村崎姉弟の「サザンの嵐・シリーズ」宣伝
──とある町の、名もない女子高生の自宅で──
「お姉ちゃんの、洗濯物もあるのだけれど……」
引き戸式のガラス戸を開けたついでに、そこに立って耳を澄ましてみれば、屋根を並べた町の全体から暮らしの息づかいが聞こえてきそうである。隅々に、ほったらかされた小石の転がっている小さな庭は、庭師が手入れをした木が植えられているのでもなく、物干し竿が一本だけ真横にかけてある。ガラス戸が開け放たれた畳の部屋から眺めると、床とガラス戸と天井で縁取られた大きな長方形の、人が気ままに出入りできそうな、風通しよい風景ではある。
その物干し竿は、雑草の生えた土の上に、幾何学的な影を落としている。しきつめた畳のはしに、すでに取り込んだ洗濯ものが、たたみかけて置いてあった。部屋の中で立ちつくすジャージの上下を着る少年は、夕方までにはまだ時のある、西陽の黄色を背中に浴びていた。高層の空は、青の中にさざなむ海の泡立ちに似て、雲が細かく並んでいた。それが太陽に照らされて輝いている部分と影をつくっている部分があり、あまりに秩序よく並んでいるものだから、日本刀の刃文が一つ一つ並んでいるようにも見えた。
その雲は高い空で留まっていたが、低層を流れている綿アメのような雲の一つが太陽をかくした。その大きな影は庭と部屋をむらなく薄い黒に塗り広めて、少年のしなやかな髪と小さな肩もしばし暗に入れる。すぐにまた、陽がさし込み、少年の憂える瞳が影の中から、あらわになった。陽を吸い込む畳の匂いの上に影を落とす。少年の唇は切り結び、半分は悲しげで、もう半分は慕う気持ちをはらむ押さえた顔である。
「トオル、そんな顔をしないで、その剣をひろって構えるがよい」
「……またやるの? 洗濯物をしまわないと、お姉ちゃん。しかもこんなものまで……」
トオルは、姉であるカザカの前に立っている。斜めに陽が入る畳の部屋で、トオルは一本の横たえたものを目の前に、重く悩んだ表情をかくさない。それは『ノンマルタス伝説』のときに剣を想像して即席でこしらえた紙の棒とはまるで違う。明らかに中世か、それ以前のヨーロッパの剣士が使った重々しい長剣の形をしていた。
唇をむすび直すトオルの戸惑う空気がただようもかまわず、カザカが白い歯をみせる。
「いやね、演劇部が学園祭で『アーサー王の最後』と『ジャンヌ・ダルク』に使っていたプラスチック製の小道具で。そこから借りたんだけれど、交渉に手間がかかってね。何に使うのか、壊さないでよって、いろいろしつこく聞いてきたんだよ。これ本物のロングソードみたいでしょ?」
「また、この前みたいにふざけて振り回して遊ぶつもり? もし当たったら危ないじゃないか。それに、お姉ちゃん! その胸に鎧まで着けてしまって!」
厳しく問いただされるカザカは、剣の切っ先を足元の畳に突きあて、微笑み返す。
「むふ、演劇部に感謝、感謝」
第一ボタンをはずしている白いワイシャツに、ゆるく結んだ赤いネクタイ、格子縞の短いスカートをはき、とにかくそのままの外見であれば、どこにでも見つかるような女子高生の姿ではある。が、今はそれだけではないのである。カザカの胸の周りは女性の体型に合わせた鎧が、にぶい鉄色をきらめかせていた。
「どう? 勇ましそうな姿でしょ?」
しみじみと眺めたトオルの瞳には、姉の胸をはる姿が鏡のように写しだされている。トオルはその瞳を閉じて、力のぬけるため息をついた。暗い顔色をうかがったカザカは、眉尻をつかの間さげた笑顔で、手のひらを上下に振り弟をなだめてみせる。
「大丈夫、寸止めしてみせるから」
初対面であれば理解のできない彼女。知るものならば、およそ推察できる彼女の、一人勝手な欲望を思い描く、ショートカットの下にきらめく大きな瞳である。その姉を前に、トオルは、憂鬱に変な熱が出てしまい、体の温度を確かめるために手のこうを自分の額にあてた。その細い指は少年の重い気分を表してか、ほつれてしまったように折れ曲がり、目鼻に影をつくりそうである。ついでに彼の細やかな両の手は、顔のすべてを抱え込みそうである。
