六日目 ー昼と夜3ー
目の前の坊坂の顔に美月は驚いた。驚き過ぎて体全体が硬直し、何も反応出来なかった。意識的に何か動くより先に、身体がぶるりとひと震えした。寒い。反射的に両腕で体を包み込もうとして、左腕が不自然に上に上がったまま動かないことに気付いた。見ると、八重樫が左手首を掴んで立っていた。よく確認すると、坊坂の背後に代田がいて、更にその先には倉瀬や里崎といった他の組の生徒たちと、一組のクラスメイトたちがいる。後ろにも人の気配を感じて振り返ると、藤沢がいた。全員、寝間着と思しき姿である。ここがどこなのかしばし考えて、入学式で使用された武道場だと気付いた。
「…っと?」
呆然としたまま、美月は考え込んだ。何か誰かに尋ねようと試みたが、歯の根があわず、言葉にならなかった。ここが武道場で一年の生徒たちが集結しているのは分かった。だが何故自分がここにいるのかが分からない。体全体が濡れていることから考えて、雨の中ここまで来たらしいが、全く記憶がない。美月の最後の記憶は、隔離部屋でうつらうつらしているときに医務室から呼ばれ、扉を開けたら広川がいたところまでである。
「リリイは?」
美月が、言葉を発するより早く、眼前の坊坂が鋭く尋ねた。
「え?」
「リリイはどこにいった?」
意味が分からず、美月はただ困惑の表情を浮かべるだけだった。
「リリイをどこにやったか聞いている!」
突然、かつて聞いたことのない強い口調で坊坂が怒鳴った。困惑したままの美月の肩を坊坂は力任せに掴んで揺すぶった。余りにも強いその勢いに、八重樫が美月の手首を離した。
「リリイ?リリイがなに?どうしたって?」
「リリイをどこにやったか聞いている。今までいた。今、消えた」
必死で声を絞り出した美月に、坊坂は言い募った。声もだが、表情からも怒気と敵意が滲み出ている。元の造りが良いだけに、負の感情を纏うと、凄みが桁違いだった。
その迫力に、美月は思わず後退った。肩を手指が食い込むほどに掴まれているため、大して動けたわけではなかったが、背中に藤沢の足が当たった。美月は顔を上げ藤沢に謝罪しようとして、息を呑んだ。藤沢は、物理的に圧力を感じるほどの殺気のこもった視線で美月を見下ろしていた。気圧されて声が出ない。
かたり、と音がした。無言で、生徒たちが美月を取り囲むように集まってきていた。皆一様に殺気立っている。倉瀬は木刀を、代田は弓を、その他の生徒もめいめい何かしら武器になるようなものを手にしているが、手にしていなくても迫力は変わらなかっただろう。他の組の生徒には、藤沢並の体格の持ち主も何人かいる。
藤沢が美月の襟首を掴むと、乱暴に立たせた。
「もう一度、聞く。リリイを、どこへ、やった」
藤沢に首根っこを押さえられている美月に、坊坂が抑揚のない口調で言った。怒鳴りつけられたほうがましと思えるような、静かで、死刑宣告めいた、無機質さだった。
美月の背に戦慄が走った。何が起こっているのか皆目見当もつかない。ただ、今ここにいる皆は、自分の知っている皆ではない。初めて坊坂の夢世界に入ったときに、問答無用で坊坂が攻撃してきたことが思い出された。
問い掛ける坊坂の前で、美月の目が泳いだ。その途中、ふっと視線を移動させ、一点を凝視すると固まった。弓道場側で体育館側の、ちょうど美月が入って来た出入り口と対角に近い位置である。坊坂は怪訝な顔でそちらを振り返った。藤沢もそんな坊坂の様子につられて、視線をそちらに向けた。ほんの一瞬、美月への注意がそれた。
美月は渾身の力で、藤沢向けて後ろ向きに体当たりした。藤沢の襟首を掴む手が緩んだ。美月は膝を曲げ、下方に体を移動させて、藤沢の手を振りほどくと、低い体勢で、一気に飛び出した。そのまま坊坂の脇をすり抜け、校舎側の出入り口に突っ込む勢いで、加速した。幸いなことに、引き戸に支え棒は下ろされていなかった。壊れるほどの激しさで引き戸を開け、渡り廊下に転がり出る。引き戸を閉じるのと、引き戸全体が大きく音を立ててたわみ、振動し、格子にはめられた磨り硝子が何枚か碎けるのと、ほぼ同時だった。駆け寄った坊坂と藤沢の攻撃が入ったからだった。幸運は続いていた。その衝撃で引き戸全体が歪み、動かなくなってしまったのだ。美月は武道場から逃げるだけの時間を得た。
