三日目 ー夜2ー
藤沢は合格。その点についてリリイとの話しは簡単に済んだ。美月が初回に訪れた際は、リリイが座っている以外に一脚しかなかった椅子だが、今回はきちんと二人分、二脚用意してあったので、どちらかが立ちっぱなしになることはなかった。だが、藤沢としては立ちっぱなしの方が良かったと思う。藤沢はリリイが時々見せる会話のちぐはぐさを、ひたすらに気味悪がり、嫌いな食べ物を前にして食べることを拒否する子供のように、椅子の上で身を反らせ、少しでもリリイと距離を置こうとしていた。リリイが示してくれた『試験概要』の用紙も手に取らないどころか見ようともしないので、業を煮やした美月が取り上げて目の前に掲げてやらなければならないほどだった。例の寮監に伝えるべき言葉も、よく分からないようだったが、それが美月と同じ様に言葉として聞き取れていないのか、単に聞きたくないから聞いていないのか区別がつかず美月はやきもきした。リリイはというと、藤沢の無礼な態度も美月の焦燥も気に留めず、変わりなく美しい微笑みを浮かべながら、とにかく寮監には伝わると繰り返していた。
藤沢の件が片付くと、美月はリリイに、夢世界と現実世界で人格の同一性が保たれていない状態で、他者の夢世界に入れるのか、手を替え品を替え尋ねたが、結局リリイは夢世界と現実世界で人格が違う、ということを理解してくれなかった。危惧していたように、夢世界とは別に現実世界があるということがよく分からないようだった。
結構な時間をリリイのもとで消費した後、美月は徒労に終わった一連の会話に疲れきって廊下に出た。ただ横で会話を聞いていただけの藤沢は更に疲れた表情で、廊下に出ると幾度も全身の屈伸運動をして、不自然な体勢で座っていたために出来た筋肉のこわばりを取っていた。そんな藤沢の姿を片目に捕らえつつ、美月は談話室に近い坊坂と八重樫の居室を前にして考え込んでいた。今日はもう部屋に戻って休みたいと思う反面、せっかく藤沢というボディーガードがいるのだから、八重樫がどういう状態なのか確認しに行ってみるのも悪くないとも思い、決めかねていた。
かちゃり、と小さな音が耳に付き、美月ははっと顔を上げた。傍らに立った藤沢がごく自然に10101号室の扉を開けていた。
「開いてるぞ」
どうも藤沢には美月が部屋の扉を開ける方法を悩んでいるように見えたらしい。呆然とする美月を尻目に、藤沢は顔が入る程度に扉を開き中を覗き込んだ。美月は、例えくまみみ付きマスクを被っていようと、藤沢は夜間に他人の部屋の扉を勝手に開ける無作法をする性格ではないと思い込んでいたので、完全に予想外の行動だった。
「いやいきなり開けるなよ」
美月は嘆息とともに漏らした。実は己が昨夜同じことをやっているのだが、そこは故意に無視した。藤沢はけろりとしていた。
「夢だろ、これ」
「まあ、そうだけど。というか今、八重樫のこと考えて開けた?」
「八重樫に会うんだろ?」
美月は沈黙した。藤沢は『扉を開けるときに考えていた方の住人の夢に入る』という法則を知らないので、特に何も考えず開けたのではないかと思ったが、八重樫と会うつもりだったのであれば問題はない。躊躇なく部屋に入っていく藤沢に、美月も続いた。
変哲のない、寮の部屋だった。照明は消えているが、カーテンが細く開いていてそこから漏れた外光が、部屋の調度類を浮かび上がらせている。美月と藤沢の部屋と同じ造りで、窓やベッドや机がある。入って右側を坊坂が、左側を八重樫が使っているのが、置いてある品々から推測出来た。
「いないな」
藤沢が呟いた。藤沢が向ける視線の先、八重樫が使っていると思しきベッドは空だった。ベッド周りのカーテンが開かれていて、布団が整然とたたまれている。美月は右側を向き、坊坂の方も同じ状態であることを確認した。大きな息が漏れた。どういう状況なのか分からない。ひょっとして入れ違いで出て行ってリリイに会いに行ったのかもしれない。とにかく八重樫がここにいない以上、出来ることはなかった。
「仕方ない、帰ろう」
選択肢がなくなったことで、密かにほっとしていた美月は、藤沢に声を掛けた。
「いや」
しかしそんな美月の心中など察することはせず、藤沢はその場に立ち尽くし、動こうとしなかった。
「どうしたの?いないなら…」