「そこまでして……いさましい、というより、いたましいよ。可愛そうなお姉ちゃん……仕方ない。ボクのお姉ちゃんだから」
「うんうん、今回は『サザンの嵐・シリーズ』。トオルはもう読んだよね?」
「う、うん、読んだけれども……」
「おお、優秀、優秀、で、おまえは青銀の髪とエメラルド・グリーンの瞳ではないけれど、ロト・オリオニス・サザンだ」
「はい、僕はロトになります。それで、お姉ちゃんは、何の役?」
「うむ、私は漆黒の髪と青い瞳ではないが、ハロルド・コル・レオニスになる。ああ、ハロルドさまぁ、端正な顔立ち……いや、私がハロルドか?」
「何の役でもいいよ。早く終わらせよう」
迷いをぬぐったトオルは身体を低くかがめ、床に右腕を伸ばした。白い指先が剣に触れようとしたそのときである。
「そこの少年! お待ちなさい!」
離れたところから、艶はあるが、どことなくわざと鼻の通りを悪くしたような女性の声が、トオルの片耳へとんできた。
太陽の光を背に照り返す少年は、驚いた顔を隠さない。剣を取ろうとする手も止まる。
一方、カザカは、
「な、なんだ!? おまえは何者だ!?」
声の投げてきた方向へ睨み返して何者かを問う。姉弟がそろって向けた視線の先に、制服のブレザーを着ている一人の少女が立っていた。少女は部屋の壁ぎわから姉弟を見据えている。どちらかというと姉の様子をじろっと凝視、両手を石のように固くにぎりしめていた。そのまま足取りも勇ましく姉弟へ近づいてくる。靴下をはき、短いスカートの下に太ももが見える少女の両脚は、少年のとなりまで来て止まる。
「トオルくん、下がっていて。それはわたくしに任せてくださらないかしら?」
「あ、うん、早苗さん」
トオルは年上の女子高生を見つめるなり、安堵した声音でうなずき返した。
「でも早苗さん?……」
が、トオルは離れながらも、早苗の髪型を見てすぐに疑念の目を宿す。見つめたところに普段の温和な表情もない。カザカは剣を握ったまま口を開けて、いきなり半歩だけ後ろに退く。
「な、なんで、サナちゃん先輩がこんなところに!」
疑問を口にして固まった顔ではあったが、すぐに盗み見るような笑顔にくずれる。
「ぷっ、サナちゃん先輩、なんだよその髪は? そうそう、それそれ、その頭の両側にある変なもの」
「……急いで作りましたの」
「ツインテール? うん、まあ、微妙なところだよね」
「……くっ……」
「ぷふっ、かわいいなあ。歳よりも幼くみえるよ」
「むむ、なんという悪態。 失礼な!」
頬を紅潮した早苗はカザカへ人差し指をさす。指先からの気迫が雷のようにはなち、周囲の空気を吹き飛ばしそうだ。
「先週、カザカへ貸したCDを返してもらうために、前もって連絡して三十分前にきたんでしょうが!」
「あ、はいはい、そうだったね……うん、悪かった。でもね。延滞料として『百合の谷のドラゴンスレイヤー』の新刊を貸して、紅茶とドーナッツも出したでしょ?」
悪びれないカザカは部屋の隅へ顎をしゃくる。向かい合う姉弟から遠ざけられた形で、部屋の隅にテーブルが一つあった。テーブルの真ん中には細い花瓶がそっと置いてあり、はずかしそうに一輪の花がさいている。
「季節外れだけれど、あのササユリはきれいだよね。トオルがさしたんだよ」
「あら、そうですの?」
「うん、でね、よく見てあの花、リア・ティノスにも似ているよね?」
「え、ええ……」
「ちょっと力を入れて触れると花びらが散ってしまいそうだよね」
「ええ、そうですわね」
「もう、トオルみたいに見える? トオルが花になるとあんなふう」
「……そうですわね……」
「触れると香りが失われてしまいそうな」
「ううん、でも……」
「もしかして嫌いなの?」
「いえ、そんなことありませんわ。トオルくんの優しい心を象徴するようで……」
「そうそう、そうだよね。うんうん分かるよ」
