六日目 ー夜2ー
真っ白な空間の中を歩き出してほどなく、美月は周囲の風景が少しずつ変わってきていることに気付いた。白いことには白いのだが、ただ白いだけでなく、その白さが霧のようなものへと変わり、美月の体全体にまとわりついてくるようになっていた。寒い日に吐く息が白くなるが、それがいつまでも消えず周囲に滞っているような、そんな感じだった。遠くに目をやると、美月の周りだけでなく、様々な箇所で少しずつ白さのうちに濃淡が作られていっている。踏み出す足の下の感触が変わった。視線を正面から下に向けると、無機質にただ白かった地面は、いつのまにか白い砂とも粉ともつかないものに変わっていた。少し立ち止まって足で感触を確かめてみる。強いて言えば運動場に引く石灰を厚く積んだ上を踏むような感触だろうか。視線を正面に戻すと、白の濃淡は、白と、ぼやけた灰色の別の何かが混じり合った様相になっていた。
美月はつとめて、無心を装った。リリイに会う、という目的のみ胸に留め置く。これまでの夢世界で省略出来たあれこれを考えてみれば、すでにリリイが目の前に現れていてもいいような気がするが、その兆候はない。ただ、多少なりとも周囲が変わったことで美月の心は少し軽くなった。歩いても歩いても何も変わらなければそれこそ気がおかしくなりかけたかもしれない。
更に数十歩進むと、灰色だった部分が、はっきりと固体として現れて来た。大きい物は高層ビルくらいの高さ、小さな物は美月の膝上くらいまで、石膏と樹脂で作られた、荒さと滑らかさがまだらになった表面を持つ、巨大オブジェの乱立に迷い込んだようだった。足元は相変わらず粉が撒かれたようで、段々と傾斜がついてきたが、粉とはいえ、足が深く沈むようなことはなく、しっかり踏みしめることが出来るので、歩くことに支障はなかった。
歩行の確認のために足元を見ていた美月は、視線を感じ、顔を上げた。頭上を振り仰ぎ、心臓が跳ね上がった。建物の二階くらいの高さのあるオブジェの上から、巨大な、美月より一回りは大きい、鳥の頭部が覗いていた。黄色い羽毛に白いくちばし。目の下から首元に掛けて橙色の斑点。黒い硝子玉のような目が美月を伺っている。硬直した美月と、その目が、しばし睨みあう形になった。やおら鳥の頭部が、すうっと美月の方に乗り出して来た。頭部は鳥だが、首から下は人の身体になっている。その人の体の部分がオブジェの上に腹這いになり、頭部だけ、伸ばして来ている。オブジェを掴み、体を支えている両手は白い手袋をしていたが、見た感じでは指が五本、きちんと収まっているようだった。
「きたか、きたか」
鳥の頭は一応くちばしをぱくぱく動かしながらそう言った。ただ、くちばしの動きと発される言葉の音が、まったく連動していない。抑揚のない調子の、少し高い、人間の男性の声だった。
「きたか、きたか」
「来たくてきたわけじゃないっての」
美月はなんとか心臓の鼓動をなだめると、ぼそりと、思わず毒を吐いてしまった。
『きたか!きたか!』
突然、幾つもの声が唱和し、辺りに響き渡った。いつのまにか他のオブジェの上や影からいくつもの鳥や魚や甲虫の頭部が覗いている。いずれも首から下は人身を持っていて、頭部の大きさは体に釣り合うほどに大きくなっているが、微妙に不調和を感じさせる寸法だった。そのそれぞれの口がてんでに動いて、美月を眺めつつ、叫んでいた。
「きたか、きたか」
はっとして美月は一歩後退した。ばさり、と音を立てて、一番初めに声を掛けて来た鳥の頭部の持ち主が、美月の眼前に転落して来た。地面に落ち、仰向けに倒れながら、まだ呟いている。よくある冬の普段着といった、厚い靴下に、セーターにジーンズを着ていて、セーターの胸の部分が、呟きにあわせて上下に動いている。
「きたか、きたか」
