二日目 ー夜ー
昼食中と夕食中の食堂で、それ以外の時間の談話室で、一年生たちが話題にするのは大半が部活のことだった。特に一組の生徒は大半が坊坂の杖術を目撃していたので、もの凄い興奮状態で、今やほぼ全員、坊坂の信者と化していた。その中で美月は一人空気を読まず、食事を早々に済ますと自室に籠もり、本日配布された一部の教科書を開き、内容を確認していた。教科書・参考書類の大半は入学式の前に寮に届けられていたのだが、オリエンテーションの際に渡されたものも結構な量があった。ちなみに美月の、そこまでしてもらわなくても大丈夫、という言葉は無視され、それらは藤沢が自分の分と一緒に寮まで運んでくれた。
学院は表向き進学校なので、入学試験からして相当な難度であり、授業もそれに見合っている。美月は中学時代、学校で常に上位五名に入っているような成績ではあったが、それでも入試に備えてかなりの勉強が必要になった。これからもその度合いでの授業が続くのであれば、気を抜くことは許されない。八重樫も、はっきり口にしたわけではないが、学業へ影響させないために文化系の部活を選択したようだった。
夕食後ほどなく、一通り教科書に目を通し終え、監視役としての報告をルーズリーフに書き連ねているところに、藤沢と何故か八重樫と坊坂までもが10106号室にやって来た。美月はさりげなくルーズリーフを片付けながら説明を求める表情で藤沢を見やった。
「いやもうなんか談話室すごいし、部屋にいても押し掛けてくる奴いるし、ここならまだいいかなあって」
応えたのは八重樫で、口ではまいった、と言いつつも、明らかに状況を面白がっている表情だった。藤沢は不思議なくらい疲れた様子で、坊坂は不機嫌そうだった。
「疲れてるね」
美月が声を掛けると藤沢はうなずいた。何か悶着があったわけではなく、単に坊坂に向けられる熱気の余波に当たっているだけ、と八重樫が説明した。部活見学の際にみた興奮ぶりからすると、熱狂する側に属していそうなのだが、周囲の度を超えた昂りに逆に冷静になってしまったらしい。確かに一旦冷めたらあの狂信ぶりは辛いだろうな、と美月は同情した。
「いやいやいや、これからでしょ。明日から通常授業で、四時限目は体育だよ。最初の体育は体力測定兼だし、体育は学年合同だし。うわあ絶対何かあるよねこれ!」
八重樫は溌剌としていた。坊坂は芯から不愉快そうな目で八重樫を見た。
「にらむなよう。自分で招いたことじゃん。あれはさあ、ないよ。うん。久井本さんと手合わせしたかったんだろうけどさあ、別に入部すればいつだって出来たのに」
槍使いの上級生は、久井本と言うらしかった。藤沢が食いついて来たので、八重樫が件の上級生の槍術の流派やら技やら歴史やらについて詳しく話し出したが、興味のない美月は聞き流していた。坊坂も聞いていなかった。既に知っていることだったからだ。坊坂は本日配布された各種お知らせを手にして眺め始めた。
「八重樫はやらないんだな」
内容は聞いていなかったが、八重樫の饒舌が途切れた一瞬を見計らい、坊坂はぽつりと言った。
「槍?やらないよ。俺、長柄の得物向かないもん」
八重樫は肩をすくめた。坊坂は続けて何か言おうとしたが、それより早く八重樫が言葉を続けた。
「そういや、須賀は体力測定ってやるの?」
坊坂が手にしている体力測定の際の注意事項を指し、美月に話しを振って来た。
「やらない。測定の手伝いやる」
「一年全員の?」
八重樫に訊かれて、美月はうなずいた。
「当然…ああひょっとして、代田とか倉瀬とか辺りに何か言われるんじゃないかって心配してるのか」
美月は昼間、八重樫から受けた注意を思い出した。
「言われるというか、わざと怪我して目の前で治させようとするかもしれない」
「それは凄いな」