「心がつらくなるというか、わたくしはもう、夜になると骨の髄まで……って話をそらさないでくださるかしら!」
「あは、やっぱり?」
後輩のずるがしこい策に気づいた早苗は、目鼻立ちのととのった顔を歪めて、片方の眉毛を電気が走ったようにぴりっと震わせる。その胸の奥深くに、高熱で溶けているものがマグマだまりとなって、次の瞬間は地表を揺るがす大噴火が起こりそうな気配である。
「ふ、ふふっ、うかつでしたわ」
「それでなんでお怒りなんですか?」
「だから……だからそこのテーブルで静かに読んで食べていたのに、うるさくて、落ち着けなくて、我慢の限界ですわ!」
「あ、そうそう、そうだったね。チョコリングはどうだった?」
「ええ、とても上品なやわらかい感触で」
「サナちゃん先輩のために用意したんだよぉ」
「あら、それはどうも、カカオをふんだんに使ったチョコの風味と重なって……くっ、陽動にはひっかかりませんわよ!」
燃え盛る前の火種がくすぶる早苗を前に、カザカは癖毛のあるショートカットの頭に手を置いて舌をだす。反省したというより先輩を小バカにしたしぐさだ。
「てへっ。ところで、その話し方はなに? いつものサナちゃん先輩とは違うよ」
尋ねられても早苗は答えない。その代わりにトオルのために用意された床の剣を代わりに掴み上げ、グリップを右手でしっかりにぎる。
「わたくし、リンが相手になりますわ」
「ああ、先輩はリンを演じているのか」
「そこのゲスな女! いつも暴力が嫌いな美少年を、執事かオモチャにして、学園でも噂が絶えないのですよ」
「そうかなぁ」
「自覚しなさい! 反省なさい!」
「だってぇ、人と屏風は真ぐでは立たずというか、サナちゃん先輩は関係ないじゃん」
叱責を受けて言い返すカザカは、視線を誰もいないところへ見据えて知らぬ顔をつくる。
「聞いていますの? わたくしが肩身の狭い思いをしているのですよ」
「そうですか?」
「あなたは私の後輩なのですよ。面倒をみなければならないのよ」
「えへん、サナちゃん先輩はトオルを枕にして色々な話題で堪能しているからかなぁ」
「そ、そんなことはありませんわ」
「ねえねえ、トオルのどこがいいの?」
「え? どこがって……」
「髪はさらさらで目はぱっちり、睫毛が長くてぇ」
「う、うん……」
「顎も細かく、抱き締めると折れてしまいそうな。そそるというか」
「いえいえ、守りたいって感じですわ」
「うん、はかない……」
「そうね、力を見せつけるために大声を出したり腕力を使う野蛮な男どもとは正反対で、生き物を大切にして、親切で、心をゆるすことができて……」
「肌が透きとおって、みずみずしいところが特にぃ」
「そうそう、胸の奥でぎゅーっと……」
応じていた早苗が我にかえって目を丸くする。
「姑息な! そんな陽動にはひっかかりませんわよ!」
「ふふ、無理な演技をするから頭がこんがらがるんだよ」
「ええい、それよりも、少しは弟を見習ったらどうなの!? トオルくんの爪の垢でも煎じて飲みなさい!」
「うん、それはいいかもしれないね。いっそのこと、指をしゃぶっちゃおうかなぁ……」
「こ……この、ハレンチな、ぬかしましたわね!」
カザカの止まぬ挑発で、早苗は唇を噛み締めた。
「こうなるともはや、あなたは気配りのかけらもない、いびつな器の小さな性格! このわたくしが、リンが、アル・サドマリクの第三王女として成敗して差し上げますわ!」
次々に燃料を投入されてしまった早苗は、目尻を吊り上げてブレーキのきかない迫力ある演技をみせる。カザカはさらにまた一歩、後退。はいている藍色のハイソックスですべりそうなほどである。目は凍りついてしまった。
「うわわっ! まさにリンだ! アル・サドマリクのお姫様。今までの言葉は取り消します! その情熱のこもった演技! すっかりなりきっている芸当!」
カザカは唾を飲み込み、首筋に汗も吹き出る。後悔の念を表して事なきにするのかと見えた。が、すでにカザカもブレーキの壊れた燃料投下装置となり、いたずらな細い目の顔色に改める。
