一日目 ー夜2ー
確かに女性だった。顔立ちも体型も女性だった。特に体型は着ているものが体の線をくっきり表すドレスのためにより一層女性である事が強調されていた。横顔しか見えないが顔立ちは東アジア系で、顔立ちとは不釣り合いな、長いきれいな金髪をふわふわと背に垂らしている。瞳の色も金色で真紅のドレスに映えていた。
「…」
取り敢えず美月は目を閉じ横を向き、向き直り、再度談話室の扉の内部を見た。女性の存在も部屋の様子も変わらない。己の頬をつねってみた。痛い。次は何をしようかと考えたところで、室内の女性が不意に美月の方に振り向いた。
「あ、いらっしゃい」
微笑とともに気軽に声を掛けられ、美月は反射的に扉の陰から会釈を返した。
「どうぞどうぞ、入って」
女性は空いている方の椅子を示して更に言葉を重ねた。
「…」
美月は状況に混乱しながらも、促されるまま入室し、着席した。握ったままの懐中電灯を、テーブルの上に置きかけてまた掴み直し、膝の上でしっかりと握りしめた。
「初めまして。わたしはリリイと言います」
「はあ」
「お名前は?」
「須賀ミツキです」
一瞬本名を名乗ることを躊躇したが、気の利いた偽名も思い付かなかった。
「驚いたでしょう。みんなそう言います」
「驚いたというか混乱してます」
美月は眼前にあるリリイの顔を真っ直ぐ眺め、本心から言った。
リリイと名乗るこの女性は、美月よりはやや年上の、十代後半に見えた。白い肌に桜色の頬、金色の髪、ぱっちりとした瞳、柔らかそうな唇の、間違い無しの美女である。同時にどこか人工的、作り物めいたところがあるようにも思えたが、これは美月が同性だったから感じた事で、異性からはまた別の評価があるかもしれない。
リリイはにっこりと笑うと、どこからか、一枚の紙切れをテーブルの上に取り出した。
「はいこれ」
にこにこと笑いながら紙を示された。
美月が目を落とすと、ステンドグラスの光のせいで目に痛い色に染まっている紙に、以下の文言が記されていた。
〜試験〜
目的:夢世界での人格同一性保持
対象:一年生生徒(一年生寮の入寮者)
期間:その年度の入学式が行われる日付の午前零時より、その年度の三学期終業式が行われた日付の午後十一時五十九分まで
合格基準:「リリイ」と名乗る女性に会う
判定方法:「リリイ」より伝えられた言葉を一年生寮寮監に伝える
不合格者への対応:試験期間終了後、退学勧告
「…」
美月は無言のまま、文字を何度も目で追い、頭の中で文章を反芻した。
書いてある内容は試験概要である。だが学院がいくら特殊能力者のための学校とは言っても、配布されるカリキュラムに記載されている授業内容は、たとえ部外者が見たとしても、ああこういう授業があるのね、やっぱり仏教系なのね、としか思われない記述になっている。そのため、ここまではっきり世間一般の基準から懸け離れた試験概要を、夜中に、寮にいる、ドレスをまとった金髪美女から、示されるという状況に、理解が追いつくのに時間が掛かった。
「夢世界、ですか」
なんとか思考をまとめてから、美月は尋ねた。
「そう、夢」
「ということは、今は夢の中だと、そういうことでよろしいでしょうか」
「うん」
相変わらずにこにこしながらリリイは答えてくれた。
再び美月は沈黙した。夢の中、と言われれば、納得出来ることはたくさんあった。静かな寮、止まった時計、部屋から消えた友人、原型をとどめていない談話室、そして眼前の美女。ただ一方で、物に触れれば感触があり、頬をつねれば痛みがあり、嗅覚も聴覚もしっかり働いていて、己の意志の下で理路に沿った言動をしていると自覚している今の状況を考えると、納得出来ないものもある。美月の知る限り、夢とはもっとあやふやで、理不尽で、考えた通り動くことなど出来ないものだった。
美月の沈黙のうちの思考回路なぞどこ吹く風で、リリイは言葉を続けた。
「まさか女性がくるとは思わなかったから」
「…」
「だからねリリイ、女性でしょう」
「…意味が分からないんですが」
美月はひとまず考えていたこと全てを脇へ追いやった。一瞬表情に出たと思われる動揺を、それ以上出さぬよう押し殺し、リリイを真正面から見据えた。リリイが何者なのか知らないが、美月を女性と考えているのだとすれば、否定させなければならない。ただでさえ汗の滲んでいた手のひらは今やぐっしょりと濡れていた。握りしめた懐中電灯に移った汗が外気で冷やされ、再び手のひらに当たり、酷く気持ちが悪く感じた。
「だってリリイ、今は女性だから」
「リリイさんは女性ではないときがあるんですか」
「今は女性よ」
重要なのはリリイの性別ではない。このやりとりが延々と続いてはたまらないので、美月は強引に一番尋ねたいことに内容を変えた。
「リリイさんは、わたしが女性だと思っていらっしゃるんですね」
「だって女性じゃない」
「…ここは男子校の寮なんですが」
「ここは夢の中だよ」
美月は天井を仰ぎ見ることで、リリイの微笑みを浮かべた顔から目を逸らすと、大きく深呼吸した。
「リリイさんはどのような方なんでしょうか」
「どのような方とは?」
「教師なのですか」
「違います」
「普段は何をなさっているのですか」
「普段?…ここでみんなとお話ししてます」
「いえ、夢世界ではなく、現実世界でのことを聞いています」