耳元で、ささやかれた。転落した異形を眺め下ろしていた美月は、腰を抜かしかけたが、なんとか持ち直して、あさっての方向に飛び退いた。黄色の鱗に目の周りが青く縁取られた魚の頭部が、先程まで美月の顔があった場所の、すぐ傍でささやいていた。猫背で、今はその頭部は、美月の頭と同じくらいの高さに位置しているが、背筋を伸ばせば美月より頭一つ分以上、背が高いだろう。まるまると肥え太っていた。
「きたか、きたか」
飛び退いた美月の、今度は背後から、聞こえた。振り向くと見事な艶を放つ一本角を持った甲虫の頭部があった。こちらは首から下は細身の背広姿で、ネクタイを結んでいた。ネクタイが、ピンク地に、蛍光色数種類で色付けられた歪んだ点が散らしてある、という柄で、犬の首輪に使った方が良さそうな生地だった。
『きたか!きたか!』
その他にも何体か、異なる頭部を持つものたちが徐々に距離を縮めて来ていた。美月は、それらを一瞥すると、体が重く動きが鈍そうな、魚の頭部の持ち主の脇を選んですり抜け、駆け出した。
『きたか!きたか!』
後方で、また唱和されるのが聞こえた。声の響きから、それらのうち少なくとも何体かは美月を追って来ていることが知れた。美月は夢中で駆けた。砂煙があがって、周りの景色が白くくすんだ。舞い上がった細かい砂がいつまでたっても地に落ちず、美月の全身にまとわりついた。呼吸の度にそれが肺に吸い込まれているようで、気分が悪い。結構な距離を走り、声が聞こえなくなった。速度を落とし、首だけ少し動かして後ろを見やる。まだ追って来ているらしいのが白く煙った向こう側にうごめく影から推測出来た。舌打ちしたい衝動に駆られながら、前に向き直ったとき、目が前方に人影を捉えて、美月は思わず急停止した。
急停止は間に合った。美月が当初認識したよりも、かなり手前にいたので、本当にそれの眼前でだった。人影は小さかった。美月の弟妹より小さい、就学前後くらいの大きさで、半袖シャツに半ズボン、草履型のビニールサンダル、という出で立ちである。首から下を見る限りでは人間の男の子だと推測されたが、頭にすっぽりとどこかのスーパーのポリ袋がかぶせられていたので、その下に人間の頭部があるのかは分からなかった。どう対処しようか美月が考えるより早く、ポリ袋越しの声が聞こえた。
「誰?誰かいるん?ここ、どこ?」
普通の、男の子の声だった。余りに普通過ぎる声と内容に、美月は一瞬戸惑い、息が荒いことも相まって、すぐには言葉が出て来なかった。一息ついてから、簡潔に尋ね返す。
「君こそ、誰なの?」
「知らない人に、名前を教えちゃだめって言われてる」
正しいしつけである。だが、夢の中、この状況、で言われても返答に困る内容だった。
『きたか!きたか!いる!いる!ほかも、いる!』
美月がどう応えようか逡巡しているうちに、追ってくる連中の叫び声が耳に届いた。声はまだ遠い。だが、ほか、というのが、眼前の、この子供のことを指していると直感した。美月は子供の二の腕を掴んだ。
「走って!」
そのまま引っ張って、駆け出す。子供は最初、足をもつれさせたがなんとか立て直し、美月について走り出した。必死で足を動かしている。
『きたか!きたか!いる!いる!』
遠くの、追い立てるような叫びを聞きながら、力の限り走った。
気が付いたときには、美月は石を敷いて作られた道の上を走っていた。足音が乾いたそれに変わっていること、既に追っ手の声が聞こえて来ないことを感知して、足を止める。美月が突如停止したため、二の腕を掴まれている子供は、尻餅をつきかけた。それを支えてやりながら、美月は辺りを見回した。前と後ろ、延々と灰褐色の敷石でしつらえられた小道が続いている。小道の両脇には白い小石が敷かれている。辺り一面、全体的に霞がかっていて、ぽつりぽつりと、小さな明かりが見える。恐らくは石灯籠に火が灯っているのだろう。
美月は、美月の腕にすがって、荒い息を整えている子供の頭に手をやった。ポリ袋を外す。子供特有の柔らかい髪を坊主にした、彫りの深い顔が現れた。
「坊坂慈蓮?」