渡り廊下に出た美月の目は、初めに懐中電灯の光を捉えた。一年生寮から消えた美月の姿を探す広川が、雨の中、運動場に出て懐中電灯であちこちを照らしていたのだが、美月にそれが分かる筈もなかった。一方で、混乱と恐慌の中にいる美月は、その懐中電灯を灯す誰かが、己を助けてくれる側の存在である可能性も思い付かなかった。さっと走った光を避けると、校舎に向けて駆け出した。視界の端に、運動場のむこうの二年、三年生寮の灯りが次々に点いていくのが捉えられた。
渡り廊下から校舎への出入り口は、ごく一般的なのアルミサッシに針金入りの硝子がついた引き戸だった。当たり前だが、鍵が下りている。一瞬逡巡したが、只でさえ濡れて冷えているのに、これ以上雨に打たれることは避けたい。武道場の引き戸の磨り硝子がまた数枚、碎け散る音が聞こえた。迷っている暇はない。美月は渡り廊下の端に並べられているプランターの下から、水はけを良くするためにプランターと地面の間に挟んで置かれているコンクリートブロックを取り上げると、硝子にむけて振り下ろした。硝子の割れる音が響く。針金は歪んでいた。割れた硝子の穴から手を突っ込み内側のつまみを上げて開錠し、引き戸を開けて中に滑り込む。
ほぼ同時に武道場の引き戸が破られた。
校舎内に一歩入り、足元がやけに滑ることに気付き、慌てて上履きを脱いだ。泥まみれのそれを懐に抱え込むと、目の前の階段を掛け上がった。二階の、特殊教室が並ぶ廊下の、右を見、左を見、一瞬、右の奥、普通教室や教員室があるほうに誰かの人影が差したように思えて、体勢を可能な限り低くすると左側に向かった。突き当たりには書道室、その手前に理科室がある。理科室の引き戸に手をかけるが、しっかりと施錠されている感覚が伝わって来た。窓を一つ一つ確かめるが同様で、動きそうにもなかった。諦めかけ、はっと気付いて上を見上げた。天窓の一つがわずかに開いていた。美月は先程、人影が見えた辺りを確認したが、誰の姿も見えなかった。決意すると、窓枠に足を掛け、天窓を全開にする。上履きを投げ入れると、両手で全体重を持ち上げ、必死に身体を天窓の隙間から押し入れた。
理科室には入り込めた。生物部の部活見学の際に、理科室からのみ入れる理科準備室が、危険物等の保管のために他の部屋より厳重な扉と鍵で閉じられていたのを見たことが思い出された。理科準備室の扉を開こうとするが、当然ながらこちらも施錠されていた。美月は取っ手を何度も回し、扉を叩いたが、開く筈がなかった。
外窓のむこうで、雨音に混じって、多人数が上げる怒号が聞こえ、美月は身震いした。窓の下に移り、目だけで窓からのぞくと、いつの間にか点灯された一階の教室の明かりで、薄ぼんやりと美月の知らない顔が照らされていた。上級生たちが集まっていた。どういうわけか、武道場での一年生と同様、一様に殺気立ち、目が据わっている。一人が一階の教室の窓を割ったようで、硝子の割れる高い音が響いた。それに混じり、リリイ、という言葉が聞こえて、美月はむこうから見えているわけもないのに、窓の下にしゃがみ込んで体を隠した。
状況が分からない中、感情のままにここまで逃げて来てしまったが、間違った選択ではなかったようだ。一年生だけでなく、皆、どういうわけか暴力的になっていて、しかもリリイを知っている。そして他は知らないが一年生は何故かリリイの不在を美月のせいにしている。
廊下側、誰かが階段を上がってくる音を聞き留めて、美月は体を固くした。教室内を見回すと、実験用作業机の下側、流し台の配管と、配管を手入れする道具が入っているだけの物入れに入り込む。取っ手のない内側からでは、完全に物入れの扉を閉ざすことが出来ず、少し開いたままだった。狭い空間の中、大きく響く呼吸音をなんとしようと手で口と鼻を押さえた。とにかく、見つかってはならない。
階段を上がってくる足音はいつの間にか複数になっていた。同時に複数の声色が階段から廊下に響いた。足音が理科室の方に近づいてくる。不意に幾枚もの窓硝子が割られる凄まじい騒音が響いた。