「でもそれならツインテをコロネに……」
「な、なんですってぇ?」
耳をそばだてたくなるような、わざと小さい声をかけられた早苗は、眉間をひそめた。
「またその話ですの? 今なんと?」
「だから、大げさな事ではないけれど、その“にわか作り”のボサボサツインテが、小犬のシッポみたいで、もっと上品に、コロネのようにボリュームのある縦髪ロールにして……」
「……ふむ……」
カザカの様子をとらえながら早苗は、自分の束ねた髪の先をいじって確かめる。
「そうそう、もっと長くふわふわとした感じにすれば本物のリンになれるかな」
「そ……そうかしら?」
「うん、でも、プラチナ・ブロンドの髪とエメラルド・グリーンの瞳ではないから。顔も庶民的だし。ごめん無理だったよね。ああ、言いつくろわなくていいからね。ぷふっ!」
「くぅ~っ! はなっからあきらめていましたけれど、その減らず口を黙らせてさしあげますわ! リンは許しませんわよ!」
口調に怒りを込めらせた早苗は、トオルが持つはずだった長い剣を握りなおす。
「無礼極まるそこの剣士、言い分を通そうとして撹乱して、いろんなことを言っても通りませんわよ。苦しみに身をゆだねさせて一生後悔させてあげますわ!」
いまいましい態度は、ツインテ少女の心中から火の手をあがらせてしまった。カザカは、額からさらに汗がまた一滴。その戸惑ったあかしの汗を裏切るように目が得体の知れない強気を映しはじめた。
「でも、そんなに熱くなっても私に勝てるのかなぁ?」
「どういうことかしら?」
「そう興奮するな、アル・サドマリクの幼い王女。ささ、お覚悟を!」
すでにトオルの存在は、姉とその先輩の熱気から置いていかれていた。その少年がそしらぬ顔で二人の少女らへ背中を向けようとする。
「行ってはだめトオル! そこで見ていなさい!」
「だって洗濯物が……」
「いいからお姉ちゃんの勇姿をとくと見ていなさい」
そのとき、部屋の中は物音ひとつなく、カザカは『屋根の構え』を見せる。口の端をつり上げて、白い歯の一本が吸血鬼のように光った。
「ふふふ……」
落ちつきはらった風情である。すると、早苗はどうするのかというと、ひるむことなく騒いだりもせず、ただ涼しげに見返した。
「あら、横縞な姉など、恐るるに足らず」
以前のトオルがしたことと同じく、早苗も長剣を両手で垂直に構えた。これはカザカの思惑どおりの流れに見える。
「どうする? リンお嬢様」
余裕の笑みでカザカが挑発、自分の策に乗らせようとしたときである。早苗の剣が何の前触れもなく、カザカの正面めがけて切り下ろしてきた。
「うわっ! はやいっ! ノーモーション!」
早苗の、気配も消して、止まった姿勢からの、先にしかける予想外な瞬発の初撃である。それは中学生のトオルが、細い腕によってなんとかして見せた一太刀とは比べ物にならない速度である。
虚をついた早苗の斬撃を止めるため、カザカはあわてて剣を前にふる。そのまま両者の剣はXの字にぶつかった。その瞬間、青白い電光がはなち、人工の雷によってはげしく放電した音が聞こえたかのようである。
足も動かず互いをにらみ合う二人。力のこもった長剣のつばぜり合いとなった。カザカは唇をなめずる。
「先の先を征したつもりか? リンよ」
「うむ、残念ですわ。あなたは空手をやるほどのこともあるから。ここまでは……でもまだですわよ。わたくしの力は」
「期待したいが、それはどうかな」
カザカの瞳は輝いて、またも邪悪に企みを浮かばせる。つばぜり合いはカザカが優勢に見えた。早苗の剣は、カザカの左側で上からじりじりと押し下げられてしまう。と、次の瞬間、優位と見られたカザカは、剣に込めた硬い力をぬいた。
瞬時に、カザカの剣身は水平となり、時計の針のように持ち主の後ろへ右回りにすべっていく。カザカは身体の正面を早苗に向けたまま、剣先をぐるりと円の軌道で回わす。そのままの勢いで早苗の頭の右側へ打ち込むことになりそうである。ところが、早苗の切っ先はすでに、相手とは逆で左回りにすべっていた。先を読んでいたのである。二本の長剣は、それぞれ加速して見えなくなり、カザカの左翼で激しい音が響いた。またも出会いがしたらに衝突したのである。
