には嬉しい仕事だ。
そこで、青井電気のPAシステムの実際の使用方法を検証したりするのだ。
ドラム担当として、岡本常務が同じように就任した。
周りの見方も変わってきた。外資が入った直後の大抜擢。
しかも、就任して半年で、それなりの実績をたたき出している。
サービス部門の実績は一五パーセントの改善がみられた。
取締役になっても、全く変わらない態度で、部下に接する佐伯を、多数の社員が支持した。
今までの不遇はなんだったのか。実績で観る限り、抜擢は不当ではなく、的を得たものといえた。
しかし、中には、彼の出世を妬むものも中にはいた。
彼の抜擢は噂になる事も度々だった。守島の逮捕にも関与してるのでは。
という内容と、ジェニファーとの男女の仲で出世を手に入れているという中傷まであった。
そのときの、私の答えは、
どんな風にやれば、出世できるだけのセックスができるのか教えて欲しいよ。」
というとぼけたものだった。
しかし、そんな中、リンダが、ジェニファーの間に出来た子供だという話が週刊誌に載る事になってしまった。
青井電気の新進気鋭の取締りと、GAの若き才媛のスキャンダルは週刊誌には格好のねたになった。
「社長。どう切り抜けますか。」
モニターに向かって岡本は問いかける。
「嘘をついても仕方ない事ですし、事実を話すしかないですね。そのためにも認知を急いで行ったわけですし。」
「スキャンダルで騒がれますが。」
「最小限に抑えるには嘘をつかない事でしょう。」
「解りました。そういう方向でいきましょう。」
「健司にはよろしくね。彼と、彼の奥さんが気の毒です。」
GAの才媛。ジェニファー社長のお相手。
青井電気の若手管理職S氏。
彼女は未婚の母としても有名だが、その子供父親は、日本人だった。
先ごろ、買収した、青井電気のS氏がその人だ。
S氏は買収後に大出世をしている事からも、まず間違いない。
となると、人事を私しているとして、批判されてもおかしくないのでは。
また、今回の買収事態が、個人的理由ではないのかと言う話も出ている。
最初の記事は、かなり辛辣なものだった。
当然起こる事と予想はしていた事だった。
「佐伯さん。この記事の事でお話がしたいのですが。」
「どうぞ。」
「GAのジェニファー社長と恋仲だという話ですが、どうですか。」
「正確には恋仲だったという事です。」
「では、彼女には一人娘が居ますが、それは貴方の子供だという話は本当なのですか。」
「その通りです。認知もすでに済ませています。」
「今回の青井電気の買収は、ジェニファーさんの個人的思いからという批判が出ていますが。」
「それは、全く見当違いですね。青井電気とGAは昔から、関係の濃い会社です。今回の合併は長年の懸案事項で盛りました。
これは、調べていただけば解りますが、何回もそういう話が出ては、消え、出ては消えを繰り返した話です。」
「貴方の出世も、ジェニファーさんの意向という話ですが。」
「確かに、合併を機に抜擢されました。しかし、GAが社長とはいえ、個人的思いから、好き勝手に人事や合併ができると思われるならば、それは、考えがどこかおかしいとすぐに気がつくと思いますよ。」
「あなたと、ジェニファーさんの関係について、さしさわりが無ければお話くださいませんか。」
「あくまでも、個人的な話なのでね。しかし、今は、全く関係ないですよ。私には家族がありますし。ただ、若い頃に本気で、結婚する気で付き合っていた時期がありました。お互いのそのときの立場を調べていただければ、ある程度、経緯は想像できると思いますが。」
「ただいま。」
家に帰って、一息つく。
ソファーにからだを投げ出す。
いつもどおりの事なのだが、身体が妙に疲れている。
「あなた、大丈夫。だいぶ騒がれているようだけれど。家にも取材が着たわ。」
ワイングラスを運びながら、美紀が聞いてきた。
一目見て解る。美紀の疲れ。
「すまない。迷惑をかけるな。」
謝りの言葉しか出てこない。
ワインのコルクを抜くのさえもどかしく思う。
美紀のグラスにもワインを注ぐ。
最近、美紀はすっかりワインをたしなむようになってしまった。
「私はいいのよ。でも、大丈夫なの?」
「多分。今ジェニファーとそういう関係であれば別だけれど、すべて、もう20年近く昔の話。今更だよ。確かに、私情をはさんでの人事といわれても仕方がないし、その分は、実績で証明するしかない。ただ、お前に嫌な思いをさせるのが辛い。それに、リンダは、まだ未成年。彼女の事が気がかりだ。」
「お父さん。私なら大丈夫よ。」
リンダが、奥から、出てきた。
来ていたのか?」
「うん。だって、お父さんが心配だったんだもん。」
「娘に心配かけさせるなんて最低のお父さんだな。」
「あなた、そんなこと無いわよ。みんな貴方の見方よ。」
チーズを口に頬張りながら、ワインを流し込む。
ジャズのCDを静か目に流す。
気持ちが落ち着いてくる。
「お父さん。ごめんなさい。私のせいで。」
リンダが涙ぐんでいる。
「どうして謝るの?どうして泣くの?」
勤めてやさしく、リンダに話し掛ける。
一番傷ついているのは、やはりこの子なんだ。
「いいかい。リンダは何も悪い事はしていない。謝るのはお父さん達なんだよ。」
「でも、私が現れて、お父さんたちの生活は変わってしまったわ。現れなければ、マスコミに攻撃される事も、会社の人から攻撃される事も無かったのに。」
泣きじゃくりながら、リンダが思いを話す。
私のほうが泣きそうになるのを、必至にこらえる。
「生活なんて、変化するものさ、攻撃されるのは、私たちがしたことに対してであって、君がした事じゃない。お父さんは、社会人だから、社会に対して、不正をしない義務と、説明する義務があるんだよ。お父さん達は、間違った事を過去に犯した。だから、そのことについて、きっちりとした対処が必要なんだよ。」