「地面が、おかしい」
ぼそりと藤沢が呟いた。
美月は眉をひそめた。そのとき、部屋が崩れた。
部屋全体、家具や私物を含めて全てが、演劇で使われる書き割りに描かれたものであり、その書き割りが砕かれたようだった。部屋だったものがこぶし大の破片に割れて、落ちていく。落ちてその先、どこに行ったのかは不明である。消えたのか、溶けたのか、とにかく、部屋が消えた後には、そこが部屋だったという痕跡は何も残っていなかった。
美月と藤沢はどこか山奥の獣道に立っていた。樹々が、下草が、これでもかというほど生い茂り、濃い緑の匂いが立ちこめている。太陽は出ているようだったが木の葉と枝に遮られて辺りは薄暗い。虫と鳥の鳴き声が絶え間なく響いている。耳鳴りを疑うほどだった。
「これは…随分凝ってる」
美月は思わず口に出した。寮の部屋と見せかけて、実は山という二段構えである。だから何だと言われればそれまでなのだが、坊坂の寺刹、藤沢の闘技場と、大掛かりではあったが率直な構造だったので、この造りは新鮮だった。
藤沢は無言で戦斧を担ぎ獣道を歩き出した。傾斜を上る方向である。どちらに進めばいいのか藤沢には確信があるようで、その歩みには迷いがなかった。美月は慌てて付いていった。後ろから見ると、まさかりかついだくまさんがゆく、の図である。
獣道は左右に曲がりくねっている上に、上ったり下ったりと、忙しかった。途中何度も分岐があったが、藤沢は常に惑うことなくひとつを選び、どんどんと進んでいった。むせ返るような緑の匂いに混じり、肥えた土の匂いが漂う。相変わらず虫と鳥の鳴き声は止まない。加えて前触れなく揺れた樹々の葉擦れの音が、時折耳を騒がせる。虫や鳥ではない、もっと大きな獣が、木の枝を踏み折り、木の葉を踏み付ける音が混じる。頭上の枝葉の影から、樹々の幹の隙間から、禽獣の強い視線を感じる。藤沢はずっと無言だった。美月としては行き先が分かっているのなら、行程を省略することが出来るので、そうしたいのだが、歩き始めてからこちら、藤沢の背中から発せられる真剣さに威圧されて無言で後ろを歩いていた。
結構な距離を歩いた。さすが夢、というべきか美月は息一つ乱さずに歩きにくい道を踏破した。
もはや自然の一部に帰しているような黒ずんだ土壁が目に入った。奥に生い茂っている幾本かの大樹の枝に半ば埋もれているが、茅葺の屋根が乗っている。こちらも低木と雑草と一体化しているが、割り竹で造られた竹垣が、土壁の周囲を囲んでいる。一応、古民家なのだろう。ただ外から見た限りでは六畳一間に土間がついている程度の広さしかない小屋である。獣道から竹垣越しに建物を見やると、戸口が見えたが、戸板で閉じられている。ただ戸口の横には縁側がしつらえられて、そちらは戸板が外され開け放たれていた。縁側の柱に、背を預け、瞳を閉じた、白い鬼がいた。美月の知識では人間に角を生やした姿をしているものは鬼である。なので鬼だと思った。実際に何なのかは本人から答えを得ないと分からない。確かなのは、その顔立ちが八重樫そのものであることだ。
八重樫、もしくは八重樫の顔を持った鬼は、美月たちの存在を感じ取ったのか、ふっと顔を上げた。獣道に立ち尽くしている美月たちに気付き、初め目をしばたかせ、次に見開いた。見開いた目以上に口を大きく開けると殆ど叫び声のような大声を上げた。
「え?えええ、ちょっと、なんで?なんでいるの?なんでここまで来てんの!?」
確かに八重樫だった。もたれ掛かっている建物も、姿形も、時代劇に出てくるような装いなのに、口調はいつもと変わらなかった。
「八重樫」
「なに」
「なんで角が生えてるんだ?」
獣道から、竹垣の間を通り抜け、縁側の八重樫の眼前にまで近寄ると、心底真面目な調子で藤沢が尋ねた。
美月は改めて八重樫の姿を観察した。
額の、両眉の上辺りの位置から、色も形も象牙に似た、親指と人差し指で計れるくらいの長さの角が二本、天に向かって生えている。もともと少し色素が薄かった髪は、今は完全に色が抜けて白髪となり、学院の校則を厳格に適用すれば違反になるほどの長さで、そのため元来の癖っ毛が強調されて見えた。瞳も金茶に変化している。眉間と両の瞳の下に白い、線と点が組み合わされた簡単な模様が引かれている。同じ顔料で手の甲と足の甲にもこちらは少し複雑な模様が描かれている。服装は染色していない道着か作務衣かといったもので、ほころびこそないものの、着古した故の黄ばみが露骨に表れ出ている。足は裸足で、首には水晶製と思しき数珠が、二重に掛けられてた。
