受け入れがたい現実
紺野に連絡先を教え、千鶴が帰って行った。彼女を見送ったドアが閉まる。
ふう……と守は思わずため息をつくと、さっきまで必死に取っていたメモに目を落とした。
荻原千鶴、千歳くらい、人魚の肉、夫だけ死ぬのが辛い、などなど。最後の「死ぬ方法探し」という言葉には、分かりやすくアンダーラインが引いてある。
……我ながら、小説の内容でもメモしたのかと思うほど、現実味のない言葉ばかりだ。
今でも、頭がふわふわしている。千鶴が来ていたあの時間は、本当に現実だったのだろうか。
もしかしたらあれは全部夢で、本当の僕はまだベッドに寝ているんじゃ……
「おい」
……などという淡い期待は、紺野の掛け声によって掻き消えた。
「何をぼさっとしてんだ」
「……いえ」
顔を上げれば紺野の顔。
ああ、やはりここは夢の世界ではないらしい。
幻滅する守の心を読んだように、紺野が「夢だとでも思ったか」などとだめ押しするから、守は余計に幻滅した。
「あの……どういうことなんですか」
二人ソファに戻り、紺野にメモを手渡しながら、守は聞いた。
「何が」
「いや、何がって……」
眠たそうにメモに目を通す紺野に、片眉を上げる。
何がって。
わざとはぐらかすようなことを言う彼に、守は腹が立ってきた。
こっちは何も分かっていないというのに。いきなりこんな信じられないような話を聞かされて、正直、もう精神はぎりぎりだというのに。
「全部ですよ。こんな山奥で急に雇われたかと思えば、千年生きてるなんて言う若い女の人が来るし。しかも、自分を殺してくれなんて相談。僕には……意味が分かりません」
「そのうち慣れるって」
「慣れる? こんなおとぎ話みたいなことが起こってるのにですか?」
「そうだ」
「こんな、得体の知れないこと……危険だって、あるんでしょう」
「……あることも、あるな」
「…なっ……そんな…そんなことに……、」
『僕を巻き込むなんて』。
そんな言葉が喉まで出かかって、止まった。紺野がぬらりと顔を上げ、こちらを捉えたからであった。
紺野の目が、先ほどと同じように眠たそうであるのに、射るように冷たく強い威圧感を放っている。
………怖い。
「たとえ意味が分からなくても、そこに困っている『もの』がいるのは事実だ」
「……でも…」
「いいか、この世にいるのはただの人間や動物だけじゃないんだ。最初に言わなかったのは悪いと思うが、その事実は変わらない。そういうやつらと関わるのが嫌なら、助手をやめてこの山を一人で下りてもいいが」
「…………」
「お前にそれができるのか。できたところで、この先どうすればいいのかも分からないくせに」
「…っ…なんで、それを……!!」
守はぎりりと歯を噛み締めた。
そうだ。この山の中から無事に帰れたとて、守にはもう、家も金もないのだ。
「あんなナリして、ここに数日いても何ともなさそうなお前見てりゃ、そんなことすぐに分かる」
「………!!」
正論だ。
守は何も言い返せずに、押し黙った。
守がもう何も言えないと見て取ったのか、紺野がメモに視線を戻し、
「……分かったら少し頭を冷やして来い」
「…………」
………ああ、もう。
こんな所、出て行ってやる。出て行ってやるからな…………!
守はすっくと立ち上がる。
そしてそのまま早足で玄関に向かい、ばたんと扉を閉めて、外へ出たのであった。
*****
「意味が分からない、ね……」
紺野は一人、呟く。
とりあえず、書斎にある八百比丘尼について触れていそうな文献を探し出し、ソファでそれに目を通していたのだった。
ありゃ、だいぶ怒っていたな。
あのようなことを目の当たりにして、すんなりと受け入れられる人間など、そうそういないだろうから、無理もないけれど。
『相談者が来る。そいつらの悩みを解決するのが仕事だ。お前は、その手伝いをしてくれればいい』
守にした仕事の説明といえばこれくらいである。
確かに、最初からきちんと説明しなかったのは悪かったのかも知れない。
しかし、初めから『人間でないものが来るから〜』などと説明したところで、信じてくれたのか。
……甚だ疑問だ。
だから紺野は、あえてあまり説明しなかったのだ。
「………」
ちらり、時計に目をやった。
16時40分過ぎ。11月も中頃の時分、そろそろ日が暮れてくる頃だ。
守が飛び出して行ったのは、何時頃だったか。
千鶴が去ってからすぐ、まだ明るかったはずであるから、15時半くらいであったろうか。
「…一時間ちょっと……か」
守はまだ、この山の勝手が分からないだろう。これだけ戻って来ないということは、迷っている可能性も……なくは、ない。ここは山の浅いところでもないから、運が良くない限り、勝手を知っていないと下りられないと思う。
探しに行くか?
けれど、いくらこの山のことが分かるとは言っても、暗くなってから出るのは危険だ。
襲ってくるような動物だっているし、足場が見えないのでは満足に歩けない、崖を踏み外すかも知れない。
守にとっても同じことであろうが、紺野にとって、正直なところを言うと、守はまだ「赤の他人」だ。
危険を伴わない方法もないではないが、どうにも面倒である。
紺野は無駄なことを好かない。そんなやつのために、手を煩わせたくなかった。
気持ちの問題だけで言うと、「あいつがどうなろうと、俺の知ったことではない」と思っているから。
しかしーーー
「……はぁ〜あ……」
紺野は気の抜けたため息をついた。
今、守を失うのはあまりに痛手だ。
最初に見かけたときに、こいつならいけるかも知れない、と思った。
泥酔し、木にもたれかかっていた守の、あらゆるものへの諦めが色濃く浮かんだ瞳。こいつは社会に絶望していると直感した。
それに、3日間ここにいて、帰らなければという言葉が一言もなかったところを見ると、帰る理由がないのだろうと思った。
とすれば、仕事を辞めていて……もしかしたら、家すらもないのかも知れない。
心配してくれるような人間も、いないのかも知れない。
すなわちーー守はもう、何も持っていないのではないか。
そんな紺野の読みが当たっていれば、守は紺野にとって、まさに求めていた人材ということになる。
もちろん、ある程度真面目であったりとか、そういうものも大切なことだけれど。
失うものがない人間。それがこの仕事にとっては特に重要なのだと、紺野は思っているから。
「………しゃーなし、だな」
今開いている分厚い書物をばたんと閉じると机の上へ置き、腰を上げる。
探した方が、今後のために得策だ。
結局紺野は、そう判断したのだった。