「それは、お母さんが、私を身ごもったという事。」
「残念ながら、それも一つだ。だけど、それは、リンダが悪いんじゃない。あくまでも、その選択をした私達さ。」
「じゃぁ、私は祝福されずに生まれてきたの?」
「それは違うさ。祝福されずに生まれてくる生命なんて無いんだよ。プロセスが間違いだったんだ。ジェニファーとお父さんが、正式に結婚した上で、リンダが出来ていれば、何の問題も無かった。結婚せずに、子供を作ったというのが間違いだったんだ。もっとも、私は、当時ジェニファーと結婚する気だったがね。」
美紀の事を気にしながらも、核心を言わなければならない。
リンダは幾分か落ち着きを取り戻したようだ。
「じゃぁ、お父さんは、おじいさんを怨んでいる?」
「どうだろう。私は完璧な人間ではない。だから、正直に言うと、そういう感情も確かにある。」
「やっぱり・・・。」
でもね、おじいさんのした事は理解できなくも無い。当時の私は、学校を出たばかりで、実力も無かった。一方お母さんは、大金持ちの娘さ。つりあわないだろう。おじいさんは、やっぱり、ジェニファーを愛していたんだと思うよ。」
「だから、私より、ジェニファーにふさわしい人と結婚させたかったんだろう。それだけの事なんだよ。人を愛するのは、簡単で難しいんだよ。一つ間違うと、愛しているのに、不幸になりかねない。」
美紀が大きくうなずくのがみえた。
「おとうさん。今でも、お母さんを愛している?」
美紀を伺いながら、
「愛していた。という事実だけがあるよ。今は、ジェニファーを愛せないんだ。私は、美紀を深く愛している。お父さんは不器用なので、二人の女性を同時には愛せないんだ。それに、時間がかかりすぎたよ。再会までに。だけど、リンダは娘として深く愛してるのは事実だよ。リンダには私たちと同じ間違いをおかして欲しくない。好きな人と恋愛をして結婚して欲しい。それに、本当にしたい勉強をして欲しい。家が会社を経営してるからって、経営工学の勉強をする必要もない。美術が好きなら、美術を勉強すれば良い。音楽が好きなら、音楽を勉強すれば良いんだよ。人それぞれの役割がある。リンダにはリンダの役割がある。ちょっと説教臭くなったね。さぁ。もうおそいから、おやすみ。」
泣きながら、リンダは部屋を出て行った。
「少し言いすぎなんじゃないの?ジェニファーさんを愛してないなんて。」
「あの子は賢い子だよ。解ってくれるさ。」
社内でも、大騒ぎになった。
ジェニファーと健司の話は、噂の域を越えていなかったのが、本人達が認めたのだ。
単なる、恋仲ではなく、子供までもなした仲だったというのが相当なインパクトとして、
社員に伝わった。
しかし、嘘をつかずに、認めて、認知までしていると言い切る、健司に好感を持つ人間少なくなかった。
噂のなかに、事実が流れるようになった。
健司の若い頃の悪い噂と、今回の事実がつながり、新人の時に、出張先で恋愛におち、
結婚する気だったが、当時のポール社長に猛反対され別れさせられたという事実が、徐々に明らかになっていった。
そして、健司が、他の同期の仲間に比べて、不遇の時期が長かった理由を知り、また、腐らずに、実績を積み上げていた事に対することに、みな認めざるを得なくなった。
そうして、スキャンダルさえ味方につけ、GAと青井電気は、ますます、好調さを持続していくのであった。
GAミュージック
そして四年経った。
佐伯はGAの音楽部門、GAミュージックの社長に就任していた。
GAのなかでも不採算部門だったのが、佐伯が就任して2年で、利益を上げるようになった。
CDの発売とは別に、音源単独の発売。ライナーノーツと歌詞のダウンロード。楽譜の販売。
殆どの音源には楽譜が別に用意されるようになった。
ミュージックスクールには、社長自ら講師としてたつこともあった。
リンダは経営工学を勉強後、デザインの勉強をし、GAとは縁もゆかりも無い企業でデザイナーとして働き始めていた。
自分の歩く道は、自分の足で歩く。そうジェニファーに言ったそうだ。
私は、この時期、覆面バンドによるCD発表を考えていた。
リトルウィングで頑張ってきたみんなへの企画だった。
しかし、社長の道楽と捉えられなくもないこの企画を実行するには、かなり良心が痛んだ。
そんな折、GA本部に呼びだしがかかって、行く事になった。
何度来ても、あまり、ぞっとする場所じゃない。
いくら社長がジェニファーでも、流石に社長室に入るのは緊張する。
まぁ、そういう自分もグループ会社の社長に就任しているわけだが。
「失礼します。社長。」
ジェニファーは相変わらず、美しかった。やや顔色が悪いのが気になったが。
「健司、良くやってくれたわ。GAミュージックが、黒字になるなんて思いよらなかった。利益に関係なく、社会貢献事業という位置付けだったのに、素晴らしいわ。」
ジェニファーは上機嫌だった。
「有難うございます。社長。」
あくまでも、部下としての態度を崩さない。
「健司、そんな冷たい言い方しなくても。」
そんなに冷たい言い方ですか社長。」
「もう怒るわよ。」
「では、お言葉に甘えて、で、リンダはどうしてる?」
微笑をしながら、
「元気よ。最近、ボーイフレンドが出来たようね。」
それは初耳だった。
どんな男なんだ。会った事はある?」
苦笑しながらジェニファーは
「いい人よ。何度か家にも来たわ。ハンサムだし、誠実そう。建築技師をやってるそうよ。」
「どうして、リンダは俺には言ってくれないんだろう。」
寂しさが、こみ上げてくる。