剣さばきは、早苗がわずかに早かった。剣身を盾として、早苗は右翼で水平に斬りかかってきたカザカの一撃を受け止めた。その防御の姿勢は、グリップの位置がカザカの剣よりも高く、切っ先を斜め下に向けている。鍔のところから水を一滴垂らすと先端までなめらかに流れ落ちるような角度である。
「うーむ。読まれた。容易ならん第三王女め」
「うふふ、わたくしはアドラ・ジャウザ王の末姫。甘くみないことですわ」
目にも止まらぬほどの動きで打ち詰めようとも、かなわなかったカザカの顔に、焦りが表れた。あともう一段、早苗の剣さばきが先をとれば、カザカの首の左側は、交差して飛んできた剣によって斬りつけられていたかもしれない。
「ふむ、危ないところだった」
それを見抜き圧力を感じたカザカは、剣を引くなり一歩、思わず後ずさりしてしまった。なぜかそれを早苗は追い込まない。ハロルド役のカザカを不適な面構えで見つめながら、剣を垂直な構えになおした。
「ここが正念場でしてよ。死なせることが救いになりますの」
「くっ! リン、イドリア姫よ、いつのまにそんな力を……だが」
グリップを握りなおしたカザカは、まだ自分が格上だと言いたげだ。
「これまでですわ。あなたの哀れな夢を、優しい心の持ち主ロトからすぐに断ち切ってみせますわ」
「それは作品の設定と微妙に違うぞ!」
「おだまりなさい! むしろ、あなたの下手な役作りでエリカも泣いていますわよ。残念でしたわね!」
さえぎる早苗の声には油断のならない自信がみなぎっている。
「そうはいかぬぞリン、この一時をもってなきものにしてくれる。われは欲する」
カザカは、『屋根の構え』をふたたびとった。陽の光を受けて剣身がまばゆく輝く。すると、対する早苗はグリップを右肩に引き付けた高さでにぎり、剣身を水平にねかせる。切っ先はカザカへまっすぐ向き、動いてはいないがそのまま突き刺すような姿勢となった。左足は前に置く。
「おお! それは『鍵の構え』か!?」
驚愕したカザカは、一瞬、両足の膝を固めてしまう。一呼吸の間もなく早苗の右足が動いた。突き入れると見せた次に、剣の先端を天井へむけて振り上げる。そこで止まらず、大胆にも剣先は、背後で半円にすべり早苗の足元へ急降下。低空で加速した切っ先は力をこめて急上昇しカザカを斬りつけてきた。空を切る重い音がなる。
「おわっ! そんなっ!」
ハロルド役の短いスカートが風圧でめくれあがった。カザカはとっさに後ろへ身を引き一撃をかわす。それが精一杯で、あわててまた『屋根の構え』をとった。そこへ早苗は、剣身をまたも垂直にかまえ直し、正面へ斬り落とす。カザカも剣で返し危うく受け止めた。ふたたび両者の剣は、衝撃音を轟かせ、つばぜり合いとなった。
「はあはあ……」
「ふう、ふう……」
二人の女子高生の息づかいが聞こえる。白い肌は桃色に染まる。そこで膠着すると見えた。
が、早苗はグリップの位置をカザカの手の上にもっていく。このとき、左足を前に踏み出す。
「痛いっ!」
カザカが小さな悲鳴を上げた。早苗は柄頭で相手の手を上からたたいていた。と、それで攻撃を封じた早苗は、一息も入れずに振りかざした。
「ま、まぶしい!」
ハロルドを演じる女子高生の瞼が閉じかけた。真っ直ぐに立つ剣に太陽が重なる。
早苗は、相手の頭へ最後の斬撃を入れた。その剣は、紙一枚、カザカの額の上でピタリと止まる。
早苗の気迫が眼光として放散する。二人の剣の動きはぴたりと止まり、ひと風の間、聞こえるものは、外の庭から羽虫の鳴き声のみ。
「うっがあああっ!!」
カザカが悲鳴をあげた。
「ううっ、血が噴水のようにっ!」
続けざま、カザカは頭に受けた剣の傷に手をあてるが流れ出る血液を止めることはできない。
「………ううむ………」