子供は目を見開いて美月の顔を見上げた。
「おねえちゃん、誰ね?僕の名前、なんで知っとるん?」
「…なんでだろうねえ」
美月ははぐらかした。もう一度辺りを見回す。以前、坊坂に杖で殴り飛ばされたあの、寺の内庭の景色である。美月は、己がわざわざ坊坂の夢世界に似せた風景を作り出した理由が分からなかった。子供版の坊坂が登場してくるに至っては、更に意味不明である。出てくるなら、リリイつながりで石野か、さもなくば夢世界でもある程度自由が出来ると聞かされた八重樫だろう。
「あ、ここ!」美月の思考など無頓着に、ポリ袋が外され、外界を目にした小さな坊坂は声を上げた。「戻れたんだ!ここにいたのに、さっきいきなり変なとこに出て、見えなくなっちゃたんだ」
「…」
坊坂の言葉を聞いて、美月は嫌な予感がした。小さな坊坂のいる、坊坂の夢世界そっくりの風景を持つ場所。それはつまり、坊坂の夢世界そのものではないのか。美月は合田から、石野は己の夢と他者の夢をつなげる術を使っていたと聞いていたが、その術が、『石野の夢』ではなく、『リリイの宿主の夢』と他者の夢をつなげるものだったらどうだろう。一年生寮で誰かが眠れば、その誰かの夢とリリイが憑いている美月の夢とは、つながってしまうのではないだろうか。
「ねえねえ、おねえちゃん、強い?」
美月から離れ、少し離れた敷石の上、嬉しそうに飛び回りながら、辺りを見回していた小さな坊坂が尋ねて来た。
「え?」
「いまからね、僕、ここを壊すんだ」
「はい?」
「ここがあるとね、みんな、仲良く出来ないんだ。だからね、壊すの。おねえちゃん、強いんなら、手伝ってくれへん?」
坊坂は笑っていた。無邪気な笑顔だった。美月は沈黙を保ったまま、その姿を見つめた。直感した。ここは坊坂の実家だ。坊坂の実家を模した夢世界の産物なのだ。
「おねえちゃん?」
「駄目だよ」美月は、坊坂に近寄ると、しゃがみ込んでその両肩に手を置いた。目線が同じくらいの高さになった。「あのね、ここがなくなってもね、みんな仲良く、は、出来ないの」
「!?どうして!?」
坊坂は顔一杯を使って驚きの表現をしつつ、小さな体を一杯に使って叫んだ。
「どうしても。そういうものなの。みんな仲良くしましょうって、学校とかで、先生とか大人は、言うよね。でもそれはね、そう言う人たちはね、本当はみんな仲良くすることが出来ないことを知っているの。だから、仲良くしましょうって、言うの」
坊坂は無言で真っ直ぐに美月を見つめた。
「だから、ここを壊しても無駄なの。君、ここ好きでしょう?だからここにいたんでしょう。ずっと。いつも。それなのに、壊したら、駄目」
「じゃあ、じゃあ、どうすればいいん?僕、見たくない、みんなが喧嘩してるとこ」
真っ直ぐに美月を見つめていた目が潤んだ。そのまま、はらはらと涙が落ちた。
「ごめんね。ごめんね。本当に、ごめんね」
美月は小さな坊坂を抱き寄せた。ひたすら謝罪の言葉が溢れる。美月はその『喧嘩』を助長させている側にいるのだ。しゃくりあげるような嗚咽が坊坂から漏れた。少しの間は無理に耐えているような、押さえた息遣いをしていたが、やがて本格的な泣き声が響いた。
実際問題として、夢世界で坊坂がいくら実家を壊そうと、現実世界に与える影響はない。好きなようにさせてもなにか不都合があるわけではなかった。坊坂の行動を止めたのも、勝手な言い分も、美月の独りよがり以外の何者でもなかった。
一通り泣きわめき、坊坂は静かになった。腕の中でもがかれたので、美月が緩めると、さっと離れて体ごとそっぽを向いた。子供ながらに気まずそうな表情をしていて、美月の唇から笑みがこぼれた。
「じゃあ、ね。わたしは、行かないと」
「え、行く?どこへ?」
そう告げると、坊坂は思ってもみない言葉を聞いた顔で、立ち上がった美月の袖を掴んだ。
「会わないと、いけないの」
「誰に?」
「リリイ」
美月がそう言った瞬間、周囲の景色が崩れた。