「どうしてかな。言いにくいんでしょうね。今夜リンダとあう約束してるんでしょ。」
「まあね。」
「そのときに聞いてみれば。」
「そうするよ。ジェニファーは来ないのかい?」
「仕事が残ってるので、止めとく。」
私は、社長室を後にして、GAミュージックのアメリカオフィスに向かった。
この会社だけは、本部は日本なのだが、二ヶ月に一回の割合で、やってきている。
今度は自分の社長室に。
二ヶ月に一度しか使わないのだから、社長室なんて必要ない。
机だけで十分。そう言っているのだが、どうも聞き入れてくれない。
日本から持ってきた仕事の処理にかかる。
ここだと、喋る相手がいないから、かなり効率が上がるのだ。
「ボス。紅茶が入りましたよ。」
ケイトが紅茶を運んできた。
この事務所での私の秘書。気が利くし可愛いのだが、ボスと呼ばないでくれと、頼んでもこれだけは聞いてくれない。
ボスと言いながら、紅茶じゃおかしいだろう。コーヒーだろう。
今度、ダブルのスーツに葉巻でもくわえてやろうか。
とボケた考えもわかないでもないのだが、コーヒーは飲めないので、次からコーヒーを入れられると困るのでつまらない事は言わないでおく。
ゆっくり紅茶を飲む。
なぜか気が落ち着くのだ。
そこへケイトがまた、やってきた。
「ボス。お客様がお見えですが。」
だろう。あまりこのオフィスで来客を迎えたことがない。
というより、私がここに来てることを知ってる人間なんてかなり少ないはずだ。
「誰?リンダじゃないよね。」
「お嬢さんではなく、マーフィー・フリードさんです。お断りしましょうか?」
あのマーフィーか。一度、ライブの時に差し入れしてくれたっけ。
「いや、会おう。ここに通しくれるかな。」
しばらくすると、細身の彼が入ってきた。
「この前は、差し入れ有難う。十分な御礼も言えてなくて、失礼していました。良く私がここに入るのを知っていましたね。」
できるだけ、丁重に彼を出迎える。
「いえ、こちらこそ。偶然、空港で見かけたので、こちらにくれば会えるのじゃないかなと思ったもので、お邪魔じゃなかったでしょうか。」
思ったより、礼儀正しい、好青年。
「実は、社長に助けて欲しい事がありまして。」
「なんでしょうか。私にできることがあれば、何なりと。」
あくまでも、丁寧に。
「実は、レコーディングで、こちらに着たのですが、スタジオがダブルブッキングでつかえなくなってしまって、困ってるのです。
もし可能であれば、ここのスタジオをお貸し願えたらと、虫のいいお願いなんですが。」
それは困るだろう。普通はありえない話だし。
「ダブルブッキングしているのは、何日間ですか?」
「それが、結構な日数で五日間です。二,三日なら、休暇という事にでもと思ったのですが、五日はちょっと流石にきつくて。」
「なるほどね。ケイト。Cスタジオを一週間ばかり抑えてもらえないかな。空いてると思うのだけれど。」
ケイトに指示をする。
「えぇ問題ないです。Cスタジオでしたら。元々、社長がお使いになる予定で、抑えていましたし。」
「OK。」
「ミスター・マーフィー。と言う事で、cスタジオなら、明日からつかえます。ただし、守って欲しい事があります。アルコールの持ち込みは遠慮してください。それと、スタジオ内の喫煙も。必ず、ロビーで願います。」
「助かります。それでお願いします。」
「ケイト。ミスター・マーフィに人数を聞いて、入門許可書を発行してもらえないか。」
「はい。ボス」
では、スタジオ見に行きましょうか。」
マーフィーを連れてスタジオにでかけた。
「ここでよければ、使ってください。」
マーフィーが目を丸くしている。
「ワオ!凄いじゃないですか。」
「曲がりなりにもレーベルも持ってますのでね。」
私が、実験的に使う事が多いスタジオで、A国にいる間は、いつでも使えるように抑えてあったのだ。
まぁ、今回は、彼に使ってもらおう。
「これはいいアルバムが出来そうです。」
「ただし、私のところは構わないのですが、そちらのレーベルがどういうか解らないので私から、話を入れておきましょう。」
マーフィーのレーベルの担当者の名前を聞き、電話を入れて話をつけておいた。
マーフィーは何度も礼を言って、事務所を後にしていった。
本当は、曲作りで、スタジオにこもりたかったのだが、まぁ仕方がない。
人に親切にできるときにはしておくに限る。
残りの案件を大急ぎで処理していく。
気がつくと、すっかり日が暮れかかっていた。
娘の彼氏
そこへ、ケイトから内線電話が。
BOSS、お嬢様がお見えです。」
受話器を置く頃には、目の前にリンダが立っていた。
「元気だったか?」
「まぁまぁね。お父さんこそ?」
「まぁまぁだよ。」
二人は顔を見合わせて、笑い出す。
「何が食べたいかな?何でも美味しいものご馳走するよ。」
「じゃぁパエージャが食べたい。どう?お父さん。」
「いいね。じゃあそうしよう。予約を入れるよ。」
「お父さん。出来たら、一人多く人数を入れてくれない。」
赤くなりながら、リンダは小声で頼んできた。
「そんなにお腹がすいてるのか?いいよ。」
何とも間抜けな答え方だが、3人分の予約を入れる。
「じゃぁ、そろそろ、行こうか。」
二人で、エントランスに下りていく。
そこに、日本人の若者が立っていた。
「お父さん。紹介したい人がいるの。こちら、私の会社で、建築デザインのスタッフをいっしょにやってる高橋政道さん。」
「はじめまして、高橋です。」
良く通る声で彼は挨拶をした。
一目で感じる好青年。
「リンダの父の佐伯です。娘が世話になっています。」
頭を下げて挨拶をする。
そのまま、タクシーでレストランに入る。
タクシー中は、重たい沈黙が。
こんな時、関西人ならギャグを飛ばすのだろうか?
