二日目 ー昼ー
脳内にやわらかい素材で出来たマドラーを差し込まれ、ぐるぐる掻き回した後に、電極を取り付けて弱い電流を流したらなるだろうというような不快さだった。不快さに対抗するべく手足をむやみやたらに動かしもがく。しかし電流を流されたのが手足に通じる神経であったようで、手足の動作は思ったものと全く違うものになってしまう。違う、と否定する。否定した途端また不快さに襲われる。再度手足を動かそうとし、また…というループが何度か行われた。そのうちに、美月はふと、動かされた足が時折当たる柔らかいものが布団だと気付いた。
その瞬間、己がベッドで横になっている、という自覚が体の中を走り、美月は半睡状態から目覚めまで一気に引き上げられた。
不快のもとは、寮の全館放送用のスピーカーから流れてくる、起床時間を知らせる放送だった。夏休みの小学生や早朝の公園のお年寄りを連想させる、アナウンサーの滑舌のよい発音と音楽。聞き慣れたそれに合わせて体を動かそうとする意識と、眠り続けたい意識とがせめぎ合い、どちらもかなわない不快さがどんどん増長されていただけだった。
朝日の下では初めて見る白い天井を眺めながら、確かに、新しい朝だ、と美月は思った。昨晩の夢魔を自称する女性と会話をしたことに付随する、ちょっとした緊張感を伴う冒険と、現在の実に健康的で平和的で脱力しそうな朝を引き比べて、心の底から阿呆らしい気分が襲って来た。美月は気合いを入れるべく一気に体を起こし、ベッド周りのカーテンを引き開けた。途端、半裸で着替え中の藤沢が目に入って来て、美月は慌ててカーテンを引き戻した。
「おう」
「あ、おはよう」
カーテン越しに間抜けに挨拶を返してから、美月は深呼吸をした。どんなに間抜けに見えようと、美月にとっては現実世界もまた別種の冒険的な状況であることを再確認した。
ベッドの上で手早く着替えを済ませて、部屋を出る。美月より支度の早かった藤沢は先に朝食を摂りに行っていた。美月もまた食堂に向かうその途中、談話室の扉が開放されているのに気付き、つい中を覗いた。昨日の午後、学院に到着した直後に見たのと同じ内装である。正面玄関の真向かいが談話室の出入り口にあたるため、始終出入りがある時間帯で開け放たれている正面玄関から朝日が差し込み、蛍光灯が点いていない今でも充分に明るかった。その明るさが逆に、生徒の一人もいない今の部屋の事務的な殺風景さを際立たせていた。二台あるパソコンのうち一台の前に石野寮監がいて、腰を屈め静電気でほこりをとるブラシでキーボードの掃除をしていた。
「ーーーー」
思いがけず、美月は昨夜リリイから伝えられたものと思しき言葉を口にしていた。石野寮監が手を止める。驚きの表情を顔一杯に張り付かせ、美月を見た。
「あの…」
そのまま石野寮監が硬直しているので、美月は続けて声を掛けた。声を掛けられた石野寮監ははっと我に返った。
「須賀くん」
「はい」
「合格ね」
石野寮監は短く言うと、ブラシを片手に談話室から出て、美月の横を通り過ぎ、正面玄関横の寮監室に戻っていった。通り過ぎた時にはっきり見えた石野寮監の表情は、良いものではなかった。
美月は美月で、やはり昨夜のあれが夢であって夢ではないということを確認させられて、少し顔がこわばっていた。そういえば、と今更ながらベッドに持ち込んでしまっていた筈の懐中電灯が、先程部屋を出るときには扉の横の定位置に据え付けられていたことを思い出した。
他の生徒達が正面玄関から次々に出て行く。美月もその流れに加わった。
座生学院の入学式には保護者が出席しない。体育館に隣接する武道場にて、生徒と教師のみで執り行われる。一学年三十六人が基本構成のため、全校生徒に常勤の教師たちを含んでも百十数人ほどの出席者だ。そのため体育館より小さい武道場に男ばかりでも特に窮屈さは感じることはなかった。ただ、入学式から続いて始業式が終わるまでの正味一時間ほどの間、ずっと柔道畳の上に正座で背筋を伸ばしていなければならないのは、慣れていない美月には非常にきつかった。なんとか最後までやり過ごしたときには、感覚を失っている両足と背中の張りのせいで、立ち上がることが出来なくなっていた。他の生徒がさほど苦もなくさっさと撤収し始めた中、美月はぐずぐずしていたが、幸運にも居合わせた医務室常駐の医師が、美月が具合が悪くなったと勘違いし、休んでからゆっくり教室に戻らせるよう担任教師に伝えてくれた。美月はありがたく武道館の壁に背を預けて、脚の痺れがとれるまで休息した。
