一日目 ー夜1ー
「…疲れた」
入寮初日の夜、性別を疑われることもなく監視対象の確認も出来て、まずは第一ミッションクリア、といった心境で、美月は自室の椅子の背もたれに寄りかかった。洗いさらしの髪が、窓越しの夜の冷え込んだ山の空気にあたってことさら冷たく感じる。シャワーを浴びた直後で今日の緊張の反動と疲れが一気に出て、何もしたくないと思っていたが、濡れた髪を放っておくと風邪を引きそうに思い、美月は一息に背もたれから起き上がると、私物のドライヤーで髪を乾かし始めた。同室の藤沢は美月と入れ違いに洗面・シャワー室に行っていて、部屋にはひとりきりなので、騒音の心配はなかった。シャワー室の名の通り、寮には共用シャワーのみで浴場や湯船といったものは存在しない。湯船が欲しいという要望はたびたび出ているが、昔は水しか出なかったのに今はお湯が出ることだけでも感謝しろと言われておしまいにされているらしい。
髪を乾かし終えると、美月は今日あったことと坊坂慈蓮の行動について、ルーズリーフにしたため始めた。何せ連絡手段が限られているので、監視記録は基本七日分をまとめて週に一回、『須賀光生の実家』として設定されている住所に送るように言われていた。今日の分に関してはそれほど書くことはなかった。坊坂慈蓮は午前中から昼食後もずっとクラスメイトとサッカーをしていたとか、部屋番号は10101だとか、同室の八重樫のことはうとましく思っているとか、既に一部の生徒には実家関係で媚びへつらわれたり、商売敵として敵視されていたりしているとか、その生徒の個人名とか、それくらいだった。ちなみに部屋番号以降の情報は八重樫から得たものである。
一通り書き連ねたところで、藤沢が戻って来た。
「はやっ」
思わず美月は声を上げた。藤沢は無言で机上の目覚まし時計を手に取った。
「お前と変わらん」
「そう?」
藤沢とは、昼の間は回遊性の魚のごとく動き回り喋り回る八重樫のせいで余り機会がなかったが、部屋に戻ってからはそれなりに会話をしていた。
藤沢は一年生三十六人の中で唯一、寺関係者と関わり無く入学して来た異例の生徒だった。本人曰く、この地方で寮付きの高校を探していて、そのひとつとして座生学院に学校見学に来たところ、是非にとスカウトされたので入学した、とのことだった。教師に言わせると『非常に強力な地の神に護られている』らしい。
「仏教なのに神なんだ」
「そこは…いいんじゃないのか。不動明王だって『仏教を護る神』とかいわれてるんだし。…だよな?」
美月も仏教に詳しいわけではないので「さあ…」と曖昧に言って終わった。
藤沢からは美月の治癒能力について質問された。
「あのヒーリングっての。どうやってるんだ」
「どう、と言われても。ほら小さい頃転んで怪我したりすると『イタイノイタイノトンデケー』ってやるだろ。あれやってたらいつの間にか本当に小さな怪我なら治るようになってきていて、だから、なんとなく、だな」
「すげえな」と藤沢はつぶやくと椅子の背もたれにもたれ掛かかった。藤沢の体重を受けて、学校用というよりオフィス用に見える椅子の背もたれは、小さくきしんだ音を立てた。そのまま壊れるんじゃないかと美月は不安になった。
その後、藤沢の趣味が格闘技とプロレス観戦だとか、八重樫も格闘技ファンでそれで仲良くなったとか、美月は弟妹一人ずついて両方やんちゃだとか、具体的にどんな授業になるのだろうかと二人でカリキュラムを確認しながら話し合ったりしていたら、すぐに消灯時間になっていた。
寮の消灯は十時である。起床は六時。その間は寮の出入り口が施錠されてしまう。寮は一階建てなので、その気になれば窓から自由に出入り可能なのだが、外に出たところでこの人里離れた山の中では出来ることもない。
今日の移動時間が長かった美月はベッドに入ると早々に寝入ってしまった。
美月は、甘い匂いを感じて目を覚ました。目を開けた直後の一瞬、自分がどこにいるか分からなかったのはお約束である。すぐに寮だと気付き、同時に疑問が湧く。寮には炊事の設備はないのにどうして、砂糖菓子をこんがり焼いて、時折香辛料の刺激を混ぜたような、そんな匂いがするのか。
もぞもぞと腕を伸ばし、枕元に置いた目覚まし時計を取り上げ時間を確認すると、蛍光塗料の淡い光を放つ針は零時ちょうどを指していた。それ自体に問題はない。だが美月は何か違和感を覚えた。一瞬の思考の後、歯車の動くかちかちという音が聞こえていない事に気付いた。二三度時計を振り、耳に押し当てるがやはりなにも聞こえてこない。美月は顔をしかめると、目覚まし時計を置き、ベッドを囲っているカーテンをそっと引いた。音を立てないように気をつけつつ、はしごを下り、床に直に足を着け、窓際の机に向かう。夕べ寝る前にそこに置いた腕時計を取り上げる。窓から漏れ入る月光が、零時を指す文字盤を浮かび上がらせた。時間を確認して耳に押し当てる。こちらも音が聞こえなかった。隣の机に同じように置いてある、藤沢の腕時計を確認しようとして、ふと美月は気が付いた。