いくらなんでも、そんなことはしないだろうとか、馬鹿な事が頭の中をよぎる。
着席して、目の前に二人が並ぶ。くやしいけどお似合いだ。
こんな時父親として、不機嫌になればいいのだろうか。
「お父さんごめんなさいね。いきなりな事をして。」
「それがアンダーソン家の伝統見たいなものだから仕方がないな。」
「ごめんなさい。」
うつむいて次の言葉が出てこない。
おいおい、私を悪者にするなよ。
「私は何も怒ってもいないし、責めてもいないよ。もっと気楽に食事を楽しもうよ。お通夜じゃないんだからさ。」
少し緊張がほぐれてきたようだ。
「高橋さんは、音楽とかは興味ないのですか?」
共通の話題を探る。
「大好きです。学生時代はバンドをやっていました。」
やった!共通の話題だ。
「へぇ。ジャンルは?」
少し恥かしそうに、
「ベースとボーカルなんかやってましたが、ギターも弾きます。ハード・ロックが好きです。」
「それはいいね。わたしも少しギターを弾いたりするのでね。」
戸惑いながら、高橋は
「少しだなんて、そんな。私たちの間で伝説の方ですよ。佐伯さんは。」
「私の事知ってるの?」
少し嬉しい気持ちになって聞くと。
「えぇ。ライブを見た事もあります。マーフィーが来てた時のライブ。あれを見て、必死に練習に励みましたよ。アマチュアでもプロですら逃げ出すような演奏をする人がいるんだなって。」
絶対こいつはいい奴だ。嬉しいじゃないか。
「じゃぁ今度一緒にセッションをしよう。」
「そんな、レベルが違いますよ。」
夜は、長い。こうやって、リンダの彼氏との第一次接近遭遇は限りなく友好的に終わったのであった。
娘の彼氏と第二次接近遭遇
次の日、早く起きて、ジェニファーのオフィスに向かう
少し眠いが、気分は凄くいい。
「あら、ずいぶん早いのね。」
そういいながら、ジェニファーはコーヒーを飲んでいた。
「そういう君もずいぶん早いじゃないか。」
彼女の早朝出社は有名だ。
「紅茶を入れましょうか?健司。」
私がコーヒーを飲まないのも有名だ。
「いや、いいよ。」
「貴方が何の件でここにきたか想像できるわ。」
そういって、彼女は、一通の封筒を机上に出してきた。
「見ても言いのかい?」
返事の変わりに彼女は小さくうなづいた。
そこには、高橋政道についての細かい資料が入っていた。
ジェニファーは自嘲気味に、
「あまり、感心できない話だけれど、調べておいたほうがいいと思って。それで見る限りはかなり優秀で、将来有望ね。」
無言で私はその資料に目をやる。
「ここまで調べる必要があったのか?」
やや不快に感じながら、その中身を封筒に戻し、ジェニファーに渡す。
「俺もこうやって、調べられていたんだと思うと、他人事じゃないね。」
ジェニファーも顔をしかめながら、
「貴方の意見に賛成。私もあまり言い気分のものではない。でも、アンダーソン家には口うるさい親戚もまだいるの。私も、貴方と同じで、一目会って、彼が気にいったわ。だから、こんなのどうでもいいのだけれど。」
「意見が一致して嬉しいよ。ジェニファー。」
「今日、お昼一緒にどう?健司。」
少し考えたが、たまにはいいかな。と思った。
「いいよ。たまにはいいだろう。」
「じゃあ、お昼にここに来てくれる。」
午前中、企画案件に目を通す。それなりにみな考えてはいるのだが、どれも、新鮮さにかけている。
確かに音楽業界の企画なんて、みな似たり寄ったりなんだろう。
溜息を一つつく。
「ボス。幸せが一つ、逃げましたよ。」
ケイトが、紅茶をカップに注ぎながら話し掛けてくる。
「溜息で逃げる幸せなら、本当の幸せじゃないよ。」
と返し、彼女にウィンクする。
これでは企画会議も開けられない。仕方なく自分の考えたものを出してみるか。
その企画とて、自分では気に入らなかった。
自分の企画を再検討してみる。
しかし、やはり問題がある。業界全体を敵に回すかもしれない。法的にも問題がありそうだ。
マーフィーがそういえば今日からCスタジオでレコーディングしているはずだ。
ちょっと覗いてくるか。そう思い、スタジオに出かける。
「調子はどうだい。マーフィー。」
なんとも、ロックミュージシャンにありがちな軽薄な声のかけ方。やや自己嫌悪を感じる。
「最高だよ。ミスター佐伯。いいアルバムが出来そうだ。」
「それは良かった。」
彼が満足しているのは、その大げさな身振りからも容易に理解できた。
そのまましばらく見学して、ジェニファーのオフィスに出かけた。
「ちょうど良かったわ。これから出かけましょう。」
ジェニファーと二人で出かけるなんてI国以来だ。
少し贅沢なランチ。
「おいおい、毎日こんなお昼食べてたら、体壊すぞ。」
笑いながら、ジェニファーは
「じゃぁハンバーガーでよかった。」
「すまない、先祖の言い付けでハンバーガーは食べられないんだ。脳味噌がスポンジになると言い伝えられているのでね。」
できる限りすまなさそうにこたえる。
「もう、少しも変わってないんだから。」
遠い目をするジェニファー。
