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夢魔  作者: のっぺらぼう
7/25

三日目 ー昼ー

目を開けたそのとき、美月の全身は汗にまみれて総毛立っていた。普段であれば不快を感じる状態だったが、今は夢世界で味わった恐怖の余韻が残っていてそれどころではなかった。横たわったまま何度も息を吸っては吐き、こめかみの辺りで脈打っている鼓動を(なだ)める。ここは学院の寮で、巨大な寺、石と青白い炎の怪物、自走する門、全てが存在しないのだ。気を落ち着かせ、そろそろと(はす)に掛かった布団から手を出し、頭上を探る。目覚まし時計を探していたのだが、実際に時計に手が当たった瞬間、何故か再度心臓が跳ねた。

起床時間より少し間がある。美月はゆっくりと体を起こし、腕を動かし、脚を動かし、首を動かし、全身を確かめた。汗だくではあるものの、痛みはない。地面に打ち付けた覚えのある膝も確かめたが、痣にも打ち身にもなっていない。ほっとして一連の出来事がどれほど生々しくとも夢であったことに感謝した。

次第に怒りが湧いてきた。

別に坊坂に好かれているとは思っていないが、いきなり攻撃を仕掛けられるほど敵認定される覚えはなかった。理不尽に殴りつけられた腹いせに、美月は枕を取ると思いっきりベッドに叩き付けた。ぱふん、と気の抜けた音をたてて枕が跳ねた。体を動かしたのが良かったのか、怒りが原動力になったのか、まだ残っていたまどろみの残滓が完全に払拭され、美月の頭が勢い良く働きだした。

一瞬、自分が坊坂の監視をしていることを気付かれたのか、という考えが冴えた美月の頭に浮かんで来た。が、すぐに否定する。それであれば坊坂もその点を指摘する言葉を吐いて来たと思う。だが実際に坊坂が言ったのは強いもの云々の、少々こじらせたような台詞と、何者なのか、という美月をそもそも誰か知らない場合に発せられる問いかけだった。

同一性、と言う言葉が浮かんで来た。

それを聞いたのがどこでだったか、美月は布団の上から理不尽な八つ当たりを受けた枕を取り上げ、抱え直すと、記憶をたどった。すぐにそれがリリイから示された『試験概要』に書かれていたことだと思い出した。試験の目的がそれそのもの、『夢世界での人格同一性保持』だった。それはつまり試験合格前は同一性が保持されていない状態にある、もう少し噛み砕くと、現実世界での人格と夢世界での人格は別のもの、具体的に言えば、美月に攻撃を仕掛けた夢世界での坊坂は、現実世界の坊坂とは別人格だったということになる。

そう考え至り、美月の坊坂から受けた暴力への怒りは少しだけ鎮まった。あの時の美月はいわば、坊坂の夢の中に勝手に侵入して来た侵入者だったわけで、不条理に思えた攻撃もあちらとしては当然のものだったわけである。

怒りは軽減された。だが、今度はとてつもない危惧が襲って来た。

どうすれば夢世界での人格と、現実世界での人格が同一になるというのか、美月にはその方法が全く考え付かなかった。どういうわけか美月は初めから現実世界の人格のまま夢世界で行動してリリイに会っているので、自身の経験がない。人知れず、抱え直した枕に込める腕の力が強まった。

倉瀬と代田はそれぞれ生徒達を連れて来ていることから、方法を知っていると思われたが、まさか直接尋ねるわけにもいかなかった。他に知っている可能性があるのは…と考え、美月はリリイに思い当たった。というより他にいない。明日の夜また会いにいって…と思い、そこで同時に別の考えが浮かんだ。試験の合格基準は『リリイと会うこと』となっているだけである。ということは別に、夢世界の人格のままの誰かを、無理矢理リリイの元に連れて行って会わせたとしても、基準に沿えばそれは合格、ということになる。或いはゲームによくあるように、条件を満たしていないと部屋の扉が開かないとか、会うべき人物が現れないとか、そういう規制がある上での『リリイに会うこと』が合格なのかもしれないが、そこまでは分からなかった。