昨日、美月は八重樫から、坊坂慈蓮が既に一部の生徒達から特別視を受けている、と聞いていたが、今日それが正確ではなかったことを知った。一部どころではなく、新入生・上級生の大半が複雑な感情を抱いていることは、朝食時の食堂から式の終了まで坊坂に向けられる意味有りげな視線と、小声でささやかれる会話で理解出来た。業界トップ企業の御曹司が、平社員や下請け工場の責任者の息子たちが通う学校に入学して来て、遠巻きに眺められている、そんな状況だった。実家のごたごたが嫌でこの学校に入学して来たのに、結局別のごたごたの当事者になってしまっている。
坊坂はそんな周囲に扱いが嫌なのか、逆に気にしていない故なのか、始業式が終わると一番始めにさっさと武道場から出て行ってしまっていた。なのだが、何故か、音響設備などの片付けをしていた生徒と教師がほぼ作業を終了させるまで休んでから武道場を出た美月と鉢合わせした。正確には、校舎と武道場の間にある倉庫の前で、上級生二人に絡まれている坊坂に、美月が行き合わせた。坊坂は、光沢からして新品の、金属製のバケツに軍手を入れて持っていたので、恐らく何かの用事で備品を取りに来て、倉庫から出たところだと思われた。上級生二人がいた理由は不明である。
「坊坂ってお前か」
坊坂は答えなかった。表情も変えなかった。声を掛けて来た上級生その一を完全に無視し、二人の脇を通り抜けようとした。知らないで声掛けてきたのかよ、との坊坂の内なる声が美月には聞こえた気がした。
「てっめ、無視…ん!…じゃねっ、ああ、ぃったい…てんのか、ああ!?」
坊坂の行く手を阻む形に慌てて体勢を変えた上級生その二が叫んだ。が、音としては聞こえるが、言葉としてはよく分からなかった。上級生その二の発音が不明瞭なのか、脳内が不明瞭なのか、あるいは両方なのかもよく分からなかった。
進行方向を遮られた坊坂は、溜め息を吐くと、面倒臭そうに尋ねた。
「なに?」
「ああ!?っめ、なに、っらそうに…」
「あんた、強いのか」
「あ!?見てわっかんないのかよボケ!」
わめいていた上級生その二は、片手がバケツで塞がっている坊坂に殴り掛かった。坊坂の後ろには、上級生その一がいて、さらにその後ろは倉庫の壁という位置関係だったため、避けられることはないと思っていたのか、大きく振りかぶった一撃だった。坊坂はひょいっと体を開いて上級生その二を避けると、空振った勢いで体勢を崩した上級生その二の足を、脚で引っ掛けた。
「ひあっ」
珍妙な悲鳴を上げると、上級生その二は、上級生その一に向かって突っ込んでいった。にやにや笑いながら立っていた上級生その一は腰の辺りで上級生その二を受け止める形になった。が、ただ突っ立ていたところに、予想外の出来事が起きたので、推進力のついた肉塊を受け止めきれず、二三歩後退しながら脚をもつれさせると、そのまま後方にもろともひっくり返った。上級生その一は、中背の上級生その二より背が高く、その分だけ転倒時に頭部にかかる遠心力の効き具合も強かった。上級生その一は、大変良い音をさせて、倉庫の壁に後頭部を打ちつけた。
「何か用か」
気絶した上級生その一と、その前でおろおろしている上級生その二の姿を背後に、さっさと倉庫から教室に向けて歩き出した坊坂は、途中、惚けたように突っ立ている同じ組の治癒能力者に声を掛けた。
「ああ、失礼、つい」
一連の流れに気を取られていた美月は、声を掛けられ我に返ると、坊坂の脇をすり抜けて上級生達の方へと向かいかけた。坊坂が空いている方の手でその腕を掴み、止めた。
「何をする気だ」
「怪我してたらマズいから、治しておこうかと」
さも当たり前と言わんばかり顔で応えられて、坊坂は眉をひそめて美月を見つめた。
「あんたさ、能力の安売りするなよ」
「安売り?別にしてるつもりないけど」