藤沢は服装のみどこか違う方向に行っていたが、八重樫は身体構成そのものが別物になっている。
「そこか!?そこを聞くのか?他にないのか!」
八重樫はつい激しく突っ込んだ。
「で、なんでだ?」
「…俺のイメージでは強いものイコール鬼だからです」
八重樫の態度など気にも掛けず、あくまで平静な藤沢に、八重樫はむすっとした表情で答えた。八重樫の返答は美月の興味を引いた。
「あれ、八重樫、ひょっとしてこれが夢だって自覚してる?」
「ああ」
美月の問い掛けに八重樫はしごく軽く答えた。美月は首をひねった。
「リリイは八重樫は来てないって言ってたんだけど…」
「リリイって誰?」
美月がリリイについて説明し始めると、藤沢は話題にするのも御免だという表情を隠しもせず、勝手に戸口の脇から小屋の横手に回り込んで、大樹の方に行ってしまった。美月は八重樫に招かれるまま、縁側に上がり込み、あぐらをかいて、話しを続けた。話しの流れから自然と『試験』についても言及することになった。
「ああ女夢魔ね。リリイって名付けられているんだ」八重樫は美月の説明にこくこくとうなずいた。「女夢魔とは会ってないよ。余り自分の夢から動いてないし」
「いやお前俺んとこ来てただろ」
小屋の横手から顔を出した藤沢が間髪入れずに突っ込んだ。なんだかんだ話しは聞いていたらしい。
「あ…あれは、まあ」
「何でお前、俺のところ来たとき話しかけなかったんだ」
口ごもった八重樫に、藤沢が畳み掛けた。現実世界では八重樫が流暢に喋る横で藤沢はむっつり黙っているという構図が多いのでなかなか見られない光景だった。
「なんで?なんでって、分からないのかよ!?」八重樫の声が大きくなった。「その格好!なんなんだよそれ!住宅街で遭遇したら、通報ものじゃん!通報どころか傘や石で攻撃というか正当防衛されても文句言えないレベルだろ!声掛けたいと思うと思うか!てか須賀、なんで平気なんだよ!勇者か!?同類か!?これと普通に接してるってなんで!?」
どうも八重樫の美意識からすると藤沢の格好は許せないものだったらしい。美月にまでとばっちりが来た。大体美月も初見の際はどうして良いか迷った部類なので、同類扱いされる覚えはなかった。今は平気な理由は、しいて言えば美月の弟が、それこそ、はいているものと頭に被っているもの、の、パンツ二丁で走り回り、踊り、体操し、時にはそのまま外に出ているよう小学生男子だから、ということになるか。中身が大男であるという点を除けば格好自体は見慣れたものなのである。
「熊、好きだから。あと紫も」
藤沢は律儀に答えた。
「熊なら熊で、もっとリアルなマスクにしろよ!なんでみみだけ!?」
誰もが思う、もっともな疑問だった。藤沢は首を傾げた。恐らく自分でも分からないのだろう。
「いや、さあ、格好は、いいじゃない、もう」
美月は嘆息まじりに八重樫を宥めに掛かった。美月からすれば鬼をモチーフにして身体構造そのものまで造形している八重樫こそ、藤沢の同類である。八重樫は息が荒いままに取り敢えず、衣装の件からは離れて、話題を変えた。
「しっかしよく、入って来れたね。入ってこられると面倒だから部屋つくったり道つくったりしていたんだけど」
あの、一見すると普通の寮の部屋から、迷路の如きの獣道は、全て他者の侵入を阻むための仕掛けだったらしい。藤沢がいなければ美月は最初の部屋の時点で引き返していたので、企みは半ば成功していたわけである。ただ、八重樫も想定外なほどに、藤沢が地の神から受けている護りの力が強かったため、あっさり破られてしまったらしい。美月が藤沢が地面がおかしいと言い出してから、ここにたどり着くまで道を間違えなかったことを説明すると、八重樫はさもありなんといった様子でうなずいた。八重樫によれば藤沢は意識することなくごく自然に、地の力を地面から受け取って普段から生活してる。夢世界にあっても、むしろ夢世界だからこそ現実世界に比べて受ける力が強くなり、一見すると寮の部屋であっても、地面から受ける力が山奥の大地であることを感じ取り、違和感を覚えたのだろうと、説明してくれた。やたら怪力だったり、使ったことのない武器を使えたりするのも、簡単に言えば地の神が補助してくれているからだと教えられ、藤沢は納得した。