「リリイは夢世界にいます」
美月は一つの可能性に思い当たった。
「…リリイさんは人間ではないのですか」
「人間たちは、リリイのことを夢魔と呼びます」
リリイのその返答聞いたとき、美月は心の底から安堵した。一つの新しい発見があった。会話の通じない人間と喋るよりは、会話の通じない人外生物と喋る方が気が楽だということを。
「…ではリリイさん。他の人がリリイさんのところに来たときに、わたしが女性である事は話さないで下さい」
「はい」
「絶対ですよ」
「絶対に、です」
リリイが何故美月の性別を見破ったのか分からないが、人間ではない以上、人間の用いる方法でもないのだろう。リリイがどう思うと他言されなければ問題はないので、美月はそう念押しした。リリイの返事はしごく軽かった。夢魔にとっては男子校の生徒として女性がいることは気にならないらしい。余りに簡単に返答をされ、美月はリリイが本当に口外しないか心配だったが、さりとてリリイを信用する以外どうしようもなく、非常にもどかしい気分だった。願わくば、誰かがリリイから美月が女性だと聞いたとしても、それが所詮夢の中で聞いたことだと、笑い飛ばしてくれることを祈る。もっとも、いくら噛み合わない会話をするとはいえ、不合格なら退学勧告という厳しい処分のある『試験』のいわば試験官であるリリイの言葉を、戯れ言として聞き流してくれるかどうかは疑問だった。
「それでね、ミツキが女性でも、リリイは女性のままだからね」
視線を膝に向け、悶々としている美月にリリイが声を掛けた。美月は顔を上げた。
「ひょっとして、リリイさん、というか夢魔というものは、女性を出迎えるときには男性の姿になるものなのでしょうか」
「そう。だって女性は男性が好きでしょう。男性は女性が好きで」
同性愛者の場合はどうなるんだろう、と思ったが美月は口に出さなかった。
「でもリリイは、女性のままだからね」
「はい…あ、寮監に伝える言葉を教えて下さい」
リリイにとって美月の性別がどうでも良いことであるように、美月もリリイが女性の姿だろうと男性の姿だろうとどうでも良かった。それよりも『試験』の合否の方が重要だった。
「あ、そうそう。ーーーーね」
「何ですって?」
言葉に聞こえなかった。動物の鳴き声とか、調整を間違った弦楽器から響いた音だと言われたほうがしっくりくる。どう考えても現実世界の人間が持つ発声器官で発するのは不可能だった。
「大丈夫。寮監には伝わるから」
「…」
「そういうものなのだそうよ」
発音出来るとは思えなかったが、リリイが伝わると言う以上、そういうものだと納得するしかなかった。それにもし伝わらなければ、明夜また聞きに来れば良いのだと考え至った。
「分かりました。もし伝わらなければまた明日来ます。…来れますよね?」
ひょっとして、一回きり、一発勝負の試験なのかと心配になり、美月は尋ねた。リリイに会うことに回数制限はないとの返答を得て、美月はほっとした。そう聞いて、美月は、美月の性別を口外していないか毎夜リリイに確認しに来ることも可能なのだ、ということに気が付いた。リリイが美月に喋る事が本当かどうか確認する術はないのだが、とにかく何か出来ることがあるということに美月の心中が少し軽くなった。
「では、わたしは部屋に戻って休みます。…夢の中で休むというのもおかしな話しだけど」
「はい。そうそう気をつけてね。お部屋に入る時は自分のことを考えてください」
「自分のこと、ですか?」
美月は椅子から腰を浮かせた不自然な姿勢で動きを止めた。
「お部屋にはあなたともうひとりいるのでしょう?お部屋に入るときにもうひとりのことを考えていると、そのひとの夢に入り込んでしまうから」
「それは、ひょっとして、他の部屋でも同様ですか?他の、例えばAさんとBさんの部屋にAさんのことを考えながら入るとAさんの夢に入ってしまうと、そういうことなのでしょうか」
「その通りです」
「分かりました」
他者の夢に入れるということに正直なところ魅力を感じたが、美月は態度には出さず、リリイに一礼して、夢世界の談話室もどきの部屋から出た。
談話室もどきの部屋を出ると、そこには先程自室から出たときから同じ、薄明かりに照らされた廊下と壁、各部屋の扉があった。明かりの具合を除けば、眠る前に歩いた寮内となんら変わりがない。だが実際のところ、今見ている全ては夢世界のものであり、現実世界のものとは別物なのだった。美月は単純に夢世界と説明されただけで、夢世界や夢魔についての知識はないので、今歩いているここが、自分の夢の一部なのか、夢魔が別個用意した夢なのか、はたまた夢世界には寮そっくりの建築物があってそこにいるのか、全く不明だった。
自室の前まで戻ってくると、美月は扉の横に掛けられているプラスチック製の真新しい『須賀光生』の表札を指でなぞってみた。なんにしろ実に良く出来ている、と妙に感心してしまった。
扉を開け、部屋に入ると、相変わらず藤沢はいないようだった。しかし自室に戻ったことで気が緩んだのか全身に疲労感を覚えた美月は、藤沢の不在を深く考える事もなくベッドにもぐり込んだ。もぐり込んだところで、まだ懐中電灯を握りしめたままだったと気付いたが、一度横になった体を起き上がらせるのが辛く、懐中電灯を文字通り懐中に抱いたまま、意識が遠くなるのに任せた。