もっともあの、他者の話しに聞く耳を持たない攻撃的な坊坂を力づくでリリイのところまで引っ張ってくることは、どう考えても美月には不可能であり、そもそも人格が違うのではないかという考え自体、美月の独りよがりなのかもしれなかったが。

スピーカーから微かな雑音と、続いて起床時間を知らせる音楽が流れて来た。美月は思考を打ち切った。夢世界の問題は終わり、今日は今日の現実世界での生活を完結させなければならない。


陽射しはすっかり春の装いなものの、時折激しく吹く冷たい風が容赦なく体温を奪って行く。しかし五十メートル走やハンドボール投げを行う一年生の生徒達は元気そのもので、半袖半ズボンの体操着姿で、運動場いっぱいに動き回っていた。動いていれば寒さにも耐えられるが、体を激しく動かせない美月は、制服の上にウィンドブレーカーを着込んでいたが、それでも屋外に比べて日当りの悪い体育館の中で、微かに体を震わせていた。体育館内で行われている測定は比較的地味なので、たぎってくるものがないのか生徒達も基本的におとなしく、余計な手間をとることなく次々に記録が取られていった。

かなり前に坊坂は計測に来ていた。朝からちょくちょく顔を合わせてはいたが、別段普段と…というのは現実世界での普段という意味での…態度に変化はなかった。むしろ朝のうちは、怒りをまだ残している美月の態度の方が悪かった。だが、殴りつけた記憶がないらしい相手に腹を立てるのも無意味なことである。美月は意識して態度を改めた。

「はい、いいです」

二十八センチ、と淡々と立位体前屈の記録を記載していた美月は、一瞬手を止め、測定中の生徒を二度見してしまった。これまでで最高記録である。足の爪先が手首を越え、手首と肘の中間地点あたりにあった。

「凄い」

誰かに聞かせるために発したわけではなかったが、測定中の本人には聞こえていたらしい。

「ありがとう」

学年最高記録を樹立した倉瀬は笑顔で応えた。用紙を返す一瞬、美月は記載済みの測定値に素早く目を走らせた。全体的に平均以上の良い数値を持っている。文武両道という言葉が連想された。

「須賀くんは」と用紙を受け取った倉瀬が声を掛けて来た。「体育の実技は全て免除?」

「そうだけど」

「大変だね。どこが悪いのか、聞いてもいいかな」

「心臓。それ以外もちょこちょこ」

「そうか。気を悪くしないでほしいんだけど、それは自分で治せないの?」

訊きたかったのはそれか、と美月は内心呟いた。

「無理。出来るのならやってる。ここで学んで出来るようになれば良いと思っている」

「なるほど。余計なことを言ってごめん」

倉瀬はさらりと流すと体育館から去って行った。倉瀬の後続の生徒はいなかった。立位体前屈だけでなく、体育館全体で、生徒は美月を除くと握力測定を終えた直後の一人がいるだけで、後は計測係をしている教師だけが残っている。体育館の大時計を見ると十分ほどで持久走計測が始まる時刻だった。倉瀬が、他者の邪魔が入らないようこの時間を狙って声を掛けて来たのなら、素晴らしい時間配分能力の持ち主である。握力計測をしていた合田が声を掛けてきて、美月は共に各種の計測機器の片付けを始めた。


計測機器を片付け終え、美月は体育館から外に出た。屋外の方が日差しの分暖かいと思いかけ、すぐに吹き抜けた冷たい風に全身をさらされ、やはり風の影響がない分屋内がましだと思い直した。運動場では既に一回目の持久走計測が終盤に入っていた。持久走計測は名簿順に二人一組になり相方のタイムを測る形式である。そのため二回行われるが、距離は一千メートルなので、一回五分もあれば終わってしまう。美月が見ている前で、先頭の生徒が走り終えた。八重樫だった。小柄な八重樫だが長距離に向いているのかもしれない。