美月としては、坊坂が校内で問題を起こし、退学にでもなられたら『失業』してしまう。それは困るので証拠隠滅を図るつもりだっただけなのだが、そうとは捉えられなかったらしい。坊坂はそれ以上何も言わず、美月の腕を掴んだまま、校舎に向かって歩き出した。坊坂に引っ張られる形で美月も歩き出した。上級生達の具合は気になったが、もし問題になったら絡んで来て勝手に転んだと証言すれば良いか、と考えた。
学校は、運動場を中心に、東側に体育館や武道場、北側に校舎、西側に寮と食堂がカタカナのコの字を書くように建設されている。校舎内部の東側、体育館や武道館への渡り廊下がある側は、美術室や科学室などの特別教室が並んでいて、普通教室は反対の西側にある。また校舎は二階建てで、一年生の普通教室は二階にあった。そのため美月たちは自分たちの教室に行くために、幾つもの特別教室の前を通り、階段を上った。距離は大したことないのだが、いかんせん腕を掴まれていたままの美月は坊坂の歩調に合わせざるを得ず、普段と比べると相当な早足で校舎内を歩くはめになった。美月は実際には健康体だったので問題はないが、体育の授業を避けるための設定通りの虚弱体質だったら困ったことになっていたかも知れない。
教室に近づいた時点で、美月は坊坂がバケツと軍手を取りに倉庫まで来た理由が理解出来た。廊下と教室を隔てる窓の一つが見事に割れていて、廊下にガラスの破片が散らばっている。その周りに何人か生徒が、何をするでもなく立っていた。
「何やらかしたんだか」
美月は独り言ちたのだが、聞き付けた坊坂が詳細に答えてくれた。
「麻生がふざけてバスケットボール投げた。まず教卓の上の花瓶を倒して、バウンドして窓ガラスを割った」
教室に入ると、割れた花瓶と濡れた雑巾が入れられた「1ー1」と書かれているバケツと、教卓の上に置かれ、さらしものにされているバスケットボールと、教卓にもたれ掛かってむすっとしている担任教師と座席の上に正座させられ、体を縮込ませている眼鏡の生徒が目に入った。
途中、通り掛かった教師に嫌みを言われながらも、麻生が無事にガラスを片付け終えると、担任教師、合田の簡単な自己紹介からオリエンテーションが始まった。今後の授業のあり方や、細かい校則の説明、各委員の選出が済むと、部活動への入部届けが配られる。今日の授業はここで終わりで、後の時間は部活動の見学が自由に出来る。学院では生徒全ての部活動所属が義務づけられているが、生徒数が少ない事もあり、サッカーや野球などの人数が必要な団体競技の部活はなく、代わりに個人で活動が可能な各種武道や、歴史や宗教や遺跡などを研究するような系統の文化部が生徒数に比して多かった。
「須賀はどこ入るの?」
席順は名簿の並びそのままである。そのため自席は教室後方の出入り口からすぐのところなのに、いつのまにか美月の隣の席の机の上に陣取った八重樫が声を掛けて来た。
「決めてない」
「中学のときは?なにやってたの?」
「サッカー」
「え、サッカー?サッカーやれるの?」
八重樫の驚いた声に、配布された部活動一覧表を目で追っていた美月は顔を上げ、怪訝な顔で見返し、己の虚弱体質設定を思い出した。
「マネージャーだよ、もちろん」
冷や汗を掻きつつ、言葉を続けた。幸い八重樫はあっさり納得してくれた。
「八重樫はどうするの?」
「俺?俺はねえ調理部にしようかなあって」
八重樫はなぜか誇らしげだった。そういやそんな部あったっけ、と美月は再び手元の一覧表に目を落とした。活動内容は、精進料理製作を基本に、薪での炊飯や何故か田植え等農作業まで含まれていた。意外と体育会系なのかもしれない。美月は弟妹のために料理をすることはするが、作りやすい洋食と麺つゆで味付けした和食以外はレパートリーの範囲外である。
「須賀もどう?入らない?」
「八重樫は武道系の部活かと思った」
食料が自給出来たら食費は浮くな、と思いつつも、わざわざ手間の掛かる料理を覚える気にならず、美月は八重樫の勧誘から話しを逸らした。藤沢から格闘技好きと聞いていたので、てっきり八重樫はそちらに入るのかと思っていた。八重樫は部活はゆるくやりたいから文化系、とのことだった。
