六日目 ー夜1ー
目を開けたそのとき、天井が見慣れないもののような気がして、美月は一瞬、全ての動きを止めた。すぐに自室の天井だと気付き、寝惚けた自分の頭に苦笑する。体を起こし、部屋の中を見回す。自室はいつもの通りだ。木目調の壁紙に、太陽の光を存分に取れる大きな窓。ベッド、勉強机、備え付けのクローゼット、木製のハンガーラック。ハンガーラックには、まだおろしたての焦茶色のブレザーと、苔緑色にタータンチェックのプリーツスカートとネクタイ、真っ白なブラウスがかけられていた。美月はベッドから下りると、寝間着を脱いだ。勉強机の椅子の上に用意されている下着一式とハイソックス、ブラウスとスカートを身に着ける。壁際の姿見で映してネクタイを結び、スカートの襞を確認すると、髪を手櫛で軽く整える。肩にかかる長さの髪は、いかにも寝起きという奔放さから、それなりに見られる様子になった。後は洗面所で整えれば良い。ブレザーを片手に引っ掛けると自室を出て、階段を下りた。
ダイニングキッチンは既に最高潮のにぎわいだった。朝の早い時間とは思えないほど活気に満ちている。流行りのお笑い芸人のネタを披露し、その度に朝食を中断し、母親に小言を食らう弟。たっぷり掛け過ぎた甘い蜂蜜とバターが流れ落ちないよう、ゆっくりゆっくり、トーストを齧る妹。既に空となった皿を前に新聞を広げ、時折、目をテレビに向け朝のニュースを確認し、また手元に戻す父。キッチンで忙しげに弁当箱におかずを詰めるエプロン姿の母。
「おはよう」
『おはよう』
美月が声を掛けると、皆が一斉に挨拶を返してくれた。美月はブレザーをダイニングの椅子の一つにかけ、キッチンに入ると、紅茶のティーバッグをカップにセットして熱湯を注いだ。キッチンに、パンの焦げる匂いと卵の焼ける匂いに混じり、茶葉の良い香りが立ち上った。
「今日は、お弁当に、・・・を入れたからね」
カップ片手に、キッチンに立っている美月に母親が声を掛けた。
「ありがとう」
美月はにっこり微笑んだ。笑顔のまま、カップを母親に投げつけた。熱湯が母親の顔にかかり、悲鳴が上がった。ダイニングにいる三者が、一斉にキッチンに振り向いた。美月は、キッチンに置いてある、折りたたみ式のカウンターチェアを取り上げた。そのまま顔を押さえてうめく母親の頭に振り下ろす。母親の頭部は椅子と挟み込まれる形で流し台に打ち付けられ、母親は無言で床に崩れ落ちた。椅子を両手で持ち、美月はダイニングに移動した。スプーン片手に奇妙な体勢のままで硬直し、美月の動きを目で追っているだけの弟の側頭部に向かって振り抜く。体重の軽い弟は、テーブルの上に体全体で倒れ込み、テーブルの上の食器と料理が飛び散った。新聞紙に半ば埋もれている父親の、これも側頭部に向かって椅子が風を切る。しっかり命中したものの、体重の差か、体の頑丈さの違いか、父親は弟のように倒れ込むことはなかった。攻撃を受けた左のこめかみ辺りを、呆然と片手で押さえている。手から離れた新聞紙が膝に落ち、床に滑り落ちた。美月は片手でネクタイを掴み、父親を椅子から引き摺り下ろした。首が締まり、たまらず床に膝をついた父親の後頭部目がけて、一撃、二撃、結局三撃目で、完全に床に突っ伏させることに成功した。もはやぴくりとも動かない。美月は顔を上げた。トーストを片手に、パン屑を口の端に付けている妹が、呆然と美月を見ている。傾いたトーストから蜂蜜がとろりと落ちた。美月は椅子を投げ捨てると、妹の傍らに寄った。その華奢な首に手をまわす。少し力を込めただけで、見る見るうちに妹の顔は歪み、青ざめていった。
苦しいんだよな、これ。美月は思った。美月が石野に絞められたときがそうだった。今日は一日晴れるでしょう、しかし風が強いので、体感温度は低く感じます。テレビの中の天気予報士が朗らかに解説していた。