「で、話はなんなんだ?」
「もう、デリカシーがないんだから。昔の恋人といるんだから、もう少し、ロマンティックに話せない。」
ナプキンをいじりながら、
「そういう話だったら、夜に誘ってくれよ。」
切り替えし成功。
「仕方がないわね。リンダの彼氏の事よ。あなた、かなり気に入ったみたいだけれど。」
「まぁね。何か問題があるのかな?」
少し、息をつきながら、
「問題は無い。出来たら、このまま一緒にさせてあげたい。」
「じゃあ君も気に入ってるんじゃないか。」
さっきの遠くを見るような目で、
「貴方が感じた以上に私は、気に入っているの。男の眼から見てどうかなと思って。」
「今夜、セッションするんだ。彼と。それで、何かわかるだろう。」
「お願いするわね。」
このときの食事は、リンダの結婚話で終始した。
いつの間にかリンダもそのような年齢になったんだなと親子の期間が短いだけに寂しさはかなりのものだ。
勤務時間を過ぎ、Dスタジオに入る事にした。
セッション
本当なら、Cスタジオが私のA国での滞在時に使うメインのスタジオなのだが、マーフィーに使わしているため、隣のDスタジオを使う事にした。
スタジオに入るなり、ドラムのまえに座る。
たまにドラムをたたくと気持ちがいいんだよな。
ウォームアップのあと、ドラムを録音する。
二、三度のテイクで、何とか気に入った感じにたたけた。
今度はそのドラムを本にベースを録音する。
なかなか良い感じ。
天才だ!陶酔していると、ノックの後に、リンダと高橋が入ってきた。
「へえ。お父さんベースも弾けるんだ。」
リンダが屈託ない笑顔で話し掛けてきた。
「あまり上手じゃないけれどね。それにドラムもね。」
高橋が目を丸くしながら、
「とんでもないですよ。相当なものですよ。今のプレイは。」
「ベース本職に、誉められると嬉しいな。なんかあわせてみるか?」
私は、彼に、フェンダーのジャズベースを手渡した。
彼は少し困ったような顔をして、ベースを受け取った。
「良いですね、このベース。長いこと弾いてないでけれど、イン・トゥ・ジ・アリーナやりませんか?」
良い選曲だ。ギター、ベース双方に見せ場がある。
マイケル・シェンカーが好きな私にはかなりポイントの高い選曲でもある。
演奏に入ると、驚いた。
いつもの控えめな彼からは、創造も出来ない力強い演奏。
良いベーシストであるのは、間違いない事実だった。
ベースソロでも、派手さは感じないが、華麗なテクを決めまくる。
演奏が終わると。、お互い顔を見合わせて笑っていた。
満足したという笑顔だ。
「良い演奏だったよ。凄いじゃないか。」
「いや、お恥ずかしい。久しぶりだったので、どうなるかなと思ったんですけれど。
流石に、伝説のギタリストの前ではへんなプレーは見せられないですから、緊張しました。」
私は彼に、エビアンとタオルを手渡した。
そこに拍手をしながら、入ってきた人物がいた。隣のスタジオでレコーディングしている、マーフィーだ。
「いや、凄いじゃないですか。彼は新しいメンバーですか?」
「いいや、娘の彼氏さ。メンバーじゃないよ。」
マーフィーはビックリした顔をして、
「えっ!そんな大きな娘さんがいるの?ビックリ。彼氏ミュージシャンなんだ」
マーフィーは高橋が、プロのミュージシャンだと勘違いしたままだった。
それぐらい彼のプレーは素晴らしいものだった。
「いや違うよ。彼は、建築デザイナーさ。アマチュアだよ。」
「うっそ!勿体ないよ。プロになりなよ。」
照れ笑いしながら、高橋は、
とても、そんなレベルじゃないですよ。建築も音楽と同じくらい好きなので、今のままでいいですよ。」
この辺りにも彼の生真面目さがにじみ出ている。
マーフィーは散々勿体ないを繰り返しながら、出て行った。
リンダは何か言いたそうにしている。
演奏で描いた汗を拭きながら、リンダに水を向ける。
「何か話があるんだろ。リンダ。」
リンダは、顔を真っ赤にして、うつむいている。
「私から話をしていいですか?」
高橋も顔を赤くしながら思いつめたように切り出してきた。
「ああ。構わないよ。」
「本当は、昨日にお話するつもりだったのですが、いい出せなくて申し訳ありません。
リンダさんとの結婚を認めて欲しいのです。」
[お父さん。こんな形で話はしたくなかったのだけれど、昨日言えなくて、今日言えなかったらどうしようかなと思って。そう思うと私・・・・ごめんなさい。」
「認めるも、認めないも無い。私が望むのは、君たちの幸せだよ。おめでとう。応援するよ。ジェニファーはこのことを知ってるのかな?」
私は、こみ上げてくるものを、こらえて、二人を祝福した。
「実は、お母さんにはまだ話してないの。その前にお父さんに話したくて。」
ジェニファーが本当にいとおしく思えた。
「ちょっとまってろ。すぐにセッティングしてやるから。」
私はすぐにジェニファーのオフィスに電話を入れた。
「ジェニファー。今夜予定あいていないか?大切な話があるんだ。シチリアというイタリアンのお店知ってるかな?