静か過ぎる。部屋が、というより寮全体が無音に落ち込んだようで、何も聞こえてこない。周りが木ばかりの立地で、昼間は桜の花弁が舞い散るほどの風が吹いていたのに、風の音も、揺れる樹々のざわめきも聞こえてこない。この広くない寮の一室で眠っている筈の藤沢の寝息が聞こえてこない。
美月はさらに音を立てないように気をつけて、そっと藤沢のベッド周りのカーテンをめくった。あの巨体を考えるとベッドも布団も目一杯に使わざるを得ない筈なのに、掛け布団の程度の厚みしか見えない。美月ははしごに足を掛けると、カーテンを力の限り引き開け、ベッドを上から叩いた。布団はある。人はいなかった。
落ち着け、と美月は自分に言い聞かせた。床に再び下りる。先程自分のベッドから下りた直後は火照った足に心地よいくらいだった床の冷たさが、今度は体の芯まで染み入ってくる。夜中に目が覚めてちょっと部屋を出るなんて良くある事だ。だが、使用しなかったかのようにきちんと布団を整えて夜中にちょっと部屋から出る理由は考えつかなかった。
美月は廊下につながる扉を少しだけ開けた。扉の隙間から、非常用出口の表示を照らす緑色の光が、部屋の中より強い甘い匂いとともに漏れ入って来た。
美月はそのまましばし立ち尽くした。藤沢の不在、寮に不釣り合いな匂い、不自然に止まった時計と、そういった個々の事象もおかしいのだが、それだけでなく何か全てが少し狂ってしまっているような違和感がどうしても拭えなかった。少しの間を置き、意を決する。上履きを履き、各部屋の扉の横に設備してある非常時用の懐中電灯を取り外し、電池が切れていない事を確認し、部屋の鍵をスウェットのポケットに突っ込む。ゆっくりと扉を開けると部屋を出た。
廊下は、非常用出口の表示の緑の光に、消火栓を示す赤い光が混じり合い、不思議な色合いで浮かび上がっていた。
生徒用の寮は学年別に建物が分かれているものの、造りは全て同じになっている。簡単にいうと、中央に談話室と水回り設備、その周りにロの字の廊下、さらにその外側、廊下を囲む形で玄関や部屋が設置されている、という造りである。美月たちの101016号室の向かい側には洗面・シャワー室がある。
自室から出たところで美月はしばらく動きを止め、じっと耳を澄ました。シャワーブース部分は消灯時に個別に鍵が掛けられるが、洗面・シャワー室自体は、隣の手洗い同様に出入り口に扉がなく、二十四時間使用可能となっていた。そのため、どちらかを誰かが使用していれば水音が聞こえる。が、美月がとどまっていた間、雫が落ちる小さな音すら聞こえて来なかった。
美月は息を深く吸い、吐くと、背筋を伸ばして、寮の玄関方向に歩き出した。歩く分には不自由がないので、懐中電灯はともさなかった。自身の足音が無人の廊下に良く響き、耳に障る。小さな音の筈なのに、寮全体に響き渡っているのではないかと思えるほどだった。角まで来たとき、美月の嗅覚は甘い匂いが更に強くなった事を捕らえた。首だけをゆっくりと伸ばして、角を曲がった廊下のその先を見る。正面玄関と談話室の出入り口がある方が明るくなっている。正面玄関はガラス張りであるが、消灯時間以降は厚い遮光カーテンが引かれているので、屋外からの光は入らない。
美月は点けていないままの懐中電灯を握りしめ、談話室の出入り口に向かった。匂いが強くなっていく。消灯時間に寮監が閉める筈の扉が開け放たれて、光が漏れていた。美月は再度汗で滑りそうになっている懐中電灯を握り直すと顔半分だけ出す形で、内部をそっとのぞいた。
昼間、生徒達が集っていたあの談話室ではなかった。というより談話室ではなくなっていた。談話室はクリーム色のクロスが張られた壁に、リノリウムの床、木製のテーブルと丸椅子が数台置かれ、部屋の一角が膝くらいまでの高さに底上げされて畳敷きになっていて、その他には壁際に電話が二台にパソコンが二台と、液晶テレビが一台置かれているだけで、絵の一枚、花の一輪飾られていない、機能のみ果たす部屋である。
それが今や、下手をすれば寮の建物全体より広く、高いと思われるほどの広間へと変貌し、壁全体がドレープ状になったセピア色の布で覆われていて、見上げれば幾種類かの天井画が描かれていて、目を落とせばワインレッドの毛足が長い絨毯が引かれている。部屋全体の装飾は豪華だが、一方、家具の類いは一カ所だけ、出入り口から十歩ほど中に入った位置にテーブルと椅子二脚があるだけだった。ただこちらもかなり典雅な代物で、細かい彫刻が施された脚の他に、テーブルは光沢の塊の天板を、椅子はベルベット生地に覆われた分厚いスプリングを持っていた。テーブルの上にステンドグラスのランプシェードのついたテーブルスタンドが置かれていて、彩色された光を投げかけている。部屋の外まで漏れていた光の光源はこれだった。
そして、椅子の片方には女性がひとり座っていた。