美月は素直に感心した。美月の中では、そんな連中は重度の被虐嗜好者に分類される。快楽への忠誠心に感心した。
だが美月の内心など知らない他者は、美月の声色にあらわれた感心を『他者の能力を計るためには自傷にすら及ぶ覚悟』に対してのものと受け取り、特に坊坂はその反応を快く思わず、部屋に入って来たときより一層不機嫌そうな声で呟いた。
「あんた、お人好しだな」
「お、お人好し?」坊坂に言われ、美月は目を見張り、次の瞬間笑い出していた。「俺が、お人好しって」
下を向いて必死に噛み殺すようにしつつ、こらえきれずに腹を抱えて笑い続ける美月を、坊坂は更に不機嫌度を増した表情で見やった。藤沢と八重樫は美月の笑いっぷりに少々驚いたようで、顔を見合わせた。
ひとしきり笑い続けた美月が笑いを収め、顔を上げた頃には、三者は藤沢の教科書を持ち出して囲み、違う話題に移っていた。
眼前のリリイの顔を認識し、こんな始まり方もあるんだ、と美月は思った。
坊坂と八重樫が10101号室に戻っていったその後、昨晩と同じようにシャワーに着替えと日々の雑事を淡々と終えた美月は、消灯とほぼ同時に眠りに着いた。そして今ここ、昨夜リリイがいた部屋で、リリイと向かい合わせて椅子に座っていた。夢なのだから別に前回のように、自室で目覚め、部屋を移動、という過程は必ずしも必要ないということなのだろうが、目を開けるといきなり他者の顔が目の前にあるというのは余り気持ちの良いものではなかった。
リリイは今回は深緑色のドレスだった。それ以外は変化はない。
「いらっしゃい」
「どうも」
美月は気のない返事をした。
「ご用はなあに?」
リリイは相変わらず微笑みとともに話しかけて来た。
「今日は誰か来ましたか?」
「いっぱい来たわあ」
リリイはにこにこしながら一人ずつ順繰りに、今日会った生徒達の名前を教えてくれた。合計で二十一人。大半が美月の知らない名前で、つまり二組と三組の生徒である。倉瀬と代田は分かった。
「わたしの性別のことは誰かに言いましたか?」
「ううん」リリイは首を振った。「何故それを言う必要があるのでしょう」
確かに言う必要はない。美月はひとまずリリイの言葉を信じた。
「どうして今日、二組と三組のひとたちがこんなに来たのでしょうか?」
「二組?三組?それなあに?わたし、知りません」
リリイのきれいな顔を見ながら、美月は少し考えた。
「今日、こんなに沢山のひとが来た理由は分かりますか?」
「倉瀬というひとと、代田というひとが、何度も他のひとを連れて来たからです」
美月は一拍置いた後、尋ねた。
「連れてくる、ということが可能なんですか?」
「はい」
「…確認しますけど、坊坂慈蓮ってひとは来てないんですよね」
「そのひとは来てないです」
美月は心中で毒づいた。八重樫は坊坂、倉瀬、代田の三者を学校側が意識して別の組に分けたと言っていた。そして三組の組委員は代田の取り巻きで、美月のクラスメイトは大半が実に従順に坊坂の崇拝者になった。それはつまり、一組には坊坂の、二組には倉瀬の、三組には代田の派閥に属している生徒を振り分けているということだった。
倉瀬と代田は自分の組の生徒を続々と合格させている。だが一組はというと美月以外に合格者がいなかった。一年次終了後に一組から大量の退学勧告者が出ればそれは派閥としては痛手だろうが美月に影響はない。問題は坊坂がその勧告者に含まれていた場合である。美月は勢いよく立ち上がった。
「用事が出来ましたので」
短く伝えると、リリイが何か言うより早く部屋を出た。