そこに二〇時に来てくれないか?予約入れておくから。元彼が夜に誘いをかけてるんだから、頼むよ。じゃぁ。」
シークレット
食事の後、ジェニファーが、二人で飲みたいというので、付き合う事にした。
「ありがとう、健司。」
そういった横顔は、先ほどまでとは違い、寂しそうだった。
「いや、俺なんか何もしていないよ。」
「わたしも、リンダ達には幸せになって欲しいと思う。私達の事を考えると、反対なんて出来ないものね。」
少し意外な言い回しに私は驚いた。
「反対なのか?」
「そうじゃないわ。不安なの。まだリンダは若いし。でも、好きな人が出来て、いい人なら、反対なんて出来ない。」
私は何を彼女に言えばいいのか、言葉を持ちあわせていなかった。
「寂しいのかも知れない。」
彼女はそうつぶやいた。
それ以上何も語ろうとしなかった。
「貴方も何か悩んでいそうだけれど。何かあったの。」
「別に、企画が出ないのでそれだけだよ。」
「そう。たまにはどう?」
「本気じゃないだろう。俺達は昔には戻れないんだよ。」
「そうじゃなくて、いつも悩みなんてなさそうだから、悩んでみてどうか?という事を聞きたかったの!もうこれだから、男って。美紀さんに言いつけるからね。」
穴があれば入りたかった。
しかし、引っ掛けられたような気がしたのは言うまでもない。
考えてある企画がないでもない。しかし、どうも自信がなかった。
「企画がないでもない。しかし、自信が無い。」
そういうと、
「自信がないなんて珍しいじゃない。」
穴のあくほど顔を見ながら、ジェニファーは言った。
この!毒づきたくなるのを必死に我慢する。
「どんな企画なの?誰が考えた企画?」
「俺が考えた企画だよ。」
私は企画について話し出した。
シークレットという企画だった。
対象は全てのミュージシャン。何の縛りも無しに音楽を出せればという企画だ。
アマチュアで音楽をしていてもCDなんてなかなか出せない。
まして、プロで出ようとすると莫大な費用がかかる。
また、そのレーベルに沿った、CDでしか発売できない。
そうではなく、プロモーションはGAのホームページや、青井電気のBGMシステムで行う。
ただし、実名も伏せるし、シークレットで発売した音源に関してはシークレット名でのライブは行わない。
全く秘密。覆面バンド。もちろん、プロのミュージシャンのも参加できるし、プロとアマチュアの混成バンドも可能だ。
問題はミュージシャンの契約によっては問題が発生するし、海賊版ではないのかということもいえる。
売上の三〇パーセントはユニセフに寄付をする。
という事で、業界内の理解を得れないかどうかという事だ。
話し終わると、ジェニファーは、
「いいじゃないのそれ。やりましょうよ。第一弾は、貴方のバンドでやってもらうわよ。」
いつものように勝手に話を進めだす。
「待ってくれよ、俺のバンドだっていっても、各々思いがあるから、簡単ではないよ。」
「そういうものなのかな。いいと思うから、業界の根回しは私に任せて。」
そういって、この日は終わった。
私は、それでも、この企画に自信はもてなかった。
というのも、どうも、私の道楽から出たに近い企画だからだ。
私自身の音源を売るということにも罪悪感を覚えたからだ。
そんな思いを抱きながら、滞在時間も残り少なくなってきていた。
急がなくてはならないというあせりもあり、
マーフィーに企画についての意見を聞こうと思って、スタジオに足を運んだ。
確かに、あまり誉められた事ではないが、それだけ切羽詰っていたのだ。
マーフィーは以外に乗り気だった。
チャリティー企画として押し出せば、理解は得られるという話だった。
是非、参加したいとまで言ってくれたので、多少自信が出てきた。
これをもって企画会議に計る事にした。
これまた意外に全会一致で企画がとおることになった。
社長の企画だというのは伏せていたのは言うまでもない。
白血病
そんなこんなで、数日は慌しく過ごした。
いつまでも、本社をあけておくわけも行かず、帰国の準備をはじめたある日。
私のオフィスの電話がなった。
電話の向こうはGA本社のジェニファーの秘書ケリーからだった。
「佐伯社長。大変です。ジェニファー社長が倒れられました。セントラル病院までおいでいただけませんか。」
私はとるものもとらず、すぐに駆けつける事にした。
病院につくとケリーが待っていてくれた。
ジェニファーの様子を聞いているところに、ドクターのトムソンがやってきて、話があるという。
「佐伯さん。とりあえず大丈夫です。貧血です。少し寝かせてあげて。すぐに意識が戻るでしょう。」
「それと、後で、私のところに来てください。では。」
このとき、私はドクターの
「とりあえず」
という言葉に注意を払うべきだったのかもしれない。
ベットに横たわるジェニファーは急にやつれた様に見えた。
透き通ったように見える肌も今は妙に痛々しく思えた。
ベット横にしばらく、ついていると、ドクターが、私を呼びにきたので、そのまま彼について病状の説明を受ける事にした。
「佐伯さん。アンダーソンさんから、何も聞いていないですか?」
探るような目で、彼は私をみてそういった。
「佐伯さん。実は、アンダーソン社長は白血病です。」
「なんだって?」
「白血病です。進行はかなりゆっくりですが、もう、4年ぐらいになります。」
なんて事なんだ。
私自身、頭をハンマーで叩かれたような衝撃に、目がくらみそうだった。
「ジェニファーは病気の事を知っているのですか?」
何とも情けない質問だ。
「ええ。正確に病状を把握されています。」
悪い冗談であって欲しかった。
愛する人と結婚できずに、そして、今、娘が幸せを手に入れようというときに、自分の幸せを手放そうとしている。こんな悪夢のような事が有っていいのか。
「先生。治療方法はないのですか?」
望みを先生の答えにかける。
「残念ながら、骨髄移植が今すぐできれば、ですが、それでも助かる確立は五〇パーセントぐらいでしょう。ドナーも、まだ現れていないので、非常に厳しいです。はっきり言います。もって後一年です。」
地獄のそこに叩き落された思いがした。
「後は、なるべく本人の気に入るように生活をさせる事です。
ただし、なるべく早く、社長を引退され、ゆったりと過ごされる事を私は勧めます。」
「わかりました。ありがとう。」
それだけ言うと、私は、ジェニファーの元に戻った。
ジェニファーは、気がついていた。
大きな目で私を見。そして言った。
「一番知られたく無い人に知られてしまったようね。」