妹の体から力が抜け、椅子の中に落ち込んだのを確認して、美月は部屋を見回した。相変わらず天気予報は続いている。今日は一日晴れるでしょう、しかし風が強いので…美月は液晶の画面を掴むとテレビを引き倒した。大層な音が上がり、倒された弾みでプラグが外れて、静かになった。再び部屋を見回す。荒れたテーブルの上に、男児用の衣服が一式、不自然にかぶさっていた。椅子の一つには女児用の衣服と髪ゴム。ダイニングの床には、ネクタイとシャツ、ズボンとベルト。美月はキッチンに回り込んだ。スリッパの上に動きやすそうな室内着が重なって、床に落ちている。
美月は一連の行動の間、ずっと微笑んでいたが、ふいに口元が歪むと、本格的に笑い始めた。美月の母親はエプロンもスリッパも使用したことはないし、父親が新聞紙を読んでいるところを見たこともない。弟はひょうきんものではあるが食事のときはひたすらがっつくだけだし、妹は甘い物は好きだが蜂蜜はべたべたするからという理由で嫌っていた。
美月の笑いが大きくなって行くにつれて、周囲の物がひとつひとつ消えて行った。食器や部屋を彩る小物が消え、椅子やテーブルやカーテンが消え、家電が消え、窓が消え、壁も床も天井も、全てが消えた。美月の笑い声だけが響く中、やおら、ぱさりと音をたてて、美月が椅子にかけたブレザーが地面に落ちた。今はもう周りは全て真っ白である。何もないし、どこまで続いているのか分からない、一面真っ白な中、それだけが染みのように目立った。
美月は笑いを収めると、手を伸ばしてブレザーを拾い上げた。既にこれが夢世界だと確信していた。どういうわけでこのような夢が構成されたのかは分からない。だが、とにかく夢であった。
「…」
立っていても仕様がないので、取り敢えず座った。夢なので、立っていることで足に疲労がたまるということはないだろうが、気分の問題である。座り込み、たった今経験した夢のことは頭の外に強制的に追いやる。大切なのは現実世界での美月がどうなっているか、である。
八重樫と共に学院から一旦距離を取ろうとして、校舎を出たところまでは思い出した。それから、なにがあったのか分からない。単純にどこかで眠ってしまっただけというならまだ良いが、リリイの魅了にかかっている連中に捕まり、頭を殴られて意識不明、などという状態なら、現実世界での自然な覚醒はいつになるか分からない。それどころか、最悪、目覚めない、などということもあり得た。
リリイに会うしかない。一つ息を吐くと、そう結論づけた。
八重樫は美月にリリイが憑いていると言っていた。つまりリリイは美月の夢のどこかにいる。リリイに会えば、少しは現実世界に意識が戻るための情報が得られるかも知れない。以前リリイが美月にした話しは大半が嘘だったのだが、あれはリリイが積極的に嘘をついたというより、石野に言われた通りのことを喋っていただけという感覚があった。現実世界というものを認識出来ていないリリイにとっては、己が喋らされていることが、現実世界で本当なのか嘘なのかなど、思考の外にあった。
つらつらと考えたが、実際のところ、リリイを探す以外に、自分が出来ることが思い付かなかっただけということもある。そして、何かしていないと、夢の中でありながら、発狂しかねない己の危うさに、美月は気が付いていた。
美月は立ち上がると、ブレザーを着込んだ。足元が靴下だけで靴がないことに気付いたが、気付いた瞬間に、皮革のローファーを履いていた。こういうところは夢は便利だと思った。
美月は瞳を閉じると適当にその場で回転し、適当に足を踏み出し、歩き出す方向を決めた。