10101号室は10106号室に比べ、談話室から近い位置にある。夢世界の寮でも現実世界の寮と部屋の配置に変化はなかった。坊坂と八重樫の表札が掛かっているのを見ながら、そういえば、この寮の部屋割りはどういう基準なのかと、こんなときにも関わらず美月は疑問に思った。少なくとも名前順ではない。疑問を抱きながらも、今考えるべきことではなかったので、すぐに頭の隅に追いやった。扉の前で深呼吸すると、坊坂慈蓮、と小さく口の中で呟きつつ取手に手をかける。思うだけでそのひとの夢に入る、とリリイは言っていたが、不安が美月に声を発せさせた。一瞬、施錠してあるのではないかと頭をよぎったが、取手は抵抗なくあっさりと動き、扉が滑らかに開いた。
扉をくぐった美月の視界は石によって遮られた。胸の辺りまで高さのある、灰褐色の四角く切り取られた石が積み上げられて、視界一杯に広がっている。視線をゆっくりと上に移していくと、石、石、石、と石が連なり、石段になっていた。遥か上、建物数階分はあるだろう位置まで石段は続いていて、その先は霞みかかって不明瞭だ。そのラに上の空模様もよく分からない。美月の周囲、一定の距離の範囲の有様はよく見えるので陽光はあるようだが、肌で感じる空気は冷たくもなく熱くもない。
美月は周囲を見渡した。
両側はそれぞれ大人四五人がすれ違えるほどの距離までは視界があり石段が見える。だがその先は入浴剤を落とした湯船のように白濁していて何があるのか、もしくは何もないのか分からない。振り返ると美月が入って来た扉があった。美月の部屋と同じ位置に避難経路図が貼られている、変哲もない寮の扉。壁はない。扉だけが微かに石畳の上に宙に浮いてぽかりと存在していた。
美月は好奇心に駆られて扉の裏側を覗き込んだ。テレビの裏に人がいるのかいないのかと覗き込んで確認していた幼い頃の弟妹の行動そのままである。そう気付き、美月は顔をほころばせた。扉の裏側はテレビの裏側のように煩雑な配線の類はなく、ただ灰色の、少しざらざらした感触の、素材不明の面があるだけだった。ざらざら具合を手で確かめつつ視線を落とし、美月は手を止めた。緩んだ顔のまま、全身が硬直する。
扉の裏側には猫一匹が歩けるほどの幅のみ残されていた。その先は石段がなく、すとんと切り落としたかのような絶壁になっていて、下方は石段の上同様に霞に埋もれている。あと一歩踏み込んでいれば真っ逆さまだった。夢の中で滑落したらどうなるのか、興味深いことではあったが自身で試してみる気はさらさらない。美月はぞっとしつつ後ずさりすると、深呼吸して鼓動を落ち着かせた。
事実上、進めるのは上方向一択だった。同世代の女子に比べて体力はあると思っている美月だが、この両手両足をつかって這い上らなければならない大きさの石の連続を見ると気持ちが露骨に萎えて来た。しかし飯の種を失う可能性は極力排除すべきである。頬を軽く叩いて気合いを入れ直すと、覚悟を決めて両手を石に掛ける。掛けたところでふと閃いた。これはあくまで夢である。一旦掛けた手を戻しもう一度、上を見上げる。先程と変わらない石段と霞があった。
…自分はあそこ、石段の一番上にいる。
美月はそう言い聞かせながらまぶたを閉じた。再び開いたとき、視界は石ではなく、木製の門扉によって占領されていた。振り返ると下りの石段がある。目視で確認出来るのは数段だけで、それより下は先程、逆に下から見上げたときの石段のように霞みかかっている。しかし、その先には入って来た扉があることを美月は確信した。成功、と心中呟く。今回、夢世界の始まりで、部屋からリリイのいる部屋までの移動が省略されたように、石段の下から上までの移動を省略出来たわけである。
視線を門扉に戻す。門構えを含め、一見すると古刹によくある重厚な、これぞ寺社仏閣といった造りである。ただ、大きい。どう見ても門扉だけで三階建ての建物くらいの高さがある。幅は、恐らく高さとの比率に合うだけあるのだろうが、端の方は霞に呑まれて全く見えない。門扉の上の屋根組も微かに存在が確認出来るものの、はっきり見えることはない。門扉はかなりの年月を経ていると見え、木目が見えなくなるほど黒ずみ、施されている青銅鋳物の金具は錆びが浮いていた。