取り敢えず、文化系の部をいくつか見学してまわることに決めた美月がそう告げると、八重樫も付き合うと言い出したので、二人でその手の部活が見学会を行っている、特殊教室がある方へと向かった。もっともその先が武道場につながっているため、必然的に柔術や剣術の部活の見学に向かう生徒達と合流することになってしまったが。
「坊坂も棒・槍・杖術の部だし、俺もそっちにしようかと思って」
そう言ったのは途中で合流したクラスメイトの一人だった。後ろの席なので美月は田中という名前と顔を覚えていたが、そうでなければ覚えていなかったと思うほど名前も顔も平凡な生徒だった。
坊坂が棒・槍・杖術の部だというのは、坊坂の実家がなんとかいう杖術の開祖にもあたるということを知っていたので理解出来た。坊坂の監視役としては同じ部活にしたほうが良いのだろうが、体育の授業の免除をされているのに体育系の部活に入るわけにもいかない。田中とは仲良くして色々聞き出そう、と密かに美月は決意した。
「藤沢も棒・槍・杖術の部だし、うちのクラス、大半が行くかもね」
「藤沢もそうなんだ」
藤沢は格闘技ファンというだけでなく、自身が柔道と空手の経験者だと昨晩聞いたので、そちら方面の部活を選ぶと思っていた美月からすると意外だった。市井では余り習えないものだから機会があればやってみたいと思うものなのかもしれない。ちなみにこういった少々特殊な技能の部活は、顧問は教師が務めているが、実際の指導は月一や週一で校外から来る指導者に任されている。
「てか坊坂が棒・槍・杖術、倉瀬が剣術、代田が弓術って見事に分かれてて、ウケるよね。クラスを別にしたのは狙ってやったにしても個人の習い事まではどうにもならないし」
「倉瀬?代田?って誰?」
「二組の組委員と三組のボス」
「…」
八重樫はやけに楽しそうに話していたが、他の生徒は周囲を伺う仕草を見せた。美月はと言えば、話しについて行けず沈黙した。美月の沈黙に気付いた八重樫は、周りの反応などどこ吹く風で詳しく説明してくれた。
倉瀬はフルネームが倉瀬英忠で二組の生徒、代田は代田健太と言い、三組の生徒で、両者とも坊坂同様、いわゆる『除霊ビジネス』業界での有名どころから来たとのことだった。倉瀬は実家が寺社だが、対して代田はキリスト教系新興宗教に分類される宗教法人の関係者という違いがあった。そして倉瀬は剣術を、代田は弓術をたしなんでおり、部活もそれぞれ対応するものに入部するだろうというのが八重樫の考えだった。部活の予測はとにかく、数時間前に決まった筈の委員まで何故八重樫が知っているのかと思ったが、そこは暗黙の了解というやつらしい。
「うちのクラスだって坊坂がやることになっていただろ?」
それはそうだが、坊坂の組委員に限らず、委員の割当は殆ど揉めなかったため暗黙の了解など気付かなかった。ちなみに美月は保健委員である。
三組の組委員は代田の取り巻きの一人で頭脳派を自称しているやつ、ということでこれもお約束だった。
予想していたよりも実家や親や所属先の力関係が学内にそのまま持ち込まれている。
「そうそう。藤沢には言っといたけど、須賀もさあ、気を付けておけよ。坊坂はとにかく倉瀬と代田、特に代田は絶対声掛けてくるだろうけど、露骨に嫌な態度とるなよ」
「なんで?あ、嫌な態度をとるとらないじゃなくて、なんで声掛けてくるのかってこと」
「フリーだから。実質、藤沢と須賀二人だけだからさ、声掛け自由っての。どっちかっていうと藤沢みたいな武闘派っぽいのは倉瀬のところが好んで、須賀のは代田みたいな新興宗教系列だともの凄く欲しがられる。不治の病治せます!って、信者獲得しやすいから」
「いや、不治の病は無理。そこまで万能じゃない。そこまで出来たら学校通ってない」
美月はそこは絶対に反論しておかないと行けないところだったので強く言った。というか、昨日談話室で自己紹介した際に、その辺りは念押しして説明したのだが、どうも治癒能力者という部分だけ拡散して、能力の限界については流されているようだった。
不治の病ではないが、美月は一度、『仕事』をしている診療所の近くで起こった交通事故の患者が一時的に運び込まれた際、破裂していた一部の内蔵を修復しようとして失敗したことがあった。正確に言うと、途中で美月が混乱状態に陥り、治癒能力の行使が出来なくなったのだ。美月自身はその時の様子を覚えていないので、混乱状態というのが具体的にどのような状態だったのかは分からないのだが、その後一週間以上、起き上がることすら出来なくなるほど衰弱したことはしっかり記憶しているので、重い症状の患者に手を出したくはない、というのが本音だった。