そして、微笑んだ。
「ジェニファー。」
「私ね。死ぬのよ。もうすぐ。これは変えられない。せめて、リンダのウェディングドレスを見たかった。でもね。貴方をGAに招き、リンダに会わせて、会社も、何とか一族ではない人間から、経営者を選べるような雰囲気までに持っていった。それなりに、頑張った。後は、リンダの幸せを貴方と高橋さんにお願いするわ。」
「まだ、希望が全くないわけではない。そんな言い方・・・」
「止めて。私の身体は、私が良く解っている。無い希望をもつほうが辛い。来月の役員会で、退任を発表する。次の社長はハリソンにお願いしようと思う。」
ジェニファーは気丈にも、泣いていなかった。
その前で泣く事も出来ず、呆然と立っているだけだった。
「リンダは病気の事を知っているのか?」
やっとの事で言葉が口から出てきた。
「知らないわ。誰にも話していない。」
溜息をつきながら話すジェニファーは辛そうだった。
「では、俺から、話をしよう。」
「そうね。お願いするわ。」
運命を達観したような感じ。
諦めさせるのには余りにも、短く儚い人生。
二,三日入院したほうがいいということもあり、私は、彼女を残し、病院を後にした。リンダのいる家に向かって。
悲しみ
ジェニファーの家に着くとすでにリンダは帰っていた。
インターフォンに呼びかける。
「こんばんは。リンダ。私だ。入れてくれないかな。」
「夜中に男の人を入れると、いけないとお母さんに叱られるんだけれど。」
無邪気に笑う、リンダにどう話せば良いのだろうか。
「リンダ。大事な話なんだ。重要な事だよ。だけど、落ち着いて聞いてくれないか。」
「お父さん。どうしたの?改まって。」
「ジェニファーが今日、倒れた。今病院に入院している。」
顔色が見る見る変わっていく。
「どんな様子?今すぐ病院に行かなきゃ。」
「待つんだ。リンダ。ジェニファーは、取り敢えずは落ち着いたよ。三日ほど入院するかもしれない。だけど、だけど、それだけじゃないんだ。ジェニファーの病気は白血病なんだ。」
こらえていたものが、一度に噴出すのがわかる。
私は、リンダを抱きしめた。
リンダに泣いている顔を見られたくなかったから。
「明日、私は、病院に行く。私の骨髄を調べるつもりだ。その後、一旦帰国する。」
「お母さんを一人にするの。お父さん。お母さんを一人にしないで。」
リンダの気持ちは痛いほどに解る。でも、それは出来ない事だった。
「それは出来ない。一緒にいたほうがジェニファーは辛いと思うよ。前にも言ったが、お父さんと、お母さんの関係は、過去の事なんだ。お父さんがいれば、かえって、お母さんの迷惑になるだろう。」
「そんなの、お父さんの都合じゃない。お父さんを愛しつづけて、一人で過ごしてきたお母さんに対して、余りにも冷たいんじゃない?」
「そうだよ。お父さんは薄情さ。それでいいよ。」
私は、その場を逃げるように後にした。
昨日会った、ドクターに面会を求め、私の骨髄を調べてもらう事にした。
結果は日本で受け取る事になった。
その日に帰国する予定で、外せない仕事があったので、やむおえず後ろ髪を引かれる思いでA国を後にした。
健司の愛・ジェニファーの愛・
「来てくれたのリンダ。」
お母さんは思ったより元気そうだった。
「お父さんから、私の病気の事聞いた?」
お母さんは笑いながら聞いてきた。
その姿が痛々しく、ついお父さんへの不満を口にした。
「お父さんが、あんなに薄情で冷たい人だと思わなかった。」
「何かあったの?リンダがお父さんの悪口を言うなんて。」
お母さんは戸惑っているみたいだった。
「私、お父さんにお母さんと一緒にいてあげてと御願いしたのに、出来ないって、今日帰国したわ。薄情だといったら、そうだよって。」
お母さんは噴出した。
「それは、無理よ。お父さんはあなたのお父さんだけど、私の夫ではないのよ。」
「そんなの解っているけれど、お母さんは、ずっと一人で、私を育ててきて、今、病気になったのに、あの人はお母さんに付き添ってもくれないじゃない。」
お母さんは、今度は真剣な表情になって私にこういった。
「あなたは間違ってるわ。お父さんは悲しんでいるわ、それに凄く心配もしてくれいる。
だけど、できることと出来ない事がある。私は独身だけれど、あの人には奥さんがいるのよ。お父さんが、私が息を引き取るまで一緒に暮らしてくれれば、私は嬉しいけれど、美紀さんはどうなるの?早紀ちゃんや誠君はどう思う?お父さんは、ぎりぎりで、大人の判断をしているのよ。傷つきながら。あの人ほど、自分の出来ることに精一杯の人はいない。あの人の倫理観がそうさせているのよ。」
「それに、私に付き添えば、マスコミに嗅ぎつけられないとも限らない。そうなれば、格好のマスコミの餌食よ。もう一つ言えば親戚からは、お金目的だといわれかねないしね。」
私はショックだった。
無理な事を行った上に、ひどいことを言ってしまった。
大人の愛に打ちのめされた感じだった。
空港から、会社に直行し、全ての仕事を片付けた。
いつもと変わらず、タンタンと時間が過ぎていく。
何も変わらない。その事が余計に気持ちをいらだたせる。
家に帰り、リビングで、ソファーに身をゆだねる。
「何があったの?あなた。リンダさんが泣きながら電話をしてきたわ。」
「ジェニファーが、白血病なんだ。ドクターはもって一年。そういった。」
私は、感情の無い声でその事実だけを告げた。
美紀も流石に驚いたようだった。
「そばにいてあげてよ。ジェニファーさんの。」
「そんなの事許されるわけがないだろう。」
「どうして。」
もうたくさんだった。
「いいかい。私とジェニファーは結婚していないんだ。しかし、男女の関係にあったことは、みんな知っている。この時期に一緒に過ごす時間が多ければ、人の噂にもなるし、取材とか何とか押しかけるやからが出ないともいえない。それでは彼女の為にはならないだろう。それに、ジェニファーを抱きしめてあげたいよ、肩の震えを抑えてあげたいよ。
でも、それは倫理的に許されない事なんだ。なぜなら、私は、美紀を愛している。美紀とは結婚しているんだ。いま、美紀を置いて、ジェニファーの元に駆けつけたら、早紀や誠はどう思う。自分の感情や愛情では動けない立場に私はあるんだよ。このことは、私たちが二〇年も前にした事の付けが回ってきているんだよ。」
私は一気に喋って、この問題の議論を打ち切るつもりだった。
しかし、美紀も意外と頑固だった。
「私への気づかいは嬉しいわ。でも、貴方はそれでいいの?気持ちを偽っていない?