美月は足下の石段を何度か軽く蹴った。普通の、石を蹴った時の音がする。当たり前だが、蹴ったところで石段はびくともしなかった。美月は視線を足下から上げた。そのとき門扉に装着されている金具の位置がやけに高いことに気が付いた。扉を押し開く際に手が掛かる位置にあるはずの金具が頭上にある。背伸びし手を伸ばしてそれに指先で触れてみた。周囲が大きいのではない、自分が小さくなっている、との考えが頭をかすめた。
突如、指先から扉の感触が消えた。一瞬後、頭を割りにきているのかと思うような大音量を耳が捕らえた。美月は喫驚して尻餅をついた。巻き起こった風が砂粒を巻き上げ、目と鼻と喉を直撃し、あわてて手で顔を押さえる。門扉が轟音とともに、どこぞの悪ガキがわざと車のドアを乱暴に閉めるときのような速さで、開いていた。
美月は、下半身に冷たい石の感触を捕らえつつ、呆然と開いた門を眺めていた。美月以外の周囲は、今はもう何事もなかったように、門扉が開く前の無音と非活性に支配されている。
門の向こう側でも全てが、風も音も影響など与えられないと言わんばかりに、ひっそりと佇んでいた。石段側と比べると視界は比較的良好だった。敷石でしつらえられた小道が、真っ直ぐ遠くにまで続いていて、その先にうっすらと何か建物らしき影があるのが見えた。小道の両脇は白い小石が敷き詰められていて、ぽつりぽつりと火の入っていない苔むした石灯籠が立っている。きちんと鑑賞出来れば美しいと思える庭なのものかもしれないが、今はただ色味の少ないこの情景を更に無味なものにしているだけだった。
美月は驚愕と衝撃から覚めると、門扉が内開きだったことを心の底から感謝した。外開きであれば今頃は、開いた門扉に弾き飛ばされ石段の下に真っ逆さまだっただろう。
立ち上がり、別に汚れていはいないが手をスウェットで払う。乾いた音がした。周囲を警戒しつつ、門をくぐり、進む。なんとなく自分が入った瞬間に門が閉じることを予想していたが、それは起こらなかった。
寺の中庭とでも言うべきその空間は本当に静かだった。夢世界に限らず、現実世界でも人里離れた場所にある仏閣などは騒がしいものではないのだろうから、その意味でここが異質という訳ではない。しかし都会の壁の薄いアパートで十五年間暮らして来た美月にとっては、静寂に耳が痛くなるようだった。昨夜、夢世界での無人の寮を歩いた時には己の足音が響き渡るように感じたが、今はその足音すら敷石に吸収されているようで音がしない。どちらかといえば今の方が『夢』的ではあった。歩いているのに歩いている感覚と分断されている。そのせいで美月は時間が経つにつれて本当に自分が歩いているのか疑わしくなって来た。
美月はそこでやっと、石段を省いた方法を再度用いれば良いのだと言うことに気が付いた。豪快な開門に驚いてその考えがすっぱりと抜け落ちていた。もっとも気が付いたときにはもう、その方法は必要なくなっていた。敷石の先、ずっとうっすらとしか見えていなかった影がやっとはっきりとした輪郭線を見せ始めている。美月は警戒度を上げ、一歩一歩踏みしめて進む。近づくにつれ巨大ではあるが特に奇抜なところのない、古びた趣のある寺の本堂が姿を現した。本堂に上がるための木製の階段のところに、ぽつんと黒い染みのようなものが見えた。
更に近づいたところで、美月はそれが黒い僧衣だと気付いた。本堂に上がる階段の一番上、僧衣に簡素な袈裟をまとった誰かが腰をかけている。木製の錫杖を抱え、裸足に藁草鞋を履いている。その手と足の質感で、服を着せた人形ではないことが分かった。が、編み笠を深くかぶり、俯いているため顔は見えなかった。
「何者だ」