苦痛をつかみ出す姉を見守るトオルは、哀れと浮かべる顔色をかくさない。ところが唇をきつく閉めると、黙って踵を返した。
「ま、まってトオル! あなたの大好きなお姉ちゃんが死んじゃうよ!」
あえぐカザカは片腕を伸ばす。広げた手のひらは、届かないものの、離れていくトオルの背中を引っつかむしぐさである。
「……だって洗濯ものをしまわなければならないから……」
苦痛にゆがむ姉の目に捕まったトオルは、中途半端に振り返って冷たさをはらみ答えてしまった。それでも、その場から離れようとした足を止める。
「……困ったな……」
悩むのも無理はなく、少年の視野に映る姉の身体には、どこにも血など見えないからである。つまるところ、それは、カザカの陶酔しきった演技によるものである。トオルには事実起こった事のみが見えていて、もちろん空想をかきたてる“茶番劇”からはなたれた、まばゆい光もなく、恐ろしい衝撃音も響いてはいない。死にそうな少女の悲鳴も、どことなく格好よく斬られて、本当に血が流れてほしくてたまらないという節操のない表現にも聞こえる。目尻にあふれ出た涙も、演技に埋没して体温よりもかなり熱そうである。
唇を結んでいる早苗は、剣先を下げてはいるものの必要とあらば、また一度、斬撃の気配を示している。
「うっ……」
リン役の早苗に見事斬られたカザカは、その場でくずれるように両の膝を畳につけた。
「うっ、あっ、ああっ」
苦しそうに息をつなげるその顔は真っ青で、大きな瞳は光を失いかけていた。口は苦痛というより、悩ましげに歪めてみせる。だが、早苗の表情はなにも変わらずそのままである。ガラス戸を開いた庭の風景からそそぐ黄色い斜光は、勝利を得た少女の背中を照りつけている。
剣をにぎる勝者の、靴下をはいている汗をにじませた足は、たえだえの息づかいを繰り返す女子高生の真横に立った。その見下す目はしばらく、事の成り行きを確かめたい冷酷なかがやきを注いでいた。見上げるカザカの顔に早苗の黒い影が容赦なく被る。
「な、なぜ、なぜ負けたんだ……」
宙を力なく見据えて問うカザカへ、早苗はポケットから一枚の紙を取り出した。それを無言のままカザカの口に加えさせる。敗北した女子高生は半分白目をむく。紙には『サザンの嵐・シリーズ』の作者が描いたイラストが印刷してあった。
「ふぅ、ふぅ、うっ。ト、トトふぁまぁぁ……」
かすれたうめき声をあげたカザカの、膝から上の身体が、朽ち果てた一本の棒となって畳の上へと倒れた。イラストは口から離れて木の葉のように畳へ舞い落ちた。付着した少女の透き通った唾液が、イラストの一画にきらめく。
「強欲なカザカ……あなたの、トオルとロト、そしてハロルドの三人を合わせた思いより、私の、イドリア・ティレー・アル・サドマリクことリンちゃんへの思いが勝ったのよ。剣士の水準で生きられないことを想い知りなさい。それにもうひとつ。気づきませんでしたか? 私がリンということはトオルのロトと従兄弟になった設定ですの。だから身内ということで関係ありますわ」
「……お、おそるべし、イドリア姫……」
カザカはその一言を最後にこと切れた。
文脈に筋がとおっているのか、その自覚は定かでない早苗ではあるが、ゆるぎのない決着に満足した顔をつかの間に浮かべるのである。
しばらく倒れていたカザカではあるが、ふいに頭をあげた。
「うう……うん……今の、もう一回!」
敗者は、無邪気な笑顔に変わっていた。静観していたトオルは肩をすくめる。
「二人とも、いつまでやっているのかな? ていうかチームプレイだったの? とにかく、もう夕方になるから、僕は洗濯ものがあるからね」
言うことを聞かない子供二人をほったらかすように、トオルは踵を返して洗濯物のところへ歩く。ふと、足が止まった。
「でも、『サザンの嵐・シリーズ』はもう一度読んでみるよ。お姉ちゃん。あとは……」
かくして幕は引かなかった。
ー了ー
参考文献:長田龍太(著)『中世ヨーロッパの武術』新紀元社。