気持ちを偽ってまで、私をいたわって欲しくないの。それって悔しいじゃない。」
「では、行っていいのか?ジェニファーの元に、彼女が息を引き取るまで、二人で生活していいのか?」
流石に、美紀も意地になってきたようだ。
「それとこれとは、話が違う。でも、貴方がそう望むなら行けばいいじゃない。」
「そうじゃないだろう。俺が望むんじゃなくて、ジェニファーの望みが大切なんだろう。みんな、ジェニファーの気持ちを無視して、不必要に可愛そうがっていないか?こちらの気持ちの押し売りみたいな事をして、相手が喜んでると思うのは、エゴ以外のなんでもないよ。俺達は大人なんだから、もっと分別のある行動を心がけるべきだろう。」
私は、そういって、書斎に閉じこもった。
そして、泣いた。
涙が枯れるまでというが、枯れる事は無かった。
私にできることはあまり残されていない。
せめて、骨髄だけでも一致すればと思ったが、
メールで送られてきた、検査結果はそんな甘い期待をも打ち砕いた。
ジェニファーの引退
役員会はやはり混乱になった。
ジェニファーは会社から退き、社長はトーマス・ハリソン氏が就任した。
始めて、アンダーソン一族以外の社長が誕生した。
アンダーソン家からは、多少の抵抗はあったものの、社長を引き受けられるだけの器量人がいないので、最後には引き下がった。
岡本氏が副社長に昇格し、私はGA日本法人の責任者に押されたが、固辞した。
GAミュージックの社長に専念したい。新たな企画を進めている最中なのでということを理由にした。
しかし、肩書きだけGAの取締役がついた。
ジェニファーの様態は一進一退を続けていた。
会うたびに痩せていくジェニファーを見るのは辛かったが、A国に行く時は、必ず、何日か余分に滞在する事にはしていた。
私が企画した、シークレットという企画は、思いのほか好意的に、業界に受け入れられた。
第一弾は、リトルウィングのメンバーがロスト・ホロイゾンというユニット名で音源発売をし、シングル曲がオリコンの八位まで顔を出すヒットとなり、アルバムはなんと一位に輝くヒットとなった。
ミステリアスな存在、チャリティ、楽曲のクオリティと演奏力がうけたようだ。
それに、GAの社長の引退劇も何らかの作用をしているのは間違いなかった。
日本国内にとどまらず、A国、B国のチャートもにぎわす勢いだった。
第一弾としては、文句無しの大成功だった。
これを機に、ミュージシャンからの問合せが殺到した。
第二段、第三段のシークレット企画も順調に進んでおり、マーフィがかなり協力的に動いてくれている。
彼も第五段で私とユニットを組んで出す事にほぼ決まった。
リンダの結婚そして
そして春が来た。
ジェニファーは比較的落ち着いており、顔にも生気が見られるようになっていた。
リンダの結婚式の当日、私達は一緒に式に出ることにした。
ジェニファー自身が一度も袖を通す事の無かった、ウエディングドレス。
リンダのその姿を嬉しそうに見つめていた。
式は滞りなくすんだ。
「ジェニファー。ありがとう。」
「どうしたの急に。」
「いや、娘を産んで、一人で立派に育ててくれた。何時か、この気持ちを君に言わなければと思っていたんだ。」
「それが、私の勤め。あなたのことを本当に愛していたからね。」
その後のパーティーは私の止めるのも聞かず、出席をして私をはらはらさせた。
パーティは終止和やかに進んだ。このパーティで、リトルウィングは数曲演奏した。リンダの為に作った曲と、ロストホライズンのカバーをも演奏した。みんなそのそっくり差に驚いていたが、当たり前。自分たちなんだから。この時、覚えている限りジェニファーの前では初めての演奏だった。
演奏が終わって、席に戻ると、ジェニファーは上機嫌だった。
「良かった。初めてね、あなたのバンドの演奏を生で見るの。素晴らしかった。パーティに出席した会があったわ。それに、リンダのウエディング姿が見られて。私は着れなかったけれど、私の分も幸せになって欲しい。私は、あなたに会えて本当に良かった。」
そこで一旦、ジェニファーは言葉を切った。
「有難う。私の人生を楽しく素敵なものにしてくれて。」
ジェニファーの目から、大粒の涙があふれていた。
あなたを愛しているわ・・・・・」
そう言って、ジェニファーは目を閉じた。
私は慌てて、彼女の脈を取ったが、すでに、ジェニファーの鼓動を感じる事は出来なかった。
そのまま静かに、車椅子を押し、待機しているドクターのところにジェニファーを運んだ。
ドクターは静かに十字を切り黙祷をジェニファーにささげた。
私はそのとき始めて、人前で泣いた。
鼓動を感じなくなった、ジェニファーを抱きしめ、声をあげて泣いた。
周りに人が集まってきたが、そんなのもうどうでもよかった。抑えてきた感情は制御不能になっていた。そんな私を止める事は誰にも出来なかった。
エピローグ
ジェニファーは逝ってしまった。せめて、リンダの子供の顔を見させてあげたかった。
しかし、結婚前の妊娠にはいささか、神経質になっていたので、それも致し方が無かった。 リンダが子供をもうけたのは、それから一年後の事だった。
高橋君と私とリンダで、ジェニファーの墓前に報告をした。
私のシークレット企画も毎回好評を得、高橋君ともアルバムを出す事に成功した。
ジェニファーは幸せだったのだろうか。私は、もっと違う形でも愛せたのではないのだろうかと思うことも会ったが、私という人間には出来ない相談だ。そんな私を恨む事も無く、旅たっていった彼女は、やはり幸せだったのだと思うことにする。
美紀との仲がこのことで、悪くならなかったことを最後に付け加えておく事にする。