突然、誰何の声が笠の下から響いた。ややくぐもってはいるものの、聞き取りやすい明瞭な発音。その声に美月は聞き覚えがあった。
「坊坂?」
「何者だ」
「須賀だけど」
僧衣の人物が顔を上げ、手で笠を微かに傾げた。顔が見えた。距離はあるが、やはり坊坂の顔である。ただ無精髭が生え、顔全体が疲弊している様子なので、現実世界で見るよりも年齢不詳の感があった。そして笠の下から美月に向ける目付きは明らかに不審者に対するそれであった。
「弱そうだな」
実際弱いのだが、どう返事をしたら良いものか美月は戸惑った。
「必要ない」
酷く小さな、呟くような声だった。が、美月の耳には一言一句はっきりと聞こえた。
砂埃を吹き上げつつ、中庭に敷き詰められている白い小石が巻き上がった。驚き周囲を見回す美月の前で、石灯籠が各個に分解され、ごろごろと地を転がっていく。転がる石の周りに白い小石が集まり、吸い寄せられ、ひとかたまりとなる。吹雪の中、雪上に雪玉を転がしたかのようにも見えた。幾つものかたまりが美月と本堂の間の敷石の、すぐ傍まで転がって来て、止まった。可燃要素など皆無なのに、そのかたまりの上にぼおっと青白い炎が灯った。
呆然としている美月の前で、かたまりが形を変える。強いて言えば人間の上半身に似ている。頭部にあたる部分が炎である。モザイクで飾った抽象芸術の彫刻が地面から生えて来たかの様な光景が広がった。
そのひとつの『腕』がぐわり、と動き美月に迫った。
我に返った美月は慌ててそれを避ける。それほど速度がなかったので、目視で十分対応出来た。美月を逃した『腕』は敷石と衝突し、白い小石が辺りに散った。美月は他の『腕』の動きを横目で確認しつつ、一旦後退すべく振り返り、絶句した。
門から本堂が見えるまで相当な距離を歩いて来た。それなのに今、門はその形状が視認出来るほどの位置にあり、そして更にずるり、ずるりと確実に近づいて来ている。門に踏み潰されるかたちになった敷石が、咀嚼されているかのような音を立てている。
風切り音を感じ取って、美月はとっさにその場に伏せた。伏せた頭上を『腕』が過ぎていく。空振りに終わった『腕』は、今度は振り切った後に『腕』の『胴体』にあたる部分に巻き付いた。『腕』が過ぎ去ったのを確認すると、美月は体勢を低くしたまま、再び体の向きを変え、門の接近から逃れるべく本堂に向かって駆け抜けた。『腕』が何本か襲って来るのを体をひねり、かがめ、飛び越し、かわしきった。本堂のすぐ前、坊坂が被っている笠の編み目までがはっきり分かる位置まで来たとき、ふっと階段から黒い僧衣姿が消えた。
「!?」
美月が、突然の消失に驚愕するのと、足をもつれさせて転ぶのがと、ほぼ同時に起こった。速度のついていた美月はそのまま、敷石に盛大に突っ込んだ。なんとか両腕を付いて顔を打つことだけは避けたが、左膝をしたたかに打った。衝撃が骨まで達するが、焦りと困惑のため痛みは感じなかった。慌てて顔を上げる。傍らに黒衣の姿があった。本堂の階段から一瞬で美月の横に移動し、錫杖で足を引っ掛けたのだった。
目を見開いた美月の顔めがけて、錫杖が振り下ろされた。反射的に腕でかばったが、腕ごと脳天に一撃を食らい、美月はたまらず地に這った。視覚が機能を停止した。暗闇が落ちると門が敷石を砕く音が鮮明に聞こえてきた。続けて錫杖が、下からすくい上げるように振られた。錫杖は地面に転がっている美月の下顎を捕らえ、破砕した。その勢いのまま美月の体は宙に舞う。現実世界であれば、女性とはいえそれなりの体格の美月が杖一本で簡単に吹き飛ばされる筈はないのだが、このときはまるで良く飛ぶボールを打ったかのようで、美月の体は軽々と空を切った。美月の体は、今や本堂のすぐ傍まで迫り来ていた門をくぐり抜け、石段の外に落ちた。一度だけ勢い良く弾むと、その後は下へと転がり落ちていった。
門扉が閉まった。