八重樫は走り終えると休むことなく美月のいるほうに向かって駆けて来た。と、体操着を脱ぐと、体育館前に設置されている水飲み場で頭から水をかぶった。

はからずも目撃した美月は、自分が水を浴びせられたわけでもないのに凍えそうな気分になった。

「冷たくないのかよ」

あきれて美月は言葉に出した。

頭と上半身を十分濡らしたあと、体と頭を振って余分な水滴を落とすという、どうみても水浴び後の犬にしか見えない行動をしていた八重樫は、そこで初めて傍の美月に気付いたらしく、美月の方を見た。

「いや暑い。まだ暑い。てかこれ地下水だろ。あったかい」

髪から水滴をしたたらせながら、八重樫は応えた。確かに暑そうだったが、見ている方はこのうえなく寒かった。

そこでゴール地点にいる体育教師が大声で呼びかけてきたため、八重樫は湿った体の上から体操着を着直しつつ、戻って行った。地下水は一年中温度が変わらない故に冬場はむしろ温かく感じる、という豆知識がこんなところで披露されるとは思わなかった。

呼び戻された八重樫は何やら体育教師と話していたが、突然大声を上げた。美月を含め、ゴール地点付近でたむろしていた生徒たちが驚いてそちらを見やる。八重樫は掴み掛からんばかりの勢いで体育教師に詰め寄っていた。体育教師は八重樫より頭一つ分背が高いうえに体格も良いのだが、八重樫の勢いに押されてややのけぞった。藤沢と坊坂が慌てて八重樫を押さえに掛かった。他の生徒も体育教師の周りに集まりだしたため、彼らに阻まれて、美月の視界から八重樫の姿が見えなくなった。

「何だ、何があった?」

八重樫の声を聞きつけたらしい合田が、美月の隣まで来て、尋ねてきた。美月に分かる筈もなく、ただ首を振った。合田は運動場に向かう素振りを見せたが、その時にはもう八重樫と体育教師を中心にしていた集団はばらけ始めていた。八重樫が、己を羽交い締めにして体育教師から引き離した藤沢に何か言い、藤沢が手を(ゆる)めた。藤沢は普段と変わらない生真面目な顔付きだが、解放された八重樫は日頃の朗らかさはどこにいったのか、凄まじい目付きで運動場の土を乱暴に蹴り上げた。近くにいた生徒がびくりと体を震わせた。坊坂とその他何人かに(なだ)められている様子の体育教師も、これまた苛々していることが丸わかりの表情だった。その表情のまま体育教師はきょろきょろ辺りを見回していたが、美月と目が合うと何故か手招きして来た。

美月は嫌な予感がして隣の合田を見た。合田も少し戸惑った表情だったが、美月を安心させるように軽くうなずいた。

美月を招き寄せると、体育教師は無言でストップウォッチを押し付けた。

「これは?」

「お前が測れ」

「…何をです?」

「八重樫のタイムだ」

「八重樫、さっき走ってましたよね」

「知るか。とにかくお前がやれ」

吐き捨てるように言うと、体育教師の広川は、スターターの準備をし始めてしまった。

美月は何があったのか悟った気がした。一組で名簿順が最後の八重樫は、美月の不参加により一人あぶれるため、クラスメイトの相方ではなく、広川が計測していたのだ。ところが、その広川がストップウォッチのボタンを押し忘れたか何かで計測に失敗し、もう一度走れと言われ、激高したのだろう。

美月がストップウォッチ片手に目をやると、八重樫は既にスタート地点に立っていた。先程とはうってかわって、いつもの愛想の良さを取り戻しており、美月に向けて手をぶんぶん振って来た。ただ、その斜め後ろに憮然とした態度でくっついている藤沢以外の生徒たちからは、若干距離を開けられていた。

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