「ま、それはそうか」美月の抗議に八重樫は軽い調子で返すと、いたずらっぽく笑いつつ親指で窓越しに武道場の出入り口付近を示した。「で、彼がその代田ね」
美月はそちらを見た。弓道場は武道場の裏、今、八重樫に示された出入り口とは真逆の位置にあるのだが、制服に胸当てを付けた姿の数人が、出入り口付近にたむろし、運動場を眺めていた。視線の先には坊坂や藤沢を含む一年生の生徒達がいて、運動場で行われている槍の演武を見学していた。
たむろする数人のうちに、中肉中背、色が浅黒く、他の生徒に比べて髪が長い、どことなくチャラチャラした感じのする生徒がいた。代田だな、と何となく美月は察した。八重樫に確認したところ正解だった。
「で、今武道場から出て来たのが、倉瀬」
道着に袴姿の倉瀬は、代田と対照的に色白で、眼鏡を掛けたいかにも優等生、といった外見だった。たむろする代田たちをちらりと見やったのが、眼鏡に反射する光で分かった。倉瀬の後から数人、袴姿の生徒達が出てきて出入り口の前を陣取った。
美月がそこまで観察したところで、微かなざわめきが周囲で上がった。美月は周囲を見やり、周りの生徒達が向けている視線の先を辿る。坊坂が杖らしきものを取り出したところをだった。槍を扱っていた上級生の一人が坊坂に何か言い、傍らの恐らく顧問と思われる教師に目をやった。教師がうなずく。坊坂は進み出ると、上級生と対峙した。
一礼のあと、坊坂は一瞬だけ構えの形をとり、間髪入れずに上級生に打ち込んでいった。不意打ちにも思えるほどの素早さだったが、上級生は慌てることもなく、穂先のすぐ下の部分で杖を受けると滑らせるように弾き、そのまま突きに転じた。先程の坊坂の打ち込みより素早い浅い突きが二度三度と坊坂に向かった。明らかに牽制のそれが行われたあと、上級生が本格的な攻撃に移るべく、やや大きく槍を引いた。その瞬間を見計らい、再び坊坂が踏み込む。上級生は今度は受けることなく半歩横に動いただけで、坊坂向かって一撃を繰り出した。得物の長さに分のある槍が、少しだけ早く坊坂に迫った。坊坂は脇ぎりぎりをかすめる形で穂先をかわし、更に一歩、強引に踏み込んだ。上級生は再び横移動し坊坂の攻撃を避けると、かわされた穂先を、ほんのわずか槍を手元に引き戻し変化させることで、坊坂の腕を狙った斬り付けに転じた。坊坂は体躯をひねって避けたものの明らかに体勢が崩れた。そのまま二撃目が来れば坊坂は食らっていた。だが上級生は追撃することなく、槍を引き、後退した。一瞬の静寂。坊坂も杖を引き後退した。互いに一礼して、対峙は終わった。
わっ、という歓声が、主に運動場にいる一年生から起こった。美月は人知れず大きく息を吐いた。知らないうちに息を止めていたらしい。武術に関して無知な上に距離があったため、美月は今の一連の動きを正確に把握してはいなかったが、何か凄いものを見たという記憶だけはしっかりと刻み込まれた。攻防を間近で見ていた藤沢が全身で興奮していることが分かった。
武道場の方に目をやると、代田が周りに声を掛け、弓道場に戻っていくところだった。倉瀬を含む剣術部員と思しき生徒達は既にいなくなっている。倉瀬と代田、帰属先の代理戦争を校内で行っている面子たちが、たった今行われた練習試合とも演舞ともつかないそれをどう思ったかは分からなかった。
美月が考え事をしている間に、運動場での演舞は次に移っていた。棒なのか棍なのかよく分からないが、中華系の武術のようだった。
「見学、行こっか」
一見すると、ぼんやりそれを眺めている様子の美月に、八重樫が声を掛けてきた。美月はうなずくと、未だ興奮冷めやらぬ、棒・槍・杖術の部の入部希望者たちをその場に残し、特殊教室の一つに向かった。
美月は結局、生物部に入ったが、運動場での一件が強烈過ぎたので、正直なところ見学の際は何を見たのか覚えていなかった。生物部を選んだ理由は一番活動が低調で楽出来そうだったからだ。