一連の説明の途中、何度か美月は無礼を承知で遮ろうとした。八重樫に自由に喋らせてしまうと、文字通り夜が明けてしまう。だが美月が口を挟もうとするたびに八重樫に視線で牽制されたため、結局最後まで付き合うことになった。
ようやく話しが途切れ、美月が八重樫に『試験』の話しを再度持ち出せたときには、美月の周囲には手持ち無沙汰で作っていた花冠ならぬ雑草冠が積み上げられて、縁側の側の一部分だけ、雑草がなくなっていた。
八重樫は何故か、リリイに会い、試験に合格することをきっぱり断った。
「いや、その女夢魔には会わない」
「でも…」
「期限は一年の最終日までなんだろ?今じゃなくてもいいじゃんか」
「それはまあそうだけど」
「あれは、会わなくて良いと思う。気持ち悪いし」
珍しく藤沢が口を挟んできた。表情から嫌悪感が露骨ににじみ出ている。八重樫は無言で美月を睨んだ。八重樫によると、藤沢にリリイをあわせる前に、リリイがどういう気質か説明しなかった美月が悪いということらしい。美月はそれ以上の無理強いは止めた。
「でも、うちのクラス大丈夫かな」
「ったって、まだ三日目だろ」
確かにまだ日はあるのだが、他の組の生徒が殆ど合格済みであることを考えると、どうしても心配になる。美月は他の生徒が特殊能力者としてどれくらいの実力の持ち主なのか分からないし、その実力と今回の試験の合格までの早さとが関係しているかも不明確である。だが、事実として倉瀬と代田の合格は早かった。学院内で出来ている序列というのもが案外馬鹿に出来ない、実力に沿ったものであるのなら、それがそのまま合格者の順序につながっているようにも思える。ならば坊坂こそ既に合格していないとおかしいのだが、実際には美月が一組で最初の合格者だった。
「坊坂がまだ?」
美月のとりとめのない話しを、藤沢と八重樫は、黙って聞いていたが、八重樫は坊坂の未合格を聞くと素直に驚いた声を上げた。一瞬だけ、眉を寄せて考え込むような素振りを見せたが、すぐにその金茶の瞳をきらりと輝かせ、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「ああそれなら、坊坂へ殴り込みをしに行こう。で、そのあとは坊坂に頑張ってもらって、クラスの連中の合格の手伝いをさせれば良いよね!」
他力本願というのか、人任せというか、丸投げというか、とにかく八重樫の中でそれは決定事項だった。美月がどう行動しようと、己の好きなようにやるだろう。
「でも坊坂、なんか随分好戦的というか…」
とはいえ、昨夜のあの、一方的に攻撃された状況を思い出し、美月は不安を漏らした。
「マジ!?ガチ勝負出来るの!?」
美月の不安と対照的に、八重樫は更に目を輝かせ、非常に良い笑顔になった。
「…戦闘狂揃いかよ」
美月は嘆息した。闘技場で戦斧を振り回していた藤沢も含め、何故みんな殴り合いがしたいのだろうかと、心底呆れ果てていた。
「いやいやいや。よく考えてみろよ。ここは夢だぞ。現実で出来ないことやりたい放題なんだぞ。欲望一直線になるに決まってるだろ」
「欲望一直線は別に良いよ。ただ、なんというか暴力方向に行き過ぎというか…かわいい女子に囲まれてハーレム万歳みたいな奴がいても良いだろうに」
「それは無理。女夢魔がいるから。今ここはいわば既にその女夢魔を主としたハーレムなんだよ。ハーレム構成員がハーレム作れるわけないじゃん」
リリイが主のハーレム云々の物言いに、美月は疑問を抱いたが、口に上らせるより早く八重樫が言葉を続けた。
「それはともかく、そろそろ起床時間一時間前で俺起きるから。今日はここまでで」
「え?」
それは他者の夢に入ったまま、その他者が目覚めてしまう、ということを示す。まさか、夢世界に閉じ込められるなんてことが…と心配になったが、それはないと断言された。単に自分の夢世界に強制移動されるだけらしい。
「分かった。じゃあまた明日」
美月がそう言い、藤沢はうなずき、八重樫は楽しげに手を振った。
暗転。