美月は必死で口を押さえ悲鳴を抑え、体を縮込ませ少しでも体積を減らそうとした。理科室の割られた窓の窓枠に残った硝子が手で払われ、教室内に落ちる音がした。続いて誰かが窓枠を越えて理科室に入って来た。上履きが硝子を踏み砕き、小さく音を立てた。入って来たのは二人。一人は低い声、もう一人は甲高い声。廊下で話していた声はもう少し種類があったように思うので、他は別の教室に行っているのだろう。どちらかが廊下側にある実験用作業机を蹴り、もう片方が手にしている大型のスコップを振り下ろし、理科室の備品を壊した。破壊音が上がるたび、美月の体は窮屈な物入れの中で小さく跳ね上がった。
水が床を打つ音が生じた。流し台の蛇口が一つ壊されたらしい。水が掛かったらしく、悪態をつきながら、更に蛇口に攻撃を加えようとして、水に当たる。音だけは水遊びをしているようだった。実験用作業机には、蛇口意外に、ガスバーナーを使用するためのガス管も設置されていることに気付いて美月の首筋に嫌な汗が流れた。もしガス管が破損したら…美月はほんの少しだけ、物入れの扉を押した。指一本分ほどの隙間が開いた。突如そこに、スウェットに上履きという美月と大差ない格好の、足首が現れた。驚愕のため美月の心臓は一瞬動きを止めたような気がした。足首の主は下方には注意を払わず、ただ、美月が隠れている実験用作業机に攻撃を加えた。全身の震えを必死で押さえる美月の周りが揺れた。随分長く感じたが、実際には数分の出来事だった。一通り作業机をなぶった誰かは満足したらしい。低い声の持ち主が、ここにはいない、という趣旨の声を上げたのが聞こえた。
程なくして、二人の生徒は内側から鍵を開け、引き戸を開けて出て行った。美月はじっと耳を澄ませた。足音が遠のいて行く。他の理科室付近の教室を襲った生徒たちも退却したようで、今はもう、雨音以外は聞こえて来なかった。美月は少し開いたままだった扉をそっと押し開け、匍匐前進の要領で体を引きずって、物入れから出た。二人の生徒は、ただ暴虐の限りを尽くして行ったわけではないのが、理科室の惨状から察せられた。人が隠れられそうなところが重点的に破壊されている。教室の隅に設置されていた金属製の掃除用具入れは倒されて凹みだらけになり中身が散らばっていて、教卓はひっくり返された上にスコップでやったものとおぼしき亀裂が入っている。美月はぞっとした。よく実験用作業机の下に気付かれなかったと思ったが、美月は生物部の見学をした際に目撃していたから、そこが人が入れるだけの隙間になっていることを知っていたので、普通の生徒は知らないのかもしれない。
荒らされた理科室を一通り確認し、美月はたった今、己を守ってくれた実験用作業机を背に座り込むと、一息吐いた。遠くにまた、誰かの怒鳴り声が聞こえた。続いて数人の声が入り乱れ、今度はどうも人間同士での暴力が始まったようだった。不意に涙が溢れた。声を立てないように必死で顔を袖と抱え込んだ膝に押し込んだ。何が起こっているのか分からない。友人たちのこの豹変は何故なのか。何故美月を敵視するのか。リリイの名が叫ばれるのは何故なのか。様々な疑問と感情がぐちゃぐちゃに混じり合い、ともすれば自分を制御出来なくなり、大声で叫び出しそうだった。
これからどうすべきか、美月は自身の混乱を収束させるため、必死で思考そちらに向けた。おかしくなっているのが生徒たちだけなのであれば、教師に保護してもらうのが一番良い。だが、美月はこの期に及んで最悪以外の事態、職員たちは正常、という想像がどうしても出来なかった。理科室に逃げ込む前、人影を見たように思う場所は教員室の近くである。職員寮から教員室は渡り廊下と階段でつながっているので、いち早く移動してくることが出来る。
ならどうするべきか。ここにいつまで隠れていればいいのか。それともこの雨の中、山を下りるのか。良い方策が思い付かず、美月の思考は中断された。再び武道場での皆の様子が思い出された。浴びせられた敵意を思い出し、恐怖に襲われる。嗚咽や悲鳴を漏らさないため、肘を抱える手に力が込もった。
また一つ人影が、理科室の外に立った。己の激情に振り回されていた美月は気付かなかった。




